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◆ 近代製鉄の夜明け!概要
「近代製鉄の夜明け!」内容は、別ページにリンク。
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近代製鉄史についてまとめる (小笠原正泰氏)
2003.02.07
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釜石市橋野町出身の小笠原正泰氏(元新日本製鉄葛ホ務、千葉県木更津市在住)が、近代製鉄の発祥、明治初期の製鉄の様子を独自の観点から長年にわたり調査・研究されて、この度、集大成しました。
(研究成果は、以前にも発表されているようです)
幕末・安政4年に大島高任が釜石の地で、製鉄の革命・洋式高炉での製鉄に成功して、”製鉄のブーム”となり、大橋・橋野・栗林地区で十数基の洋式高炉が稼働していたようです。近隣はかなり活気があったようですが、時代と共に消えていき(釜石製鉄所に集約したと言えるかもしれません?)、当時の面影を残すのは、文化財の指定も受けている橋野高炉遺跡のみとなりました。
当時の様子を知る人はもちろんおらず、その歴史は忘れ去られようとしていました。
小笠原正泰氏は、そのような歴史・名もない遺跡に目を向けて調査・研究されてきたとの事です。「郷土の歴史を知ってほしい。その教訓を今後に生かしてほしい」とのことです。
◆当時の様子を想像するに、鉱石や燃料を運搬する馬車、出来上がった鉄を運ぶ馬車が行きかう。当時、全国でもめずらしい自動車も走っていたといいますから驚きです。周辺の山々では燃料の木炭作りで、煙が方々から上がっていたに違いありません(でも、すでに石炭だったのかな?)。山間の集落としては、異常な活気だった事と思います。それは、さながら
映画「もののけ姫」状態と思われます。しかし、時とともに消えて、これまた映画と同じように森に返ろうとしています。故郷に活気が、なくなる事は寂しい限りです。歴史をしっかりと理解して、今後に生かしたいものです。
研究成果は、本(家族の生い立ちも含む本)にまとめられたのですが、この度「特集・近代製鉄の夜明け」と題して、三陸通信のページにも掲載することとなりました。
内容が多いため順次掲載 (今回は「橋野・沢檜川流域の製鉄遺跡」を掲載) となります。ご期待ください。
【 特 集 】近代製鉄の夜明け!
「橋野・沢檜川流域の製鉄遺跡」 「釜石鉱山田中製鉄所/栗橋分工場史」
●はじめに 1はじめに
●明治初期の高炉遺跡の発見について 2栗橋分工場の必要性
1緒 言 3活躍期
2釜石鉱山をめぐる遺跡 (イ)生産
・大橋高炉 (ロ)組織
・佐比内高炉址 (ハ)陣容
・砂子渡高炉址 (ニ)栗橋分工場採鉱場の概況
・橋野高炉遺跡 4運送機関の沿革
・田中製鉄所分工場 5明治の大洪水
・栗林高炉遺跡 (イ)栗橋分工場構内分
3幻高炉を示唆する文献 (ロ)山津波
・小笠原魁家文書 6山神社
・岩手県誌資料 7大正8年鉱業より得たる収入
・栗橋村郷土教育資料 8休山前の組織および陣容
・釜石四近鉱床調査報文 9休山
・岩手県史 (イ)学区内(橋野一円)戸数人口の増減
・明治工業史 (ロ)職業別現在戸数
4幻の高炉遺跡の探求 10おわりに
5結 言
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近代製鉄史 Part2!掲載
2003.02.19-22
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小笠原正泰(おがさわら まさよし)氏のまとめた近代製鉄史の続編「釜石鉱山田中製鉄所/栗橋分工場史」の一部ができましたので掲載致します。
釜石鉱山田中製鉄所/栗橋分工場は、青ノ木高炉より遅れて操業、場所は同じ橋野町にありました。鉄の質も良質で経営的にも近代化され、現釜石製鉄所の基礎作りに貢献したようです。しかし、高炉が休止となり解体されると遺跡は残らず、歴史上からも消え、地元の人々からも忘れられてしまいました。
文化財遺跡として残る青ノ木高炉とは、対象的な点に小笠原氏は疑問を持ち調査したようです。また、片葉山山麓では、鉄鉱石が採鉱されていたようですが、当初は露天掘りであったといいますから驚きです。当時の報告書がそのまま記載されています。(少々文章が難しいですが。)ただ、事故が多いため、トンネルとなったようです。
もう鉄鉱石は、なくなったのですかねえ? 是非、釜石鉱山の方に伺って見たいものです。あっても採算が合わないのでしょうが、観光とか何かに利用できないものでしょうか?
