リューシスは驚きと落胆のあまり口が聞けなかった。
 『ヴェルーニャが記憶をなくしている』
 そのことをリューシスが理解するのにいつもよりも数倍かかったような気がした。それは、彼の頭の中でいくつかの葛藤かあったからに違いない。
 ヴェルーニャが自分自身を知らないという。
 ヴェルーニャが僕を知らないという。
 そんなことがあるのか?
 記憶喪失になるほどの出来事とは何なのか?
 そして、何故そんなことがヴェルーニャの身に起こったのか?
「あの・・」
 リューシスの混乱と驚嘆の狭間から救いの手を差し伸べるように、ヴェルーニャがそういった。おかげで、リューシスは自分を取り戻すと、自分がしっかりしなくてどうする、と自分を戒めた。
 そうして、リューシスはにこりと笑って見せると、ヴェルーニャの隣の椅子にさりげなく体を滑り込ませた。
「僕は、リューシスって言うんだ。君はヴェルーニャという名前の女の子だって、僕は知ってるよ。」
「・・。私の名前はヴェルーニャ。ヴェルーニャ・・」
 茫然自失の体で、ヴェルーニャは呟いた。意識的な抑揚も見られず、リューシスはそのヴェルーニャの声から自分の期待が通じるのは難しいと考えた。
 それでも、念のため、リューシスはヴェルーニャに一言尋ねた。
「・・どう?覚えはない?」
「いいえ・・でもあなたがそういうのならそうなんでしょうけど。」
 そういって、ヴェルーニャはゆっくりリューシスの顔を眺めた。
 微笑んでもいない、まだ相手を信じていいのかどうかを、迷っているような瞳。見知らぬ場所と見知らぬ人物との接触から来る緊張と恐れ。リューシスはそれをヴェルーニャの表情から読み取った。
 それでも、リューシスは嬉しかった。
『あなたがそういうのなら・・』
 その言葉に、ヴェルーニャの無意識な信頼を感じた。リューシスという人間を心の奥底で信じたいと、そう思ってくれているのではないかと。
 だから、リューシスも希望が持てた。彼女の記憶は取り戻せるに違いない。そして、彼女の記憶を取り戻すためならば、持てる限りの力を尽くそうと考えた。
「ヴェルーニャ。もう一度言うけど、僕はリューシスっていうんだ。試しに僕を呼んでみて?」
 半ばリハビリ、半ば呼んでほしいという彼の望み。それをリューシスは口にした。ヴェルーニャはおとなしくうなずくと、リューシス、と呼んだ。
「そう、リューシス。ほんとはね、僕らは会うことも、触れることさえできない間柄だったんだよ。」
「どうして??」
 ヴェルーニャは当然のごとく首をかしげた。不意に手を伸ばし、リューシスのくるくるとはねる髪の毛に手をやる。
「触れるわ。普通に。」
「うん、僕らにとってはそれは本当に不思議なことなんだけど・・他の人にとっては普通の事なんだよね。」
 リューシスは自嘲的な笑いを溢した。馬鹿だな、と思った。最初にヴェルーニャに教えなきゃいけないことはこんな小難しいことじゃなかったのに。
「リューシス・・?」
 わけもなく、いや、訳など分かりきっている・・。ヴェルーニャと再び会えたことが嬉しくて、そして、ヴェルーニャが不憫でならなくて、リューシスの瞳に涙が溜まった。
 そして、リューシスは自分を忘れ去られたことが思った以上に辛かったのだった。
「ああ、どうか・・泣かないで。泣かないでリューシス・・。心が痛いわ。」
 ヴェルーニャはリューシスの髪に伸ばしていた手を、優しく頬に触れる。撫でるような仕種でリューシスの涙を拭いてやると、ヴェルーニャはそっとリューシスを抱きしめた。
「・・ヴェルーニャ?」
 リューシスは驚いた。記憶を失った娘が、見知らぬ人間にこんなことができるものだろうか?それとも少しでも自分のことを思い出してくれたのか。
 リューシスは淡い期待を抱いたがそうではなかった。ヴェルーニャはごめんなさいと呟きながら、首を振る。
「思い出せなくて、本当にごめんなさい。でもどうかリューシス、泣かないで。私思い出すから。きっと、あなたのこと思い出せるって思うから。・・あなたの涙を見ると、私まで泣きたくなってしまうわ・・」
 ヴェルーニャの腕の中でリューシスは当然だと、思った。
 彼らは同じ魂を持つ同じ人物なのだ。同じ世界で存在するはずのない、全く同じ魂を持つ者。その同じ魂を持つ二人は、心の状態や体調などが同調する確率が高い。
 また、同じ魂の持ち主は本来、それぞれの世界で生活し、互いにその存在を知ることはない。知り合ったところで、同じ魂を持つ者同士はいくつかの弊害を伴う。
 声を掛け合うことができなかったり、触れ合うことができなかったり。
 しかしそれは、彼らの存在を守るためにマナの女神が施した最後の安全弁ともいえた。同じ魂のものが声を掛け合うことでその世界の未来が捻じ曲げられることを防ぎ、触れ合うことで彼らの同等の魂がひとつに溶け合う(もしくは呑み込む)のを避けているのだった。
 やがて、ゆっくりリューシスがヴェルーニャから身を離す。そして、安心させるように笑って見せると、ヴェルーニャはうっすらと微笑んだ。
