出来たてホヤホヤ回文速報

朝日新聞の千葉版には15年以上も続いている千葉笑い」という投稿欄があります。
いわゆる「笑文芸」の投稿コーナーで、コントあり、川柳あり、アナグラムあり・・・、毎週土曜日の
紙面に花を添えています。毎回投稿者の数も多く、したがってナカナカの狭き門・・・なのですが
こと回文に関してはこの私め、ダントツの成績をおさめてまいりました。

おいおい追加して行きますが、とりあえず過去に朝日新聞に掲載されたものを順を追って・・・・

1994・9 水不足 弱い国、水が無いと、田舎、住みにくいわよ ヨワイクニミスカナイトイナカスミニクイワヨ
1994・10
秋の山
蔦の木の間、栗の実みのり、熊の子の立つ ツタノコノマクリノミミノリクマノコノタツ
1994・10 米不作 大地泣き、おお外米が大きな地位だ ダイチナキオオガイマイガオオキナチイダ
1994・10 ブレンド米 タイ米が泣く・・と、お上。コミがお得な外米だ タイマイガナクトオカミコミカオトクナガイマイタ
******* 角川事件 罪、摘発され、麻薬・コカ、過去悔やまれサツ(警察)は来て見つ
ツミテキハツサレマヤクコカカコクヤマレサツハキテミツ
******* オリンピック選手団へ いざ!!泣くより・・・と、メダル取るため努力なさい! イサナクヨリトメタルトルタメトリヨクナサイ
******* 防災標語 火事見舞い、火の怖さはこの日、今身近 か カジミマイヒノコワサワコノヒイマミジカ
******* 総理辞任 始末、他人に着せ、無責任に発つまじ シマツタニンニキセムセキニンニタツマシ
******* 政治献金 金から浮かぶ疑惑。億は寄付か裏金か カネカラウカフキワクオクワキフカウラカネカ
******* 後継者選出 次期の後継者如何に?何かいやしい今日この記事 ジキノコウケイシヤイカニナニカイヤシイケウコノキジ
******* 春爛漫 みな春の香だ。ウキウキ歌が乗る花見 ミナハルノカタウキウキウタカノルハナミ
1994・10 長嶋対 森 いよいよシリーズ勝ち負け間近、推理し、良い良い イヨイヨシリイスカチマケマチカスイリシヨイヨイ
1994・10 天高く咲く黄色、白い菊咲く、花壇で テンタカクサクキイロシロイキクサクカタンテ
1995.2 震災ボランテイア 差し出した皆の手、真心、ここまでの涙、親しさ サシタシタミナノテマココロココマテノナミタシタシサ
1995・4 サリン事件 憎い品、嗅ぐと被害がひどく、悲しい国 ニクイシナカクトヒカイカヒトクカナシイクニ
1995・7 紋次郎落選 悔し、戦いつつ次点で失墜か・・・ただシャク クヤシタタカイツツシテンテシツツイカタタシヤク
1995・8 就職難 不景気, 大手退陣し、痛手大きい今日 フケイキオオテタイシンシイタテオオキイケフ
1995・8 仏核実験反対 憎らし、怒って要求よ。撤回、シラクに・・・ ニクラシイカツテヨウキウヨテツカイシラクニ
1995・9 橋本新総裁 地味な橋本日の目。夢の灯ともし 花道 チミナハシモトヒノメユメノヒトモシハナミチ
1995・10 紅葉 遥かな錦は川岸に流る葉 ハルカナニシキハカハキシニナカルハ
1996・1 プット首相 プット・パキスタン閨秀女史よ。終始、意見出す気はトップ プツトハキスタンケイシウシヨシヨシウシイケンタスキハトツフ
1996・2 羽生、夢の七冠王 いよっ、羽生善治!手もいいし筋いい。もてるわ、勝負は強い イヨツハフヨシハルテモイイシスシイイモテルハシヨフハツヨイ
1996・2 住専に怒り! 借金の穴、オーナー呑気、悔し シヤクキンノアナオオナアノンキクヤシ
1996・3 羽生ファンの心境
勝つ羽生戻れ!それとも不発か? カツハフモトレソレトモフハツカ
******* 総会屋 山師がたかるか 高島屋 ヤマシカタカルカタカシマヤ
******* 消火 民なら 火事の火を消すため助けを!火の力・涙! タミナラカチノヒヲケスタメタスケヲヒノチカラナミタ
1996・7 ウィンブルドン 耐えた伊達公子、スマッシュ充実。マスコミ来てたたえた タエタタテキミコスマツシユシユシツマスコミキテタタエタ
1996・9 君島一族の騒ぎ よい旦那を亡くし、本妻 財産欲しく、なお難題よ ヨイダンナヲナクシホンサイザイサンホシクナヲナンダイヨ
1996.10 伊達公子に贈る言葉 世界に響いた 君の、今後の身 期待。日々に生かせ! セカイニヒヒイタキミノコンコノミキタイヒヒニイカセ
1996・12 一年の終り 悔いだけ 響け、第九 クイダケヒヒケダイク
1997・2 重油 流出 利害抜き で、もう どうも出来ぬ 怒り リカイヌキテモウトウモテキヌイカリ
1997・6 万博 大丈夫か? 万博なんざ 良し悪し、予算なく半端 ハンハクナンサヨシアシヨサンナクハンハ
1997・9 ダイアナ妃と天国へ 供の身か、テレサ召されて神の許 トモノミカテレサメサレテカミノモト
1997・9 政界台風 佐藤 新内閣、国会 難渋とさ サトウシンナイカクコクカイナンシウトサ
1997・*** 山一証券廃業 悔しいか、泣くな山一 今や無く、長い史 焼く クヤシイカナクナヤマイチイマヤナクナカイシヤク
1998・1 積雪異聞 暖冬、より雪多く、おお 給料飛んだ ダントウヨリユキオオクオオキユリヨウトンダ
1998・2 立春 日々、川 春立ち、満ちたるは我が日々 ヒヒカワハルタチミチタルハワカヒヒ
1998・2
長野五輪 長野、消ゆるな 固雪、豊かなる雪野かな ナカノキユルナカタユキユタカナルユキノカナ
1998・2 長野五輪、次代へ託す 出たぞ、名誉のメダル取るためのよい芽、育て! テタソメイヨノメタルトルタメノヨイメソタテ
1998・2 景気対策 民泣く財政政策、 涙・・・ タミナクサイセイセイサクナミタ
1998・3 イラク核。不安 イラク危機 止めたが、ダメと聞き暗い イラクキキトメタガタメトキキクライ
1998・3 キトラ古墳のロマン いま 憧れかなキトラ。とき流れ、過去甘い イマアコカレカナキトラトキナカレカコアマイ
1998・4 春闘 所得いま、マイナスないまま行くとよし シヨトクイママイナスナイママイクトヨシ
1998・4 エリツィン来日 通達以来、来日にイライラ、いつ発つ? ツタツイライライニチニイライライツタツ
1998・5 核実験 反対! そうよ、実験叩きだ。団結しようぞ! ソウヨシツケンタタキタタンケツシヨウソ
1998・5
スハルト大統領 取る筈の一矢なく、泣くな失意のスハルト トルハスノイツシナクナクナシツイノスハルト
1998・5 聖子 結婚 恋せよ。いい若者だ。波多野も可愛いよ、聖子 コイセヨイイワカモノタハタノモカワイイヨセイコ
1998・6 パキスタンの愚 怪我の死人出す気?・・・パキスタンに死の影 ケカノシニンタスキハキスタンニシノカケ
1998・6 オーレ! 響くワールド杯サッカー、喝采、バトル湧く日々 ヒヒクワルトハイサツカーカツサイハトルワクヒヒ
