井伏鱒二の「黒い雨」は広島の原爆を描いた作品として、1966年新潮社より刊行。その中心になる資料が重松静馬の書いた日記。市内横川駅で被爆し、古市の勤め先に避難。日記は2001年、筑摩書房より発刊                                  
重松日記とは
井伏鱒二との関係は
 戦後、井伏の疎開先へ重松が義理の弟と共に訪問。焼き物などの話をしたと、2003年8月9日の講演の中で、重松文宏氏の説明があった。(偉い人には会っておけ、これが父の教えでしたと重松の養女の方も話された)以後交流を重ねるうち、1962年、平和運動に役立て欲しいと自分の書いた日記を井伏に託す。事実の重みに一度は書くのを躊躇した井伏も、日記は返却に及ばずと言われ再挑戦。         
日記公刊で分かったこと
 日記を文学作品の中にうまく取り入れている。記述が描写になり、いつの間にか井伏の小説になるあたりが読みどころでは。ふたりはよく打ち合わせをし、日記の間違いを直した部分も。巻末の井伏の書簡からは井伏の謙虚な人柄と、重松の井伏への尊敬が読み取れる。
被爆当日の避難ルート確定
自宅場所の発見
 重松日記発刊当時、高松市文化協会から原爆文学についての講演依頼を受け、その下調べをしていくうち、巻末の避難ルート図が本文と合ってないこと、当時の地図でないことなどに気付き筑摩書房へ問い合わせ。
 折り返し、編集を担当した井伏鱒二の研究家、相馬正一氏より四点の照会が。
 @当時の千田小学校の場所 A千田町二丁目862または869の場所 B大学農園の場所 
 C国泰寺の場所
 県立図書館と広島法務局で資料を探して送付。同じ頃、広島県神石郡三和町の重松自宅より被爆直後に書かれた被爆ノートが発見され、詳しい避難ルートが確定。三刷からはそのルート図に差し替え。
 詳細は当日の講演録「黒い雨」と「重松日記」(讃岐文学54号)を参照されたい。(
広島県立図書館所蔵)
 
 讃岐文学は故永田敏之氏が1956 年創設。13号(1965年発行)所載の「八百長」(新橋遊吉)が54回直木賞を受賞するなど、老舗同人誌。永田氏からの講演依頼がなければ、正しい場所は不明のままだったかもしれません。地下の永田氏に深くお礼申し上げます。
当時の資料から
 重松日記
(昭和14年陸軍省撮影)
文理大学グランドは構内にはなく、京橋川西畔、現在のヒロデンボウル付近。南端に、重松と妻が落ち合ったプール。
現在の並木通り、地蔵通り、さらに広大跡地東側の通りは当時は平田屋川。御幸橋西詰で京橋川と合流。今は埋め立てられて道路になっている。重松は、従来考えられていた京橋川沿いではなく、この川に沿って文理大角→鷹野橋→紙屋町方面へと避難。「黒い雨」の記述どおりだったことが確認される。
広島市空中写真
(旧土地台帳)
千田町2丁目字内四ノ割814-9の地権者として野津浩爾の名が。日記にある向かいの野津さんとすると重松住居は814-9と大学農園(文部省を表す書き込みあり)に挟まれた810-2と推定。2丁目は827-20までしか地番が無いので、「黒い雨」の862は井伏の創作であろう現在は、戦後広くなった千田小学校の校庭南端になっている
(旧土地台帳付属地図)
←大学グランド
←プール
←平田屋川
千田小→
大学農園→
広島高等師範
広島文理大学
←京橋川
←重松自宅
鷹野橋
     野津宅
  重松宅
 
大学農園
(この写真は国土地理院の許可を受けて
     航空写真を利用したものである)
広島 花と絵付けのページ
重松日記
『重松日記』の避難コース判明(一部抜粋)                
                一読者の投書から      岐阜女子大学名誉教授  相馬正一
 本年五月に重松静馬氏の被爆日誌原本を翻刻した『重松日記』が刊行されて以来、版元の筑摩書房
へ読者から好意的な感想文が多数寄せられたが、その中に、同書の巻末に添えた八月六日の重松一
行(重松・妻シゲ子・姪安子)の避難コースは当時の市街地図と異なるのではないかとの貴重な意見が
あった。
 広島市在住の****さんは、被爆前の広島市街地図や被爆直後の航空写真および旧土地台帳などを参
照しながら、重松一行の足どりを独自に想定している。
(中略)
 最近発見された重松氏の被爆ノート(日誌原本の基になった草稿)によれば、見渡す限りの焼け野原の
中で自宅の焼失を確認した重松一行は、「御幸橋北詰に流れ込む川沿いに上り、流川町より左に折れて
紙屋町に出る計画(古市への最短距離)で歩き始めた」が、「文理大裏からは余燼で進めぬ。進路を変え
中島の方へ」と向かう。
 当時、福屋百貨店の手前の平田屋川を起点に南下して広島文理大、千田小学校の裏側を流れ、御幸
橋へと注ぐ人工の掘割り(平田屋川)があったという。現在は埋め立てられて「並木通り」、「じぞう通り」の
道路になっている。
 
