
辛夷の樹の下で
作 中田芳子
(一)
住宅街を抜ける坂道の突き当りに、小さなコンビニが出来たのは二年ほど前のことである。
閑静な屋敷町には不似合いなその店が予想以上に繁盛しているのはこのあたりの住人のほとんどが高齢者だからなのかもしれない。坂道を下りながら、正造はそんな事を考えていた。
広い敷地に巡らされた高い石塀の中には、ヘルパーを頼りにただ何となく生きているような独居老人だの、正造のように定年後、伴侶の介護に日々を送っているもの、あるいは深く扉を閉ざしたまま、近隣の呼びかけにもほとんど応じようとしない、引き篭もりの老女、などなど、この界隈は老齢化社会の縮図そのもの、といえた。
子供たちのあの甲高い声がこの一帯からカゲを潜め初めたのは何時の頃からだったろう。今では空気までもが停滞しているかのような不気味な静けさが街を覆い、さながらゴーストタウンの様相を呈している。 住人の年齢層によって地域の印象はこうも違って見えて来るものかと、正造はこの界隈がまだ活気に溢れていた日々を思い返しては、感慨に耽るのだった。
買い物で膨らんだビニール袋を片手に坂道を降りながら、道路沿いのブロック塀越しに見事な枝を拡げている、一本の辛夷(こぶし)の大樹に目をやり、しばらく足を止めて見上げるのが、ここのところ正造の日課となっている。 ついこの間まで猫柳にも似たふっくらした芽がようやく角ぐみはじめた気配だったのに、日一日と柔らかくなる陽射しの中で、梢の白い蕾は少女の乳房を思わせるような固さのまま、それでも確実に育って来ている。
坂を下る時は兎も角、コンビニへ続くこの道を登るには一応健康なつもりの正造でも結構息が切れた。ほとんど毎日のようにちょっとした買い物に出るのだが、時折りすれ違う老人たちの、まるで錘でも括りつけたような足の運びを見ていると自分も何時までこの坂を行き来出来るのだろうと暗い気持ちになるのだった。
高齢者にとって「食べること」は切実な必要最低限の「仕事」なのだ。区の福祉課からボランティアの手を経て、週三回ほど、独居老人限定で夕食が配布されたり、土日以外は福祉センターのデイサービスで昼食が取れたりもするのだが、それにしても兎に角人間、日に三度々々食事をしないわけにはいかないのだから厄介な話ではある。しかも老人のみの小人数の家族とあれば、食べる量もたかが知れている。つい手近かな出来上がりの惣菜ものに頼りたくもなるわけだ。
コンビニの棚には、パック詰めに小分けされた煮物などが結構品揃えされていて、あれかこれかと迷いながら選ぶのも、老人たちの楽しみの一つと見て取れた。
勢い坂の上のコンビニ店は日々繁盛するという図式なのだ。
ここのところ、日中も殆どベッドに横たわったままの妻だったが、食事だけはなんとか自分で口に運ぶことができた。正造はこれまで台所に立つことも買い物をすることも全くなかったのに、最近ではこうして坂を上り下りしてのちょっとしたショッピングにも馴れ、それがかえって気分転換になっていたりもしている。
菊子が倒れたのは白い光の射す冬の早朝の出来事だった。事もあろうに風呂場で素裸のまま、頭を抱えて呻いていたのである。
その時点から正造の日常は百八十度転回することになった。
(二)

この街に棲みはじめてから、もう三十年の余を過ぎているというのに、この坂道沿いの屋敷の一角にこんな辛夷の巨木があることなど彼は全く気付かずにいた。妻が倒れて、家事一切を背負い込むというこうした不測の事態にさえ至らなければついぞ気付かずじまいだったに違いない。
いつものように立ち止まって、幾重にも連なる細い枝先の尖端が昨日よりもずっと膨らみを増し、その白さがまるで蝋細工のようにつややかに光るのをふり仰ぎながら、ふと(このままずっとこうしていたい・・・)と願っている自分に気付いて、言い知れぬ苦い思いにとらわれるのであった。
子供じみた感情・・・とは、自分でもよく判っているのだったが、 この場から動きたくない、家に帰りたくない、という思いがこの道沿いの辛夷の大樹の下で、つい正造の歩みを止めてしまうのかもしれなかった。あの、公園や地下道に住み着いているホームレスの中には、こんな気持ちが昂じてああなった人も多分いるのではないだろうか。すべての柵を捨て去ってさっぱりと身一つになる。あんな生き方も悪くないな・・・正造はそんなことを考えている自分が何とも侘しかった。
