【スパイラル〜推理の絆〜】

■I Believe〜ひよのの見解〜












―――私のことを、恨んでいるか?

―――はい、あなたなんか、だいっきらいです。



 鳴海清隆と歩の対決から二年後、「結崎ひよの」という役を見事に演じ切った「彼女」が日本に戻ってきた。
 ここでは「彼女」の本名を記せないため、「結崎ひよの」の名をまたしばらく借りることにしよう・・。

 ひよのは久しぶりに降り立った日本の地を眺めて、懐かしそうに目を細めた。
「2年ぶり、ですか・・」
 空港内の雑然とした通路を歩きながら、ひよのは一人呟く。それにしても彼女は海外から戻った旅行客とは一風変わった服装をしていた。カジュアルというわけでもなく、ビジネスライクなスーツを着ているわけではない。すっきりとした白いジャケットに柔らかい色あいのフレアのスカート。旅行者とも海外出張とも言いがたい服装である。そして彼女はその姿にハンドバック一つという身軽さだった。
 しかしそれも、荷物の受け取り用のベルトコンベアに向かう人々と別れれば、たいして目立たなくなってしまう。降りた人々の通路の警備の薄さを逆手にとって、通路を逆走してハイジャックに成功した事件を境に警備を強化し始めたというルートを過ぎてしまうと、さらにその姿は人ごみの中に難なく滑り込んだ。空港は旅行客ばかりではなく、見送り客や迎えに来る者もいるので身軽な人間も目立つことはないのだ。
 一瞬立ち止まり、方向を確認する。すばやく出口を見つけて彼女はそちらに向かった。外に出ると、ぴゅうっと冷たい風が亜麻色の髪の毛を揺らした。まだ、この服装には早かったか、と彼女は肩を震わせると、タクシー乗り場に向かった。
 割合待つ事もなくタクシーに乗り込んだひよのは、つい最近まで駆使していたドイツ語を口走ってしまいそうになった。
「え?」
 タクシーの運転手がびっくりしたように振り向いたのを見て、ひよのは、あ、と気づく。
「この住所の病院に行ってください」
 タクシーの運転手はひよのがさしだした紙を受け取り、カーナビに住所を登録させるとゆっくりと車を発進させた。
 病院まで50分弱というところか、とひよのは窓の外の景色に目を走らせた。
 2年前の鳴海歩の顔を思い浮かべる。
(思えば、最初からばれていたのかもしれませんね・・)
 仮の名前だったとはいえ、鳴海が自分の名前を呼んでくれたことは一度もなかった。いつもアンタ、と呼ばれた。それゆえ、一度も信じられているという気はしなかった。最後の決戦を間近に控えた日、ピアスを渡された日でさえ、歩はどこかで自分の正体を知られているのだろうという気持ちが、どうしても心から離れなかった。清隆から依頼されていた「結崎ひよの」という人間の演技としては完璧だったはずである。ただ、相手が悪すぎた。頭の回転が、普通とは段違いに違いすぎるのだ。「ナルミアユム」という人間は。
(この私の負け、でしょうかね。やっぱり)

 病院のエントランスにタクシーが滑り込み、料金の支払いをしているところに、ひよのは見覚えのある二人をみつけた。鳴海夫妻――つまり、歩の兄清隆とまどかである。ひよのは再び自分の財布に視線を戻すと、料金を支払って車から降りた。
 病院の建物は見上げると大層なものだった。総合大学病院だけあって、施設も充実しているようだ。おそらく最新の医療機器がそろっているのだろう。清隆の話では医療機器ばかりではなく、医療スタッフも精鋭ぞろいだそうだ。そうでなければ鳴海歩が入院できるわけがないのだが。
 鳴海歩の病はその生まれそのものにあった。彼は世界初のクローン人間なのである。しかし完全体ではないために、彼はその身に生まれながらにして時限爆弾を抱えていた。つまり、人間的生活に欠かせない機能が二十歳まで持たないという爆弾を、だ。同じクローン人間として生まれていたミズシロ火澄も同様の運命にある。
「奪われ続ける運命というのは、想像もできませんね・・」
 ひよのはぐっと拳に力を入れると、気分を入れ替えた。何しろ「結崎ひよの」の性格は常に前向きの完全ポジティブ思考なのである。
 歩き出したときには、彼女に「結崎ひよの」のスイッチが入っていた。

