第一章 大嘗祭の特質

CHAPTER ONE
" Property of the Daijo Sai "


 1 ニヒナメ、カミとの magical sympathy
 2 宮中新嘗祭、日本との magical sympathy
 3 大嘗祭、magical sympathy の継承

 −−ニヒナメ、カミとの magical sympathy−−

 前述したように、大嘗祭とは「新天皇が初めて司式する新嘗祭」である。では、その「新嘗祭」とはいったい如何なる「祭」なのか。まずそれを説明せねば大嘗祭の説明もできなかろう。
 先ほどの政府見解を見ると、大嘗祭は「収穫儀礼」で、「安寧と五穀豊穣」を祈る祭りとある。西洋のサンクスギビングのような性格のおめでたいオープンなお祝いを連想させる説明だが、誤解を生むこと甚だしい。夜の闇の中で粛々と行われた大嘗祭に象徴されるように、大嘗祭・新嘗祭は基本的に厳粛な「物忌み」の儀礼なのである。
 日本の暦では十月は「神無月」。日本中の神々が出雲の国に出かけてしまう、物忌みの期間である。神の加護がない月だから、その間は日本中で一切の神事が行われず、人々は慎み深い生活をすべきとされていた。ちなみに神々が集結する出雲の十月は「神在月」と呼ばれるのだが、「神有祭」なる神々のウェルカムパーティーを出雲大社で行う以外、土地の人々神々の会議を妨げないために諸地方同様に物忌みを守る(1)一方、それらの神々が諸地方に帰ってくる十一月は、おのずと祭りの行われる月となる(2)
 物忌みとその後の祭りは、陰と陽とのワンセットである。その構造が暦の単位まで拡大された形が、この「物忌みの十月」「祭りの十一月」である。神々の帰って来る十一月の祭りは、一年で最も大切な祭りとされる。その最も重要な祭りが、のちに新嘗祭の原型となる「ニヒナメ」である。  折口信夫氏によると、「新嘗(ニヒナメ)」の語源は「贄之忌(ニヘノイミ)」であるらしい。「ニヘ」とは、神(及び神になる資格を有する者)の食べ物で、調理されたもの全般をさす。その「ニヘ」を供ずる時期に守る物忌みが「ニヘノイミ」である。それが語形変化して「ニヒナメ」となった。ただ、この「贄の忌み」は、文字通り神に「ニヘ」を供ずる前に行なう物忌みだけを指すのではない。「ニヘ」を供ずる「まつり」それ自体、この物忌みの中で挙行される。矛盾しているようだが、神に「ニヘ」を「まつる(献る)」ことイコール物忌み、という基本的考えがあったのである(3)もともと「まつり」の語義は「奉献」であって、現代考えられているような「饗宴」としての意味だと思ってはいけない。
 また一方で本居宣長は、ニヒナメの語源を「新餐(ニヒノアヘ)」としている(4)探せばもっと他の説も出て来るだろう。何が定説か、という事自体定説がない。

