2009年パンデミックインフルエンザの検証
−シュピーゲル特集解説−
医学博士 外岡立人
2009年4月24日、WHOはブタインフルエンザウイルスから変異した新型インフルエンザウイルス(A/H1N1)の世界的拡大(パンデミック)の可能性を突如発表した。その発表は世界にとって驚きというよりも非常に唐突であった。
なぜなら新規のインフルエンザウイルスが人の世界に、空から舞い降りるように、突然出現することはない。変異などで新規に誕生したインフルエンザウイルスは、最初、その感染宿主である鳥や動物の間で感染を繰り広げているが、変異の過程で人に感染する特性を身につけると、それから人の間で感染しだす。これがパンデミックインフルエンザの初期段階となる。
これまでこうした初期段階に近いインフルエンザがH5N1鳥インフルエンザと考えられてきた。
新型インフルエンザウイルス、またはパンデミックインフルエンザウイルスは、間違いなくH5N1鳥インフルエンザウイルスから由来すると、多くの人のインフルエンザ専門家は予想してきた経緯があった。しかし、その予想は2008年夏頃から変化し初めて、H5N1ウイルスはそう簡単に変異はしないのではないかという懐疑論が海外の専門家の間で広がりだし、パンデミックインフルエンザを起こす可能性のある対象ウイルスをH5N1以外にも求めるべきとする意見が出始めていた。
WHOでは以前から変異インフルエンザウイルスが動物の間で感染しだし、それが次第に人に適合し、最終的に人のインフルエンザウイルスとなって世界中に広がってゆく過程をフェーズで分類していた(表1)。このフェーズ分類は、すでに東南アジアやエジプト等で家きんの間に感染を広げていたH5N1鳥インフルエンザウイルスを想定したものであることは明らかであった。2009年4月の時点では、このパンデミック危険度を表すフェーズは6段階中第3段階にあるとWHOは発表していた。すなわちH5N1鳥インフルエンザウイルスは、鳥の間で主に感染を繰り広げているが、ごく稀に人に感染する状況との判断だった。このフェーズが第4段階に入ると、H5N1鳥インフルエンザウイルスは、人のインフルエンザウイルスの性格を帯びてきたと考えられた。
しかしこのフェーズ分類上の第3段階と位置付けされていたインフルエンザウイルスは、あくまでもH5N1鳥インフルエンザウイルスであった。言葉を換えると、WHOはH5N1鳥インフルエンザに関してのパンデミックフェーズ分類は行っていたが、他のインフルエンザに関しては、このフェーズ分類では一切対象としてなかったと言っても過言ではなかった。
このことがパンデミックインフルエンザの定義問題に大きく関わっている。パンデミックインフルエンザはH5N1ウイルスによりもたらされるという考え方が背景にあったから、パンデミックが発生すると当然、多くの死者が発生するし、その数は中等度のパンデミックでも世界で数百万人、欧米各国でも数万人以上となると想定されていたのである。公式には国際保健規則では、パンデミックの定義に病原性に関して言及されてないとされるが、WHOのウエブでは元々多くの死者が発生する可能性があるとの説明があった。
こうした状況下で、2009年4月にWHOは、メキシコから新型ブタインフルエンザが人の間で発生したとの報告を受けたのである。WHOでは、パンデミックインフルエンザがブタインフルエンザウイルスにより発生するとは全く予想していなかった。ブタインフルエンザウイルスの遺伝子は、元々は鳥インフルエンザウイルスに由来している。そしてブタは鳥と人のインフルエンザウイルスに感染しやすく、その体内で重複感染したウイルス同士の遺伝子交換が起きやすく(遺伝子再集合)、ブタは新型ウイルス製造工場とまで呼ばれることがある。
そうした事実がありながら、WHOがパンデミックインフルエンザを引き起こす新型ウイルスとしてブタインフルエンザウイルスを度外視していたのは、完全にWHOの手落ちであった。そのように批判する獣医学者も多い。
ブタインフルエンザ発生報告がジュネーブのWHO本部に届き、WHOが情報を十分掌握できないまま緊急委員会を開いた経緯は、シュピーゲルの編集部ではリアルに描いている。パンデミックインフルエンザが発生した場合、WHOとしての重大な意思決定が要されるのは世界各国と製薬企業へのワクチン製造の勧奨である。この決定は、パンデミックインフルエンザ発生宣言の決定と同質である。すなわちパンデミックインフルエンザが発生したという判断は、その後の世界の状況を大きく変えることになる。シュピーゲルは、大手製薬企業を含んだ、パンデミックに関わる多くの企業や組織全体を巨大な機械に例え、パンデミック宣言はこの機械のスイッチが入れられることを意味していたと表現する。巨大な機械には大量のワクチン製造に着手する大手ワクチンメーカー、抗ウイルス薬の増産に入る製薬企業、インフルエンザ対策用品製造企業、対策マニュアルを作成する各国の保健担当局等が存在している。そして宣言により、ワクチンや抗インフルエンザ薬、対策用品、関連医薬品、医療用品、医療器材等に対する需要が、世界中で一気に高まることにもなる。
