CHAPTER TWO
" The Form of Ascension Ceremonies "
現行の「皇室典範」によると、天皇の代替りについて認められている儀礼は、「即位の礼」のみである。しかし実際には大嘗祭をはじめ大小さまざまの事細かな儀礼が、今回の天皇即位の過程において出現。そのいくつかは済し崩しに「法の規定なき国事行為」として挙行され、一部の国民と天皇との間の溝をさらに深くする結果となった。
それはさておき、この現象の背後に、「即位の礼」だけでは天皇の即位儀礼として不十分であるとの認識があることはまちがいない。でなければ、伝統的天皇制を愛する人々が何故ああまで大嘗祭など付随諸儀式の挙行に執念を燃やすのか、説明する事ができない。
つい「付随」と言ってしまったが、古来、大嘗祭は決して「即位の礼」の付録ではなかった。むしろ「即位の礼」のほうが、歴史的には後から取り入れられた制度である。「持統天皇紀にみられたような奈良時代以来の即位式は、中国風の様式をとり入れた儀式であって、わが国古来の固有の即位儀礼は、実はこの大嘗祭であるといわれている。(1)」つまり大嘗祭と即位礼は、「それは唐と対等の国家とすべく、律令制による中央集権国家として完成しようとしていた当時の我が国の国力を示すに足る儀式として、太古の伝統の上に、中国風の即位儀礼の様式を取り入れたものであった(2)」のである。天武・持統と続く、日本初の中央集権体制発展期の押せ押せムードが造りだした産物、と言った所であろうか。ともかく、日本の伝統「大嘗祭」と海外に対抗するべく取り入れた「即位の礼」、この由来的には対極にある二つの儀式が、双方とも即位の必要条件として並立しているのは、不思議な所である。
だが、この並立体制には、古代王権の構造を象徴する重大な秘密が隠されているのである。
舶来の即位儀式と国産の即位儀式。舶来品が国産品を駆逐する事なく、国産品が舶来品を自然消滅させる事もなく、相対する性格を持つ二つの儀式による二本立ての即位儀礼が、日本には確立している。この「即位の二重性」は、戸村政博らによって指摘されている(3)。
大嘗祭と即位礼とは、水と火の如くにその性格を異にしている。「古代の闇を象徴するかのような夜の帳の下で行なわれる」大嘗祭と「白昼、文武百官環視の下に行なわれる」即位礼。「非合理的側面の濃い夜の儀式と、合理的側面の勝った昼の儀礼」。それが「排除し合うのではなく共存しつつ、一方は宗教的側面、他方は政治的側面を分担するかのように、両者が一つとなってより多彩な政治的パフォーマンスとしての即位礼が伝承されている」のが、日本の即位儀式である(4)。
ただ、日本における「昼間の即位礼」は、全く非合理的要素を持たないというわけでもない。たしかに、原型となった中国の即位礼は合理的性質に基づいた儀式であった。「中国では、天子は、天帝の意志を地上において代行するために選ばれるものと考えられた(5)」、つまりその背後にはキリスト教世界のそれよりもはるかに高度な、儒教に基づく「王権神授思想」があった。なにせ天子が善政を布かない、つまり天の御心にかなわない場合は、それを排除し、別な天子をいただく権利があるのである。これがいわゆる「革命」である(6)。
それに対し「日本の場合、天皇そのものが、『万世一系』の皇統神話によって立てられ」ている。神の代行者どころか、天皇が神に直結しているのである。日本版即位礼のクライマックス、高御座に新天皇が立つシーンは「revelationという語の原義に近く、神的なものの“自己開示”にふさわしい場面である。(7)」
昼間の即位礼が新天皇の「啓示」なら、それを「完成」する、つまり即位の正統性を真に承認するのが、夜の即位礼、大嘗祭である。大嘗祭(ヨル)が即位礼(ヒル)を完成する。ここに、「ヒルとヨル、形式と実質、公事(政治)と神事(宗教)、さらに合理と非合理という、さまざまな性格を担う二重構造の祭式が、日本の即位礼として定着した(8)」。そして、これが日本の支配の構造にも投影された。「すなわち、ミカドとショーグン、宗教的皇帝と世俗的皇帝との二重構造にあらわれた性格が、今日に至るまでその痕跡を留めているのである(9)」。
この宗教と政治との共存・相補的関係に積極的意味を認める思考が、政教分離に対してたえず祭政一致的回帰へと引き寄せられていく現代日本を造りだしている、と戸村氏は批判している。