1998・6 投票率アップ 予感・・・参院選 全員参加よ ヨカンサンインセンセンインサンカヨ
1998・7 米中 会談 笑み、気さくな会談、大過なく 先見え エミキサクナカイタンタイカナクサキミエ
1998・7 フランス決勝進出 開催地湧いた 昨日、GOの期待は小さいが・・・ カイサイチワイタキノウゴウノキタイワチイサイカ
1998・8 新内閣船出 内閣続かないよ、きっと・・・十月(とつき)))よい仲続くかいな ナイカクツツカナイヨキツトトツキヨイナカツツクカイナ
1998・9 ハイキング よく吹き来る秋風、汗かき歩く起伏よ ヨクフキクルアキカセアセカキアルクキフクヨ
1998・9 若乃花心痛 弟思うよ、今日も弟を・・・ オトウトオモウヨキヨウモオトウトオ
1998・10 秋に思う 夜がなぜか侘びしい 老いし日、わが背中よ ヨカナセカワヒシイオイシヒワカセナカヨ
1998・10 ようこそ!金大統領 日韓笑顔・・・国交が円滑に ニツカンエカオコクコオカエンカツニ
1998・10 日本シリーズ 一喜一憂 四日だ。負けたくない横浜は今宵泣くだけ。また 勝つよ ヨツカタマケタクナイヨコハマハコヨイナクタケマタカツヨ
1998・11 松方離婚へ 捨てたか 妻の愛 と日々・・・ひどいあの松方です ステタカツマノアイトヒヒヒトイアノマツカタテス
1988・12 不法投棄 監視機置いたら、ほらダイオキシンが カンシキオイタラホラタイオキシンカ
1999・1 初春風景 鐘の音が/長引く日かな/遠き音/のどかな角の/巷、下町 カネノネカ/ナカヒクヒカナ/トオキオト/ノドカナカドノ/チマタシタマチ
1999・1 立 春
今朝、春めく一日、汲めるは酒 ケサハルメクヒトヒクメルハサケ
1999・2 春の足音
(和歌)
待つ春に なお浅ければ もぎてみて 気も晴れ今朝 青菜煮るは妻 マツハルニ ナオアサケレハ モキテミテ キモハレケサ アオナニルハツマ
1999・2 信濃旅情
(和歌)
雪野見し 長野ぞ恋し日差し良し 寂しい去年(こぞ)の 悲しみの消ゆ ユキノミシナカノソコイシヒサシヨシサヒシイコソノカナシミノキユ
1999・3 春景色(和歌) 若草の名は優し春、歌う歌、麗しさや花の咲く川 ワカクサノナハヤサシハルウタウウタウルハシサヤハナノサクカワ
1999・3 北国の春
(和歌)
白雪の 遠く光り 外は春 母と橇が引く 音の消ゆらし シラユキノトオクヒカリソトハハルハハトソリカヒクオトノキユラシ
1999・4 春うらら タンポポのひとひら、ひと日「のほほん」だ タンホホノヒトヒラヒトヒノホホンタ
1999・5 武蔵丸横綱に 仕切りのよい、目玉に威嚇か。角界にまた名誉の力士 シキリノヨイメタマニイカクカカクカイニマタメイヨノリキシ
1999・6 揺れる 国歌法案 死活、無理よ、君が代 世が右寄り、難し シカツムリヨキミガヨヨガミキヨリムツカシ
1999・7 千代大海
カド番
溜めたい八勝よ、失敗ダメだ タメタイハツシヨウヨシツハイタメタ
1999・7 同じく
千代大海
死活向く、カド番はとかく難かし シカツムクカトハンハトカクムツカシ
1999・7 大関・出島 マジですごい大型だ!貴を追い越す出島 マジデスコイオオカタダタカオオイコスデジマ
1999・8 ノストラダムス ね、たしか七の月、不吉の名、流したね ネタシカナナノツキフキツノナナカシタネ
1999・10 秋刀魚の焼きかた サンマ、時間かけ焼くよ。よく焼け「カン」が自慢さ。 サンマジカンカケヤクヨヨクヤケカンカジマンサ
1999・11 行楽地のCM 紅葉の谷行きていかが? 日々が快適、湯に楽しみも。 モミシノタニユキテイカカヒヒカカイテキユニタノシミモ
1999・11 結婚願望 騙し方次第。夢よ嫁・・・結いたし高島田 ダマシカタシタイユメヨヨメユイタシタカシマダ
2000・1 ミレニアム空騒ぎ 大山はネズミも見ず、ね、万歳だ! タイザンハネズミモミズネハンザイタ
2000・9 田島寧子選手 残念ね、無敵で来て、無念 ねんざ ザンネンネムテキデキテムネンネンザ
2000・10 白川博士の作文 作文書いた意志を通し、偉大、感服さ サクフンカイタイシオトオシイタイカンフクサ
2000・10 中川さん 内閣、更迭で動くか、否! ナイカクコウテツテウコクカイナ
2000.・12 鈴木その子さん この楚々とした美を帯びた人ぞ「その子」 コノソソトシタビオオビタヒトソソノコ
2001・1 石坂、浅丘離婚 介護して八、九年ボツボツ本音。朽ち果てし恋か カイコシテハチクネンホツホツホンネクチハテシコイカ
2001・2 座右の銘 日々虚心、万事佳き日々 ヒヒキヨシンハンシヨキヒヒ
2001・3 ああ、新珠さん バラさみし、おおまた一つ涙。皆集い珠を惜しみ、さらば バラサミシオオマタヒトツナミタミナツトヒタマオオシミサラバ
2001・6 小泉丸出帆 責任、経済再建に帰せ! セキニンケイサイサイケンニキセ
2001・7 小泉フィーバー 過熱は醒め行く。「夢さ」は常か。 カネツハサメユクユメサハツネカ
2001・7 梅雨明けの朝 朝となり、梅雨明け。鮎釣りなど、さあ!」 アサトナリツユアケアユツリナトサア
2001・7 小泉人気占い 快復なく、先行き策なくフイか カイフクナクサキユキサクナクフイカ
2001・8 熱戦 甲子園 ひびけ快音、追いかけ日々 ヒヒケカイオンオイカケヒヒ
2001・9 世界平和に影 ケガ人あふる 乗っ取りが・・・今、怒りと募る不安に影 ケカニンアフルノツトリカイマイカリトツノルフアンニカケ
2002・2
真紀子さん 涙して理屈、ビックリでした 皆 ナミタシテリクツヒツクリテシタミナ
2002・3 雅子さま にこりと見る母、お顔は春、みどり児に ニコリトミルハハオカオハハルミトリコニ
2002・3 桜咲く よっ!おもて、見事開花。どこ見ても、オツよ。 ヨツオモテミコトカイカトコミテモオツヨ
2002・4 安楽死 医師、「楽にします」と澄まし、にくらしい イシラクニシマストスマシニクラシイ
2002・5 小さん逝く 極楽きっと、ひさびさ一つ聞く 落語 ゴクラクキツトヒサビサヒトツキクラクゴ
2002・6 娘、嫁ぐ日 侘びしき夢 澄む月 泣きつ、娘ゆきし日は ワヒシキユメスムツキナキツムスメユキシヒワ
2002・7 田中知事 ダムは無駄 /撤回を怒って/ 民、ナミダ ダムハムダ・テツカイヲイカツテ・タミナミタ
2002・8 漱石消ゆ お札まで消え、ここへ来て真っ青 オサツマテキエココエキテマツサオ
2003・4 イラク戦争 長引く涙の暗い日々 イラクの民 泣く日かな ナカヒクナミタノクライヒヒイラクノタミナクヒカナ
2003・9 小島先生を偲んで 貞二、添削多忙か 向こうは沢山弟子いて テイシテンサクタハウカムカウハタクサンテシイテ
2004・8 猛暑に泣く もう深刻なり。降りなく、今週も モウシンコクナリフリナクコンシウモ
2006・9.9 祝男児ご誕生 酔いしれ、浮かれ舞う。男の子とお生まれか、嬉しいよ ヨイシレウカレマウオトコノコトオウマレカウレシイヨ