 そうしながら、リューシスはしかし、と思う。
 今回はどちらの弊害も起こってはいない。
 声を聞くこともできる。そして、触れ合うこともできる。
 よくよく考えてみて、リューシスはその弊害が今は必要ないことに気づいた。なぜなら、彼らは今相思相愛ではないからだ。
 ヴェルーニャの中の思いが空っぽになってしまった今、魂の形は同じであってもその思いが伴っていないのであれば、全くの同等の魂とは言い難い。形は同じだが色は違う、という状態なのだ。
(だからか。だから・・今僕たちは普通の人のように触れ合えるのか・・)
 しかし、嬉しい気持ちは生まれない。ヴェルーニャの心には自分がいない。
「リューシス?ねえ。何を考えているの・・?」
 ヴェルーニャが心配そうに声をかける。リューシスはうん、と頷いて、なんでもないよと笑いかけた。
「それより、もうご飯はいいのかい?お腹はいっぱいになった?」
「ええ、もう十分。リューシスは食べたの?」
 ヴェルーニャがお皿を片付けに水場に向かう。リューシスはその姿を見送りながら、僕はまだだけどね、という。
「あら、ごめんなさい。私だけ先にもらっちゃったのね。」
「いいよ。僕は今からのんびり食べるから。それより、いいものがあるんだ。来て。」
 リューシスはヴェルーニャにそう言うと、リューシスは二階の自分の部屋に向かった。さっきまでヴェルーニャが眠っていたその場所の近くに、小さな引出しのついたクローゼットがあった。リューシスは引き出しを引っ張ると、中からきれいな石の輪を取り出した。
「わぁ!きれい!」
 ヴェルーニャがはしゃいだ声をあげる。色とりどりの石は良く磨かれていて、太陽の光を鮮やかに照り返していた。
 石は小さな穴が空けられ、紐で緩やかに連なっている。なんとそれはひとつきりではなく、いくつかのまた別の色合いの石の輪が引出しから出てくるのだった。
「きれいな石だろ?煌きの都市っていうところで、友達にもらったんだ。」
「本当にきれい。」
「これで髪を結ってみない?」
 リューシスは石たちを差し出しながら、そういった。ヴェルーニャが感激したように瞳を瞬かせた。
「いいの?」
「もちろん。僕は下でご飯食べてるから、君はここで髪を結っているといいよ」
「ありがとう。嬉しい!」
 ヴェルーニャは本当に嬉しそうな顔をして、石たちを受け取った。煌く石たちを見つめて、満足そうに微笑む。
「じゃ、僕は先に降りるね」
「ええ」
 リューシスはヴェルーニャの嬉しそうな顔を見ることができて、ほっと胸を撫で下ろした。しかし、階段を降りながら、ふっとまた頭の中がヴェルーニャの起きた出来事のことを考えてしまう。
 残った粥を温めなおしながら、リューシスは考え込んだ。
 煤だらけの体。放置されていた街道。この世界への転移。そして、失った記憶。
 何もかもがつじつまが合わず、リューシスの頭を混沌とさせていた。これだけの事実を丸め込む出来事が、リューシスにはどうしても思い浮かばなかった。
 何故、ヴェルーニャは記憶を失ってこちらの世界に来てしまったのか。彼女の意思だったのか、それとも、他の外部からの強制的なものか。もし、外部からの強制力であれば、善意か、悪意か。
 ヴェルーニャを僕の世界に送り込むことで、何かのメリットがあるのか。
 ヴェルーニャの記憶を消して、僕らが普通通りの仕種ができることで何のメリットになるのか。
(強いて言えば・・僕には会えたこと以上のメリットはない・・・辛いだけだ。)
 ぶくぶくと控えめな泡を吹き始めた鍋をかまどから避ける。器に移し、自分用のスプーンを戸棚から取り出すと、ダイニングで食べようと器を移した。
 と、ふと暗い顔を上げてみると、ヴェルーニャがにっこり微笑んでそこに立っていた。リューシスは器を取り落としそうになった。
 髪はいつものように4つか5つに束ね、束ねた先には先ほどの光る石が散りばめられている。束ねた先の石たちが、からかうような光を溢している。
 リューシスはすっかり驚いてしまった。今までの髪型を教えたわけでもないのに、ヴェルーニャはその、いつもの髪型に仕上げて微笑んでいるのだ。
 ようやく屈託ない笑みを浮かべながら、ヴェルーニャは嬉しそうにこう言った。
「いろいろな石の輪を使ってみたくてついたくさん結ってしまったの。でも全然手間取らなかったわ。・・私いつもこんな髪形をしていたのかしら?」
 リューシスはヴェルーニャを眩しそうに見つめると、そうだよ、と安心したように笑った。
(望みはゼロじゃない・・ゼロじゃない限り、希望をもつことだ。それだけで、ヴェルーニャは全てを取り戻せるはずだ)
 そうして笑ってから、リューシスは決意を持ってこう思う。
(何故か、なんてもう考えても仕方がない。これから僕らに何が起ころうと、僕らは立ち向かわなければならない。そういう運命なんだ)






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