 これまで日誌原本の、「川岸を左岸に渡り、右岸に戻り、どうにか比治山橋から中島へ抜ける大通りに
出た」という箇所の<川>を京橋川だと考えていたので、比治山橋から鶴見橋を渡って中島町へ至る大通
りを想定してきた。


 しかしノートと照合してみると、重松一行は比治山橋まで行ったのではなく、狭い平田屋川を「左岸に渡
り、右岸に戻り」しながら、文理大の裏を回って「比治山橋から中島へ抜ける大通り」の途中に出たので
ある。
(中略)
 井伏鱒二が「黒い雨」の主人公に、「僕は古市の会社へ行く最短距離を慎重に考えて、比治山橋か
ら鷹野橋へ抜ける大通りに出た」と語らせているのは、おそらく避難経路を重松とよく打ち合わせてお
いたものと思われる・・・・・
ちくま366号(2001年9月1日発行)より、ご本人の了解を得て転載
管理人より言わずもがなの一言を
「A君、昔、確か流川のあたりに川がなかった?」
「あったよ、平田屋川」
「どう流れていた?」と地図を持ち出し、1976年生まれの長男に教えを乞う。
人付き合いは苦手だが、電車と地図なら何でも来いの長男はさっさと昔の川筋をなぞる。
「本についているこの地図はおかしい。昭和20年の地図じゃない」
「ふーん、そうなの」
と、普通ならそれで終わるところを、たまたま講演の依頼を受けているので、そのままにも出来ず、つい筑摩書房に問い合わせ。そこから思いもかけずに、避難ルート確定のお手伝いをすることに・・・  

 2001年8月1日 広島法務局で「重松日記」に出て来る「隣組」の野津という名前を発見。公的な資料で重松の住所がようやく確定。ずーと、ずーと「黒い雨」の描写が腑に落ちなかったので、本当に嬉しかった。四年間いた広島大の千田キャンパスには小説に出て来るプールも農園も無かったので。

 ここまで避難ルートの確定に手間取ったのは、戦後、この辺りが激変していることもあるが、重松と親しかったと言うある人の言動にも原因があるのでは。
黒い雨」は盗作である。それがこの人の長年の主張で、2001年8月号の「文学界」には猪瀬直樹氏もそのことを言及。日本ペンクラブ:電子文芸館の猪瀬氏の評論←興味のある方はどうぞ
しかし私は盗作と主張するは無理と思います。巻末の井伏の書簡を読むと、資料として利用し、重松との信頼関係の上に小説が成立したことがよく分かるからです。井伏さんは悪人ですというのは太宰治独特の言い方で、甘え、寂しさの言葉だと思います。
(猪瀬氏には、「日記持ち出し事件」のいきさつを、地元広島で発行された「梶葉」6号などを参考に調べていただきたいと願っています)
あわせて北海道新聞の書評もどうぞ。こちらも猪瀬氏に反対の立場です。
宇品に住む年配の方のお話

「宇品では被爆者が亡くなっても、(重松日記にあるように)悠長にお経などあげる暇はなかった。とにかく次から次に人が死ぬんじゃから。暑い時じゃけん、すぐ焼かんとえらいことになる。わしも手伝うたよ。空き地という空き地に穴を掘って、遺体を並べて焼いた」

「そんなひどい死体は見とらんよ。御幸橋のところで20体くらいかな。ムシロを被せてあった」
「いま道端に死体がひとつでもあれば大変ですよね。何とも思わなかったんですか」とお尋ねすると
「戦争中じゃけんね、(もう敗けるのではというより)ますますアメリカが憎かったね」

当時はそう感じるのが自然だったのかもしれない。

2004/6/2に追加として伺ったお話  御幸橋のところに翌日15体くらいあったのは新しい死体だと思う。原爆の落ちたその日のうちに、宇品の暁部隊や似島から兵隊が来てあらかた片付けたあとだろう。御幸橋のところも、そんな少ない数の死体ではなかったはず。
「悲惨というのは、まだ平常心が保たれている。本当に悲惨な光景を見ると、切れ切れな感想が浮かんでくるだけ」という意味の、日記の中の描写に特に打たれた。
 そうしないと人間の神経が持たないのだと思う。

 それでも重松は、子孫にと渾身の日記を残し、それを小説として完成させた井伏の力にもただ感服。悲惨の極みの人の美しさや醜さを、これからも何度も読んでいきたいと思う。

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昭和30年頃、熊本市出水町在住の馬場幸助さまの消息をご存知の方はト ップページからメールでお知らせいただけませんでしょうか。広島市詳細地番入り地図の著作権者です。   
(旧土地台帳及び付属地図は広島法務局保管)

上三点の資料については転載禁止。詳しくは国土地理院と広島法務局にお問い合わせ下さい。
お願い
 広島市詳細地番入り地図
 (但イメージ:図を元に管理人が制作)

 重松の自宅付近は戦後、区画整理をし道路が付け替えられた。
 左は古い地番と新しい区画図を重ね合わせたもの。重松のいた810番
 地は殆どが千田小の校庭になっていることが分かる。
 
 この図は広島県立図書館所蔵
  
 昭和30年12月12日 熊本市出水町今586 馬場幸助の署名あり。手
 書きで青焼きの地図。新しい地番の入った図もあり、昔の地番と対照
 出来るすぐれもの