ユーミンの 万葉歌碑めぐり        
ユーミンの万葉歌碑めぐり  40

万葉歌碑めぐりも40回となりました。
奈良県の歌碑を巡って3年です。
このあたりで少しお休みをさせていただきます。

前回39回が万葉集1−1の雄略天皇の歌でした
今回は最後ですので20−4468大友家持です
大安寺は熊凝清舎・百済大寺・高市大寺・大官大寺・そして
平城京に写されて大安寺と寺の名が移り変わっている飛鳥時代から続く古い寺です

碑は門を入った正面植え込みの下にあります。

うつせみは 数なき身なり 山川の
   清けき見つつ 道を尋ねな    20−4468

             書 元暦校本より

★人の身ははかないものだ。山や川の清らかさを見ながら
  仏の道を求めたい

名門大伴氏の涸落していく悲しみが仏の道に救いを求めたのでしょうか。
この後 奈良麻呂の反乱がおこり大伴氏からも一部のものが加わったことか、事前にもれ、参加者はことごとく逮捕、処罰され大伴家はここで力をなくしてしまいます。
家持は因幡国守に左遷され、そこで迎えた正月に詠んだ歌が「万葉集」最後の歌になっています。

新しき 年の始の 初春の
   今日降る雪の いや重け吉事    20−4516

この歌を最後の歌として後、家持の歌は一首も知られていません
その死までの27年間の人生が残されているのですが家持の後半生の歌が残っていないのは大きな謎です。

三年間つたない写真と文でしたが、お付き合い下さって有難うございました。
              ユーミン

★万葉集のこと歌碑のこと、いつも楽しみにしていました。
いろいろと勉強させていただきました。
長い間有難うございました。
また機会があれば 投稿をお待ちしています
              sakkoより

ユーミンの万葉歌碑めぐり 39

朝から空は晴れわたり、爽やかな秋空を仰ぎさっちゃんと隠り(こもり)くの初瀬に向かいました。
近鉄朝倉駅から出発、慈恩寺の阿弥陀堂の樹齢800百年のケヤキを見、初瀬の春日神社を過ぎ目的の白山神社に。
白山神社には第21代雄略天皇の万葉集第1番目の歌の碑があります。

第一番目の歌を発したところとして「万葉集發耀讃仰碑」(まんようしゆうはつようさんごうひ)が立っています。

籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串もち この岳に
菜摘ます児 家告(の)らさね そらみつ 大和の国は
おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座(ま)せ
われをこそ 背とは告らね 家をも名をも       1−1

 雄略天皇   書保田与重郎(評論家)

★ 籠もよい籠を持ち へら(掘串)もよいへらを持って、この春の岳で
菜をお摘みになっている娘さん、あなたの家はどこかききたい。
さあ言いなさいよ、この天がしたの大和の国は私が押しなびかせており、
私が総べ治めているのだよ。さあ、あなたも私に
おしえてください、あなたの家も名も

この歌は求婚の歌で民謡風に皆に歌われて雄略天皇の英雄
行為と結びついて伝踊されたのでしょう

この辺りには雄略天皇の「泊瀬朝倉宮」ありましたが
場所は定かではありません
今回この歌碑の拓本を取ることが出来記念になりました。

                   ユーミン

ユーミンの万葉歌碑めぐり  38

朝夕も涼しくなった9月の晴れた日にさっちゃんと天理の櫟本にある和爾下神社を訪れました。歌碑は赤鳥居の北側の広場にありました。

さす鍋に 湯沸かせども 櫟津(いちひつ)の
      檜橋より来む  狐に浴むさむ   16−3824

長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)  書 西本願寺本

★ 皆の者よ さし鍋に湯を沸かせ、櫟津の檜端を渡ってくる、狐に浴びせてやろう

この歌は宴席の場で饌具(せんぐ) 雑器(ぞうき) 狐声(こせい) 河橋(かけう)を折り込んで、即興的に読まれた歌です。
ですがヒツが櫃の意に当たり雑器、檜橋は河橋、狐声は「来む」を「コン」と鳴き声に。

意吉麻呂はこの外にも双六の目を詠んだ歌
・一二(いちに)の目のみにはあらず五六三(ごろくさむ)
    四(し)さへありけりすごろくの采(さえ)  16−3827

人間ならせいぜい目が一つか二つだが、なんとサイコロには五つも六つも三つも四つもあることだ
とか、蓮の葉を詠んだ歌
・蓮葉(たちすば)は かくこそあるもの 意吉麻呂(おきまろ)が
      家なるものは 芋(うも)の葉にあらし  16−3826
★蓮の葉とはこんなものをいうのか、さては意吉麻呂(私)の
  家にあるのは里芋の葉だな
 とは 表の意味で本意は