朝日新聞千葉版
毎週土曜日に設けられている「千葉笑い」コーナーに掲載されるのはごく限られた作品のみで、ボツも沢山あります。でも、ボツの中にも好きな回文がありますので、それを「天才オバサンの時事回文」のページに載せました。併せてゴヒイキに!

E-mail はこちらへ→sakasauta@nifty.com

 

ミュージック・セラピスト

        

作・中田芳子

雨上がりの樹々の緑が、降りそそぐ五月の太陽に瑞々しい光を跳ね返している。左折した瞬間、光りは虹色の帯となってフロントガラスを(かす)めた。  

その眩しさに思わず目を細め、速度を落としながら、藍子は「総合福祉センター」と書かれた門を潜った。

海沿いの埋立地に建つその建物は、隣接している同じ市立の総合病院と駐車場を共有するため、広々としたスペースが取られてはいたが、市街地から遠く、しかも交通路線からも外れているため、送迎の巡回バスやマイカーでいつも込み合っている。

藍子はここ数年、総合病院に併設されている老人保健病棟のアルツハイマー患者を対象とした「音楽療法セミナー」の療法士として働いていた。

 

「音楽療法」は最近でこそ各種メディアにも頻繁に取り上げられ、その成果も、確実に認められつつあるものの、実際には正規の「音楽療法士国家試験」も未だに制定されておらず、現場はまだ「未開の分野」の感があった。

福祉系各大学で系統立った研究が進められる一方、音楽療法士育成のための専門学校も数多く名乗りを上げて来ていた。一方、各市町村でも総合福祉センターなどで独自に療法士の養成を始めるなど、まさに百花繚乱、はっきり言って療法士の資質の基準もさだかでないのが現状といえる。

 

福祉センターの玄関正面には、ゴルフ場を思わせるようなゆるやかな傾斜の芝生が青々と広がっていた。平日は一般の高齢者にも終日開放されている。

手入れの行き届いたその芝地には、午前十時を少し廻ったばかりだというのに、二十人近い熟年老人たちが寄り集ってそれぞれカラフルなユニフォームに身を包み、ゲートボールに打ち興じていた。

時折り湧き上がる喚声。いや、嬌声といったほうがいいかもしれない。「ナイスショット!」とばかりに、一斉に起きる拍手。殆ど藍子と同じくらいの年齢・・・いや、もっと年嵩の老人も混じっていそうなその集団は男女の割合もちょうど半々で、そのウキウキした一連の動きはまるで青春そのものの華やかささえ漂って見えた。

彼らのこうした光景を見る限りでは、老いというものは決して寂しいものでも暗いものでもなく、今こそ手にした自由な時を、一刻の間も惜しんで謳歌しているかに見える。

敗戦直後のあの混沌の中で青春時代を過した彼らである。残りの人生、目いっぱい燃焼しつくしたいという願望は、殊のほか根強く染み付いているのかもしれない。

尤も、それも心身ともに健康であってこその話なのだが・・・。

 

「なんだか、皆さん やけに浮かれてますねえ・・・。」

揶揄(やゆ)の混じった声に、藍子は我に返った。振り向くとこれも今、車を降りたばかりらしい市村千枝子が含み笑いしながら近付いてきた。

「いいじゃないの。ゲンキ印でああやってればボケる心配もなくって」

藍子も笑って応える。

「あのはしゃぎようは音楽療法などとは全く無縁デス・・・って感じね」

 

療法士仲間である千枝子は五十代前半のきりっとした美しい女性である。型に嵌った飛び切りの美人というのではないが、内面に潜む秘めた意思がそのまま表情に滲み出ているような、独特の魅力を湛えた女性だった。

数年前、ある楽器店主催の音楽療法士養成セミナーの講習会場で隣り合わせたのがきっかけで知り合った仲だった。この仕事をずっと続けたい・・・と思えるのはこの市村千枝子という相方がいてこそなのだと、藍子は週に二度この現場で彼女に会うたびに痛感していた。

すべてにおおらかでユーモアのセンスも抜群なのである。

「まるきり高校生ですね、老いらくの青春群像?って感じ・・・。あのピンクのウインドブレーカー着たおばあちゃん、少々猫背だけど小柄でチャーミングなひと。なんかマドンナ的な存在みたい。ほら、おじいちゃんたちの彼女を見る目が違うのがここからだって分る。それにしても、皆さん、トキメイてますねえ。」

「分る分る。みんな、青春を取り戻したい気持ちなの。私たち世代のあの頃は、それどころじゃなかったもの。あの頃封印されて、どこかに置き去りにされてた何かを、今、取り戻そうとしてるワケ。」

戦中・戦後の荒廃と貧困の最中、多かれ少なかれ、「飢え」の辛さをも体験し、不自由な日々を耐え忍びながら共に生きた世代なのである。  

敗戦が齎したさまざまな苦難や哀しみは、思い出したくもない翳の部分として、それぞれの身のうちに深く沈められているはずでもあった。

 

そうした一種、狂気に近い時代を同時体験してきたのだという、いわば「同志」意識のようなものが今の老人たちの間にはあって当然ではないだろうか。一種の連帯感のようなものが暗黙のうちに結ばれているといえば考え過ぎだろうか。

恐らく三十年後、五十年後の老人群にはここまでの親密さは見られないのではないか。少なくとも今現在こうしてゲートボールに打ち興じている彼らほどには。

 

「考えようによっては黒田さんたちって幸せな年代って言えるかもしれませんね」

「そうかもしれない・・・。何たって私たちの世代は歴史の動いた特殊な一時期を共有したという「同志」意識みたいな感覚があるもの。その分結束も固いのかも。」

「ああいったトキメキってのは、当然健康面にも大きく作用して来ることでしょうね・・・。ホルモンの活性化とか・・・。ほとんどなくなりかけたフェロモンも目を覚ましたりして?」

