ポケモン・カルト あなたの子どもがあぶない!
はやし浩司著
三一書房刊 1998年4月15日初版発行
冗談のような書名だが、困ったことに著者は本気らしい。
全ては1997年のある日、浜松のとある学習塾の先生(1947年生まれ)が、教材のカットにピッピを描いた事から始まる。
そのプリントを教室で配ったところ、これまでドラえもんやアンパンマンの絵にはさほど反応しなかった生徒たちが「ピッピだピッピだー!」と大興奮、授業どころではなくなってしまったという。
その光景を目の当たりにし、「10年間にわたりカルト宗教と戦い続けてきた」(本人談)宗教ハンターでもある先生、ピンと短絡した。
「この熱狂ぶりはカルト宗教の信者と一緒ぢゃないか!!」
変な義憤に燃えた先生は、日本全国の子どもたちならびにその親を、ポケモンのマインド・コントロールから解き放つべく、本書の執筆を決意したのであった。嗚呼、これぞ教育者の鑑哉!!
そう、本書をそんじょそこらの「ポケモン便乗本」と一緒にしちゃいけない。
本書こそ、ポケモンを「悪」と決めつけ、言辞を極めてポケモンをけなしまくるためだけに生まれた悪口本なのである!!
悪口本の常であるが、原初に「ポケモン=カルト=悪」という決め打ちありきのこの本には、「ポケモンという現象とは何なんだろう」という客観的問いと、それを理性的に探ろうという学究的姿勢などハナクソほどもない。本書にぎっちり凝縮された全ての「ポケモン有害論」は、先生の思い込みによる歪んだ「ポケモン」像をベースに論述されているため、若干でも実際の「ポケモン」を知っている読者が読むと、笑えることうけあいである。
まともな研究手順を踏む気がないもんだから、対象へのアプローチの仕方もまた独特である。まず「ポケモンとは何ぞや」を知るべく、先生はおもちゃ屋ではなくなぜか書店に走り、ゲームの攻略本や用語辞典を買い込み読み耽るのである。その挙げ句「このゲームの目的はいったい何なのかさっぱり分からない」と怒り出す先生。あのなぁ、ゲームの究極目的(ポケモン図鑑の完成)ぐらい、実際にゲームをやれば開始直後にオーキド博士が教えてくれるってば。素直にゲーム買えよな。
さらに教室の生徒たちから「ポケモンの何が楽しいのか」を事情聴取する先生。生徒は生徒なりに乏しいボキャブラリーを駆使して一生懸命にポケモンの面白さを伝えようとするのだが、理論構築力が成熟していない小学校低学年の悲しさ、ただでさえネガティヴな先入観で脳の曇った(しかもゲームに触った事すらない)先生にはさっぱり伝わらず、あわれな信者たちはなおも異端審問官の苛酷な追及にさらされるのである。本書に多数収録された会話録から、子どもたちの半ベソかいた顔が目に浮かばぬ読者はあるまい。
先生の決め打ちパワーは、ゲームシステムをも許しておかない。ポケモンたちを殺し合わせる(正確には殺してないのだが)行為も「タイの闘鶏じゃあるまいし、自分のペットに殴る蹴るの死闘をさせる感覚はとても欧米人には理解してもらえない」(闘牛やキツネ狩りや市街地空爆より闘鶏のほうがが野蛮とは思えないが……)、「そんな殺し合いゲームを楽しむ子供たちにやさしい人間的な心が育つはずもない」と厳しく断罪する。だがその一方、たまごっちの供養をする飼い主を、「現実と空想の区別がついていない」と批判(P.76)したりもする。
仮想生命を殺しても怒る、尊重しても怒るなら、どないせーっちゅうねん、という当然のツッコミはさておき、「仮想現実」など明治大正の世から少年冒険小説などの形でさんざん子どもたちに提供されてきたという歴史的事実も踏まえず、新メディアが出現するたびにステロタイプな「仮想現実危険論」をふりかざすこの種の人々は、時代を越えてわいて出てくるものである。
しかし、文化の変遷に応じて年々変化を遂げていく「子ども」を相手の商売で食っている人が、かような頭の固さで大丈夫なんだろうか。
アニメの「ポケモン」に対しても当然手厳しい。今日びあれほど年少視聴者に配慮した内容(映像表現はともかく(汗))のアニメも珍しいが、それでも先生は、「戦いのための戦いが連続する、中身がまるでない殺伐とした低俗な暴力アニメ」と高く酷評する。ポケモンですらこれなのだから、いわんや『ド●ゴンボール』なんかどれほど嘲罵を浴びせられるやら。
さらに「超能力を連発して子供の『超能力信仰』をあおっている」とも警告しているのだが、アニメ版『ポケモン』のファンなら「?」と首をかしげる非難であろう。注意して読んでみると、どうやら先生第22話「ケーシイ! ちょうのうりょくたいけつ」だけを見て書いているらしいのである!