この広々とした空間に精一杯背伸びして、碧い空を掴もうとしてでもいるような若い枝先を見ていると、自分にはもはや新しい未来というものはこの先何一つとして拓かれることはないのだと改めて感じ、ただ虚しさだけがこみあげてくるのである。
そこから二、三分、坂を降りきって角を左手に曲がると三軒目に古い柴垣があり、手入れされていない荒れ放題の庭、そして汚れてひび割れたモルタルの外壁・・・と、いかにも生きることに疲れ果てた住人を彷彿とさせる家屋が建っている。そこが正造と寝たきりの老妻菊子の棲家であった。
高校教師を定年で退いてからもずっと私立高校の教壇に立ち、間もなく喜寿を迎える正造なのだが、まさかこうして買い物袋片手にこの坂道を上下することになろうとは思っても見なかった事であった。
「あら、太田さん、お買い物ですか?」
いきなり背後から声をかけられて、正造は慌てた。今しがたの自分の心のうちを見透かされた気がしてどぎまぎしたのである。(イヤなのに捕まってしまった・・・)
杖を手に、時折り夫婦でこのあたりを散策している・・・といっても、片側半身不随の夫のリハビリが目的なのだろうが・・・近所に住む顔みしりの並木夫人が立っていた。珍しく今日は一人である。いつもながらの、歳に似合わぬ厚化粧が、かえって見る者に肌の草臥れを感じさせてうっとうしい。しかも喋りだすと小綬鶏のような甲高い声が際限もなく続くのである。
「先生のお具合、その後いかがでいらっしゃいます?」
「先生」と呼ばれた妻の菊子はこの土地に越してきた時分から、茶道教室の看板を掲げ、この並木夫人をはじめ、数多くの弟子を集めて週に三、四日自宅で茶道と生け花を教えていた。展示会や初釜などの行事の折りには、この並木夫人が菊子の下でなにかと采配をふるい、大勢いる生徒たちを取り纏めるのが長年の慣わしになっていた。いわば彼女は、妻の一番弟子だった。
「相変わらずなんですよ・・・」
「一度、お見舞いにお伺いしましょうと皆さんで話し合ってるところなんですの。」
「お気持ちは大変有難いのですが・・・」 正造は言葉を濁した。
菊子は人一倍プライドの高い女であった。長い年月多くの弟子に囲まれ、茶道の世界では少しは名の通った存在になっていた彼女が、突然「クモ膜下出血」に襲われ、緊急手術の後、右手と下肢が麻痺・・・という事態に陥ってしまったのは三年近く前の出来事だった。
半年あまり入退院を繰り返したが、症状は一向に好転せず、言語にも軽い障害を残したまま、在宅療養を続けることになった。以来、生活のほとんどを人手に頼らざるを得ない状態になっている。
それは菊子の今まで貫いてきた生きざまを真っ向から打ち砕くようなものであった。病を得る以前の彼女のその凛とした生き方は天賦の美貌と相俟って、誰の眼から見ても魅力的だった。だからこそ彼女のもとには多くの弟子も集まり、時には婦人雑誌からの取材も受けたりして、周囲からは常に一段高い目線で見られる存在だったのである。
自分に追従しない門下生は情け容赦なくバッサリ切って捨てられる菊子の強さを、正造は時には羨ましく思うこともあったが、それも裏を返せば自分を押し通せる、我の強さの表れでしかないのだと、口にこそ出さないまでも腹の中ではそう思い続けてきたのであった。
菊子は他人に同情されることを極端に嫌っていた。いや、懼れていた・・・というほうが当たっているかもしれない。人の世話をするのは少しも苦ではなく、周囲に何か事があれば、率先してそれに当たる。そういう時の彼女は実に沈着そのものであり、しかも人あたりも柔らかく、聡明な心優しい女性と誰の眼にも映って見えた。だからこそ周囲も協力を惜しむことなく彼女に従い、誰もが一目置く存在になっていたのである。
しかし他人に自分の弱味を見せることは我慢ならないのであった。
だから入院中の病室にならともかく、自宅に弟子達が連れ立って見舞いに押しかけるなど、菊子にとっては“自尊心の逆撫で”以外のなにものでもなかったのである。
だがこれは並木夫人にストレートに伝えられる話ではない。
「もう少し落ち着くまで・・・どうか・・・皆さんにも・・・」
正造は曖昧に語尾を濁して、並木夫人にそれ以上踏み込まれないよう、やんわりと、断るより他なかった。
(三)

倒れたその日、菊子は茶道の家元の会合に出かけるとかで、正造がまだ眠っている時間に朝風呂に入ろうと洗い場に足を踏み入れた途端、発作に襲われたものらしかった。いわゆる二十四時間風呂なので、今までにも大事な集りなどある時は気軽に一人で朝湯を使っていたから、その朝も正造は何を案ずるでもなく、物音一つしない静かな二階の自室で心地よい明け方のまどろみをむさぼっていたのである。