千枝子はいたずらっぽく笑ってみせる。そんな会話を交わしていると、藍子には自分たちがこれから音楽療法の教室で相対する、彼らとほとんど同じ世代の・・・痴呆老人たち(現在では認知症、と呼び代えられているが)の、全く対照的といってもいいほどに重苦しく打ち沈んだ表情が払いのけようもなく思い出されるのである。

もともとの出発点はたしかに同じだったに違いないこれらの二つの集団・・・、 ある時点を境にして一方はゲートボールに打ち興じてうきうきとはしゃぎ、片や、力ない虚ろな眼をして自らの内なる世界に閉じ籠り、それでもこれからの長い歳月を寿命の尽きるその日まで、とにかく生き続けねばならないという、この残酷なまでの分別の妙。

若し運命を司る神がほんとうに存在するのだとしたら、この両者の振り分けは、いったい何を基準になされたものか? それは造形の神の単なる気まぐれか、あるいは神にすらどうにも動かし難い何か・・・、人類発生以来、その個体に潜み続け、そして抗あらがうすべもなく否応無しに受け継がれてゆくDNAのいたずら・・・なのか?それにしても不公平といえばこれ以上は考えられないほどに見事な対比ではある。

「来週から、一人増えるようですね。やはりアルツハイマーの初期の方らしいですよ・・・」

市村千枝子が玄関の受付で受け取ってきたばかりの名簿を広げ、覗き込みながら言った。名簿には患者のプライバシーを損なわぬ程度に略歴と病歴が簡単に記されている。

この一年ほどは四人の患者を対象に療法士三人がチームを組み、実験的に音楽療法のセラピーを行ってきていた。時々福祉専門学校の生徒が実習生として加わり、週に二回、比較的軽い症状のクラス・・・外界からの刺激には多少の反応も示し、訓練次第では、ある程度の回復も期待出来るといった段階のグループ・・・を対象として、定期的に試みられていたのである。

今まで、一応表面上はまずまず順調な経過を見せてはいた。が、今後五人となると・・・と、藍子は少なからぬ不安が過るのを禁じえないのである。それというのも何でもホンネで話せる市村千枝子と違って、メンバーのチーフとして長年リーダー格を務めてきた、日野由里子という女性に、藍子はどうしても馴染めないものがあった。いかにチーフとはいえ同じ療法士として承服出来かねる場面にも何度か出くわしていた。

藍子より三歳若い彼女は国立の大学院で心理学を専攻し、その後、音楽療法についての研究資料に基づいて論文を発表、以来、老人医療の分野での研究が高く評価され、この世界では少しは名の通った存在となっていた。頭の切れる、すべてに理論が先行する女性だった。ずっと独身を通してきたせいか、見た目藍子よりひと回りも若かった。

生活臭の全く感じられない、洗練された容姿を持ち、なによりもその硬質な、透徹とでも表現したいような声が、印象的な女性だった。

相手と意見が対立したりした時など文字通り柳眉を逆立て、その透きとおった声が相手を容赦なく、ハッシとばかりに突き刺す。音楽療法についての研究も、集めた膨大なデータの分析も、たしかに優れたものにはちがいなかった。細かいことにも決して妥協を許さない固い信念を持ち、彼女の能力は高く評価されて然るべきものがあった。

一方、藍子はといえば、子育てをしながら市立の保育園に保母として二十年、その後引き続き同じ市の老人施設に十五年近く勤め、定年の数年前になってようやく園長のポストを得たという、いわば「現場叩き上げ」の実地経験派なのだった。

園長在職中から、藍子は痴呆老人への音楽療法の必要性を強く感じてもいた。定年退職と同時に意を決して都内の大手楽器店主催の研修セミナーに若い人たちに混じって参加し、一から始めたこの道だったが、取り組み初めた頃の使命感に燃えた自分自身に比べ、最近は何か釈然としないものが常に纏わりつくのを感じるのである。

 

ここ半年あまり、患者四人に対してリーダーの指示通りに決められたカリキュラムをこなしてきているのだが、老人たちの反応はいまひとつで、どう見てもあまり好転してきているとは思えなかった。かえって無反応になってきている気さえする。 

藍子にしてみれば人間はロボットではないのだから、その日の天候にだって簡単に左右されるし、まして体調次第で全くやる気も起きない場合もありうる。それを一連のカリキュラムで括りつける事の無謀をどうして判ろうとしないのか?

だが日野由里子の論はこうである。「短期間でそうそう効果は現れるものではない。繰り返し地道に続けることを厭ってはならない。好転しないのは要するに療法士サイドの信念が確立していないからである。行き当たりばったりの、単なる遊び相手をするくらいなら、なにもこうして専門的に療法に取り組む必要はない。」と、はっきり言及する。

さらに二人の意見の最も大きな違いは、藍子が長い年月に亘って体験してきた、「やすらぎ」とか「温もり」という、人間の根底に流れているもの…こそがカギなのであり、ごくありふれた言い方だが、「スキンシップ」を主流に・・・と唱えるのに対して、日野由里子はそれを「単に遊び相手になっているだけ」ときめつけるのである。「無為な時間つぶし」でしかないとさえいうのである。更には「脳の働きを高めることで痴呆は僅かずつでも回復するはず、少なくとも進行は止められる。そのためにこそ段階を踏んだ、秩序ある学習を…」と。

 

以前、病棟の看護士を交えたカンファレンスの席上で、藍子は市村千枝子とともに「今後、音楽療法には、もっとグローバルな解釈を取り入れ、柔軟な形でいってはどうだろうか」と、提案したことがあった。が、日野由里子は一笑に付すだけだった。二言目には大学院での研究成果を例に取って、実に理路整然と自説の正統性を唱えた。

現場の詳細を知らないセンター側の職員たちは、彼女の自信に満ちた論説… に一様に頷き、「では取り敢えず現況のままで…」という福祉課長の締めの発言でその場は終わってしまうのだった。

承服しかねる思いを抱いたままこの先仕事を続けていくにはかなりのストレスを感じるのだったが、やはりこの仕事には残りの人生をかけるに値する魅力と、使命感のようなものをも感じていた。だが…、対象が四人のときですら、今ひとつ、・・・もう一歩で何かが解けるのに・・・という歯痒さを感じてきていたのに、それが今月から対象者が五人となると?