早めに注意しておきたい点がある。
「祭政一致といっても、祭と政との一致というような並列的理解ではなく、祭(ヨル)が政(ヒル)を完成する、あるいは、政は狭義の政治、祭は政を含む広義の政治というような構造的理解を求めるものであろう(10)」つまり、少なくとも近代天皇制が目指した(そして現代天皇制が秘かに目指している、と言われる)政治構造とは、「祭」による「政」の包摂にほかならないという事である。決して「祭」と「政」との二元論ではない。
「朝廷・幕府の並存とは、一種の二権分立といえる。朝廷がもつのは祭儀・律令権とも言うべきもので、幕府がもつのは行政・司法権とも言うべきものであろう。統治には、一種の宗教的な祭儀が不可欠であることは、古今東西を問わぬ事実である。(中略)だが、祭儀権と行政権は分立させねば独裁者が出てくる。この危険を避けるため両者を別々の機関に掌握させ、この二機関を平和裏に併存させるのが良い、 と考えた最初の人間は、ユダヤ人の預言者ゼカリヤであった。近代的な三権分立の前に、まず、二権の分立があらねばならない。二権の分立がない所で、形式的に三権を分立させても無意味である。それがいかに無意味かは、ソヴェトの多くの裁判を振りかえってみれば明らかであろう。西欧の中世において、このことを早くから主張したのはダンテである。彼は、この二権の分立を教権と帝権すなわち法皇と皇帝の併存という形に求めた。法皇は一切の俗権が停止されねばならぬ。皇帝は法皇に絶対に政治的圧力を加えてはならぬ。そして両者が車の両輪のごとくになって、新しい帝国が運営さるべきであると考えた。だが、ダンテの夢は夢で終った。彼が、日本の朝廷・幕府制度のことを知ったら、羨望の余り、溜息をついたであろう。(11)」もっともベン・ダサンは日本の封建社会自体を賞賛しているわけではない。幕府が厳密に、行政権だけを抜きだした機関として機能したのはせいぜい鎌倉時代ぐらいのもの。近世になって、将軍が幕府内でミニ天皇と化してきた事実は、誰でも知っている(12)。
伝統的王権の持つ二面性、「祭」と「政」。前者が大嘗祭に、後者が即位の礼に記号化されているという説をさきに述べた。しかるに、「祭」の権力者たる天皇が、その「祭」の象徴とも言える大嘗祭を行わなかったという異常事態が、戦国時代を中心に二百年余りにわたって起こっていた。
かつて、大嘗祭を行なう前に退位したゆえに「半帝」というありがたくない呼び名をつけられた天皇がいる(第85代仲恭天皇、在位1221.4-7)位、大嘗祭とは重要な地位を占めていたのである。すくなくとも鎌倉時代にはそうであった。第一章でも述べたように、大嘗祭はただの宗教的な収穫感謝祭ではない。政治的権力を宗教的権威によってコーティング・強化する儀式である。仲恭天皇のケースは、そのコーティングがなされなかった故である。
だが別な見方をすれば、大嘗祭をしなくても天皇就任だけはできるのである。仲恭帝もしっかり皇統譜の中に85代目天皇として書き留められている。では大嘗祭をしないで何が困るかと言えば、そこに込められた服属儀礼……畿外からの新穀の献上、隼人や吉野の国栖などの歌舞、等々……を行えない事である。支配構造の再確認が服属儀式としてなされない事である。践祚と即位の礼は、天皇が代替りした事の確認儀礼と広報儀礼、どちらも「就任儀礼」である。その一方、厳密に言えば大嘗祭は、それ単体としては「就任儀礼」ではない(16)。だいいち「暗闇で行われ、臣下に見えない秘儀では、王への就任儀礼とは考えられない」のである(17)。メッキされるべき本体がなければ、メッキの意味はない。
つまり、天皇に服属するものがあってこそ、大嘗祭はその意味を成すのである。それがなければ、単なるオママゴトになってしまう。
そのオママゴト化が室町時代中期、ついに究極の次元に至ったのである。すでに「公地公民」の律令制など有形無実、殆どすべての国土は武士の私有地となり、天皇の手を離れた。もはや実質的に天皇に服属する者などいやしない。「支配構造の再確認」「服属儀礼」などと言っても唇が寒くなるだけである。