せめて夫婦の寝室が一つだったら、もう少し早く異変に気付いたはずであった。
息子がまだ中学生だったころから菊子は同衾を拒み初めていた。以来正造は菊子の身体を知らないのである。
そのくせ菊子は、長い歳月夫を疎み、頑なに拒絶していながらも「離婚」という言葉だけは決して口にしたことがなかった。
なにしろ「世間体」を第一義とする女だったから、離婚も彼女にとっては「汚点」・・いや、それ以前に、「噂として他人の口の端に上ること」自体が耐えられなかったのに違いない。
表面上は全く申し分のない、似合いの夫婦だった。倒れるほんの二、三ヶ月前にも、頼まれて茶道の弟子の結婚式の仲人をした。人中ではしっかり主人を立てる貞淑な良妻を、菊子は実に見事に演じて見せた。
普段の生活でも何一つ文句のつけようがないほど、そつ無く万端をこなしていた。隙のない着こなしでいつもきびきびと立ち振る舞い、出かけるときも、食事の支度など、決して等閑にすることがなかった。子育ての最中にすら箍を緩めることはなかった。
正造はそんな家庭を正直しんどい・・・と思い続けて生きてきた。そんな家庭で寛げるわけがなかった。
夫婦として暮し始めた当初から、身体の中を風が吹き抜けるような、心許ない思いを幾度も味わっていた。表面上はごく平和に日が過ぎてはいたが、妻が結婚を後悔しているのではないかという疑念は日に日に正造の中で膨らんでいった。
重苦しい空気の中で、それでも「家庭」という名の歯車は確実に時を刻んでいくのだった。だが子供が生まれてからも、そこは魂の安らぐ場所とは言い難かった。
勢い正造は自分の殻に閉じこもることで、その抑圧から逃れようとした。大学時代から心を惹かれ、その研究を卒論にも使った、イギリスの桂冠詩人ワーズワースについて、より深く極めたい気持ちが日ごろから頭を擡げていたのだが、調べるほどに興味は増幅し、日を追ってのめり込んでいった。
この英国ロマン主義詩人が、当時にしては珍しく八十歳という歳まで長生きし、しかも彼はイギリスの代表的天才詩人、シェリー・バイロン・キーツの三人と、生きた時代を同じくしていたこと。更に驚くべきことは彼ら三人の若手詩人より二十年早く生まれていながら、彼らが共に相次いで夭折したのちにも更に三十年長く生きて終世詩作活動を続けていたという事実だった。また、彼が提唱した「無限の自由への希求」という理念についても、正造はあたかも現存している人物に対するような憧れをもって、掻き立てられるような思いで取り組んでいった。まさに「傾倒」していたのである。
授業が終っても家に帰る気になれず、そのまま学校に隣接した区の図書館に足を運んでは、ワーズワースの足跡を調べ、ありきたりでない、個人的な研究書としていずれは一冊の本に纏めてみたいと考えていた。
家に帰ってあのギスギスした空気に触れることを思うと古びた図書館でも、そこで一時間でも長く調べ物をしているほうがはるかにましだと思えるのだった。
図書館は宿直の職員に断れば、夜遅くまででも使うことが出来たから、時には夕食に間に合わないこともあり、その都度菊子には不満をぶちまけられることになった。それでも正造は「残り勉強」と称して、そこでの時を楽しんでいた。
それほど居心地がよかったのには実はもう一つ理由があった。
正造がワーズワースについての資料を探すのに、いつも何かと助けてくれたのがその図書館で司書をやっていた山野恭子という若い女性だった。色白な点は兎も角としてあまり器量のいい娘ではなかった。ただ、背丈はあって、すらりとした姿態が印象的だった。
正造が一人居残っていると、
「先生、お茶いれましょうか?」などと優しく声をかけてくる。
「もう遅いから、君、帰ったら?あとは僕が宿直室に言ってカギ掛けて貰えばいいんだから」
そういいながらも正造は結局熱いコーヒーを入れてもらい、細かい字を見続けてキリキリしている眼の奥が次第に溶けてゆくときのあの心地よさを味わうのであった。
正造はこの、親子ほども歳の違う司書の恭子が、単なる閲覧者として以上に自分に好意を持っていてくれていることにもう随分以前から気が付いていた。