今回は「釜石鉱山田中製鉄所/栗橋分工場史」の一部(下記)を掲載します。
【 特 集 】近代製鉄の夜明け!
「釜石鉱山田中製鉄所/栗橋分工場史」
1はじめに
2栗橋分工場の必要性
3活躍期
(イ)生産
(ロ)組織
(ハ)陣容
(ニ)栗橋分工場採鉱場の概況
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近代製鉄史 Part3!掲載
No.025/2003.03.20
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◇小笠原正泰(まさよし)氏のまとめた近代製鉄史の続編ができましたので、掲載します。
◆「釜石鉱山田中製鉄所/栗橋分工場史」(中編)
当時はまだ珍しかった自動車を運搬に使用していた様子。また、未曾有の豪雨に見舞われ山津波(今で言う土石流)が発生し、大きな痛手を被ったようですが立ち直った様子。山神社へ石造の鳥居を奉納した様子が紹介されています。
【 特 集 】近代製鉄の夜明け!
「釜石鉱山田中製鉄所/栗橋分工場史」
4輸送機関の沿革
5明治の大洪水
(イ)栗橋分工場構内分(ロ)山津波
6山神社
←木漏れ日と静寂の中にたたずむ山神社
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近代製鉄史 最終章(Part4)!掲載
No.030/2003.04.21
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◇小笠原正泰(まさよし)氏のまとめた近代製鉄史の最終章ができましたので、掲載します。
◆「釜石鉱山田中製鉄所/栗橋分工場史」(後編)
当時の生活の様子として、鉱業より得たる収入をまとめています。参考までに栗橋村名与職村長は300〜360円、釜石町長では600円程度の年俸であったとの事です。近代的な技術と経営を目指し活気にあふれていた栗橋分工場でしたが、第一次世界大戦後の軍備縮小や金融恐慌など世界的な情勢には勝てずに休山に追い込まれたようです。そして、橋野、栗林は静かな元の山村へ返っていきました。
◆最後に小笠原正泰氏は、次のようにまとめています。
「この製鉄業を幕末期から明治、大正と3世にわたって高炉を建設し、わが国鉄鋼業の先駆的な役割を果たした橋野町である。にもかかわらず、今日ではその面影すらなく、一農村として近代的な産業をなにひとつもっていない当町を観察するとき、いかに時代の革命的な転換を迎えた結果とはいえ、明治維新以降、政治、社会、経済の急変でその方向が見失われたことは誠に遺憾の極みである。・・・・今日釜石製鉄所が迎えている危機感というのは、ちょうど橋野町が辿った運命にあまりにも類似しているような気がしてならない。その地域社会に住む総ての人の総力が結集されなければ、再び釜石が橋野町の二の舞を踏む結果になりかねない。」
【 特 集 】近代製鉄の夜明け!
「釜石鉱山田中製鉄所/栗橋分工場史」
7大正8年鉱業より得たる収入
8休山前の組織および陣容
9休山
(イ)学区内(橋野一円)戸数人口の増減
(ロ)職業別現在戸数
10おわりに
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◆小笠原正泰氏がこれを実際にまとめたのは、30年程前です。その後時代は進み、現在の釜石は、鉄の溶鉱炉や街の象徴であった大きな煙突は解体されて当時の面影は全くなくなりました。そしてすでに、小中学生の子供達は釜石が製鉄の街であったことは知らないでしょう。
小笠原正泰氏の心配通り、釜石は橋野町と同じ運命を辿っているようにも思われます。
ただ、私達は当時とは異なり格段に優れた力や可能性を持っています。過去を悔いたりせず、前向きに検討、進んで行く事と思います。
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