福永法源の解剖
法の華はなぜ、批判されるのか


須賀一郎著 発行:フーコー 発売:星雲社 2000年02月28日初版発行

 真っ黒な地に黄色く「福永法源の解剖」とタイトルが染め抜かれ、マイクを持ち「皆さ〜んサイコーですか〜ッ!」とか喋ってる福永法源の似顔絵が付された装丁。真っ赤なオビには「徹底検証 宗教と詐欺のアブナイ関係」との惹句が踊ります。
 見た目の雰囲気から、普通てっきり「法の華」をボロクソにけなした事件検証本だと思うじゃないですか。どんなゲスな悪口が載ってるのかな〜、とワクワクしながらページをめくってみたんですが、そんな私の期待は見事に踏みにじられました。
 イントロダクション、いきなり出だしからこう来ます。
 信じることと、だまされることは、紙一重である。
 詐欺(サギ)の被害にあっても、当人がだまされたと思わず、相手を信じているうちは、詐欺罪は成立しない。宗教も同じで、第三者がいくら宗教にだまされているといっても、当人が信じている以上、それを詐欺だといってもはじまらない。
 ( 中 略 )
 だまされたと気づいたところで「あのとき信じていたからお金を出したのではないか」と反論されると、どうにもお手上げである。
 「今となってはお気の毒だが、あのとき信じた“あなたも悪い”」ということになる。(p.1-2)
 ちょっと待て! それを言ったら、宗教がらみじゃないサギ事件、豊田商事からKKCからオレンジ共済からクヒオ大佐から、全部「あのとき信じた“あなたも悪い”」ということになるぞ! それを言っちゃたらサギ追及はオシマイなんだってば!
 で、普通の宗教がらみの詐欺事件は「信じたおまえも悪い」程度で終わるのだが(終わらせんなよ)、「法の華事件」は、なぜか1000人を超える元信者が大挙して訴訟を始めた。それをマスコミがあおり立て、相乗効果で社会問題となり、刑事事件にまで発展した。しかし「なぜ、今ごろ法の華が」、と著者は疑問を呈します。
 なぜなら、法の華事件で一躍有名になった「足裏診断」のごとき行為を詐欺というのなら、たぶん、たいていの宗教上の活動は、どれも詐欺といわざるをえなくなってしまうからだ。(p.3)
 「たぶん」と前置きしつつも、聞き捨てならない事をさらりと書いてます。「足裏診断がサギなら宗教活動は全部サギ」って、いくらバカ宗教が多けれどあれほど悪質で大規模な霊感商法は出色だと思うんですが。乱暴すぎます。
 というわけで、「法の華がなぜ批判されるのか」を徹底検証することによって、「宗教と社会の危うい関係」を浮き彫りにしていくのが本書の主旨だそうです。でも、最初の立脚点で、
 【サギはだまされる方も悪い】
と言い放ってしまっているあたり、被害者側の視点からの論述は期待できそうもありません。
 案の定、本文はものすごいことになっていました。

 本書は
 ・Part1 宗教と詐欺のアブナイ関係 〜法の華は、なぜ批判されるのか〜
 ・Part2 法の華の虚実を徹底検証する
 ・Part3 おかしいぞ、マスコミの宗教報道
の三部で構成されてまして、あとで説明しますが、各章を別々のライターさんが担当しています(「須賀一郎」というのは架空の名前)。