 歩の病室のある階にエレベーターで昇り、扉が開いたところで先ほどの夫妻と鉢合わせした。おそらく、歩の体を慮って長くは面会しなかったのだろう。もしかしたら毎日見舞っていて、それほど話すこともないのかもしれないが。
「・・ご無沙汰だったね」
 2年前までは、彼本人からの命令というべき連絡が頻繁に来ていたが、今となってはお役御免の身柄、彼から直接連絡が来ることはなかった。ただ、彼の配下の人間から「鳴海歩」の情報はそれなりに入手することはできた。今回鳴海歩が入院している病院がわかったのもそのためである。
 軽く挨拶をして、一つの質疑応答がされて、ひよのは夫妻に頭を下げて去った。去り際に、清隆の声がこう言った。―――歩の描く未来は今にも壊れそうで、信じるべき何ものもないというのに、なぜ自分を信じる私が負けてしまったと思う?
 それはまどかに対する問いかけでもあっただろうが、彼自身の大きな疑問だったと言えるのだろう。
 ひよのは、その問いかけを心に納めながら、歩の病室に向かった。

 彼は、変わらなかった。
 目の前に迫る終焉を確実に感じながらも、毅然としていた。それが強がりだとは十二分として判っていたが、彼はそれでも自分の役目に徹していた。ブレードチルドレンに希望を与え続けるという役目を。
 いや、変わった、とも言える。
 ここにいたってようやく現実を受け入れる目をしていた。全てを受け入れて、その上でそれでも自分らしく生きようとする姿がそこにはあった。
「ピアノ、やめてなかったんですね」
「当たり前だろ。俺はやっと俺の音楽を取り戻したんだから」
――俺はやっと自分の人生を取り戻したんだから。
「そうですね」
 ひよのとしてではなく、彼女自身の素直な笑顔で彼への勝利を祝った。

 右手だけで弾いたピアノを聴いて、彼女は歩の部屋を退出した。
 すぐまた空港に戻らなくてはならない。今からタクシーに乗って、夕方の便に間に合うかどうか、という時間まで差し迫っていた。
 ひよのはエントランスで待機していたタクシーに乗ると、空港まで、と告げて腰を落ち着けた。再びタクシーが静かに滑り出す。病院の建物がぐんぐん小さくなっていくのを、ひよのはバックミラーごしに見つめていた。
 ぼんやりしていると、ふと先ほどの清隆の声が耳に蘇ってきた。

―――歩の描く未来は今にも壊れそうで、信じるべき何ものもないというのに、なぜ自分を信じる私が負けてしまったと思う?

「【ゼロの盤面】、なんてものを考えていたあなたには、一生わかりません、よ・・」
 彼女は外の流れる景色を見ながら、そう一人ごちた。運転手には聞こえないように、ひっそりと。
(鳴海さんは要するに欲張りだった。欲張りな夢を持ち続けたんです。お兄さんより力はないと知っていながらも、それでも諦め切れなかった。欲張りな夢とはすなわち、なるべくなら人を不幸にはしたくない、という・・)
 車は高速に入るようで速度を上げ始めていた。そこに、不意に、猫の死体が目に飛び込んでくる。昨日の夜にでも轢かれたのか、無残な姿だっただろうが、速度が上がっていたために瞬時にその姿は見えなくなった。
 彼女は頭を振って、思考を元に戻した。
(筆頭にお姉さん、そして清隆氏、そしてブレードチルドレンの皆さん、そして及ばずながら私こと「ひよの」さん・・その人たち全てを鳴海さんは救おうとした。あるいは、悲しませないように極限状態で論理を組み上げた。そして、その救いの論理に飛びつくのは人として正常な心理です。誰も自分から不幸になろうなんて思う人はいませんからね。)
 高速に入った瞬間景色が単調化したので、彼女は窓に向けた視線を車内に戻した。バックミラーには、家族の人にもらったのか、自分で買ったものなのか、安全祈願のお守りが同じく単調に振り子運動を繰り返していた。
(人とは案外、単純なものなんですよ。きっと)
 無意識にジャケットのポケットに手を突っ込んで、彼女はあるものに気づいた。取り出して手のひらに転がす。リングのピアス、鳴海歩のものだ。
(結局――受け取ってもらえませんでしたね・・)
 きゅっと手のひらを握り締める。そして、そのピアスをポケットしまいながら、彼女は思う。
(人が単純だと信じるなら―――この手に残ったピアスは、あなたがもう一度私と会えることを確信しているんだと・・・そう解釈しても構いませんね?鳴海さん)

ああ、なんて。
信じることを知っている人間はなんて。
素晴らしいのだろう。
愚かしいのだろう。







■END



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