たまたまこの回にエスパーポケモンの使い手・ヤマブキジムのナツメやスプーン曲げ青年、テレポートおやじ、乗るとテレポートする床(このギミックはゲームのヤマブキジムにも登場する)が出てきたため、「ポケモンは超能力ばりばりのオカルトアニメだ」と思い込んでしまったらしい。「ピンチになったら瞬間移動で脱出するなど展開が安直」という批判は、確かにこの回に対しては正当ではあるが(笑)、普遍化させるのはズルい。このあたりにも、はやし先生のリサーチのヌルさが垣間見える。はたして、14話の対ライチュウ戦や、21話「バイバイバタフリー」を見てもそんな安直な感想を書けるだろうか?
例の「でんのうせんしポリゴン」事件への言及が案外少ないのは「悪口本」にしては意外だが、これは単に、浜松ではまだ放映されてなかったためである。もしも同時ネットされていて、先生の教え子にも被害者が出ていたら、本書の厚さは京極夏彦かシドニィ・シェルダン級になっていたであろう。しかし、「問題のシーンを制作した人物は催眠術の心得があり、催眠誘導を意図的にねらってそうしたとしか思えない」(P.143)など、今どき苫米地クンしか吐かないような珍論を展開。またTV東京に「ポケモンやめないで」コールをかけた母親のことも「本当に母親だったのか?」(P.18)と独自の「信者によるヤラセ説」を展開、全国のポケモンを愛する主婦層に敢然とケンカを売るのである。男らしいぞ先生!!
さらに、「はたして『ポケモン』は、母親たちが『やめないで』と訴えるほど価値があるものなのか」検証せんと、アニメではなく、なぜかコロコロ本誌に載っているあのしょーもないギャグマンガのストーリー(よりによって特にひどかった回!)を例に出し、「アニメもこれと似たりよったりである」と一方的に決めを打つ(ひ、卑怯者!! 園田脚本の回のロケット団より卑劣だぞ!!)。
その挙げ句、「こんなアニメを見て面白がる子どもも子どもだが、それを見られない子どもを『かわいそう』と言う親も親だ」とケンカ歳末大売り出し。
技法論に終始し、作品そのものの質には触れなかった他の「38話評論家」たちとは明らかに一線を画す独自性は認めるが、データの恣意的操作による強引極まりない議論が、その価値をぶちこわして余りある。
しまいには先生、「将来、アニメでサトシが『20××年に悪魔大王が地球を破壊する。子供たちよ、命を捨てて私とともに天国に昇る準備をするのだ』などと言ったとしたら、子供はそれに従ってしまうかもしれない」(P.173)と、どこまで本気かわからん心配までしてくれている。先生の発想の方がよほど心配なのだが。
多感な幼児期を1950年代という時期に過ごした世代に、高度経済成長を知らない世代が企画し、昭和も知らない世代の「カルト」となったポケモンを理解しろというのも、酷な話だとは思う。しかし、ここまでポケモンに関する諸情報を悪意モードで捉える怨念、また、一切のファンタジーを否定するファンダメンタルなまでの唯物論的視点は異常ですらある。
一応、先生はポケモンだけが憎くて悪口を書き立てているわけではない(らしい)。今はポケモンに狂う子どもたちも、ブームが去ればポケモンの事など忘れてしまうだろう。だが、ポケモンで培った「超能力信仰」(だから違うってば)や「一つの物に熱狂的にハマり批判力をなくす思考方法」はいつまでも残り、将来カルトや別のメディアの食い物にされる土壌となるであろう……というのである。
たしかにその主張には一理ある。
また、カルト憎さのあまり、あらゆる非合理を否定したくなった、その気持ちは痛いほどよくわかる。
しかし、「一つの物に熱狂的にハマる感情」を否定するというのは、それはそれで危険な思想だと思う。たとえば、理屈抜きでハマると言えば、代表は「恋愛」だ。なぜ恋人を好きになるか、それを論理的に説明できる人はまずいない。恋人を理性的・客観的に値踏みできるのなら、それはもう恋ではなく「打算」である。
人間の心理には確実に、そういう理性では制御しきれない「非合理的」なモノがある。ましてや幼児のうちから「非合理」の芽を摘むような教育をしては、「恋」はおろか「親への信頼」や「郷土意識」、ひいては究極の非合理である「愛」まで排除することにならないだろうか。