藍子はこんなふうに暗い方向にばかり先走って考える最近の自分がどうにもやりきれなかった。

(もしかして私は日野由里子に嫉妬しているのでは?)自分とほとんど同じ世代なのに、比較にならない若さ、聡明さ、そして到底追いつけそうにもないその経歴…。

いや、そんなことはない。若し日野由里子が自分の考えている理想の…いや、納得のゆく療法内容でやってくれるのだったら、もっとオープンな気持ちでそして誠意をつくして自分は付いていくに違いない。それにしても四人と五人ではますますコミュニケーションはとり難くなりはしないだろうか…)

 

そこまで考えた時、肩を並べて歩いていた千枝子が、いきなり耳もとで、「これからますますエライコッチャ!になりそうですねえ」と、藍子の考えていたことを完ペキに読み取ってでもいたかのように、長身をかがめて茶目っ気たっぷりに声をひそめて囁いた。その言い方も軽妙だったし、藍子にしてみればまさに我が意を得たりの言いようだったから、お互い顔を見合わせて、思わず吹き出してしまった。これだから自分はこの仕事を放り出さずにすんでいるのだと改めて思い直すのだった。

 

藍子よりも二十才も年下で音大出の彼女は、普段は自宅で音楽教室を開き、大勢の幼い子供たちを相手に目いっぱい多忙な日々を送っていた。

「ピアノ屋さん」・・・千枝子は自ら自分の事をそう呼んでいる。天賦の才を持ちながら、学生時代に罹った関節リュウマチがもとで、ピアニストの夢を断念せざるを得なくなった彼女は教室で子供にピアノを教えるかたわら、精力的に福祉活動に力を注いでいた。

表立った演奏活動をする気はさらさらなく、専ら公民館での地域の「おかあさんコーラス」の指導などを地道に続けていた。また、請われれば弾き語りのレパートリーを引っさげて、どこへでも気軽に出かけて行った。

そんな時の自己紹介では決まって、

「ハーイ、わたし長年、ピアノ屋さんやってます、市村でーす。宜しくお願いしまーす!」と、わざと、荒っぽいセリフを吐いておいて、いきなりとろける様なムードミュージックで聴く人の心を掴む。またある時は江戸っ子気質のべらんめえ調で「ハッピイな老後を送るために」などのテーマで抱腹絶倒の講演をし、会場を沸かせたかと思うと、再びピアノに向かって古い日本歌謡をメドレーでしっとりと奏で、居並ぶお年寄りを涙ぐませたりもする。 

そんな時の彼女にはレジメも譜面も全く不要なのであった。まさに出たとこ勝負の実に鮮やかなエンターティナー振りを見せる。

だが千枝子がそうしたレジメなしの講演やアドリブだらけの巡回演奏活動を、リーダーの自分に断りもなしに地域のあちこちで開いている事に対して日野由里子は「とんでもない、いい加減な、その場限りの余興」と決め付けるのであった。彼女の中で組み立てられた綿密なカリキュラムは、それを一歩でも外れればそれだけ目的は遠退いてしまう、というのが彼女、日野由里子なりの自論なのだった。

さらには「私たち音楽療法士が市からの委託を受け、こうしてセラピーを続けているってことは、 それだけ私たちの力量が認められ、信頼もされているということなんだから、私たちはそれなりの、自覚を持ち、おアソビでない、真摯な姿勢で応えていくべきだと思います。そのためにも音楽療法士としての品位は常に保っていてほしいのです!」と、暗に千枝子の柔軟な音楽活動を非難するのだった。

それに対する千枝子の反応は由里子のイチャモンなど、全く意にも介せず、信念を貫く意志の強さと、生来のユーモア感覚が先行して、柳に風の返答を返すのだった。

さすがの日野由里子も煙に巻かれてしまうのである。日頃からすべてを超越している感じで、たとえ何か事が起きたとしても千枝子は決して取り乱すことがない。物事を大局から捉え、極めて男性的な判断をする。二十歳も年下でありながら頼れるというのも不思議な話だった。

ただ、どんなに親しくしていても、彼女は自分の過去について明かそうとは決してしなかった。はなやかさの陰にひそむある種のナゾの部分が感じられて、それがいっそう彼女独特の魅力にも繋がって見えた。

 

教室に定められた病棟内の最上階の会議室には車椅子で連れてこられた老女が窓べに寄って、遠くに拡がる海をぼんやり眺めていた。日野由里子も、もう既に来ていた。姿はそこにはなかったが机の上に今日のカリキュラムが拡げられている。何時もの事だった。決められた時間の最低十五分前には席につき下準備をする。机に広げられた、老人たちの動きを記したノートには患者一人ひとりの経過が折れ線グラフで克明に記されていた。藍子は窓ぎわの車椅子の老婦人に近付くと真っ先にその肩を抱いた。

「おはようございます。よく眠れたみたいね。お元気そう・・・」だが七十五歳になる篠田さんは一点を見詰めたまま顔の筋肉一つ動かすでもなく、小刻みに震える右手の指を車椅子の小さなテーブルに載せたままでいる。ところが向き合ってその両手を取り、プランプランふりながら「カモメの水兵さん歌おうかな?」というと、心なしか篠田さんの目に光がともる。「カモメの水兵さん、

並んだ水兵さん

白いシャツ白い帽子白い服

波に・・・」そこまで歌って

「篠田さん、波に・・・なんだっけ?」と顔を覗き込む。

篠田さんは何も言わないがクスっと笑うような素振りを見せる。いつもそうなのだが、確実に反応を示しているのである。そこで藍子がちょっと戻ってまた歌いはじめる。

「波に・・・?」もう一度繰り返すと、そこのところだけ篠田さんは唇を動かす。それはたしかに「チャップチャップ」と歌っているように思えた。(掴みかけた!)と手ごたえを感じる瞬間である。

この、目に見えない糸をだんだん太くしていけば、何かに繋がる…。これは藍子にとって「長年の勘」としかいいようのない確信といえた。

 カードを使った“反応の確認”などという、テキスト通りの理論めいた対応をするより、よほど血の通った、意思の疎通が期待できるはずである。

 だが、その曖昧性を日野由里子は指摘する。カリキュラムに沿わない指導は患者を混乱させるだけであり、療法士の個人的な“自己満足”でしかないと言い張るのだった。

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 アルツハイマーの進行を少しでも阻止するための「音楽療法」はここ数年、老人医学の中でも殊にその研究には力を注がれてきている。

 「音楽療法」と一口に言っても、、心と音楽との関わりを心理学的に詳細に研究し、データに基づいて、個人個人1対1で理論的に進めるというやりかたもあれば、あるいは、これが今もっとも多く進められている方法なのだが、ある程度の人数を対象に、リズムの小物楽器などを使って実際に演奏を体験することで効果を期待しようとする、いわゆる「参加型」、またその他にはクラシックの、ことに、モーツアルトの曲などを聴かせることの効用など、未だに暗中模索・・・というのが現況なのだった。

 篠田さんに遅れて他の3人もそれぞれ介護士に付き添われて入室してきた。 一番若いのが五十八歳の梶田さん、ついで六十五歳の男性金子さん。そして篠田さん。最年長は七十八歳の高野さん。

 それぞれがほとんど他人に関心を示さないというのも、何時もの事ながらの光景である。

 もう同じことを一年近くも続けてきているというのに、セラピーが開始された当初とほとんど変化が見られないというのも妙な話だった。むしろ、一様にその表情は頑なになってきている・・・そう思えてならないのである。

 「来週から、もう一人加わりますから・・・。お二人とも大分馴れていらしたようだし・・・大丈夫ですよね」

 日野由里子が、リーダーとしての威厳をこめ、持ち前の凛と透き通った声で二人に告げる。

ため息の一つも洩らしたい心境のまま、藍子は改めて手許の名簿を覘いてみた。 だが、 患者のプロフイールに目を落としたその時、氏名欄に記されたその名前に、藍子は一瞬、釘付けになった。 「都築緑子」・・・、 丁度その時、市村千枝子もそれを見ていて、変った名前だと思ったのだろう、「これ、なんとお読みするんでしょう?リョク子じゃ可笑しいし・・・まさかミドリコ?」

