
このホームページを作った人

(撮影 1997年7月5日 6時53分)
1996年1月から探鳥を始める。
全くの素人で見た鳥の種類が何か自信がないため、1997年春から写真を撮り始める。
写真も素人でおまけにズームレンズを買ったものだから、ブレた写真ばかりである。
最近思うことなど
お手紙はこちらへどうぞ・・・
(nrfujimori@nifty.com)
↑
Copyright(C.)1996-2002 by Yoko YAHAGI
URL= http://www.cyborg.ne.jp/~yoko/
写真もう一枚


友達の子供たちと一緒に(撮影 1997年10月25日 友達が撮ってくれた写真)
最近思うことなど その5〔2002年8月26日〕
単に地球環境に対する影響だけでなく、自動車の害悪を多面的に分かりやすく説明したものに、杉田聡「クルマを捨てて歩く!」(講談社+α新書、2001年)がある。
また、本川達雄「ゾウの時間ネズミの時間」(中公新書、1992年)には、「こう見てくると、車輪というものは、われわれヒトのような大きな生き物が、山をけずり、谷をうめて、かたい平坦でまっすぐな幅広の舗装道路を造ってはじめて使い物になる、ということが分かると思う。」(p.73)「環境と車との相性の問題は、大気汚染との関連で問題にされることが多かった。しかし、ここで論じてきたように、車というものは、そもそも環境をまっ平らに変えてしまわなければ働けないものである。使い手の住む環境をあらかじめガラリと変えなければ作動しない技術など、上等な技術とは言いがたい。」(p.75)とある。
最近思うことなど その4〔2001年10月7日〕
化石エネルギーの利用に依存する工業が農業に比べて生産性が高いもう一つの理由は、化石エネルギーはすでに蓄積されたものであるため安定的に入手できることである。このため計画的に最も効率の良い形で利用ができる。
これに対して農業は、その年その年の自然条件に依存しながら生産するため、どうしても変動を伴う。干ばつ、長雨、冷害、台風、病虫害の発生などの影響を受けて、予定通りの収量を得られるとは限らない。干ばつなど大きな変動だけでなくちょっとした気象条件の年次変動にも影響される。このため往々にして最悪の場合を考えて作付けることになり、それだけ余計な投入をせざるを得ない。できたものが多くの工業製品のように長期間保存できるわけではないので、幸い異常気象などがおこらずに順調に収穫までいって豊作になったときは、余計にできたものは廃棄したり、供給過剰になって価格が暴落したりすることになる。我々の胃袋は限られているので需要はそう簡単には増えない。例えば、大手量販店などとの野菜の契約栽培の場合には、契約量を供給できなければ契約違反となるため、不作の場合を考えてどうしても多めに作付けるという。
変動によるリスクをできるだけ少なくするために、農業でも比較的人為的に制御し易い生産方法を採用することになる。堆肥などの有機質肥料は土壌中で植物に吸収されるような形になるのが温度条件や土壌水分条件に左右されるため、植物の成長にとって必要となるタイミングとずれてしまうことがあり、収穫量が変動することが往々にしてある。これに比べて化学肥料は速効性のため、植物の生育に合わせてタイミング良く施肥することができる。変動リスクを回避しようとすれば化学肥料に頼らざるを得ない。同じことが病虫害発生のリスクを軽減するための農薬(殺虫剤、殺菌剤)の使用にも当てはまる。また、生育環境を制御し易いビニールハウスなどの施設園芸についても然りである。
このような変動リスク回避対策を施しても、なおかつ収量は年によって大きく変動する。灌漑施設や栽培技術が高度に発達した日本の稲作でさえ、1993年の大冷害をみてもわかるように、変動は大きいことがそれを示している。(これには、消費者の良食味指向で特定品種の作付けに偏り危険分散しにくいことや、農家の兼業化によって天候や病虫害発生などの環境変化に対して臨機応変に作業ができにくいことなどの要因も関わっているが。)
こうした変動を伴うがゆえの農業生産の不効率性を許容せずに、工業と同じような効率性を求めようとするのが果たしてよいのかどうか疑問である。
過去に蓄積された化石エネルギーも、実はその時その時の気象条件などに左右されて大きな変動を伴いながら蓄積されてきたはずである。そうした過去の変動を抜きにして「うまいとこ取り」をしているのが工業生産であり、我々の日々の生活が依って立つ基盤なのではないだろうか。その「うまいとこ取り」を我々の世代で享受してしまえば、将来、我々の子孫はそれができなくなるのである。それも地球温暖化やダイオキシン・重金属などによる環境汚染というおまけ付きで。将来ばかりでなく、現在においても世界各地の多くの貧しい人々は享受できないでいる。そしてグローバル化によって身の回りにある地上の資源や環境さえ奪われていっている。

