日の光の届かぬ闇が支配する世界があった。現世での役割を終えた魂は日の光から逃げるようにその世界に集まっていた。そこは、奈落と呼ばれた。
奈落の更に奥深いところに更に暗い闇が広がっていた。黒一色に塗りこめられたような世界の中に蠢くものがあった。重々しい声で、何かがこう言った。
「事は」
「上々です。ご心配なく」
暗闇の中でにっと大きな牙だけが見えた。何か、とてつもなく大きなものが笑ったようだった。
「マナの女神も所詮はつまらぬ女だったということだな。」
「そのようで。・・しかしあまりまだお話にならない方が。お体に触ります」
心配げに相手をする者がそう言う。ここは真の暗闇が支配していて、その者の正体が何なのか見定めることはできない。しかし、聞こえる声は若い。声質はどうやら女のように聞こえる。
一方の重々しい声の方が心地よさそうなため息を漏らした。
「ふ・・今日は実に気分がよい。体が元通りの力を取り戻すのも、時間の問題であろう」
「それはようございました。英雄などと呼ばれる者たちが我々を脅かす日々が終わるのも、そう遠くはないということですね。」
丁寧な口調で、女の声の主がそう言った。
「当然だ。」
重々しい声は吐き捨てるようにそう言った。
「最後は私が勝利を向かえるのだ」
尊大な口調でそう言った相手に聞こえぬよう、女はくすりと笑った。
闇の中の密談は、そこで途絶えた。
リューシスの家では、二人が仲睦まじく朝食の後片付けをしていた。ダイニングでバドとコロナが意味ありげに微笑むのにも気づかず、二人は仲良く話しながら片付けていた。
と、ヴェルーニャがあ、と声をあげた。
「忘れてた!あのね、さっきサボテンちゃんに言われたんだけど」
泡だらけの皿を水ですすぎ、リューシスに手渡すと、ヴェルーニャは続きを言った。
「草人さんが私の世界のことがわかるかもしれないって。」
リューシスは皿を拭きながら、草人が?と首をかしげる。
「そう、サボテンちゃんがそう言ってたのよ。リューシス、聞いたことあった?そう言う話」
「いや?僕はないなぁ・・でも、街道に行くよりも先にそっちを試した方がいいのかもしれないね。もしかしたら君がこっちに来てしまった原因を突き止められるかもしれないし。」
「うん、そうね。」
ヴェルーニャはリューシスの言葉に頷いた。リューシスもにっこりと微笑んでみせる。そんな穏やかなリューシスの表情に、ヴェルーニャは誘われるように口を開いた。
「ねぇ、リューシス?私、あなたのこと好きだった?」
ヴェルーニャの唐突な台詞に驚きつつも、リューシスは穏やかに笑った。
「僕は君を大好きだよ。君が僕を好きだったかどうかは君自身で思い出してほしいんだけど。」
幾分残念そうに、リューシスがそう言うと、ヴェルーニャはゆっくりと首を振る。
「思い出さなくても、判るわ」
そっと手をリューシスの頬にやると、ヴェルーニャは微笑んだ。
「あなたのこと、私間違いなく好きだったと思うわ。もし、そうでなくても、今あなたのことを私は大好きよ」
「ヴェルーニャ・・」
リューシスが喜びを堪えきれない子供のように思い切りヴェルーニャを抱きしめた。もちろん、今は彼らが触れ合えない理由は今は、ない。お互いの温もりを感じて、二人は幸福になった。
(普通の、恋人みたいだ・・!)
以前触れ合えもしなかった頃を思い出して、リューシスはそう思わずにいられなかった。しかし、そう長くもリューシスはヴェルーニャを抱きしめてはいられなかった。
(・・一体何故こんなことが起こっているんだ・・?)
リューシスの異変に気づいて、ヴェルーニャは不安そうにリューシスの顔を見上げた。リューシスの表情は、暗く曇っていた。ヴェルーニャがリューシスの表情を読んで、ため息をつく。
「このままじゃ、駄目なのかな・・」
「!」
ヴェルーニャの声に我に帰ったリューシスが慌ててヴェルーニャに視線を戻すと、ヴェルーニャは寂しそうに笑っていた。
「私の記憶がないのがないのは不安なの?リューシス」
リューシスはとんでもないっ!とばかりに首を振った。
「君の記憶がなくて不安なのは君の方じゃないのか?僕は君が心配なだけだよ」
「ありがとう。でもリューシスが不安に思ってるのはそれだけじゃないように見えるわ」
ぎくりと、リューシスは肩を揺らす。
そう、以前二人の仲は女神の命によって決定的な別れを促された。その後、リューシスはもうヴェルーニャと会うことすら、無理だと思っていた。
しかし、今彼女は目の前にいて、自分を好きだと言ってくれている。その上で彼らは触れ合える。その矛盾が、リューシスにとって不安でしょうがないのだった。
「僕は・・怖いんだ。ヴェルーニャ」
「怖い?」
リューシスがこれ以上ない悲しみを湛えた瞳で笑っていた。
「そう、君とはもう会えないと思っていたから・・ずっとそう思って過ごしていたから・・もう諦めていたんだけど。今君に会えて、君と話せて、君に触れられて、その後君を失うようなことが再び起こったら・・僕はどうしていいかわからない。」
「ま・・ぁ、いやぁねぇ、リューシス!」
なんとヴェルーニャはリューシスのその言葉を笑いとばした。それはもう無邪気な子供のような声をあげて。
「リューシス。考えすぎよ。以前の私たちに何が起こったのか、私は何も覚えてないけれど。そんなことはもうどうでもいいの。私はここにいるじゃないの、あなたの目の前に。」
ヴェルーニャの言葉にリューシスははっとした。思わずリューシスはヴェルーニャを見つめる。
「そう、よく見て。リューシス。私は、ここにいるわ」
「そう・・だね。」
ヴェルーニャの強さにつくづく感嘆しながらも、リューシスはやはり自分の持つ恐れを安易に手放すことは、できないのだった。
二人は片付けを終えて、出かける支度を始める。すでにバドとコロナは用意ができているらしく、二人を早く早くと急きたてた。
ヴェルーニャはこの世界に何をもってきていると言うわけではないので、とりあえず荷物を入れるバッグを借りて、簡単な旅支度をした。と、そのとき、ぐらり、とヴェルーニャに目眩が襲う。
「あ・・れ?」
それと共に、耳に届くのは自分の名前。
・・ヴェルーニャ!ヴェルーニャ!