 「そうですよ。都築みどりこさんです。」日野由里子が即座に答えた。

 藍子はそこに続けて記されている生年月日を見て更に愕然とした。 姓は異なってはいたが、恐らく結婚して変ったものに違いなかった。藍子は思わず小さく声に出してその名を呼んでいた。「狩野緑子・・・かのう みどりこ」

 それは、藍子の遠い記憶の中で、ほとんど霞の彼方に消えかかったような少女時代に、そこだけが鮮明に、脳裏に焼きついている、ある強烈な思い出・・・いや、そんな生易しいものではなく、七十を過ぎるこの歳までひとり胸の奥深く沈め続けてきた、そのおぞましい事件の全貌を、一気に蘇えらせずにはおかなかった。

                       

 

 

(四)

山と河のある美しい街だった。 海へ注ぐ河口近くでその河は大きく蛇行していて、いつの季節にもゆったりと水を湛えていた。

 学校帰りに川上の橋の上から河面に向けて、コスモスの花を落とすと、それは小さな絵日傘のようにクルクル回りながら落ちていくのだった。

 それぞれに友達が帰って行ったあとも、藍子と緑子とは、飽きもせず同じことを繰り返しては楽しんでいた。 藍子は回って落ちるコスモスにも心を奪われてはいたが、二人きりになると急に饒舌になる緑子の、大人びた話を聴くのがひそかな楽しみでもあったのである。

 その頃、藍子は転校してきたばかりだった。父が中学の国語科の教師をしていて、藍子がちょうど女学校に上がる新学期にこの街に赴任したのである。 だが、父も母も、緑子と遊ぶ藍子を婉曲にではあるが、なるだけ近付かないようにと、しきりにたしなめるのだった。 緑子が、街はずれの大きな料亭・・・それも芸者を幾人も抱えた、いかにもなまめかしい門構え・・・の家の、おませな一人娘だったからに違いなかった。

「藍子ちゃん、この間、うちに来たとき裏にいた、あの板場のユウジ・・・。彼ね、とみこさんの若いツバメなのよ」 藍子が何のことだか分らずきょとんとしていると、緑子はさも可笑しそうに笑って「藍子ちゃんって、まだコドモなのね。あたし、もうずいぶん前に女になったのよ」そういいながら小首をかしげ、いたずらっぽい視線を投げかける。 思えば大人の性の話も、「人を好きになる」ということも、この時少女の口から聞き覚えた言葉のはしはしから、次第に藍子のなかに培われていったといってよかった。

 人口の半分以上が農家を兼業しているような、古い静かな街だったが、近場に名の知れた温泉地があるせいで、それなりに活気もあり、暮らし向きは そこそこ潤ってはいた。どちらかというと、暮しやすい街だった。ただ、さほど広くはない街の倣いで、ちょっとしたこともその日のうちに街中に知れ渡る、そんな風潮があった。父も母も、藍子が緑子と親しくしていて、時折りその料亭にも立ち寄ったりしているらしいことを小耳に挟んでは、しきりに気に病んでいたのだった。

 他の友人も、学校でなら兎も角、放課後まで緑子と過ごす子はほとんどいなかった。藍子が転校してくるまで、緑子はこれといった友達も持てないまま、恐らくひとり家にこもって使用人の板前や芸者たちとばかり接していたに違いなかった。

 二人は偶然にも生年月日が同じだった。入学した当時、教室の座席は生年月日順だったから二人は当然席を並べることになった。

 色の白い、柔らかな肌をした娘だった。藍子と初めて目を合わせたとき、緑子は大人びた微笑で軽い会釈をした。同じ日に生まれていながら、藍子のほうは短く刈り上げた髪を無造作になでつけているだけの、まるで男の子のような、少女だったのである。なんせ、藍子には下に四人もの弟妹がいたから、母親や使用人の手を借りて朝の身支度をする緑子とは大違いなのだった。

 緑子はあまり勉強には熱心ではなかった。

 彼女の両親たちは, 殆ど学問とは縁遠い環境にいたから却ってその分“畏敬の念”を抱いていて、娘が望むなら大学にも・・・というひそかな思いもあり、藍子の出現を一番喜んでいたのは父親だったかもしれなかった。 緑子は万事が大人びていたせいで語彙も豊かであり、話し方もうまかった。何よりその声が澄みきっていて、普段、何げない話しをしていても歌でも聴いているような心地よさを聴くものに与えるのだった。もともと頭の切れる、賢い娘なのである。 期末試験ともなると、藍子は自ら答案用紙を必要以上に緑子のほうへ押しやり、暗黙のうちにカンニングを奨めることもしばしばなのだった。

 父や母がどんなにやきもきしようと、藍子はすこしも緑子から離れようとはしなかった。それどころか、二年に上がって再び同じクラスになれたと分ったときの二人の喜びようは尋常ではなかった。

 二人の仲は日を追うごとに深まっていった。緑子のほうも藍子の影響からか次第に勉強に熱を入れるようになり、一緒に大学受験を目指す気にもなってきていた。そのことも街なかでは評判になっていたから、藍子の両親はもはや諦めの境地で、藍子の料亭への出入りを仕方なく黙認するかたちになっていたのである。

 土曜日になると藍子は勉強道具を抱え、緑子の部屋に籠って、夜遅くまで過ごすようになった。 藍子は料理屋の中を見るのも初めてだったが、何よりも興味を惹かれたのは、数いる芸者さんの普段の姿に接することだった。

 夜になるとまるで揚げ羽蝶が飛び立つような、あでやかな姿に変っていくお姐さんたちも、けだるい午後の陽ざしの中では、シミの浮き出た、弛んだ肌を隠そうともせず、ごろごろと畳の上に寝っころがって、駄菓子を頬張ったり、雑誌を拡げたりしている。

 芸者の中には、遠慮もなしに部屋を出入りする藍子たちに対し、変にとげとげしい目を向けるものもいたが、その多くはおおらかな、優しいお姐さんたちだった。 その中でも“お志津さん”と呼ばれていた芸者さんが、藍子は大好きだった。

 お志津さんは二十七、八くらいの美しい人で、二人の勉強部屋に時折り立ち寄っては、珍しいお菓子を置いていってくれたり、拡げた教科書を覗き込みながら、「みいちゃんたち、ほんとにしあわせねえ。こうしてお勉強できるなんて・・・あたしも子どものころは本読むのが大好きだったの」などと、話し込んでいったりした。 

このお志津さんだけは、お化粧を落とした素顔も楚々として美しく、いったんお座敷着に着替えた姿は、飾りケースの中の日本人形にそっくりだった。 緑子のほうもお志津さんに甘えきっていて、まるで血の繋がっているふうな親しさでいつも接していた。

 たった一度、両親を説き伏せて、藍子は緑子の家に泊ったことがある。二人は枕を抱え、階段を上がってお志津さんの部屋に寝た。川の字に並んで、夜中過ぎまで他愛ないおしゃべりをしていたが、やがて静かになって緑子の寝息が聴こえてきた。柱時計の音が煩くて、眠れないまま藍子が上半身を布団の上に起こすと、向こう向きになって寝ているお志津さんにしっかりしがみついている風の緑子の、安心しきったような寝顔が見えた。