若し自分に娘がいるとしたら・・・丁度このくらいだろう。正造は自分の少々狡い、勝手な解釈で、「娘」と考えて・・・彼女に対することにしていた。恭子の示す好意は有難く受け取り、それなりに優しい言葉もかけ、それでいながら言い逃れる道だけはいつも用意しておく、といった具合に。だが、決して恭子の優しさは正造にとって迷惑ではないのだ。迷惑どころか、あの菊子の万端整った、一部の隙もない我が家にいることを思えば、この閲覧室での調べ物のひと時、若い娘が自分に注ぐ、いかにも心許ない眼差しを肩越しに感じながら過ごす時間は、正造にとって一種の癒しの時にも思えるのだった。
そんな正造を菊子は無論快く見てはいなかった。
「あなた、このまま一介の英語教師で終わらせるおつもりなの?」
と、暗に校長どころか教頭にもなれそうもない正造を責めるのである。
確かにそう言われてみれば自分には出世欲などというものは微塵もない。その頃はすでに収入も菊子のほうがはるかに上回って来ていて、家のローンも殆どそのおかげで払い込めているような状態だった。
ばりばりと仕事をこなし、世間からもそれなりの評価を受け、これからも手を拡げていこうという意欲満々の菊子からすれば、たかだか一冊の研究書を出版することを夢見て連日図書館通いしている風の夫がいかにも頼りなく小さく見えてくるのも尤もだったかもしれない。
しかし正造にしてみれば、捉えどころのない渇いた生活のそれは唯一の支えであった。今やワーズワースの生涯は正造にとって、自分自身の道程とも、そして分身・・・とさえも思えてくるのであった。
ヘタな研究者より自分の方が遥かに優れた視点で捉えている。纏めた資料も、その掘り下げ方も、決して他の追従を許さないものだ・・と、そこまでの自負を抱いていた。
かといって、それを世に問うなどという気はさらさら無く、あくまで自分の裡なる世界での知的満足が叶えられればそれで充分なのである。
菊子にしてみれば、そこまでの時間とエネルギーを費やせば、校長への階段などやすやすと昇れる筈である。それをしないのは妻である自分の収入の上に安住し、怠惰に溺れているからに他ならない。と不満を募らせるのであった。
一人息子の篤史が大学を出て社会人となった途端、家を離れそのまま外資系会社のブラジル工場へ赴任して、以来、殆ど帰国もせずにいるのも、恐らくこの温かみに欠ける家庭にいい想い出がなかったからに違いないと思っている。
尤もこれは父親としての正造自身の悔恨も含めての話ではあったが・・・。
古希を迎えてからは週三日ほど、半分ボランティアのような形で私立の高校へ補習授業に出かけるほかはほとんど家にこもっていることが多かった。食事時間以外は二階の自室で終日、CDを聴きながら本を読むか、ごろ寝を決め込むかそのどちらかで日を送っていたのである。
(四)
その朝、充分寝足りた満足と、久々に菊子のいない一日を過ごせることの開放感とから、正造は機嫌よく目を覚ました。寝巻き代わりのトレーナーに股引・・・という格好で階段を降り、新聞を取りに出ようとした。普段はそんな姿で外へ出ることなど菊子が許すはずがなかった。
窓の外で雀が囀っている。正造は口笛の一つも吹きたくなるような気分でつっかけを穿いた。その時、いつも外出時には前もって玄関のたたきに揃えておく習慣のある菊子のよそゆきの草履がきちんと並べられたままになっているのを見て正造は一瞬「あれ?」と思った。(気が変って他のヤツを穿いていったのかな・・・?あいつにしては珍しい・・)そのまま郵便受けの新聞を取り出し、まだ暖かいはずの布団の中で読むつもりで、階段を二、三段上がりかけた。
「そうだ、寝床で牛乳でも飲むとするか」ひとりごちて台所へ向かった。(こんなこと、菊子がいちゃ出来ない芸当だからな・・・)内心ほくそえみながら冷蔵庫の扉を開け、鼻歌まじりにかがみこんで牛乳パックを探していると、ふと正造の耳に聴きなれない、低い、モーターの回転音のような音が遠くに聞こえた気がした。手をとめて耳をすますと何も聞こえてこない。「なんだ、空耳か」冷蔵庫のポケットに並んでいる牛乳を取り出しかけているとまた先ほどの、気になる音が聴こえて来る。
それは昔、正造がまだ九州の農村に住んでいた頃、裏手の沼地から夕方近くなると聞こえてきた食用蛙のくぐもった鳴き声にそっくりだった。「食用蛙?まさか・・・」正造は自分の発想がおかしくて思わず苦笑した。
「さてコップは?・・・と」
食器棚に向かおうとして何気なくテーブルの上に眼をやった正造はその場で固まってしまった。
食べたままの茶碗や皿がそのままテーブルに残されている。それは今までにない光景だった。どんなに緊急に外出する時にも、流しまでは運んでいた菊子なのである。
まして食べっぱなしで出かけることなど金輪際あり得よう筈はなかった。
