【 特 集 】 近 代 製 鉄 の 夜 明 け !    小笠原 正泰
 

釜石鉱山田中製鉄所/栗橋分工場史【釜石鉱山田中製鉄所
    /栗橋分工場史】


1はじめに
2栗橋分工場の必要性
3活躍期
(イ)生産
(ロ)組織
(ハ)陣容
(ニ)採鉱場の概況

4運送機関の沿革
5明治の大洪水
(イ)栗橋分工場構内分
(ロ)山津波
6山神社

7大正8年、鉱業収入
8休山前の組織及陣容
9休 山
(イ)戸数人口の増減
(ロ)職業別現在戸数

10おわりに



橋野・沢檜川流域の製鉄遺跡【橋野・沢檜川流域の
        製鉄遺跡】へ
「釜石鉱山田中製鉄所/栗 橋 分 工 場 史
10 おわりに

 この調査を開始して以来、多くの人達からご指導、ご教示を賜りこれまで調べてきた。一つのきっかけを頂載し、調査の結果はどうであろうとも、不明な点を解くための動作はまた楽しいものであった。

 例えば、ある時地元橋野で調査中に「栗橋分工場初代監督は吉田義雄という遠野の人であり、2代目は高橋亦助翁であったと聞いている」という話もあった。一方、明治43年の職員録に見られる吉田義雄氏は、会計課長兼財務係員であり、大正9年の職員録には釜石鉱山郵便局長である。
 また、遠野町誌(昭和28年刊)に見られる吉田義雄氏は、町制施行以前の明治21年前後、横田村官選戸長を歴任したとある。ところが調べているうちに、この両氏は同一人物であることが分かった。氏は、安政元年盛岡に生まれ、明治10年代、上閉伊郡役所に入り、後横田村官選戸長を歴任した。同35年郡役所より釜石鉱山に移り、会計、庶務両課長、鉱山郵便局長(大正7年〜昭和6年)のかたわら町会議員(明治43年〜大正14年まで連続4期)をつとめ、昭和8年80歳にして亡くなられた。  氏の後を継いで昭和36年まで局長をつとめた吉田四郎氏とは、親子の間柄であり、四郎氏のお話によると、明治35年、3歳の時釜石に移ったが、それ以後、栗橋へ行った記憶はない、ということである。
また、栗橋支所蔵「寄留関係書類」にも吉田義雄氏の名前は見受けられなかった。
同書類に「高橋亦助、平民、嘉永六年十一月二十三日生、南閉伊郡釜石町七百二六番戸、明治二七年三月二八日橋野乙八十七番戸男獄鉱山構内へ寄留同年四月五日届出」とあり、 おそらく第7高炉建設の指導者であり、監督も高橋亦助翁1人であったものと考えられる。以上これまで調査できた分をまとめてみたが、不明な点、未調査の個所が非常に多く残っているので、今後とも微力ながら調査を続けて行きたいと思っている。

 橋野町における製鉄の歴史は、本書で述べた栗橋分工場だけではない。今日では国の文化財史蹟として指定になっている青ノ木高炉跡は、安政5年に建設され、翌6年に大橋高炉に次いで鉄鉱石精錬による出銑に成功し、大橋の高炉とともにわが国近代鉄鋼業の基礎を確立し、著しく不振であったこの東北地方に産業勃興の機運を与えた。
 また、栗林銭座も小規模ながら南部藩最後に建設された公認銭座として、営利的企業のために建設されている。そして、明治年間に橋野町にいわゆる第7高炉が建設された。  製鉄業といえば、今日では基幹産業としてその重要性を帯びた産業であり、戦後いち早く復興し、数次にわたる合理化計画の推進によって、飛躍的な発展を遂げ、現在米・ソに次いで世界第3位の鉄鋼生産国として、世界の注目を浴びているように強固な地位を確保している。

 この製鉄業を幕末期から明治、大正と3世にわたって高炉を建設し、わが国鉄鋼業の先駆的な役割を果たした橋野町である。にもかかわらず、今日ではその面影すらなく、一農村として近代的な産業をなにひとつもっていない当町を観察するとき、いかに時代の革命的な転換を迎えた結果とはいえ、明治維新以降、政治、社会、経済の急変でその方向が見失われたことは誠に遺憾の極みである。しかも、その企業構造が近代製鉄業であっただけに、心ある住民の創意によって、どうにかこれを支えて育成することができなかったのであろうか。  今日釜石製鉄所が迎えている危機感というのは、ちょうど橋野町が辿った運命にあまりにも類似しているような気がしてならない。その地域社会に住む総ての人の総力が結集されなければ、再び釜石が橋野町の二の舞を踏む結果になりかねない。

 最後に、この調査に当たり新沼鉄夫、昆勇郎両氏をはじめ、多数の方々のご指導ご鞭撻を賜わったことに対し、紙上より厚くお礼を申し上げます。