| 松原秀樹先生連載42 |
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自分の人生
自分の人生というものは、他人によって決められるものではなく、自らが責任を持って生きていかなくてはならないはずです。運動する、しない、酒を多く飲む、飲まないなどなど、すべて自分がそうしているのです。言い換えれば、その人の独自の哲学によってそうしているのだと言ってよいでしょう。自分で考えそうした場合も、かつて誰かから教えられたり、仕向けられたりしたからだとしても、今もそして明日もそうしていくということは、本人がそう決めているからです。これはあきらかに自分自身の責任による行為です。
フロイトが神経症の原因は、すべて無意識にあると提起してから、自分の人生が希薄になってきたようです。つまり、本来、他ならない自分自身が責任を持って生きていくはずの人生が、自分とはまったく別の力によって捻じ曲げられ、圧迫されていると、世間の人々までもが思うようになってきました。この責任は決定的に専門家と呼ばれる人々の言動によるものであると思ってはいるのですが…。
少年犯罪があると、家庭環境はどうだったのか、どのようなトラウマがあったのか、心の闇は…と本人の責任ではなく本人の外の原因によってこのような問題を起こしたのだと考える風潮がその典型でしょう。これは明らかに間違った態度です。外的な条件がどうであれ、本人がそうしたかったからそうしたはずです。あらゆる結果は、基本的に本人の責任なのです。決して外部にあるわけではなのです。もし外部に原因があり、ある意味で本人は被害者だと言うならば、窃盗犯が、泥棒したのは社会が悪いからだと答えたことを許容するのとまったく同じことになります。泥棒はそうしたかったからしたはずです。
親や夫または妻、子ども、近隣の人、上司などなど、特定の他者や出来事などに、この問題や障害の責任をすべて押しつけていったらどうなるのでしょう。自分の人生はどこにいってしまうことになるのでしょうか。都合の悪いことには、無責任になっていてよいのだという自己責任からの逃避は、喜びも悲しみも、苦しみも充実感も、人として味わうはずのうまみや、人間の深みを生み出すはずの貴重な体験を、すべて遠ざけていくことになるでしょう。
しかしこの無責任性、自分の人生を生きていけなくなるように、専門家によって押し付けられた解釈は、無責任になっていてよいのだという保障を受けたようなものです。責任転嫁や、今ここにおいて、どうすることもできない過去の出来事などのせいにした結果、自分自身の独自の人生が送ることができなくなりますし、他罰的な判断や態度でいつづけなさいというお墨付きを与えられたようなものです。専門家は、その人の人生にどうなるのかを考えて、責任を持って言っているのでしょうか?はなはだ疑問に思えます。
しかし近年は、すっかりトラウマ、親子関係、人間関係、過剰ストレスなどなど、心理社会的ストレスが原因という他罰的な考え方がすっかり定着してしまいました。このような自分自身ではない外部に問題があるという考え方は、クライエントをすっかり受身の態度に変身させるきっかけになります。また、そうした問題があるからどうしようもないと、なにも対処できないと絶望感や引きこもりを促す結果となります。こうした結果、クライエントは、無気力になり、指摘された外的な人や出来事に、より圧倒されることになり、問題の解決から遠ざかるか、その責任とされた外部に向けて、該当する対象や出来事を憎み、怒りを向けるなど、陰性の感情反応や不適切な行動を強めていくようになるのです。
自分の人生、たまに考え違いで失敗することもあるし、ラッキーと思えることもあります。それらはすべて自分の人生に責任をもって生きた結果からくるのです。
up 2005/12/22