 第1章【宗教と詐欺のアブナイ関係】は、たぶんイントロダクションを書いた人と同じライター(仮に須賀A一郎としておきます)だと思いますが、「宗教と詐欺はジキルとハイドの相補関係」と指摘します。宗教もサギも、本人が「本物」と思っているかぎりは本物であってサギではない。
 だが、「宗教と詐欺の間には明らかに異なる点がある」とA氏は言います。
 第一に、宗教は単に金もうけだけを目指す利益集団ではない。サギ師は方便として愛や救いを説くにすぎない。
 第二に、宗教の教祖は、自分が説く教えを熟知している。サギ師は、相手によって言葉を巧みに使い分けるため、ウソを見抜かれると弱い。
 ……なるほど、じゃあ民事の法廷で「天声」の矛盾を突かれてシドロモドロになってた誰かさんは間違いなくサギ師ですね! え、違う?
 しかし、「宗教問題が絡んだ詐欺行為を、法廷で事件として裁くことができるのか。宗教が詐欺との境界線を越えた部分を、原告側はどう立証していけばいいのか」。「できるもんならやってみろ」とでも言わんばかりにA氏による法の華事件の「検証」(と言う名の弁護)が始まります。

 まず「足裏診断は詐欺行為か?」。被害者側は「マニュアルを使って相手を脅す悪質な詐欺」と言う。しかし、法の華によると、「足の裏に人間の生きざまが現れる」という教義に基づいているそうなので、「客観的にみると、明らかに宗教的な行為だ」(P.25)。……『おジャ魔女どれみ』調に「おいおい(汗)」とツッコミ入れたくてたまりません。
 次の「法の華の修行は金集めの手段か?」もグーです。被害者は「極限状況でバカアイテムを買わされた」と言い、法の華側は「セミナーは合理的に構成され参加者の体力への配慮も万全、被害者側の指摘は根拠がない」と言う。
 通常の社会においては、一つの行為の評価をめぐって、これほど極端な敵対、対立は生まれにくいが、こと宗教となると双方の評価はおよそ非和解的なものとなる。
 とくに、宗教に対して批判的な立場をとる人たちが教団を断罪するばあい、教団のあらゆる行いが、いかがわしく、どれほど反社会的であるかを糾弾することに終始することになる。
 被害者側の見解は、まさにその典型であるが、法の華を詐欺集団とみなして、教義や修行をまやかしとみる以上、これ以外に評価の余地はありえないのであろう。
 教団にだまされた被害者という立場から、研修(行)をこのように評価する被害者の発想もわからないわけではない。(p.31)
 まるで法の華の被害者を「脱会後のモヤモヤした怒りのやり場に困り、法の華を逆恨みすることで精神の安定を保っているきのどくな人たち」とでも思ってそうな傲慢な物言い。A氏の氏素性がオボロゲに見えてきそうです。
 なにも法の華の肩を持つわけではないが、三万人の修行者のなかには、被害者側のように研修を詐欺行為と受けとめる人たちもいる反面、研修を納得して受け入れてきた人、積極的に評価してきた人もいると思うのがふつうだ。(p.32)
 持ってる持ってる、思いっきり肩持ってる!

 まとめにA氏は、

 「法の華の『行』のあり方は常識では理解に苦しむが、彼らが『教義に基づく宗教行為』と言うなら部外者がとやかく言う筋合いはない」
 (あるよ! いつ俺の身内や知人が大金巻き上げられるかわからないし!)

 「法の華に対する被害者弁護団の批判やマスコミ報道は、宗教と社会との節度ある関係を逸脱したもの」
 (マスコミ報道と被害者弁護団をいっしょくたにしか捉えられない読解力、やはりニュートラルな思想信条の持ち主じゃないな)

 「弁護団、マスコミが一緒になって口裏を合わせたかのように行うキャンペーンは、なんともわざとらしい」
 (以下同文)

……などと妄言・暴言を書き散らしつつ、次章にバトンタッチします。

 第2章【法の華の虚実を徹底検証する】になると、これまさに世界日報社の出した霊感商法本のごときアリサマを呈してます。完全に法の華側の言い分を並べ立てるばかり。いちおう文献批判の手法上、著者は「須賀一郎B」としておきますが、その視座から、かなりな確率でA先生と同一人物、少なくともA先生と同じ学派に属するムジナと推察されます。