 いずれにせよニヒナメの祭りに、「新穀収穫祭」としての意義が色濃く存在することは間違いない。収穫で最初に刈った稲を炊き、まず神に供え、それとともに村の長、ついで各戸の家長が食べ、豊饒を神に感謝する……これが民間新嘗祭(ニヒナメ)の姿である(5)
 が、ニヒナメの意義はそれだけにとどまらない。ニヒナメが単なる収穫感謝祭なら「秋祭り」の立場はどうなる。何を隠そう、実はニヒナメには「冬至祭」としての役割もあったのである。
 真弓常忠氏は持統天皇の大嘗祭(律令で制度化された初の大嘗祭)が冬至に行われた事を索き、もともとは冬至にニヒナメを行うのが本旨であったとする(6)もともと宮中での新嘗祭は、古来、十一月の中の卯の日(太陰暦)に執り行われていた。それが太陽暦に切り替わったのち1873年(明治六年)、11月23日(卯の日)に行われて以来、この日が新嘗祭の日となり、今回の大嘗祭まで至るわけである。太陰暦十一月中卯日は、ほぼ冬至の前後にあたる。
 古来、最も日が短い冬至を境に万物は再び新しい命をもって甦えると考えられてきた。そのためこの日は「一陽来復」と呼ばれ、慶賀の対象になってきた(7)最も日照時間の短い(=太陽の活力が最も衰えた)この日、忌み篭った果てに新穀を神と共にいただく事により、太陽の復活にあやかり、生命のよみがえりをはかった、それがニヒナメのもうひとつの意義であるらしい。太陽に関わる儀礼として、「火替え」が行われる。各家の力の弱まった炉の火を消して、新しい火種をつける事によって、物みなの再生を促すのである。新穀はこの新しい火で炊かれた(8)つまり新嘗祭とは、収穫祭と冬至行事(≒復活祭)とが結合した祭りと言える。
 日照時間のサイクルと農耕のサイクル。冬至から春へ、夜から朝へ、闇から光への転換の象徴的体験。厳粛な物忌みを守り、人は一時的に死ぬ。そして神饌を共食する事により、神と一体になり、新たな生命力を得る。まさに日本の神=自然のサイクルとシンクロした、死と生の儀式。神道にとっては、一年で最も大切な儀礼である。
 余談だが、キリスト教において「復活」祭が最大の祭りとされている事とも、どこか相通じるものを感じる。もっとも復活祭は春先の儀礼だが、冬至も春分も、生への転換の節目としての機能を果たす日という点では同じである。
 同様の「復活儀礼」は世界各地の民俗祭儀に見られる。季節の移り変わりがある所、もしくは農耕のある所なら、復活思想は必ず生まれ得る、非常に素朴な、かつ根源的な発想である。もっとも、キリスト教の「復活」を自然の「復活」と同じ次元で論ずるつもりは毛頭ないが。

 では、このニヒナメが皇室において統合され「(宮中)新嘗祭」となり、さらに新天皇によって執り行われ「大嘗祭」になる時、いったい如何なる性格付けがなされるのであろうか?

 