「何だ?」おずおずとあたりを見回した時、再びあの低い音がモーターの唸りのような音をたてて耳に入ってきた。
音の聞こえる方向を辿って正造は恐る恐る足を進めた。
「風呂場だ!」誰も居ないはずの脱衣場に灯りがついている。
「菊子、菊子!」
浴室のすりガラスのドアを思い切り叩いた。脱衣場の引き戸は開いたが、浴室に続く扉にはしっかりカギがかけられていた。
菊子はそういう女だった。普段からいつも正造を警戒し、入ってくることなど先ずあり得ないと分かってはいてもカギをかけずにいられないのであった。それは「生理的に受け付けない」とでもいいたげな、あからさまな拒絶そのものの態度だった。
その時、一段高く、こんどははっきり呻き声と判る音がガラス戸一枚を隔てて聞こえてきた。
もう猶予はない。正造は脱衣場のモップを振り上げると、その柄でドアの取っ手のあるあたりのガラスを思い切り叩き割った。手を入れて内側からノブを回すと、ドアは難なく開き、狭い洗い場に白い裸体が頭を抱えて横たわっているのが眼にはいった。
それは・・・今思い出しても実に美しい一幅の絵画であった。肉付きのいい臀部の丸みと豊満な白い乳房はとても七十路を迎えようとする女のそれには見えなかった。
あの時の菊子の透き通るような美しい素肌は、今も正造の瞼に焼きついていて離れない。
こんな時に不謹慎な・・・と、非難されても致し方なかったが、正造はたしかにその時、自分の妻を一個の「女体」として「鑑賞」したのである。それは恐らくほんの二、三秒に過ぎなかったが、昔、あのプラド美術館で見たゴヤの名画「裸のマヤ」に対したときのときめきとほとんど変らないものだったと今でも思う。
もし、菊子が今までの長い年月、正造を避け続けたりしていなかったら・・・そして、ごく普通の夫婦でいたのなら、正造は一も二もなく瞬時に菊子にとりすがり、大声を上げて揺り動かしていただろう。
菊子は長年正造にとって「妻」でありながら、実は最も遠い存在だったのである。
そしてその直後、正造を更に驚かせたのは浴室に入ってきたのが夫だと判ったときの、憎悪に満ちた菊子の眼だった。それまで苦しさに耐えかねて閉じられていたであろうその眼が正造の姿を捉えた途端、鋭く光って「見ないで!」という、声にならない叫びを上げ、口惜しさを満面に込めて身もだえたのである。
冬の早朝といっても、浴室は二十四時間風呂であることが幸いしてさほど温度も低くなかったため、ことなきを得たのであるが、まかり間違えば命にもかかわる場面であった。そんな状況の中でも夫の目を拒絶する菊子の気の強さに正造は慄然とした。
(そこまで俺が嫌いなのか?いったい俺が何をしたというんだ!)そして無性に腹が立ってきた。頑として夫を受け付けようとせぬ、まるで般若の面を思わせるすさまじい眼差し。その眼に正造は覚えがあった。あれはまさしく「あの時・・・の眼」そのものであった。
(五)
正造は今、目の前にすっくと立っている辛夷の大樹を更めて振り仰いでみている。
突然、遠い日の記憶が蘇り、正造を甘美な、それでいて絶望的な苦悩に彩られた青春の日へと誘った。
今、目の前で小枝の尖端にふくらみを見せている白蝋色の蕾さながらに初々しく高貴な気品を湛えていた少女、菊子の姿を初めて見た時の心のゆらめき・・・。思わず見とれて立ち尽くしていた、そのときの自分。そしてそんな自分自身に、はっと気付いたときの狼狽ぶりまでもがいちどきに蘇ってくる。
それは正造が十八歳になったばかりの夏の朝だった。
昭和十七年、まだ誰もが日本の勝利を信じて疑わなかった頃の朝鮮
半島。「大東亜共栄圏」の名のもとに侵略の触手を次々と延ばし
てはアジアを制覇していった日本軍が最も意気軒昂だったその時代、
正造の父は朝鮮北部軍司令部付の軍属として平壌郊外の司令部の官
舎に住み込み、連隊長の乗用車の専属運転手として働いていたので
ある。
その頃、九州の片田舎で旧制中学を終えたばかりの正造は、心のうちでは大学進学を望んでいたのだったが、弟妹も多く、しかも父親も徴兵令を受けていつ帰れるか予測もつかないことだし、このまま地元の町役場にでも勤めて、母親の実家の農業を半分片手間に手伝って行くか・・・などと考えていたのだった。
そこへ、父親からの突然の呼び出しを受けたのである。数日後、正造は単身、海峡を越えて釜山に向かうこととなった。
父は正造に大学を受験させることを夢みていた。九州の片田舎にいては到底手が届きそうもない夢かもしれなかったが、ここでなら何とかして息子を大学に入れてやることが出来る・・・。自分に学が無くて苦労した分、父親は息子に期待を寄せたのである。