また重要な事実として、H5N1鳥インフルエンザがパンデミックインフルエンザに変化すると予想していた先進国の多くでは、WHOがパンデミック宣言をした場合、相当量のパンデミックワクチンを購入する契約を大手製薬企業と締結していたことがあげられる。
H5N1鳥インフルエンザは人に感染した場合、その致死率は60%を超えていた。またインドネシアでは80%と高率であった。もしもこの鳥インフルエンザが人の間でパンデミックを起こした場合、ある程度致死率は下がったとしても、相当な死者数となることが予想されていた。それゆえ、WHOがパンデミックインフルエンザ発生の宣言をした場合、高額な予算をつけてでも大量のワクチンを購入することが、先進国の間で常識化していた。日本も国内のワクチンメーカーが2000万人以上という大量のH5N1プレパンデミックワクチンを製造し、国は有効期限の短いそれらワクチンを備蓄していた。
H1N1ブタインフルエンザのパンデミック宣言が6月11日にWHOからなされたが、上記の背景を考えると、WHOは当然H1N1ブタインフルエンザが世界に相当の被害を及ぼすと判断していなければならなかったはずである。致死的なH5N1鳥インフルエンザに関しては、WHOも各国の保健当局者も高度に精通していたはずである。しかしH1N1ブタインフルエンザに関しては、未だ良く分かっていなかった。ただ、H5N1鳥インフルエンザとは相当異なり、その病原性は低く、致死率も通常の季節性インフルエンザと同程度だったことは確認されていたはずである。
WHOがパンデミック宣言をした頃のH1N1インフルエンザの致死率は、メキシコ以外では0.18%とされたが、母集団となる実際の感染者数が十分把握されていないことから、致死率は感染者数の把握が進むとともに下降していくことが予想された。なおこの致死率はスペインインフルエンザのそれの十分の一で、季節性インフルエンザのそれとほぼ等しいと判断されていた。しかし最終的にはさらに一桁以上低い数値となっていった。2007年に米国CDCが作成したパンデミック重症度分類に従うと。このH1N1インフルエンザは最軽症のパンデミックに分類される。(表2)。
またこのH1N1インフルエンザの特性として、若年者に感染しやすく、高齢者での感染は稀だった。季節性インフルエンザは多くの高齢者に感染しやすく、死亡者の90%以上が高齢者であるのと対照的だった。H1N1インフルエンザは、早くから高齢者には免疫があることが示唆されていたが、その後、一般成人にも何らかの免疫があることを報告する研究がでていた。
WHOの当初の説明では、パンデミックインフルエンザは新規に発生した新型ウイルスによるものであるから、多くの人々に免疫がなく、そのために莫大な数の感染者と死者が世界で発生するとされていた。しかし実際には、高齢者には免疫があり、成人での感染率が低く、全体的に死者数も少ないことが明らかになってきた。こうした事実は、H1N1インフルエンザの特性が、以前から考えられていたパンデミックのそれと、相当異なることの確認につながった。
ではなぜWHOはパンデミック宣言をして、世界中にワクチン製造を促したのだろうか?
シュピーゲルの編集部の他にも、ヨーロッパやカナダの専門家の中に、世界の製薬企業の影響下でWHOがパンデミック宣言を行ったと批判する意見も多い。特にヨーロッパでは米国ほど流行が拡大しなかった国も多く、また死者数も少なかったから、そうした批判は当然のように起きている。
米国の場合は特殊だった。ブッシュ政権でハリケーン対策が十分でなく、相当の被害を出したこともあって、オバマ政権では過剰なくらいパンデミックインフルエンザ対策の重要性がアピールされていた。しかし病原性の軽さはCDCが十分科学的に説明していたので、大統領周辺から過剰な被害予想が発表されると、CDC長官が異論を発したこともあったくらいだ。
また米国では全人口を対象にワクチン購入契約がなされ、その全費用は連邦政府が出し、基本的に接種料は無料とすることを連邦政府は、各州に呼びかけていた。驚くことに違法在留外国人までを対象とした。また10月24日に大統領は、拡大するH1N1インフルエンザに対して国家緊急事態を宣言しているが(この頃が米国では感染者数がピークで、以後減少してゆく)、これは相当過剰な対応であり、世界的には唐突な印象を与えたはずである。
11月から12月、秋から初冬に入る頃、ヨーロッパでは完全にH1N1インフルエンザは下火になり、例年のインフルエンザの流行以下となっていた。
またこの時期の重要な出来事としてメッカの大巡礼に世界中から300万人の巡礼者が集まったが、H1N1インフルエンザは流行しなかったことがあげられる。巡礼者で混雑するキャンプ内で、数十人の感染者しか発生しなかった。明らかに成人では感染は起きづらいことが明白となった。H1N1インフルエンザが世界で感染爆発(パンデミック)している状況とは到底判断できない結果であった。大巡礼までには警告を発していたWHOが、この結果に関して何ら見解は発表しなかったのは腑に落ちない。警告を発するばかりでなく、予想に反した結果が出た際には、そこから真実を抽出する作業が科学的といえる。ネガティブデータは捨てるのではなく、それをポジティブデータに変えるのが正しい科学的アプローチなのである。WHOはH1N1インフルエンザの危険性を否定されることを恐れているかのように思える。