 藍子にとって、それは夢のように楽しい日々だった。

 だが、それも束の間だった。 それまでは同じ日本の国内でありながら、空襲にも遭わず静かに息づいていたようなその街にも、戦争の影はいつしかその背後に忍び足で近付いていたのである。

 実にさりげない風に、 突然その日は やってきた。

「うちにね、今夜から暫くの間、特攻隊の兵隊さんが5人も泊まるの。Y市の郊外に飛行場があって、航空戦隊が駐屯しているんだけど、最近空襲が多くなって、ひとところに航空要員を置いていると、狙われた時の損失が大きい・・・っていうんで、分散することになったらしいのよ。」

「特攻隊って、・・・あの、飛行機ごと、敵にぶつかっていく?」「そう、まだみんな若い飛行兵だって。・・・“予科練”って聴いたことあるでしょ。そこで訓練を受けた、海軍の航空隊員なのよ。」 ふたりの間で淡々と、さりげなく交わされたその時の会話だったが、それが大きな悲劇のはじまりに繋がる一筋の糸の端だったとは、藍子自身、知る由もなかったのであった。<

                            (五)

 広い料亭の中庭に、下駄穿きで突っ立っていた、藤巻少尉の姿を初めて見た夏の終りの午後のことを、藍子は今でも克明に思い出すことが出来る。 上下の繋がった、深いカーキ色の飛行服を着けたまま、手入れの行き届いた中庭を、ひとりで物珍しげに散策していた。 まだ十四才になったばかりでしかも晩生(おくて)の藍子には、人を好きになるといった感覚はまだ埒外なのだったが、それでもそのとき身体の中から湧き上がってくるゆらめきにも似た感情に、一瞬、(自分は今、大人の領域に、足を一歩踏み入れようとしている・・・)、そんな予感めいたものを感じるのだった。たしかにそれは甘い陶酔に近いものだった。

 学校帰りの寄り道だったから、当然緑子も一緒だった。緑子は臆する様子もなく、
「お庭、今あんまり綺麗じゃないでしょ。青葉の頃はもっとよかったのよ。・・・」と、裏座敷の縁側からいきなり声をかけた。
「いや、こんなに広いのに、よく手入れできてるなあって眺めてたんです」藤巻少尉はまっすぐに顔を上げ、二人の少女に目をやると、

「姉妹ですか?」と訊いた。 二人は顔を見合わせ、一瞬の沈黙のあと、おなかが捩れるほど笑い転げた。それは単に可笑しかったからだけではなく、そういわれたことが嬉しかったせいでもあった。

 その声を聞きつけて他の客である仲間たちも次々に顔を出した。一人だけあまり年若くない、どちらかというとおじさんっぽい将校がいて、後で聞いた話ではその人が戦隊長なのだった。 色の白い、柔和な表情をしてはいたが、何となく神経質そうな男だった。

 そのときの藍子には、これから徐々に繰り広げられてゆく大人たちの修羅場が、どうして想像出来たであろう。

 当時の日本の軍隊は、表面上はたしかに意気軒昂であり、“撃ちてし止まん”を合言葉に、長期戦を戦い抜く気力だけは備わっていたものの、なんせ資材の不足は如何ともし難かった。早い話、特攻要員の訓練は出来ていても、肝心の飛行機がないのである。 勢い、航空兵は「待機」という形で、何時来るか知れない”その日”を待ち続けることになった。

 だが、“その日”・・・が来ることは、つまり自分がこの世に存在しなくなるということ。永遠に姿を消すことにほかならないのだ。 覚悟はすでに出来ているとはいえ、いつ訪れるか予測のつかない“その日”を、人間、平静で待てるものだろうか。まして二十歳そこそこの彼らである。悟りの境地を求めるにはあまりに若すぎる、残酷すぎるというものではなかろうか。

 料亭“梅の屋”に住みはじめて1月余り、彼らの「待つ」という行為は胸元に絶えず刃物を当てられてでもいるような息苦しさの中で続いていた。少なくとも藍子の目にはそう映った。長い期間訓練を受け、その使命を骨の髄まで叩き込まれ、何時来るとも知れぬ“その日”のために備えて、生き続けてゆかねばならぬという、人間としての極限状況・・・。それでも淡々と月日だけは流れていくのである。しかもそこには生きていく上での、ありきたりの“日常”がある。このどうにもやりきれない過酷な葛藤。

 だが、彼ら自身は、そうした苦悩を決して表面に現すことはなかった。 ただ彼らと接していて藍子が時折り感じたのは「諦観」とでもいうべきものだった。 
「僕らはタンマツ(端末)人間なんだよ。」そんなことを言って寂しげに微笑する、若い飛行兵のそばで、藍子は何ひとつ返す言葉も見出せずにいた。 緑子はといえば、その持ち前の、おませな社交家ぶりをふりまいて、「みい坊」などと呼ばれながら、それでも食事時にはお姐さんたちに混じって神妙にお給仕の手伝いをしたりするのだった。

 その頃・・・昭和19年、ともなると国内の食糧事情は極端に悪化し、米も“お上”による配給制度が敷かれていた。しかし一般にはとても手の届かない肉や魚の類も、軍のルートで料亭にはふんだんに運び込まれていたのである。

 彼らは午後になると軍からの迎えのトラックに乗り込み、本隊のあるY市の飛行場に訓練に行った。夕暮れには再び“料亭「梅の屋」”に帰って来て、それぞれに風呂を浴び、夕餉に寛ぐ。見ている限りでは大学生の合宿を思わせるような陽気な会話がその宴席では繰り広げられるのだった。

 当時、藍子たちの女学校では殆ど授業は行われておらず、“勤労奉仕”の名のもと、簡単な手作業、例えば飛行機の無線機の細かな部品の組み立てとか、絶縁体の材料である鉱石“雲母(うんも)”をピンセットで薄く剥がしてゆく、というような、奉仕活動で日を送っていたのである。

                          (六)                              

 いつしか夏も終わり、秋の気配が漂い始めたある日の夕暮れ、藍子は川沿いの柳の並木道を抜けて、小さな丸木橋を渡り、緑子の待つ“梅の屋”へ行くつもりで足を急がせていた。

 その頃には学校でも授業と名のつくものは全くなくなっていたし、勉学からは程遠い生活だったから、少しずつでも自分たちでやらなくてはと、土曜日に限らず、折りあるごとに緑子と共に参考書を広げ、取り組んでいたのだった。 勉強に熱心になれたのには、実は大きな理由があった。

 あの、青年将校藤巻少尉が時折り数学や英語を見てくれることがあり、以来、藍子は気もそぞろに時を過ごすことになっていたのである。 その時代、英語は敵国語だというので学校でも授業の中には一切組み込まれていなかった。だが藍子は、父の
「やはり英語だけは身に付けておいたほうがいい」というアドヴァイスに従い、緑子を説得して、父の古い教科書を使って二人で少しずつ学んでいたのだった。

