10,光秀とお福(春日局)
斉藤利三の母は光秀の妹だったともいわれ春日局と光秀の関係はきわめて深いうえに、
春日局が家光の乳母になった理由は、京の粟田口で乳母募集の高札を見たことにあるとい
う説があります。家光の乳母募集を高札ですることは有り得ませんが、粟田口といえば、光秀
の遺体が磔にされた因縁の場所でもあるのです。何かを暗示しているかのようにも思われま
す。
麟祥院


東京都台東区湯島4
春日局のお墓は、東京大学と旧岩崎邸庭園と湯島天神に囲まれたところに位置する
春日通り沿いにある。
近くの上野公園には、天海僧正毛髪塔もある。
東京大学赤門 旧岩崎邸庭園


春日局について簡単に説明します。
三代将軍家光の乳母。名はお福。父は斎藤利三。稲葉正成の妻の妻となり正勝(のちに小
田原城主)らを生み離別。のちに大奥に入り、家光の乳母となった。家光・家忠の継承争いの
際、大御所家康へ直訴。これが功を奏して家光を三代将軍とすることができ、大奥を統率した。
家光は、あまりにも春日局を大事にした。3日天下の明智光秀と父利三の代わりに、春日局が
天下に君臨する意欲を燃やしたのだろうか。
水尾天皇の譲位問題では、秀忠の意で上洛、天皇と拝謁するなど、一介の乳母を遥かに超え
た働きを見せた。春日局は天皇は拝謁の際に賜った院号。
さらに、春日局の夫稲葉正成について述べていきたいと思います。
11,稲葉正成(もと春日局の夫・老中稲葉正勝の父)
元亀二年(一五七一)〜寛永五年(一六二八)。稲葉一鉄(良通)の長男重通の養子。通称は
佐渡守。林惣兵衛政秀の次子でありますが、稲葉氏と林氏との間に領地のことで合戦があり、
和睦の結果、正成が重通の婿となり稲葉と改めました。
十四歳になって小牧・長久手の合戦に初陣し、これより秀吉に仕え、その後の諸合戦に武勇
をあらわします。朝鮮の役では小早川秀秋に属し軍功があり、のち秀吉の命令で秀秋の付家老
となり、五万石を領しました。
関ヶ原の合戦では秀秋を説得して徳川方に内通することを勧め、黒田長政・山岡道阿背弥な
どに石田三成方の動向を伝えたのです。関ヶ原の陣では、戦闘の中途で石田方を裏切った小早
川軍で先頭で奮戦した。正成の背後に妻(後の春日局)の存在が大きかったと言われています。
戦後、その戦いぶりを家康から褒められます。

関ケ原の戦い決戦地

石田三成陣地 徳川家康最後陣地
慶長六年(一六〇一)、主君秀秋に対する意見が用いられず、一族とともに本国の美濃(岐阜県)
に帰り、谷口(武儀郡武芸町)に閑居しました。同十二年、家康の直臣となり実家林氏の旧領十七
条(本巣郡巣南町)も含め一万石を領した。これは関ヶ原の合戦での忠節によるとされるが、春日
局との縁故があったからであろう。 のち松平忠昌に付属せられ越後国(新潟県)糸魚川において
一万石、併せて二万石を領しました。同九年、忠昌が越前国(福井県)に移されるとき従わず江戸
に退去し、のち嫡子正勝の領所の常陸国(茨城県)柿岡に身を寄せました。
寛永四年、再び取り立てられ、下野国(栃木県)真岡で二万石を与えられ譜代大名となりました。
春日局と離婚の後は山内康豊の女を後妻とする。
以上のことを見ていくと、何か見えざる手により明智一族を通して歴史を大きく変革する意図が込
められているように感じられます。
ここで少し小早川秀秋について見てみたいと思います。
小早川秀秋(1582〜1602)
小早川秀秋は木下定家の子として近江の長浜に生まれる。定家の妹が羽柴秀吉の妻になった
関係から、秀吉夫妻の養子となる。しかし、1594年、秀吉の実子、秀頼の順調な成長などもあって
秀秋は小早川家に養子にだされる。朝鮮の戦いでは総大将をつとめる。
1600年、関ケ原の戦いでは東軍に寝返る。
秀秋の境遇はどのようなものだったのだろうか。
秀秋と毛利の血のつながりはなく、西軍の秀頼・淀君との血のつながりもない。
それに対して、秀秋の実の叔母の北政所(ねね)は徳川家康の保護を受けている。
秀秋は微妙な立場にいたのだ。
その功で50万石となるも、1620年亡くなる。死因にはいろんな説がある。後継ぎがなかったため
小早川家は断絶。
さらに、ねねについて述べてみたいと思います。
ねねの実家の浅野氏の祖は、清和源氏頼光流土岐氏という。明智光秀との関係があるわけです。
信長の妻の濃姫も光秀との関係があることを思うと不思議でなりません。
濃姫にもねねにも、天は子を授けなかった。天の願いはどこにあったのだろうか。

ねねの道(東山区)
次の関ケ原の戦いにも目を通して欲しい。
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