【 特 集 】 近 代 製 鉄 の 夜 明 け !    小笠原 正泰
 

釜石鉱山田中製鉄所/栗橋分工場史【釜石鉱山田中製鉄所
    /栗橋分工場史】


1はじめに
2栗橋分工場の必要性
3活躍期
(イ)生産
(ロ)組織
(ハ)陣容
(ニ)採鉱場の概況

4運送機関の沿革
5明治の大洪水
(イ)栗橋分工場構内分
(ロ)山津波
6山神社

7大正8年、鉱業収入
8休山前の組織及陣容
9休 山
(イ)戸数人口の増減
(ロ)職業別現在戸数

10おわりに



橋野・沢檜川流域の製鉄遺跡【橋野・沢檜川流域の
        製鉄遺跡】へ
「釜石鉱山田中製鉄所/栗 橋 分 工 場 史
1 はじめに

 釜石鉱山田中製鉄所栗橋分工場が、かつてどのような姿であったか、そのことについて関心を持ちはじめてからもう数年も経過した。その動機といえば、釜石市橋野町青ノ木の「橋野溶鉱炉」(以下「青ノ木高炉」と呼ぶ)が、昭和32年6月3日、国の文化財の指定を得た時からであった。
 田中製鉄所は事業拡張のため栗橋分工場を竣工し、現在の釜石製鉄所の基礎作りの一環として大きな役割を果たしたにもかかわらず、青ノ木高炉の陰にかくれ、地元の人々にさえ忘れ去られた感じがしている。では、なぜ創立期に活躍した栗橋分工場がそうなったかという疑問を持ちはじめ、また当工場は一体どの程度の規模であったのであろうか、と考えるようになった。それ以来、先輩諸氏の書き残した文献を主体とし、また、学術報告書等を調べながら、その全貌を再確認し、青ノ木高炉との相違を比較し、大体次のような相違点を見る事ができた。
 まず青ノ木高炉について「橋野高炉遺跡発掘報告書」から数点をあげてみたい。

1.設立の
    目的
幕末期の国防資材生産のために設置された。直接の動機は水戸藩の反射炉に供給
する柔鉄生産のために設立された。
2.設立者 南部藩の直営事業として、藩士大島惣左衛門高任によって直接又は間接指導によ
って設立された。
3.様 式 ユ・ヒュギーニンの鉄◆全書を指導書として、大島の研究によって洋式高炉によ
るわが国最初の鉄鉱石による製錬方法である。
4.動 力 木炭エネルギーによって鉄鉱石を溶解し、その送風は水車動力によって1炉に1
基の堅型箱備(?)を利用した。その備(?)はここの職人によって造られたものであ
る。
5.材 料 鉄鉱石、耐火煉瓦、木炭、その他の各種材料は南部藩産である。

6.経 営 設立者は南部藩士、出資者は地元商人、技師長は南部藩士、職人の大部分も南部
藩民、職人の職階は20数種に分かち、賃金制による相当進歩した用具を使用し
て経営した。然も製鉄と鋳銭加工とを一貫作業とし、能率の高い、所謂マニュフ
ァクチャー的経営方式をとって行われた。
7.生 産 この生産によって、従来砂鉄生産を主体としていた製鉄産業界に、短日月の間に
鉄鉱石精錬による、優秀な銑鉄を送り、わが国鉄産業を近代化した。
8.記 録 南部利英氏所蔵の橋野鉄鉱山絵巻によって精錬方式、運営状況が明瞭である。


 即ち、青ノ木高炉遺跡は、藩士大島高任の優れた技術により、鉄鋼業にそう明期を与え、それまでの砂鉄による製法から鉄鉱石の精錬による洋式高炉へと一大改革を起こし、西洋から遅れた近代産業の基本である鉄産業への飛躍を果たした。
 幕末の封建社会の混迷期に、わが国近代産業の基礎を創立し、技術的に、また経営様式においても産業史上画期的な業績をあげた役割は高く評価されているものであると考えられる。
 一方、栗橋分工場については、「釜石製鉄所70年史」に、「釜石銑鉄は陸海軍弾丸材として多量に需要せられるに至り、田中製鉄所は軍事拡張の機運に際会した(中略)明治25年には栗橋分工場(第7小高炉)を新設し、明治27年6月吹入を開始、1日10トンの良質銑鉄を生産した」とある。
 栗橋分工場は青ノ木高炉と違い、田中製鉄所の一分工場として竣工された、青ノ木高炉より35年後の明治25年工事着工である。青ノ木高炉は日本の鉄産業への曙であり、洋式高炉の最初のものとして高く評価されたが、35年の年月において、栗橋分工場はその持つ意義から全く異なるものを有している。陸海軍の弾丸材の需要にせまられ、田中製鉄所としては事業拡張として沢檜に竣工させたもので、最初から民間企業として整備された企業である。これは青ノ木の創業とは全く異なるもので、すでに技術、経営面においても相当進歩し企業化されたものであった。
 このような相違から青ノ木高炉は国の文化財とし、民間企業として操業された栗橋分工場はその後、大正10年2月休山となり解体されると共に、その面影すら忘れられた存在となったことは、止むを得ないものがあると思われる。
 しかし、当分工場の活躍は、現在の釜石製鉄所発展の一環として当時重要な位置にあり、かつ橋野、栗林に及ぼした文化、経済的影響の大きかったことは忘れることができない。
 いま、当時の沿革と、栗橋地区一帯に貢献した当分工場を振り返ってみることも、あながち無駄なことではないと思い、その姿を私なりに先達の偉業をしのびながら知り得る範囲をまとめてみた。