 まず、(1)「天声は実在するのか」。

 「古来、シャーマン的宗教はいくらでもあった。『天』の概念も、あらゆる時代のあらゆる宗教に見られる普遍的概念。したがって、福永法源の場合も『有り』と認定する」。

 ……あの〜、もしも〜し。そんな簡単にオッケー出していいんスか? ジャーナリストにはもうちょっと批判精神というものが……って信者(決め打ち)に言ってもムダですか。

 (2)「法の華は宗教団体なのか」。

 「法の華が『超宗』と名乗っているのは、既存宗教へのアンチテーゼ。そう言いながら宗教法人格を持ってるのは、税的優遇措置が欲しかったから。でも宗教法人であることは公表してるし、決して『正体隠し』なんかではない」。

 まぁ、この項目はけっこう正直なほうです。しかし、この項にくっついてる「宗教法人・法の華三法行と系列企業の組織図」に出典クレジットが載ってないのが気にかかります。法の華関連以外の資料には全て出典が明記されているのに。このあたりに、著者と法の華との並々ならぬカンケイが邪推されます。

 (3)「法の華は『新新宗教』か」。
 この項は、江戸末期以来の新興宗教の歴史を概観して、「法の華もこの流れの中で生まれた団体のひとつにすぎませんよー」と言ってるだけ。誤植以外(笑)に見るべきものはありません。

 (4)「法の華にとって『修行』とは何か」。
 これも、「三法行」「七観行」「人間法源生きざま修行」(例の四泊五日の地獄のセミナー)など、法の華の「行(修行)」をざっと紹介しているだけです。「街頭で通行人に写経を求めたり、法の華の図書を販売する」という「成行」には皆様気をつけましょう。

 圧巻は(5)「天納金の真実を検証する」。
 法の華では、献金行為を「観(おも)いの定め」と呼び、差し出したお金は「天納金」と呼ばれます。この「観いの定め」こそ、金への執着を捨て、生きざまを変える、法の華最難関の重要な修行なんだそうで。そういう点で、仏教の得度やキリスト教の洗礼と同じ、「生まれ変わり」を意味してるんですと。
 ふざけんじゃねぇ、じゃあなぜカネなんだと言うと「お金が大切なものだから」。「大切なお金を手放すことは、それだけ本気で決意をしているということになるわけだ」(p.96)。うまい言い訳だねぇ〜。
 でも、「生まれ変わるために大切なお金を手放す」という意図だったら、たとえばアッシジの聖フランチェスコみたいに、「貧しい人に施す」という方向でもいいような気がするんだけど、なぜ法の華に納めなきゃならないんでしょうか。
 そこで「天納金」です。「観いの定め」で巻き上げ……納められたお金は、「天」に捧げられたお金であって、それから法の華に下げ渡されるというカタチなんだそうです。「お寺のお布施や神社の玉串料だって、いったんは仏壇や神殿に供えたあとでお寺や神社のお金になるじゃないか、『天納金』もそれと同じだ」とのことで。
 その使途も、「人類救済事業資金」(不動産の取得・維持費、儀式・行事費、教化・布教費および人類や地球を救う活動資金)と「運営活動資金」(本部・支部の人件費、管理運営費)であり、「これらを見る限り、法の華もその他の宗教団体と、とくに違った資金の使い方をしているとはいえない。ごくふつうの使途といってよいだろう」(p.99)。はーなるほどねぇ、福永法源が月200万のマンションで優雅に暮らしたり、ヨメが一回100万円単位のショッピングでウサ晴らししてるのも「ごくふつうの使途」に見える須賀B氏の金銭感覚と常識感覚、とても一介のフリーライターとは思えません。
 「宗教の奉献行為をめぐって最近になって社会問題が頻発するようになってきたのはなぜだろうか」。B氏によると、「社会の近代化のなかで、人々の権利意識が変化してきたため」だそうです。「普通は、宗教に多額のお金を出したあとで『惜しい』と思っても、『自分が決めて出したお金だから自分に責任がある』『自分にも落ち度がないわけではないので仕方がない』とあきらめて(注:それを俗に「泣き寝入り」と言います)いたのが、近年では『責任は自分にはなくて、宗教団体にだまされたのだ』と考える人が増えているのだ」と。法の華のケースも、大半はそういう、いわば責任転嫁だというのです。
 普通なら、「今まで宗教系サギに遭っても泣き寝入りするしかなかったのが、法整備や社会状況の変化によって被害者救済への道が開かれてきた」、と評価するところですが、当のサギ師側から見ればなるほどそういう言い方もできますね。射殺してもいいですか、こいつ?

