1929年(昭和4年)のある日、都心を走る車に、一人の老人が乗っていました。近代日本の産業の発展と国際親善につくした埼玉県出身の渋沢栄一、その人でありました。
栄一は、隊列を組んで行進して行く軍隊を見ながら、ふところから一枚の写真を取り出し、「ギユーリックさん、日本はこれから悪い時代になりそうです。」とつぶやきました。
ギユーリックは、悪化しつつある日米のきずなを保とうと「青い目の人形」を贈ることを日本に提案した人物でした。
「お人形たちが、いじめられる時代にならないといいんですがね・・・」
栄一は、写真のギユーリックにつぶやいたのでした。
1937年(昭和12年)日中戦争が勃発し、日本は、中国との全面戦争へと突入して行きました。
そして、軍国主義一色の1943年(昭和18年)、埼玉県越谷の大沢国民学校の子どもたちにも暗い影が迫りつつあったのでした。
校舎のはしにある職員室のとなりに、三畳ほどの宿直室がありました。
今日は、新任の女教師田中好江が宿直をし、子どもたちの答案の採点をしています。そのそばでは、教え子の和寺千夏とけんか友達の斎藤孝太が遊んでいます。
千夏は、小さな箱を見つけ開けてみました。
「わ−可愛いい。」
それは、田中先生が6年生のとき、アメリカから贈られてきた青い目の人形でした。
千夏は、この人形が、自分の名と似たワーテラという名であることを知り、ますます気に入ってしまいました。
田中先生は、二人に当時のことから今までの青い目の人形の置かれた立場を話し、「人形もこんな時代でかわいそう」
と涙ぐみながら、このことは他の人に絶対話さないと約束させるのでした。
戦況は日ましにきびしくなり、子どもたちは、チャーチルやルーズベルトの似顔絵をつけたワラ人形を木刀(ぼくとう)でたたいたり、竹槍(たけやり)で突くといった訓練を受けるようになっていました。
ある日、千夏は両親を亡くして疎開してきた同級生の玉枝をこっそりと誘い、宿直室で青い目の人形を見せるが、その場を老教頭に見つかり、青い目の人形の存在が表ざたになって、職員会議が開かれることになってしましました。
職員会議では、昨日の「たたき壊せ青い目の人形」という新聞記事をめぐってけんけんがくがくの議論が繰り広げられました。
担任の好江は、 「お国から指示があるまで、自分にあずからせてほしい。」 とお願いするのでした。
孝太は、その様子を盗み聞きして、千夏たちにつたえました。千夏は、たたかれたり壊されたりするワーテラを思い、居たたまれず人形を抱いて近くの駅に逃げ出してしまします。
しかし、駅に向かう途中で千夏は憲兵(けんぺい)に出会ってしまいました。
憲兵は 「敵国のものはすべて排除する。」
と言い、人形を取り上げてしまいました。雨が降りだし、人形の顔に雨つぶがあたり、ワーテラも千夏も泣いているようでした。
そこに、千夏を捜していた孝太や好江がかけつけました。 田中先生は憲兵に謝りながらも、必死に
「その人形は私が責任をもって管理するよう学校から言われています。
ですから、私に人形を、人形をお渡しください。」とお願いするのでした。
すると憲兵はなにも言わず、人形を放りなげて、立ち去ってしまいました。
「どうして、戦争だと青い目のお人形さんと仲良くしちゃいけないの?」と、千夏たちは泣きながらうったえるのでした。