そんな大嘗祭に引導を渡したのは、経済的理由であった。いちいち大嘗宮を建設するなど、大がかりで経費も食うこの壮大なるオママゴトを続けていくだけの経済力を、天皇はとうの昔に失っていた。それでも室町時代中期には守護大名や本願寺(!)の献金でまかなっていたが、折しも1467年、応仁の乱が勃発。戦国の世に突入した途端、その経済支援も絶たれ、ついに応仁の乱を境に大嘗祭は行われなくなったのである(18)。他にも多くの祭儀が消滅していった。
また、その「宗教儀礼」としての価値もなくなってしまったせいもあるらしい。即位の礼に組み込まれた密教儀礼、「即位潅頂」(詳細は後述)が、神道儀礼・大嘗祭の持っていた宗教的地位にとってかわったためという説もある(19)。
いずれにしろ天皇の伝統的・律令的権威がこの時点で壊れた事は確かである。
どちらにせよ天皇にとっては屈辱的状態であった。にもかかわらず天皇家は、そのアイデンティティを失わなかった。武士階級が、一般的に天皇の宗教的権威を認めていたのである。
神道の最高神官にして、最高神・アマテラスの子孫……神道の信者たる武士が、どうしてそんな天皇をないがしろにできようか。中近世日本において神道と仏教はほとんど融合していた。鎌倉時代にはそれでもまだましだったが、室町・戦国時代にはもうごちゃまぜであった。「南無八幡大菩薩」と平気で唱えるシンクレティズム国家・日本においては、いかなる信仰対象も遡れば天皇につながる。そしてまた、武士は家柄を重んじる。日本最古の由緒ある家柄とは? そう、皇室である。政治権力の機関たる幕府が無力化した戦国時代において、天皇は唯一の「権威」機関としてその存在価値を有していた(20)。
もっとも、実際に武士達がどれだけ天皇に敬意を払っていたかは疑わしい。応仁の乱の後、「経済的理由」から9代にわたる大嘗祭中絶期の幕を開けた後柏原天皇は、「即位の礼」さえも践祚から22年目にしてやっと献金が集まり、挙行できたという有様であった。管領・細川政元の「正体のない者は王ではない。そんな天皇に即位の礼など無益である」との言葉が、戦国勃発期の天皇観を物語っている(21)。実力主義の時代、といったところだろうか。
しかし、群雄割拠の時代もいいかげん終わりを告げ、国取り競争の勝者がおぼろげながら見えてくると、話は変わって来る。いざ日本を統一するとなると、秩序の原理が必要になる。戦国の「力の論理」による無秩序を、秩序に転換し得る原理が。かくして戦国大名達は「上洛」を目指した。京の都には、日本唯一の秩序原理が息も絶え絶えながら生き残っていた。その「権威」を我が物にせんと。
戦国の覇者、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らはいずれも朝廷の権威を、自らの権力を正統化するために利用した。さきに書いた大名や本願寺による献金も、みずからを権威づけるために天皇を利用したことの表れであった(22)。かくして天皇は、信仰の対象、そして支配者への権威づけのための機関として細々と生きながらえたのであった。ただ、最終的に戦国の世を制覇した徳川幕府は、徹底的な朝廷管理政策をとった(23)。このまま行けば、天皇がその手に権力を取り戻す事は永遠に不可能であろうと思われた。
しかし江戸時代、ついに大嘗祭を復活させようとする積極的な動きが起こった。第112代霊元天皇(在位1663-87)の登場である。彼は、自分も入れて9代にわたって中絶していた大嘗祭の再興に情熱を燃やした。大嘗祭再興は、天皇家にとって名門のプライドを賭けた権威復活の象徴的なテーマであった(24)。徳川幕府との間にいかなる政治的かけひきを行ったのか、ともかく彼は息子(第113代東山天皇)の代になって簡素ながら大嘗祭を執り行うことに成功した。その次の代にはまた潰れたものの、そのまた次、桜町天皇の代には将軍徳川吉宗の協力もあって本格的な再興を見た。
村上重良は、この霊元院の執念が、のちに見事な実を結んだ事を指摘している。「朝儀(皇室祭祀)の再興は、基本的には徳川将軍による政治支配を権威づけ正当化するための措置であったが、それは同時に、祭司王としての天皇の復活を意味し、やがて幕末の政治抗争の激化とともに高まる王政復古、すなわち古代天皇制復活の動きの前提となった(25)」。大嘗祭などの皇室祭祀の復活は、国学思想の発展を促した。日本の伝統がそこにあった。そして幕末、徳川政権を倒すための思想的根拠として、天皇がかつぎ出された。かくして天皇政権が奇跡のカムバックを果たしたのである。