蓮も葉のようにい美しい女性はこんなにステキなのか
さてさて私の家にあるのは里芋の葉のような我が妻よ

などと即興で詠い宴会も盛り上がったことでしょう
このようなたのしい歌も万葉集にはあります。

万葉歌碑めぐり  37

今回は香久山のふもと畝尾都多本(うねおつたもと)神社を訪れました

なき沢の 神社(もり)に神酒(みわ)すえ 祈れども
    わが大王(おおきみ)は 高日知らしぬ   2−202

檜隈王女(ひのくまのおおきみ)   書 猪熊兼繁 (法制史家)

☆なき沢の神社に真酒を捧げて祈ったのに空しくわが大王は天高く昇ってしまわれた。

ここでの大王は太政大臣高市皇子のこと。檜隈王女は高市皇子の娘と言われています。高市皇子は天武天皇の息子で壬申の乱で父天武天皇を助け、勝利に導いたと人麻呂の歌に読まれています。

また畝尾都多本神社のご神体は古井戸で古事記に記されている泣澤女(なきさわめ)の神の伝説があります

神代の昔イザナギとイザナミの神が神々をお生みになりました。やがて火の神を生んだときイザナミは大火傷を負いそれがもとでみまかってしまいました。イサナギは嘆き悲しみその時の涙で生まれたのが泣澤女の神でした。

涙は水を表します。水の神を祭り、ご神体が井戸なのではないでしょうか

万葉歌碑めぐり  36

今回は聖武天皇が一時的に奈良から都を移した、京都府相楽郡加茂町に行ってきました。
道は国道24号から163号にはいると急に山間の景色になり緑いっぱいの道を通って加茂に入りました。
碑は木津川にかかる恭仁大橋北に建っていました。

今造る 久邇(くに)の都は 山川の
      さやけき見れば うべしらすらし   6−1037

  大友家持    書  守屋弘斎

今造営中の久邇の都は山も川もすがすがしいのを見るとここに都を造られるのも当然であろう

      

天皇について移ってきた貴族の中に家持もいたのでしょう。
天平15年8月16日鵜うち舎人(うちとねり)大友宿禰家持が久邇京を讃めて作った歌となっています。

聖武天皇が造ろうとした久邇の都ですが完成を見ぬまま次の難波・信楽へと移っていきました。

恭仁京跡は山城国分寺となり、今では礎石が残るばかりです。
加茂に行ったのは7月中旬でしたが京跡にはコスモスの花が美しく雨の合間に咲きそろっていました。

万葉歌碑めぐり  35

宇陀は古代 安騎野といわれ官廷人の狩りの場になっていました。極寒の中狩りにきた軽皇子(かるのみこ)は壬申の乱当時安騎野を訪れた父草壁皇子とちょうど同じ年頃になっていました。

★ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみじば)の
           過ぎにし君が 形見とぞ来し  1−47

  柿本人麿     書西本願寺より  
   所在地  神楽(かぐら)岡神社

※ 草を刈るしかない荒野ではあるが黄葉が散るように亡くなられた君の形見としてやってきたことです。  

歌碑

宇陀の古い町並みの通りから細い石段を登った境内の神楽神社・社殿の前に碑は建っています。

狛犬

石段を登りきったところに2匹の石の狛犬があります。
頭頂を平らにし、押しつぶしたように横に広い頭部。
鋭い奥目、豊かな巻き毛、威嚇するような姿でたっています。
名石工 佐吉の作品です。幼くして両親を亡くし孤児となったのを難波金兵衛に引き取られ石工となり「日本一の石工」と云われながらも生涯結婚もせず、定まった家も弟子も持たず亡くなった所もわからない流浪の名工の作品です。

ユーミンの万葉歌碑めぐり 34

天理市石上神社の鳥居を入ると左手に堂々とした歌碑があります。
未通女等(おとめら)が 袖布留(そでふる)山の 瑞垣(みずがき)の
  久しき時ゆ 思ひきわれは    4-50

★乙女がそでを振るという布留山。その布留の社の瑞垣のようにずっと昔からあの娘のことを思っていたのだよ、私は

国宝七支刀

七支刀(ナナツさやのたち)は刀身の両側から枝が3本づつ互い違いに出ているため実用的武器ではなく祭祀的な象徴として用いられたものでしょう。
長さ74・8cm  刀身65・5cm  表面に34 裏面に27の銘文が掘り込まれています 

山門

石上神社の祭神は神武天皇。東征の時従わないものを討ち従えたと伝える神剣の布都御魂(ふつのみたま)大神。
古代石上神社は朝廷の武器庫であり、膨大な武器が物部氏により管理されていました。