そんな「合理的」な子どもが成長し主導権を握った未来を想像すると、つくづく長生きなんかするもんじゃねぇなぁ〜と暗澹たる思いに襲われる。
どうでもいいが、「カルトと戦い始めて10年」(そのわりに「サタン」を「サターン」(P.95)と表記するなど宗教方面の基礎教養はウスそう)の先生が、信者の脱会、そして脱会後のケアに本当に役立っているのかどうか、非常に興味を持たされる。
こういうタイプの人にかぎって、信者がヒステリックに信仰対象を崇拝するのと同じパワーでその信仰対象をクソミソに貶め、そのカルトについての断片情報を100%否定的に繋げ合わせて責めまくり、信者の心をより頑固に閉ざしてしまう。んで自分は言いたい事を全部ぶちまけたもんで、スッキリして意気揚々と帰っていく。……本書を読むと、そんな「勇姿」が目に浮かび、思わず神に祈らずにはおれなくなる。ちなみに以上は、脱会カウンセリング上最もやってはいけない行為である。実際のカウンセリングにとってはこういう手合いは邪魔でしかない。諸君もご留意いただきたい。
さらに細かい事だが「きょうそ」と打つと「教組」(P.200)と変換してくれる素敵なワープロにもいろいろ邪推をかきたてられる。
長くなったが、実はこれでも私が本書に贈りたい言葉は5%も書いていない。任意に開いた頁に最低3回は「違うやろー!」とツッコミ(裏拳つき)を入れたくなる本というのもそうあるものではない。その手の読み方が大好きな諸君にはオススメの素敵な1冊である。是非とも書店で立ち読みされんことを願う。
追記:
ここまでポケモンを「残虐極まりない暴力アニメ」とこきおろす先生だが、実は『クレヨンしんちゃん 野原家の子育て論』という著書もあり、1998年5月末には『ドラえも〜ん 野比家の子育て論』なるタイトルを上梓したばかりである(どちらもまだ読んでない)。
低俗な成人誌連載マンガを原作にした、異常性格幼児が蛮行の限りを尽くす教育上最悪なアニメや、「のび太のくせになまいきだぞう」などという一個の人格を根底から否定するセリフを垂れ流し、子どもの間にいじめを助長する差別・人権無視アニメがOKで、「ポケモン」がNGとは、いったいどういう了見なのか。どうひいき目に見ても、ただの偏見で「ポケモン」を貶めているとしか思えない。
しかし、こうなると本物のキ●●゛イなのか、単に「人気アニメあやかり本」が得意なだけのデータハウス系の人なのか、判断に苦しむ。今後も追跡調査を続けていきたい愉快な人物の一人である。
さらに追記:
まぁこの本だけなら、本来の意味での「トンデモ本」(=著者の意図とは別の観点で楽しめる本)で済ませられるのだが、最近、新たな波紋を呼んでいる。
なんと、ノンフィクション作家の久田恵氏がこの本の内容を頭っから信じてしまったらしく、「週刊文春」6月11日号の書評欄で本書を高評、さらに「朝日新聞」6月23日夕刊のTV評において、本書の論調そのまんま受け売りでアニメ「ポケモン」を非難しているのである。
女性週刊誌にもしばしば評論文を寄稿し、主婦層の人気も高い久田氏のこの突然のキレぶり、全国のポケモン大好きママたちのショックはいかばかりだったろう。
まことに罪作りな電波本である。とほほ。
【『大宗教学第拾壱号』(1998年8月発行)初出】
もっと追記:
本書はあの『トンデモ本1999』(光文社、1999年1月30日初版)にて、と学会正規会員の眠田直先生により大絶賛されました(p.49-54)。おめでとう〜。
おまけに追い打ち:
本書を刊行した三一書房は、その半年後、業績不振(過去1年で利益が出た本がエヴァンゲリオン本1冊だけだったらしい)を引き金に労使の対立が紛糾、会社がロックアウトされるほどの大騒動となった。
こんなバカ本を出してるからやで、とまで言ったら暴言だろうか?(うん、暴言。)
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