官舎の一隅に親子で住まわせて貰うことも許可を得てあった。その代わり正造は連隊長の家族の下働きとして雑用を手伝う、それが条件だった。
使用人は男女ともほとんどが現地の朝鮮人だったが、日常では片言ながら彼らも日本語を話していたし、生活様式は内地とは比べものにならないほど、文化的な暮らしぶりだった。正造は昼間は屋敷の下働き、夜は受験勉強というかたちで、父とともに暮せることに感謝し、充分な満足を覚えていた。
正造が父のもとに荷を解いてひと月あまりを過ぎたある夏の日、その日は朝から屋敷の中が妙にざわついていた。
「正造、玄関先にお水打っておいて頂戴。それから旦那さまがもうすぐお出かけだから、お靴磨いてね」
奥さんは何だかいつもより元気でうきうきしている。心なしか声まで弾んで聞こえた。
普段は身体が弱く日中も殆ど布団を敷いて横になって暮しているのだったがその日は珍しく起き出して使用人たちにきびきびと采配をふるっているのだった。
「おじょうさん、なつやすみよ。かえってくるよ」
裏庭に回って井戸端のポンプでギイギイ水を汲み上げていると、やはり水を汲みに来た年配の朝鮮人の女中がにこにこしながら正造に教えてくれた。
「じょがっこう きしゅくしゃに はいってるよ」
玄関先に打ち水を終えるとすぐに正造は主人の長靴を磨きはじめた。ここに着いたその日からそれは正造の仕事の一つになっていたのである。
主人の宗村幸夫は陸軍士官学校出の、実に謹厳な、几帳面な男だった。
靴ひとつ磨くにも、ブラシの持ち方からクリームの塗り方までこと細かに指図したりする。
しかし正造にとって連隊長は決して口喧しいだけの存在ではなかった。正造が磨きあげた編み上げの軍長靴に足を入れながら、
「どうだ、勉強は進んでるか?」などと気さくに声をかけてくれたりもした。
毎朝、車寄せに専用車を横付けし、扉をあけて深々と一礼して待っている父に向かって、
「いいなあ、太田は。こんないい息子がいて。」と、恰幅のいい肩をゆすって羨ましそうに笑ったりもする。いつしか正造にとって、連隊長はただの主人と使用人という関係を超えて、人間的な魅力に満ちた憧れの対象となっていった。
(六)
宗村の一人娘菊子が官舎の玄関に立ったその午後の光景は、いまでも鮮やかに正造の脳裏に焼きついている。
菊子は家人が思っていたより早く、屋敷に着いた。
あとで聞いて判ったことだったが、正午の汽車で帰る予定だったのが、たまたま同じ方角へ帰省する友人の車に便乗して、小一時間も早く着いたのだった。
正造は靴磨きに熱中していて、ふと物音で顔をあげたときには、もう眼の前に菊子がバスケットを下げて佇んでいた。その時、彼は横顔になにか痛いほどの視線を感じて顔を上げたのだったが、瞬間、そこに立っている娘に、いきなり魂を奪われるほどの、大きな昂ぶりをおぼえたのだった。
白昼の夢だろうか?・・・突然、視界に浮かび上がった白い花の精・・・。つばの広い麦わら帽子をかぶったまま、黒い髪を肩まで垂らし、その美しい少女は黒いつぶらな瞳を見開いて、いぶかしげに正造を見下ろして立っている。
(ああこの人が連隊長のお嬢さん、宗村菊子なのか!)
ようやく自分を取り戻しながら立ち上がった正造だったが、それでも舞い上がる気持ちを抑えるすべもなく、その手にしっかと靴ブラシを握りしめたまま暫く立ち尽くしていた。
次の瞬間、
「お帰りなさい」・・・と言うべきだったのを、ごくりと生唾を飲みこんだあと、正造は
「あの・・・どうぞ・・・お入りください」といってしまっていたのである。
少女の唇から、いきなり白い歯がこぼれ、透き通った声がさもおかしそうに
「あなたなの?太田の息子さんって」
そういいながら玄関のたたきに靴を脱ぎ始めた。靴には尾錠がついていたから、それを外すのにちょっと手まどっていたが、脱いだ靴を揃えるでもなく、そのまま縁に上がると、ふりかえりざま、
「それもちゃんと磨いておいてね」と投げつけるように言った。
あの日からもう何年経ったろう。あれからもはや半世紀以上にもなるというのに、あの日の抜けるように青かった北鮮の空の色、打ち水された玄関の敷石の黒さ迄もが今なお鮮明に思い浮かぶ。
正造は軽くため息をついた。
今、自分がこうしてあの日の、あの時の少女菊子のために、介護の日々を送ることになるなど、どうして想像できたろう。
それも忌み嫌われ、長年疎まれ続けた挙句に?