 −−宮中新嘗祭、日本との magical sympathy−−

 新嘗祭は現在でも全国各地の神社で行われている。また古代には民間でも、ニヒナメの物忌みが厳重に守られていた。「万葉集」の東歌にも、物忌みの際の情景を詠んだ和歌が見られる(9)
 それらを統合して、国家的規模で行うようになったのが天皇の新嘗祭である。その統合の過程にも興味が持たれるが、ともかく現在、民間においては奥能登地方に「アエノコト」という形で残っているだけである(10)
 宮中新嘗祭の神饌には、様々の海の幸・山の幸、そして米が供せられる。木ノ実など山の幸はともかく、アワビや海草など(海の)魚介類はどう見ても、内陸の大和地方オリジナルの産物ではない。大和の自然の力は海の幸の中には内在しない。にもかかわらず、大和王朝の主はこれらを神饌として神と共食する。と言うことは、宮中新嘗祭が大和地方オリジナルのニヒナメの延長線上にある祭りでない事は明らかである。
 これらバラエティーに富む神饌の数々が、何処からもたらされるのかと言えば、それこそ「日本」中からである。ここではじめて、地方という「個」を、「日本」というカテゴリーで一まとめにひっくくる発想が出て来る。……これが、宮中新嘗祭を「統合された新嘗祭」と呼ぶ所以である。
 それぞれの地方・地域の神、すなわち自然と一体化し、その活力を得る儀礼がニヒナメである。だが、地域ごとの祭儀であるニヒナメが皇室の祭儀・新嘗祭として中央に集中された時、べつの意義……「王権儀礼」としての性格が生まれた。
 ニヒナメにおける「自然のサイクルとの同調」は、実は古代王権の重要な要素につながる。王が自然の働きに影響を与える、という信仰は、西洋にも東洋にも太平洋の島々にもどこにでも見られる。その事はフレーザーの「王は豊饒を約束する」との言葉で知られているし(11)A.M.ホカートも「王権」などの著書の中で現代に残る幾多の実例を索いて指摘しているほか、おそらくどの人類学者も認める事実である。
 ニヒナメは自然との同調により、自然と同様に新たな活力を得る事が目的であるが、これが王権儀礼になると、自然の活力が王自身の活力と同調し、王自身が世界に豊饒をもたらす。行為主体が、自然から人間(王)に移行したのである。  天皇がこれらの神饌をそのルーツである地方の神々と共食し、その力を内在化するという意味を読み取る事は無理な話ではあるまい。地方の神々を中央、天皇という一個人に集約させる、神の中央集権化とも言うべき現象である。
 地方の神々の力を中央が支配すると言う事は、そのまま地方そのものの統合・支配の構造に対応する。そして、毎年その儀式が執り行われる事は、ニヒナメの持つ「季節(=自然)との同調」という性格だけでなく、支配−服属構造の更新・再確認という意義をもはらんでいる。これは古代バビロニアやペルシアの新年祭などにもみられる特質である。
 「大嘗祭は天皇の支配構造の象徴である」とよく言われるが、実はその原型である宮中新嘗祭自体がすでに中央集権的性格を備えているのである。「ただの収穫祭」ではすまされない。
 新嘗祭における神饌の主役は何と言っても稲である。ニヒナメ自体、「ニヘ」とは基本的に新穀を指した。ニヒナメでは新穀の神人共食は稲の神との一体化という意義を持っていたが、新嘗祭になるとそこに王権神話が介入する。それが、天孫降臨の神話である。「天孫」ニニギノミコト(ホノニニギノミコトとも言う)が祖母にあたる太陽神アマテラスオオミカミから「斎庭の穂(ゆにわのいなほ)」を授かって高天原から日向の国に天降り、征服に次ぐ征服の末、その曾孫イワレヒコノミコトが大和に朝廷を開き、初代天皇(神武天皇)となった、という神話だ。キリスト教における「イエスは神の子である」との教義にも匹敵する、天皇にとっては最も重要なドグマである。これがなければ、天皇は神の子孫でも何でもない、ただの王様になってしまうのだから。この天孫神話こそが、天皇最大のアイデンティティとして、二千六百年(自称)もの間、「万世一系」(自称)を守り通させる原動力となったのである。
 ニニギノミコトという名前が稲穂のにぎにぎしく稔ったさまを象徴する通り(12)この神は「葦原中津国(あしはらのなかつくに)」と呼ばれていた葦ぼうぼうの荒れ地であった日本を、稲穂みのる「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」とすべく降臨したありがたい神である。その作業には、もとから葦原中津国に跳梁する「国津神(荒ぶる神)」たちの征討も重要なファクターとして挙げられている。つまりこの神話は、稲作文化を持った民族による、日本列島の先住民族の駆逐および支配の歴史を投影しているのである。
 斎庭の穂を象徴する新穀を神と共に食し、天皇の御先祖様たるニニギノミコトの支配原理を追体験する事により、歴代の天皇は神武天皇の征服神学を継承していく。これが“万世一系”の本質であると、戸村政博など大嘗祭を批判する側の人々は主張する(13)神道側の研究者は、天皇の王権が持つこのような征服思想についてなかなか言及してくれていない。もっとも神社神道と、王権に直接つながる国家神道とは別物だから、何とも言えないのはしかたないが。
 これを別の言葉で言うと、「皇祖(アマテラス)及び天神(=高天原のカミ)地祇(=日本土着のカミ)に安寧と五穀豊穣を祈る」、となるわけである。

 