・・早く!早く帰ってきて!!
悲鳴のような、あれは、コロナの声。可愛いコロナの声が必死に声を上げている。
「コロ・・ナ・・」
「どうした?ヴェルーニャ・・?」
リューシスがそれに気付いてヴェルーニャを気遣うが、ヴェルーニャの耳にはそのリューシスの声すら届いてはいなかった。
「呼ばれてる・・行かなきゃ・・行かなきゃ。私」
ふらりと立ち上がったヴェルーニャが、まるで空気に飲み込まれるかのようにその場から消えてしまう。
「ヴェ・・・ヴェルーニャっ!?」
慌てて、リューシスはヴェルーニャの腕を掴もうとしたが、彼女の腕はすでに霧か何かのように実態がなく、掴むこともできなくなっていた。
そうして、消えてしまったヴェルーニャのいた場所を、リューシスは信じられない思いで見つめていた。やがてヴェルーニャが消えてしまったその場所に自分も立ってみる。
・・何も起きない・・。
「やっぱり・・違う何かが起きている・・」
リューシスは決意した。
もう一度、ヴェルーニャを追うためにあの小屋へ行こうと。
着いて来たがるバドとコロナを何とか説得して、リューシスは単独ドミナの無人小屋に向かった。あの小屋は別の世界の人間を連れてくることができる不思議な小屋だった。リューシスが前にヴェルーニャの世界に行ったときも、もちろんこの小屋が使われた。
しかし、その後、ヴェルーニャとの間を徹底的に裂かれたあと、この小屋は何の反応も示さなくなった。別の次元との繋ぎを絶たれたのだと、リューシスは理解していた。仕方なく、ヴェルーニャとはもう会うのを・・諦めていた。ついこの前までは。
「でも、会えた。理由はどうあれ、僕たちは会えたんだ。」
まるでその事を報告するかのようにリューシスはそういいながら小屋のノブに手をかけた。
かちゃりと、今まで動きもしなかったそのドアノブが動き、ドアは開いた。
リューシスは小屋に一歩足を踏み入れると、マナの女神が目の前に現れる。
「久しぶりね。リューシス。」
光り輝く女神はリューシスを見て、消え入りそうなほど弱々しい微笑みを湛えた。
「一体・・何が起きてるんですか?」
リューシスは挨拶するのも忘れて、女神のそう問うた。それほど、女神の顔はなんだか生気を失ったような鬼気迫るものを感じたからだ。
「何者かが・・私の存在を消そうと」
「女神の存在を?」
リューシスは驚いた。しかし、女神はふとリューシスに目を向けるとこう言う。
「気付きませんか?リューシス。あなたは私に禁じられたはずの恋が、また再びあなたの手に委ねられていることを。それはすなわち、私の力を奪うものがあるからです。」
「やはり、そうでしたか・・」
リューシスは唇をかんだ。やはり、女神が許してくれたわけではなかったのだ。女神の力を奪おうとする者によって、その力がただ偶然に働かなくなっただけだったのだ。
そこまでリューシスは考えてから、目を見開く。
・・偶然に?もしかすると狙われていた?
・・英雄二人が恋に溺れて力を失うのを狙っていたのか?
リューシスはその事を口にすると、女神は悔しそうに頷いた。
「充分、有り得ます。英雄の力を満たすのは、私のマナの力。私の力と、英雄の力がなくなれば、あなた方は普通の人と何等変わりありません。普通の恋人のようになることだって・・」
「だから・・さっきは・・」
呆然としつつ、リューシスはヴェルーニャの感触を思い出していた。彼女を抱きしめられたついさっきの感触を。
女神がそれを見て、うっすらと笑う。
「あなた方二人に力をお借りすることになりそうです。」
「二人に?」
女神は一度顔を引き締めてリューシスにこう言った。
「敵は・・まず英雄の力を奪うことを、それと同時に私女神の力を無くすのを狙っているようです。英雄を失うということは、女神と言う存在から後ろ盾を無くすのと同じ事です。私はそれだけは避けなければなりません。」
「でも、どうやって?僕たちは本来触れ合えもしないはずでしたが?」
「それは・・」
そういって顔を上げた女神の目には、重大な決意が生まれているように見えた。リューシスはその女神の決意を聞く前に、覚悟を決めるように生唾を飲み込んだ。
ごくりと、飲み込んだ音が、リューシスの耳だけに響いていた。
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