現に今、自分ははっきりいって逃げ出したい心境なのだ。帰らないで済むものならこのまま何処へでもいいから行ってしまいたい。いや、消えてしまいたいといったほうが当たっているかもしれない。
あの汚い、そして耐え難い臭いの染み付いた家。お互い夫婦でありながらひとつとして接点はなく、ただ世話をするものとされるものとの関係でしかない二人・・・・。まだ犬や猫のペットを看取る立場のほうが救いようがある。
そうは思いつつも、いつしか正造の足は辛夷の樹のもとを離れ、少しずつではあったが坂を下り初めていた。いかにも重い足取りであった。そういえば、今日は午後からホームヘルパーの巡回沐浴がある日だ。少しは家の中を片付けておかないと・・・そう思うといっそう気が重くなって、運びかけた足もつい留まりがちになるのだった。深いため息とともに遠い日の追想が再び蘇えってくる。
菊子をこの世ならぬほどにも美しいと感じ、心もそぞろに過ごしたあの頃の歳月が、今、走馬灯さながらに正造の中を駆け抜けて行く。
(七)
朝鮮での最初の年が明けて、新しい春が巡って来たとき、正造は念願叶って隣接した街の私立大学に合格し、今まで通り連隊長の官舎で、下働き、兼書生としての生活を続けられることとなった。その日を夢み、期待し続けていた父親が有頂天だったのはいうまでもない。
その同じ年、女学校を卒業した菊子は四年間の寄宿舎生活から離れ、父母の許に帰ってきていた。
後日、彼女の生業となった茶道も生け花もこの時期身につけたものだったが、その他にも琴や裁縫の教師が出稽古に来ていて、菊子はいわゆる花嫁修業の日々を送っていたのである。
その頃、宗村家には複数の青年将校たちが頻繁に出入りしていた。
彼らのお目当てが菊子であることは明らかだったが、表向きは連隊長閣下へ何かとご教示を仰ぎに・・・などという、その取ってつけたような、もっともらしい態度があの「竹取り物語」の中の、一途な貴族たちを連想させて、正造は可笑しくて仕方なかった。
そのころの正造にとって菊子はたしかに美しいひとりの女性として映ってはいた。優雅でいつも自信に満ち満ちたその立ち居振る舞いは、男を惹きつけるに充分だった。
しかし、外観の美しさという点ではたしかに彼もときめいてはいたが、自分には所詮高嶺の花。お抱え運転手の息子で、しかも学費の殆どを主に仰いでいる立場であってみればそのお嬢さんに夢中になるほうがおかしいのだと彼なりに自分の心を畳み込んでいたのだった。
だが、それで得心し得たということはそれほどまでの情念が燃え上がっていなかったから・・・と言えなくはなかっただろうか。
たしかに廊下などで時折りすれ違うたび、正造は胸の高鳴りを気付かれまいと息を潜めて通り過ぎることがよくあったのだが、だからといって菊子により近付きたいという願望までは起きなかったのである。
だから菊子を取り巻く青年将校たちに対して嫉妬を感じることもなかった。菊子はといえば普段は相変わらず高飛車な物言いをして正造をこき使っていたが、何故か将校達に取り囲まれている時だけは使用人扱いすることなく、妙に親しげなそぶりを見せるのだった。
そういう時には呼び捨てでなく、「正造さん」とさん付けで呼んだ。
トランプ遊びの仲間入りをさせられた時など、
「ねえ、この次、どれ出したらいいと思う?」などと身を摺り寄せて来て正造の耳元で囁く。菊子のいい香りが正造を包み、そして応接間中を揺れて漂う。
将校たちが新たなライバルとして正造を警戒し始めているさまが菊子には面白かったのかもしれない。わざと謎めいた微笑で彼らの一人々々を見つめては、相手の動揺するさまを楽しんでいるように見えるのだった。
どんな扱いをされようと、日々勉学にいそしめるだけでも正造は充分過ぎると思っていた。ここにこうしていられる自分を思うと連隊長への恩義を改めてかみ締める毎日だった。
その夏あたりから、戦況は日に日に逼迫し、「撤退」とか「転進」などという文字が新聞の各紙面を埋めるようになってきていた。それは日本軍の「退却」とか「敗北」を体よく取り繕った表現にすぎなかった。遠からず日本軍は敗れるかもしれないという風評があちこちで囁かれ始めていた。
ここ朝鮮の情勢も次第に掴み難くなってきていて、若しも日本が敗けるようなことになったら、この先どんな事態が展開するのか?誰にも想像がつかなかった。
そうした情報をいち早くキャッチすることの出来た軍の一部の上層部では、早々に財産を内地の銀行に移すとか、女子供を今のうちに日本に送り返すとかの手段を講じ始めるものも現れてきていた。
正造が突然、連隊長の依頼で病弱の奥さんを広島市の実家まで送って行くことになったのは、終戦の前年、昭和十九年の秋のことだった。
「軍部にすべて手配して貰っているから何も心配することはない。門司には伯父が出迎える手筈になっているし、そこで家内を引き渡せばいい。正造はまた十日後に出る帰りの同じ船に乗って帰って来い。
少しの間だが、九州のおふくろさんのとこへも寄って、久し振りに甘えて来るといい」
連隊長は磊落に笑って、