感染者数が減少するとともに、H1N1インフルエンザザワクチンを英国やフランス、さらにスイスの大手製薬企業に発注していた各国では、ワクチンが大量に余ることが予想され、12月には大量のキャンセル交渉を行う国も出始めた。またフランスやオランダでは、過剰な量のワクチン購入を行った当局が議会で批判される例も出てきていた。
2009年12月にはカナダでも流行は終息状態に入り、米国でも例年の流行ラインを下回りだした。
そうした中、2010年1月末に、ドイツ議会の議員であり、欧州評議会の議員のウォルフガング・ウダルグが、評議会にWHOのパンデミック宣言の検証を要求した。パンデミック宣言は、大手製薬企業の影響下になされたと告発したのだ。その頃大手製薬企業の2009年度の収益が莫大に増加したことが報告され出していた。そして1月末に欧州評議会で公聴会が開かれた。その際、公聴会に参加したWHOのケイジ・フクダが、WHOのパンデミック宣言は、決して製薬企業の圧力下で行われたわけではないと発言している。
2010年2月、カナダのバンクーバーで冬季五輪が開かれた。インフルエンザの発生は全くなかったようだ。WHOもマスメディアもそのような事実を一切発表していない。
しかし同月末に、WHOは世界のパンデミックはピークを未だ超えていないと発表している。
今回のシュピーゲルの編集陣が書き綴ったストーリーを要約すると以下の通りとなる。
・パンデミックインフルエンザの明確な定義は何なのか?
・H1N1ブタインフルエンザを、H5N1鳥インフルエンザで想定してきたパンデミックインフルエンザと、同じカテゴリーに入れたのは正当なのか?その総括はされていない。
・H1N1ブタインフルエンザに対してワクチン製造と接種の必要性が明確に説明されていない。それにも関わらず、パンデミック宣言と同時に製薬企業が一斉に大量ワクチンの製造を始めた理由は?
・世界中で大量にワクチンが余っている現状をWHOはどのように説明するのか?
・H5N1鳥インフルエンザと同じレベルの危険性を警告し、過剰な対策を要求した専門家は製薬企業の影響下にあったのではないか?それは、社会的煽りであり、科学者としての誇りを失った言動ではなかったのか?
・今後新たなパンデミックが発生したとき、世界はWHOや他の専門家達を信頼するだろうか?
筆者は昨年9月末にマスメディア関係者に講演をおこなったとき、マスメディア報道は真実を伝えるべきで、単に国の発表、さらにはWHOの発表を伝えるだけでなく、その発表内容の真偽をも検討して、一般社会に伝える義務があると主張した。要するに根拠に基づいた報道である。
そうした観点から考えると、日本における新型インフルエンザの定義、その発生の判断、さらにはワクチン製造と接種に関する問題等、日本のマスメディアは健全に社会に情報を提示してきたとは思われない。
健康危機対策の中心を担う公衆衛生学は深窓の純粋科学ではなく、社会と密接な関係をもった社会医学である。社会に利益をもたらすことで存在理由がある。
WHOを中心とする公衆衛生学を担う機関や組織が、商業主義に毒され始めると、真の危機対策は難しくなる。
今回、シュピーゲルの編集陣が放った警告は、まさにそこにあると筆者は思っている。。
表1
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WHO新型インフルエンザ流行段階区分 2009年版
Phase 1: 動物の中(主として鳥)で感染しているウイルスが、ヒトにおいて感染を引き起こしたとの報告がない状態。 Phase 2: 動物の間で感染しているインフルエンザウイルスが、希にヒトに感染を引き起こしたことが知られていて、将来的にパンデミックを引き起こす危険性があると考えられる状態。 Phase 3: 動物に感染しているインフルエンザウイルスが、時に人に散発的に感染したり、複数以上の小集団感染を起こすが、市中での流行を引き起こすだけの人への感染性を有していない状況。 Phase 4: インフルエンザウイルスが、市中での流行を引き起こすだけの人への感染性を有した状況。発生した地域から国を超えてウイルスが拡大する危険性を有している状況。当該国はWHOに迅速に報告して、WHOの協力の下にパンデミック防止対策を講じる必要がある。 Phase 5: 1ヶ所のWHO地域で、2ヶ国以上でウイルスのヒト−ヒト感染拡大が認められた状況。パンデミックが目前に迫っていることを意味し、迅速な対策が求められる状況。 Phase 6: Phase5に引き続き、さらに他のWHO地域で、ヒト−ヒト感染が認められている状況。ウイルスが世界中に拡大していることが示唆されている。パンデミックと同義語である。
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表2.米国CDCパンデミック重症度分類
