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「日々是好日」(にちにちこれこうにち)は究極のプラス思考
最近私は、「日々是好日」を座右の名としている。この言葉は中国唐時代の雲門文偃(ぶんえん)禅師の語である。
ある朝、何気なく新聞を開いた時、突然行間からこの言葉が目に飛び込んできた。それまで知らなかった言葉ではなかったが妙に気になり、その言葉を吟味して改めてその言葉の凄い意味に気付かされた。この言葉の意味を文字通り理解すれば、“毎日が平穏無事の日々である”ということで、読めばなんとなくホッとしたり、縁起も良さそうなので、よく掛け軸などに書かれたりしている。そんな意味なのだが、実際生きていて毎日が平穏無事で良い日ばかりではない、逆に不快で悲しく辛い事の方が多いのが現実ではないだろうか。しかしだからこそ、人々は「日々是好日」を理想とするのだろう。
ところがこの言葉の意味は、前述したような浅い意味では無く、もっと深い人の心のあり方を教えている。我々人間は感情を持ち、しかも主観的にしか物事を見られない。つまり、人間は現実=この世界を真に客観的視することはできない。それぞれの物差しで(価値観)でしかみられない。しかもその時々の感情もある。例えば、明日キャンプに行く予定を立てていた。次の日、雨
だったらがっかりして気分も滅入ってしまうだろう。しかし、気を取り直してものの見方を変えれば、楽しみが先に延びたと思い、その日は読書をして過せば日頃読めなかった本を読む事が出来、雨でも良かったということになる。つまり、心の持ち方ひとつで現実はいかようにもとらえる事が出来るのだ。「日々是好日」は、そうした現実を表層的な感情にとらわれることなく、心の持ち方で好日にすることが出来ると示唆している。これは言い換えれば、禅的プラス思考である。しかし悲しい事も、嫌な事もなんでも無理矢理プラスに考えれば良いといった浅はかなプラス思考ではない。
本当のプラス思考とは、悲しみも苦しみもすべて受け入れ、人生における喜怒哀楽そのものを味わい深く感じ、それを含めて「日々是好日」となす事が出来ることである。
これは究極のプラス思考であると私は思う。嫌な一日だったとしても、一時の感情にとらわれることなく、それはそれで自分にとって大切な一日だったと思えること。人は、過去や未来に生きているわけではない、今生きているこの一瞬々が大切な時間である。その想いの根底には、この世に「命」受けた“感謝”の心がなくては「日々是好日」とはならないだろう。
アンチエイジングにおいて大切なのは、明るい気持ちだ。常日頃から心を明るい方向に向けていれば、病気を遠ざけ、災いも去っていくだろう。雨の日も、風の日も受け入れ「日々是好日」を実践するのは難しい事かもしれないが、明るい気持ちでいられる”方便”になるだろう。真の幸福を求めるなら、少しでもよいから我欲を捨て「日々是好日」を実践していきたいと思うのだ。
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