「正造は頼りになるなあ。男の子はやっぱりいいなあ・・・」と、大きな手で正造の肩を叩いた。
しかしその晩秋の午後の、明るい陽射しの下で見た連隊長の笑顔を正造は二度と再び見る事はなかったのである。
もはやすべての歯車が狂いはじめていたのだ。底知れぬ黒い渦に日本が巻き込まれ始めたあの悪夢のような月日の、それはほんの序章でしかなかったのだが。
(八)
もう長い間手の入っていない柴垣は無残にもそこかしこが破損していて、垣根の下には去年からの落ち葉が、風の吹き溜まりさながらに積み重なっている。
病に倒れる以前の菊子はガーデニングにも熱心だったから、このあたりでも人目を引くほどの庭だった。四季折々に花を植え替え、雪柳や連翹などの枝は生け花の教材にもよく使っていた。
今ではもはや見る影もないただの叢でしかない。
菊子の身の回りのことで手いっぱいの正造には庭の手入れに費す時間など、まるで無かったし、第一その気にさえなれなかった。
玄関の鍵を開けると、隙間に挟んであったらしい小さなメモ用紙がはらりとたたきに落ちた。
「本日、入浴サービスの日なのですが、ヘルパーの都合で廻れなくなりました。
申しわけありませんが、 次回は来週、火曜日となります。もっと早目にご希望でしたら区のケアセンターへお電話ください。
ケアマネジャー・橋本」
(なんだ・・・来れないのか・・・)正造はふうっとため息をついた。
入浴サービスは週二回廻ってくるのだが、先週は菊子が少し熱を出していたのでこちらから断っていた。
下半身が全く動かない菊子なのだが、オムツを当てることを嫌い、ベッドの脇に簡易トイレを置き、正造が抱きかかえて座らせ、用をたすのである。
しかし時にそれが間に合わなかったりすると衣類はもちろん、その辺一帯を拭いて回らねばならなくなる。
その臭気だけでも初めのうちは耐え難かったが馴れとは怖ろしいもので、その後始末も今ではどうにか手際よくやってのけられるようになっていた。
しかしその眼に見えない魔の手のような臭いは壁といわず、フロアといわず、刻一刻奥深くまで沁み通ってゆくように思えるのだった。
その魚の臓物が腐ったような不快な臭気こそが介護者に課せられた究極の重圧ではないだろうかと正造は思うのである。
今日は午後三時から入浴サービスを受けるはずだった。前回休んだ分を含め、もう一週間も洗っていないことになる。
菊子の身体から発する臭気はもう限界に達していた。これで今日も中止となると・・・。正造は気が重くなった。
区のケア・サービスからの初めての訪問介護を受けた日、・・・それは退院して一ヶ月ほど経ったころだったが・・・介護の女性二人に抱きかかえられての久しぶりの入浴に菊子がどんなに喜んでいるだろうかと、風呂場に正造が足をいれたとたん
「い・や!」回らぬ舌で、菊子はそれでもはっきりと夫の目を拒絶したのであった。
「あらぁ・・・太田さん、旦那さんでしょ? なに恥かしがってんのよぉ」
介護のひとりが冷やかすように笑ったが菊子はにこりともせず、眉根にくっきりと皺を寄せ「い・や!」と顔をしかめる。
「参ったなあ」
正造は訪問介護の二人の女性にてれたように笑いかけ、さりげない風を装いつつ風呂場を出た。
それ以上居残って菊子が拒絶を主張するあまり、みっともなく喚きだすことを恐れたのである。
入浴介護サービスはローティションの都合で、時折り一人だけしか来てもらえないことがある。そういうときはベッドに横たわったままで、簡単に沐浴を済ませる方法が取られる。ヘルパーは熱々のタオルを何枚も用意しておき、慣れた手付きで手早く上半身を清拭する。続いて今度はベッドの上にシートを敷き、バケツ一杯のお湯だけで下腹部を器用に洗い流していく。
大人用の、それも特大の紙オムツを腰の下一ぱいに広げ、ベビー用の入浴剤を肌にまんべんなく塗りつける。あとはバケツのお湯をマグカップくらいの容器に小分けしながら、ガーゼを使って洗い流す。紙オムツの威力は想像以上に逞しくて、流した湯を面白いように吸収した。下に敷いた防水シートは殆ど濡れることなしに、短い時間で見事に簡易入浴を終えるのだった。その手際のよさに正造はいつも頭の下がる思いがした。
だが我儘な菊子は、ヘルパーにあれこれと難クセをつけては、不快を告げることがよくあった。お湯が熱すぎるだのヘルパーさんの手袋が硬くて痛いだの、介護の仲間うちでは恐らく扱いにくい老人の筆頭にはいっているに違いなかった。
ただ、このメモの主、橋本さんにだけはなぜか菊子は気を許していた。時には笑みさえ浮かべながら、回らぬ舌で訥々と話しかけたりもするのだった。介護の時間が終わっても菊子はもっと留まってもらいたくて、もう帰り仕度を済ませている橋本さんの腕を捕らえて放さないことすらあった。
橋本さんは五十ちょっとの、ふっくらした明るい女性だった。
ケアマネジャーという仕事がら、直接介護作業に携わることはないが、ヘルパーの訪問先を把握し、介護活動がスムーズに流れるよう臨機応変に対処するという、いわばケア・プランナーなのである。
おおらかな、しか