 −−大嘗祭、magical sympathy の継承−−

 史上初めて新嘗祭と大嘗祭とを分化したのは第40代天皇、天武天皇(在位673-686)である。天武帝といえば、壬申の乱を勝ち抜き、日本史上初めて律令制による中央集権制度を確立した、珍しく「帝王」の名にふさわしい天皇である。この時、王権「再確認」儀礼と王権「継承」儀礼とが、はじめて制度的に分化された。
 のちに「延喜式」(927年)で、宮中で行われる新嘗を「大嘗祭」と呼び、新天皇即位後初の大嘗祭をとくに「践祚大嘗祭」と呼称するようになった。後に践祚大嘗祭を単に「大嘗祭」と呼び、毎年の大嘗祭については「新嘗祭」の呼称が復活した(14)
 岡田荘司は大嘗祭の皇位継承儀礼的性格、とくに神格化儀礼としての機能をとことん否定する(15)が、それでは大嘗祭を大嘗祭としてわざわざ毎年の新嘗祭から区別する理由はどこに行ってしまうのだろうか。初日の出や初ガツオ、ボジョレー・ヌーボーなどに見られる、日本人の初物信仰では片づけられないだろう。即位後初の新嘗祭をとくにクローズアップすることの意味を考えると、やはり「前天皇の支配権能を継承する儀礼としての意義が付与されたため」という答えが出てこよう。
 天武帝による律令国家体制の確立以前と以後では、天皇の即位儀礼の性格がかなり変質している。この点は決して見過ごせない。例えばいわゆる「三種の神器」の継承儀礼(登極令における践祚、現在の剣璽等承継の儀。当時は大嘗祭の中の儀礼のひとつだった)は、大化の改新以前には諸豪族の代表が神器献上の儀をとりおこなっていた。皇位の継承は、形式上とは言え、豪族達の合意に基づく必要があったのである。しかし、律令制下の神器献上は忌部氏(朝廷の祭儀担当役人)が行っている。天皇直属の役人が神器を捧げるのである。天皇の専制・官僚制が進んだ結果といえよう。
 また大嘗祭(新嘗祭)に使われる新穀も、かつては天皇の御田(私有田)から調達していた。それが天武帝の大嘗祭から、地方民の田から新穀を供出させるシステムが始まり、現在にまで至る。その際、占いによって二つの地方(悠紀・主基田)を選出する。占い、つまり神意によって新穀を調達する場所を日本全国の田圃の中から選ぶという事は、ひいては神による天皇の日本支配の正統化、神権王政思想につながる。律令体制の大原則は「公地・公民」。すべての国土はいわば天皇の私有地。その図式を儀礼的に表現した点で、これもまた日本全国津々浦々を支配する天皇の王権の強大化を示す変化である。
 ……しかし、栄光の天皇専制時代はそう長く続かなかった。700年頃から藤原氏ら貴族達の台頭がはじまり、政情は不安定になる。どこでも官僚制のトップというものは、よほど個性が強烈でないかぎり、単なる置物にされてしまうのである。そして天平時代、「墾田永年私財法」(743年)により土地公有の大原則を朝廷みずから破る。その結果、貴族や寺院が荘園を保有し、着々と力を増していく。かくして律令制は崩れ、以後、藤原氏の権力が絶大となる。さらに源氏の鎌倉幕府開幕により、先日逝去されたユダヤ人作家イザヤ・ベン・ダサンが「絶賛」した、七百年あまりにわたる祭儀権・行政権の二権分立の歴史が始まるのである(16)

 ともかく伝統的な大嘗祭の本義が、古代的専制君主の王権継承儀礼である事は、言い逃れ得ない事実である。大嘗宮の中で聖婚儀礼や「真床追衾」の秘儀が行われていようといまいとここでは関係ない。この種の儀式を行なう事自体、「私は専制君主である」と宣言しているようなものだ。悠紀・主基田や全国からのニヘの献上などのシステムが健在である以上、大嘗祭は単なる「神主の頭領の収穫祭」で済ます事はできないのである。
 


【注】

 1. 真弓常忠 『大嘗祭』 P.26 →本文へ戻る
 2. 倉林正次 「総説 祭りの本質と形態」
         (『日本祭祀研究集成 第一巻』所収) P.22 →本文へ戻る
 3. 同 P.31 →本文へ戻る
 4. 戸村政博 『神話と祭儀 靖国から大嘗祭へ』 P.64 →本文へ戻る
 5. 鳥越憲三郎 「大嘗祭−秘儀の全容」
          (『歴史と旅 1990年12月号』所収) P.37 →本文へ戻る
 6. 『大嘗祭』 P.27 →本文へ戻る
 7. 「大嘗祭−秘儀の全容」 P.37 →本文へ戻る
 8. 同 →本文へ戻る
 9. 『大嘗祭』 P.27-8 →本文へ戻る
10. 同 P.29 →本文へ戻る
11. James George Frazer "der Goldenbaum"
    (ここでは、真弓常忠『大嘗祭』P.159-160からの孫引き) →本文へ戻る
12. 『大嘗祭』 P.24。
     本居宣長は、ニニギとは「丹饒」で、赤米(稲の原種)の稔った姿を
     言うものと解釈している。 →本文へ戻る
13. 『神話と祭儀 靖国から大嘗祭へ』 P.66-7 →本文へ戻る
14. 『大嘗祭』 P.56 →本文へ戻る
15. 岡田荘司 『大嘗の祭り』。
     彼は折口信夫に個人的に恨みでもあるのだろうか。 →本文へ戻る
16. イザヤ・ベン・ダサン 『日本人とユダヤ人』 第五章 →本文へ戻る


次章を読む 論文目次に戻る トップに戻る
pxw12152@nifty.ne.jp