それと同時に、即位儀礼の大改装が行われたのであった。
明治天皇以前の即位儀礼とそれ以後とを比較して、何が一番変わったか。まずは即位の礼から神道以外の要素を完全に排してしまったことである。
先代孝明天皇の即位の礼まで存在した「即位潅頂」なる儀式がある。潅頂とはもともとインドの王の即位儀式で行われる洗礼の事だが、密教用語では阿闍梨から弟子が法を受ける儀式の呼び名として使われている。さてこの儀式、具体的には天皇が高御座にのぼる途中から登壇まで、印を結び、真言を唱えるというすごい儀式である。神道の最高神官が、密教の印を結ぶ! だがこの儀式は、大嘗祭中絶期において、大嘗祭にかわる宗教的儀礼として機能していたと言われる(26)。……それが明治に入っていともあっさりと中止された。
そのほか、とくに色濃かった中国風の外観を一掃してしまった。天皇以下諸臣は中国風の服装を改め和風の衣冠束帯に替え、紫宸殿の軒下にあった龍(中国皇帝のしるし)や中国の神獣の絵が刺繍された額もとっぱらってしまった。また、紫宸殿南庭に並ぶ旛(=のぼり)から四神旛(青龍・朱雀・白虎・玄武の図柄)と龍像纛(とう)旛(龍の図柄)が消えた。等々(27)。
だがもともと即位の礼は中国から輸入した儀礼であり、むしろ「中国風」なのが当然と言えよう。それを一切取り除き、「神道的要素だけを残す」という事は、実は即位の礼の伝統を破壊する思い切った処置である。おかげで明治天皇の即位の礼は非常にシンプルなものになってしまった。
次の大正天皇の即位式は、1909年に制定された「登極令」により、さらに変更が加えられた。新しくヤタガラスと金のトビ(いずれも神武神話のキャラクター)の図柄の旛が飾られる(ただし平成の即位礼では消えていた)など神道化が進み、また高御座の隣に皇后の付く御帳台が設置されるなどあきらかにヨーロッパ王室の影響も見られる(28)。「外国と対等の国家たるべく、日本の国力をアッピールする儀式」……天武・持統天皇が即位の礼を取り入れた基本理念が復活したのである。神道(国家神道)によるアイデンティティの確立とともに、西洋諸国に対抗し得る国力を身につける、まさに「和魂洋才」の現れと言えよう。それと同時に、中国がもはや目指すべき目標から、搾取・侵略の対象へと墜ちた事の証拠でもある。
そして、日中・太平洋戦争で有名な昭和天皇の即位式に至ると、京都御所での一連の儀式、伊勢神宮参拝ののちに観兵式・観艦式が行われた(29)。即位儀礼はまさに時代の鏡である。
そして一方、大嘗祭にも変化が訪れた。とは言え外見的には、かつての簡略型から国家予算を思いきり使った豪華版に変わったくらいである。最も変わったのは、その内面的意義の重要性が高まった事である。
古来、大嘗祭悠紀・主基殿の中で、数々の神饌や謎めいたオブジェに囲まれた天皇がどんな行動をとっているのかは、天皇・公家の最高機密とされてきた。
近代に入り、この密儀は日本人の様々な夢と想像力をかきたてた。村祭りと対応して、日本の古い信仰を残す、それゆえに日本人の心に響く収穫儀礼であるとする柳田国男。永遠不滅の「天皇霊」を継承する王権儀式だとする折口信夫。それぞれの説の信奉者。それぞれの説を否定する者。それらの流派から止揚する者。まさに「大嘗祭解釈戦国時代」とでも言うべき状態は現代に至るまで続いている。だから私も苦労するのである。
ともかくこれらの議論は、即位儀礼全体に於ける大嘗祭の位置を(もしかしたら必要以上に)クローズアップさせる事となった。学者に限らず人間は一般的に「ないしょの話」に心惹かれるものである。そして「ないしょの話」、未知の物に人は神秘性を感じる。秘密のヴェールに包まれた大嘗祭は、秘密ゆえに、その神秘性を増幅し得たのである。一千数百年もの間、タブーを守り通した甲斐は大いにあった。かくして大嘗祭は近代天皇制のシンボルとなったのである。
近代国家における非合理性の勝利。こうして、非合理性(「祭」)が合理性(「政」)を包摂した祭政一致国家、大日本帝国は出来上がったのである。
未知なるものを恐れ(畏れ)、非合理なものに惹かれるのは、人間にとって自然の反応である。暗闇を怖がり光明に感動し、深海や宇宙など生身では到達できない世界に神秘を感じ、夢や感情といった無法則にして不可知の領域にしばしばその行動を支配される。人間はすべからく、あたかも水が低きに流れるかの如く、ほっとけばずるずると祭政一致の方向に引きずられて行くのである。