 「この背景には、マスコミによる宗教批判や、宗教を名乗る詐欺商法の影響があることも否定できない。」(p.102)

 だーかーらー、お前らがその「宗教を名乗る詐欺商法」の代表格なんだよ!

 そして、(6)「教祖の実像とは」。
 「『天声』を伝える『超自然的な存在とのパイプ役』という立場から、福永法源は天理教の中山みきや大本教の出口なおとかなりの共通性をみることができる」
って、あの時代にゴーストライターはいなかっただろうて。

 (7)「法の華と『聖地』の意味」。
 富士の「天声村」に建つ、足の裏の形をした時計台(親指が時計になってる)の写真がほほえましいです。また、天声村の施設の写真入り紹介・村の見取り図・交通案内、渋谷の教団施設一覧も(例のごとく出典クレジットなし)、観光ガイドかと見まがうばかりのノリ。

 最後に、「宗教問題に詳しい」弁護士と僧侶への「INTAVIEW」(原文ママ)。これが見出しに劣らず中身も噴飯ものでして。
 西垣内堅佑弁護士(西垣内法律事務所)の談話は、

 「もともと常識で測れないのが宗教だから、常識で判断して『あれはいけない』『これはダメだ』といってもはじまらない」

 「宗教法人法で定義されている団体で、法が許容している以上、多少の迷惑は甘受するのが市民社会の常識で……」(※そんな常識知らんぞ)

など、弁護士さんにしてはたいへん物わかりがいい(バカ宗教側にとって)。
 それもそのはずこの西垣内氏、『悪徳商法マニアックス』「悪の最新情報」
 http://www6.big.or.jp:80/~beyond/akutoku/topic/topics1999b.html
によりますと、新左翼系の人権派弁護士として活躍するかたわら、あのコスプレ教祖・深見東州率いる「ワールドメイト」の顧問弁護士も務めていて、ワールドメイトの悪口に日夜目を光らせておられる模様です。
 こういう人の声を載せるなら、なぜ紀藤正樹弁護士にも「INTAVIEW」しないんでしょうか。
 次の上杉清文氏(福神研究所長、富士市本國寺住職)に至っては、
 高いお金を取るのは、命に変(ママ)えられないようなことをやるのだから、それはは(ママ)当然だという。論理的にはその通りであって、安くてはだめだということだ。
 みんな、そう思っているからこそ、高い金を出しているのだから、それを批判しても、どちらもどちらというしかない。バブルのときの土地転がしと同じで、欲をかいた人とだまされた人、だましている人とだまされた人は、結局考えていることは同じになるからだ。
 それでも、だまされたというのなら、そういうところに行くということがおかしいのであって、なにを今になってといわれても、仕方がない。(p.144)
 ……ちゃんと「アングラ劇作家」という肩書きも併記しておかないと、僧職一般に対するえらい誤解を読者に植え付けるような気がします。
 まー、お二方とも、「被害者」の話を聞かず偏見放題で軽々しくオピニオンをぶち上げているという点で、本書のコンセプトにこれほどマッチした人選もないでしょう。この本企画した人、世の中ナメきってますね。