 藤巻少尉は4人の隊員の中では最年長の二十三歳だった。というのも、彼一人だけは「予科練」出身でなく、「特操」と呼ばれる階級で、・・・これは「特別操縦見習士官」の略語なのだが、・・・もともと海軍の所属ではなく、大学在学中に学徒出陣で召集され、海軍航空隊に編入されて飛行訓練を受けた、という経歴の持ち主だったからである。

 以前サンフランシスコにも住んだことがある、という藤巻少尉の流暢な発音に、藍子は身震いするほどの畏敬と、憧れをもって、じっと聞き入るのだった。だが、このひそかな思いは緑子には勿論のこと、当の藤巻に知られでもしたら、もう、恥かしくてすぐにでも死んでしまいたい!・・・と、藍子はいつの時も身を固くして時を過ごすのだった。

 「料亭梅の屋」と書かれた古い木の看板が、和風のくすんだ板塀にかかっていた。そこは料亭の裏口で、藍子は緑子と一緒のときもほとんどここから出入りしていたのである。 “料亭梅の屋”は川の中州に建っていた。 表玄関へは遠回りをして大きな橋を渡らなければならないが、この丸木橋を渡ればはるかに近道なのである。

 その時だった。すぐ脇の小さな裏木戸がほんの少し開いて、不意にお志津姐さんが顔を出した。

 だが何故かいつものお志津さんではなかった。何か気まずそうな笑みを見せ、藍子に軽い会釈をすると、今、藍子が歩いて来た方角に向かってあたふたと消えていった。

 藍子はさして気にも留めず、何時ものとおり狭い裏木戸をくぐり抜け、勝手口へ回ろうとした。すると、中庭に続く柴垣の向こうの小さな枝折り戸を、そっと押して出て来る二つの人影が見えた。黄昏の淡い光を背にした二つの影は逆光のせいで瞬間顔も定かではなかったが、その一つが緑子であることだけははっきりと見てとれた。

 もう一つの背の高い・・・それは男であることは確かだった・・・、その人影は裏木戸に向けて足早に近付いて来た。 藍子はなにか見てはいけないものを見た気がして、勝手口に近い柴垣の蔭に思わずうずくまった。男はしのび足で、藍子のそばを通り抜けて外へ出た。どうやら、藍子には気付かずじまいだった。だが、藍子には、それがあの藤巻少尉であることがはっきりと見てとれたのだった。胸の動悸が高まり、しばらくは立ち上がることもできなかった。

 藍子がようやく気を取り直して立ち上がった時、枝折り戸の脇にまだ佇んで、男の行方を目で追っていた緑子が、藍子に気付いて足早に近付いてきた。いきなり「シーッ」と、唇に指を立てたかと思うと、声を潜めて、

「あ・い・び・き・・・よ。私、前からあの二人のこと知ってたの。誰にも言っちゃダメよ」と、真顔で言った。
「・・・・・」藍子は、大人の世界を垣間覘き見たような気になって、胸を轟かせ、何度も大きく頷いてみせた。「お志津姐さんのこと、あの、にやけた戦隊長も好きなのよ。さっきも大変だったの。あいつすっごく酒ぐせ悪くってね、いつだって、お志津姐さんにからんでしようがないの。でもお志津さんは藤巻少尉イノチなのよ」
「イノチって・・・?」「死ぬほど好きってこと! ・・・藍子ちゃん、今まで二人のこと、気付かなかったの?」「ちっとも・・・」

そう答えながら、藍子は胸が締め付けられるような寂しさに捉われていた。(だったら、あたしだってイノチだわ!) ひそかな切ない想いが胸のうちに込み上げてくる。(でも、ま、いいか・・・相手は大好きなお志津姐さんだもの。)藍子は心に呟き、大人顔負けの手引きで、キューピッド役をさらりとやってのける緑子をすごいなあ! と、改めて見直すのだった。

 そうしたことが時折り繰り返されると、藤巻少尉とお志津さんとの仲は次第に人の口の端にも上るまでになっていった。もともと、噂話は日を置かずして街中を駆け巡るという、小さな(ちまた)なのである。

 知らないのは戦隊長くらいのものだった。彼のお志津さんへの執着は、日に日に濃くなっていた。それは誰の目にも明らかだったから、戦隊長の前では皆一様に口を噤んでしまうのだった。

 歳若い飛行兵たちはむしろ藤巻たち二人を暖かな目で見ていて、時たま宴席を張るような時にも、わざと藤巻の隣を空けておいた。お志津さんがお酌に廻ってきた時、自然とそこに留まっていられるように仕向けたのである。

 藍子はそうした宴席に時折り緑子と並んで出ていることは、両親には固く口を閉ざしていた。 お酒が廻るほどに「大人にしか分らない」歌詞の、小唄、端唄の類を、芸者さんたちの三味線に合わせて、みんなで歌ったりする。緑子はそのほとんどを諳んじていて、持ち前の澄んだ声に乗せて一人前に歌いこなし、やんやの喝采を浴びるのだった。

 あるとき、何も知らない戦隊長が、「志津、藤巻にも一曲歌わせてみろ」といった。 戦隊長は深酒をしていて、もうその時はへべれけだった。「いえ、私は不調法でありますから・・・」

 藤巻が辞退すればするほど、戦隊長は目を据わらせる。

 そしてお志津さんに命令調で、「志津、三味線 弾くんだ!」と怒鳴った。 お志津さんと、藤巻少尉はふっと目を見合わせると、どちらからともなく頷き合った。三味線の糸調子を直し、しゃんと背筋を伸ばしたお志津さんの出だしの音に合わせて、その場にきちんと正座し直した藤巻が朗々と歌い始めたのだった。

 そのときの哀調を帯びた藤巻の美しい歌声に、一同固唾を呑んだ時の、凍りつくようなその一瞬を、藍子は今も忘れずにいる。

「一千年も 生きる身じゃなし

一度の恋に

焦がるる想いの この辛さ 

よさこいよさこい

男だもの 口には出さねど

かなわぬ恋なら

あの世で逢う日を 夢にみる 

 よさこいよさこい

 歌が終わって三味線の棹を膝に寝かした瞬間、お志津姐さんの瞳には小さな雫が光っていた。藍子も、そして緑子もそれを見逃しはしなかった。

 その夜はいつになくそれぞれにお酒が回って、戦隊長を筆頭にほとんどがわけの分らない状態になっていた。藍子が皿小鉢の片付けを手伝おうとしていると、緑子が、

「藍子ちゃん、もうそろそろ帰らなくっちゃね。」と言う。その後すぐ続けて「藤巻さん、藍子ちゃんを送ってあげて・・・」と小さな声で言った。

 藍子はどきんとして、「いえ、大丈夫です。表玄関から帰ればそんなに暗くないし」と断ると、 緑子がしきりに目で合図する。(そうか・・・お志津姐さんも一緒ってことなのか・・・)と、気付き、慌てて「すみません、じゃあ・・・」といいながら緑子に向かって深く頷いてみせた。

 裏の丸木橋を渡って川沿いの柳並木にでると、すぐにお志津さんの姿が見えた。お座敷着を着替え、その頃のみんなが穿いているような“もんぺ”姿で、淡い街灯の陰にひっそりと立っていた。夜目にも顕く、美しいお志津さんの笑顔が浮かんで見えた。

 その夜は月もなく、三人で暗い夜道を歩いていると、なにか