それに歯止めをかけうる抑止機構として、実は非合理の代表であるはずの宗教が最もよく機能し得る事は、ユダヤ教やキリスト教などの歴史から、いくらでもその実例を見ることができる。合理では非合理に立ち向かう事はできない。あっさり呑込まれて、かえって祭政一致への別のルートを拓いてしまうのが落ちである。祭政一致を批判し得るのは、みずから「政」と距離を保つことを基本理念に置いた「祭」、「政」を強化するのではなく批判する距離にある、預言者的宗教である。もちろん気を抜けば、そういった性格を持った宗教も、ついつい祭政一致に流される。そこで踏みとどまり、自らを批判的に見つめ直すだけの余地、自己反省機能も必要となる。
では、国家神道は? 逆にこれは、祭政一致のための宗教である。みずから世俗的権力を呑込む事を欲し、支配構造を肯定する根源的イデオロギーと化した宗教。ゼカリヤが、また全ての預言者が理想とした、宗教の機能すべき姿は、近代日本に於いては見るべくもなかったのである。
祭儀権と行政権の双方を手中に収めた、天皇中心の専制国家。その象徴たるべくして、あえて伝統を廃してまでも、即位儀礼は大改造を施されたのである。
その文脈によって捏造された儀礼が、ほぼ原型のまま、「民主国家」日本国の「象徴」の代替りにおいて執行されたのである(30)。
1. 『大嘗祭』 P.22 →本文へ戻る
2. 同 P.17 →本文へ戻る
3. 戸村政博 『神話と祭儀 靖国から大嘗祭へ』 1988 →本文へ戻る
4. 戸村政博 「大嘗祭と天皇制」
『キリスト教と大嘗祭』所収 P.18 →本文へ戻る
5. 同 →本文へ戻る
6. 『大嘗祭とキリスト者』 P.70 →本文へ戻る
7. 「大嘗祭と天皇制」 P.19 →本文へ戻る
8. 同 →本文へ戻る
9. 同 P.20 →本文へ戻る
10. 同 →本文へ戻る
11. 『日本人とユダヤ人』 P.72-3 →本文へ戻る
12. 千代崎秀雄 「天皇制の歴史」
(『天皇制の検証』所収) P.133 →本文へ戻る
13. 『日本人とユダヤ人』 P.72 →本文へ戻る
14. 同 P.74 →本文へ戻る
15. 大日本帝国憲法より →本文へ戻る
16. 岡田精司 「古代天皇の即位儀礼と大嘗祭の起源」
(『天皇制【歴史・王権・大嘗祭】』所収) P.266 →本文へ戻る
17. 岡田精司 「時代とともに変遷した天皇の『就任儀礼』」
(『アサヒグラフ臨時増刊』所収) P.130 →本文へ戻る
18. 「天皇制の歴史」 P.135 →本文へ戻る
19. 「天皇制の過去・現在・未来」
(『天皇制【歴史・王権・大嘗祭】』所収) P.181 →本文へ戻る
20. 「天皇制の歴史」 P.136-7 →本文へ戻る
21. 石村禎久 「後奈良・正親町帝即位式のパトロン」
(『歴史と旅 12月号』所収) P.113。
ちなみに後柏原天皇は、即位の礼の挙行を成し遂げた5年後に死去。
彼の天皇人生はいったい何だったのだろうか。 →本文へ戻る
22. 「天皇制の歴史」 P.136 →本文へ戻る
23. 典厩五郎 「外圧に抗する皇位継承 後水尾天皇」
(『歴史と旅 12月号』所収) P.88-93。
とくに徳川秀忠の、「紫衣事件」(天皇の僧職叙任権の剥奪)に代表
される、後水尾天皇に対する「いじめ」に近い強権発動は、今でも天皇
びいきの人々の涙を誘う。当時の「天皇の人権」の侵害されようは、20
世紀後半のそれにも匹敵する。 →本文へ戻る
24. 「時代とともに変遷した天皇の『就任儀礼』」 P.131 →本文へ戻る
25. 村上重良 『天皇の祭祀』 1977 P.44 →本文へ戻る
26. 戸村政博 『即位礼と大嘗祭を読む 現代と王権』 1990 P.74 →本文へ戻る
27. 『アサヒグラフ 臨時増刊』 P.126/7 →本文へ戻る
28. 高木博志 「近代天皇制と即位儀礼」
(『天皇制【歴史・王権・大嘗祭】』所収) P.283 →本文へ戻る
29. 宇都宮泰長 「明治・大正・昭和三代の即位とその時代」
(『歴史と旅 12月号』所収) P.133 →本文へ戻る
30. 新憲法下では、「登極令」にかわる儀礼次第に関する規定がつくられて
いない。「違憲」「合憲」以前の問題である。議論のしようがない。 →本文へ戻る