 最後の第3章【おかしいぞ、マスコミの宗教報道】。
 実はこの章にかぎっては「法の華弁護色」がかなりウスめです。
 コレラ封じの「ご神水」で教勢を拡大した蓮門教に対する万朝報の「淫祠」徹底批判キャンペーン(1894年〜)と、中央新聞の天理教バッシング(1896年)という我が国最初のマスコミによる宗教叩きをまず紹介。これら明治期の宗教が「反開化的」という理由で叩かれたのに比べ、政治的理由で叩かれた20世紀初頭の大本、ほんみち、ひとのみち教団(現PL)への迫害。敗戦直後の璽宇のスキャンダル、およびそれに便乗した形での天照皇大神宮教への興味本意報道。立正佼正会・創価学会バッシングの、時代ごとの焦点の移り変わり。
 ニュートラルな視点から、「新宗教」をイコール「いかがわしいもの」として捉え報道してきたマスコミ(ひいては日本人)と、そんなマスコミに叩かれてきた新興宗教の近現代史を、(一夜漬けにしては)よくまとめてあります。破壊的バカ宗教にしか興味がなく、戦前の新興宗教事件といえば大本のダイナマイトどんどんぐらいしか知らなかった私には、いい勉強になりました。
 次パートの「新新宗教とは何か」になると、統一協会をオウムと同じ「親とか家族とか先祖といった結びつきを重視しない『隔離型新新宗教』」に分類してしまうなど(原理ほど家族やら先祖やら強調するバカ宗教も近年珍しいくらいなんだけどなぁ、合同結婚式とか「真の家庭」とか……)、一夜漬けのモロさと詰めの甘さが垣間見えるのが残念ですが。
 最後のところで、オウムをネタにして商売していたつもりのマスコミが逆にオウムにうまく利用されてしまった事例を引き、今回の法の華報道でも、視聴率目当てに福永法源をTV出演させたことで、法の華の「生の声」を視聴者に伝えてしまい、逆にマスコミ側のツッコミのウスさを際立たせたとするくだりは、正直、よくできてます。
 「活字媒体で一方的に非難するというジャーナリズムしか存在していなかった昔と違い、情報発達手段が多様化している現在は、マスコミ報道が、彼ら自身にとっても、もろ刃の剣になるという可能性を秘めている。」(p.184-185)
 「新新宗教の側に、マスコミを逆利用しようという動きさえ見られるのに比べ、それを叩こうというマスコミの手法は、明治期の蓮門教叩きの頃とまったく変わっていない。」(p.185)という指摘はけだし正論。メディアリテラシーの授業でプリントにして学生に読ませてもいいぐらいです(「新新宗教とは何か」は書き直しが必要ですが)。
 ただ、惜しむらくは、この鋭いマスコミ批判も、あの「1章」「2章」の延長線上……すなわち「法の華弁護」の文脈に取り込まれてしまうんですよねー。ああ、もったいない。

 なお、3章の著者(C・須賀一郎)は、実は前章までとは別の人であることが確認されています。「唐沢伊万里」というフリーライターさんで、HPもお持ちです(http://www.tk.xaxon.ne.jp/~imari/)。「須賀一郎」で検索をかけたら、この方の掲示板の過去ログ倉庫に行き当たってしまいまして。
 http://www.tk.xaxon.ne.jp/~imari/Pages/past_keiji/keiji19_t.html
 おかげで、「著書多数」と言うわりにはNACSISやTRCで検索かけても出て来やしなかった謎の著者・「須賀一郎」の素性も判明したというわけです。
 「新宗教なんてまったく知識のかけらもなかった私ですが、短期間で資料を頭につめこんで大量に書いたおかげで随分詳しくなりました。」(#183)
ということで。そのわりにはよく書けてます。専門外のネタでもそこそこ無難にこなすあたり、さすがプロです。
 でも、仕事は選んだほうがいいと思うんだな。将来功名を遂げたアカツキには、『噂の真相』あたりに今回の仕事のことを暴露されそうです。
 まぁ、そういう心配は功名を遂げてからでもいいんですけどね。
 しかしそうなると、「須賀A」「須賀B」はいったい誰でしょう。やっぱり「天声」のゴーストライター? 伊万里さんにメールで尋ねてみようかしら。
 早くも「そ、そんな仕事は知らん!」て言われたりして。
【書き下ろし】