「うまいとこ取り」之図(左側)
化石エネルギーの利用で我々の日常の生活にとり切っても切り離せないのが自動車である。年間1万q(1週間平均で約192q、1日平均で約27q)走るとして、燃費が15q/リッターとした場合、1年間で667リッター、ドラム缶にして何と3.3本分のガソリンを消費しているのである。仮にこれを1台平均とすれば、日本に7000万台の車があるらしいから、2億3333万本になる。全くの単純計算なので、実際はこれより多いか少ないかわからない。しかし、商業車の多くは排気量も多く1年間にもっと長距離を走っていると思うので多分これより多いのではないか。
地球温暖化の主な原因となっている大気中の二酸化炭素に関連して、森林に蓄積されている炭素について次のように推計されているようです。
陸上(地下の化石燃料は含まない)には2兆500億トンの炭素が蓄えてられており、これは大気中の二酸化炭素に含まれる炭素の約3倍になる。森林にその6割に相当する1兆2700億トンの炭素が存在している。森林に蓄えられている炭素は、@樹木それ自体に含まれる炭素と、A樹木の落葉、落枝、枯れた樹木の幹、根等から微生物による分解でできた土壌中の腐植物質に含まれる炭素の二つの形があり、@が4割、Aが6割をしめている。
日本の森林土壌中の腐植物質には54億トンの炭素が含まれ、これは世界で化石エネルギーの利用により一年間に大気中に排出される炭素量に匹敵し、また日本の排出量と比べれば16年分に相当する。
森林が一年間にどれだけの二酸化炭素を吸収し、樹木に蓄積される炭素がどれだけ増加するかにもよりますが、この推計は二酸化炭素の大気中への放出と吸収に関して森林の果たす役割が大きいことを物語っています。
それと、上の数値をみてわかることは、世界の二酸化炭素排出量の16分の1(6%)を日本がしめているということです。京都議定書からの離脱を表明した某超大国は、人口が日本の2倍あり世界の排出量の4分の1を排出しているといわれ、エネルギー消費大国日本と比べても人口1人当たりでは2倍の二酸化炭素を排出していることになります。その某超大国は国内での貧富の差が拡大しているということなので、一部の「うまいとこ取り」“やり放題組”と多くの“指くわえ組”がいることになります。“やり放題組”の地球温暖化への貢献度がどれほどか想像がつきます。
最近思うことなど その3〔2000年12月10日〕
石川英輔氏は「雑学『大江戸庶民事情』」(講談社文庫、1998年)で、大工(日当は500文−同書p.61)の生活を例にとって食費を推計している。それによると、「一日の食費が大人の一人前で150文、妻と子供の一人もいれば、300文以上かかり、エンゲル計数は60から70くらいになった。しかし、当時としては特にひどい生活ではなく、この辺が都会の〈中流〉の生活だった。」(同書p.62)
大工の一日の実働時間は「平均して4時間半程度だった」(同書p.66)ということだが、いずれにしても、化石エネルギーに頼らないで生活する場合には、食べ物に6〜7割の労力をかけないといけないということだろう。調理の時間も加えると鳥の70〜90%に匹敵するといえる。
最近思うことなど その2〔2000年8月8日〕
鳥は、一日のうち、睡眠時間を除く活動時間の70〜90%を食べ物を探したり、とったり、口に運んだりに費やしているとのこと。
(樋口広芳「鳥の食生活」、週刊朝日百科「動物たちの地球」、19、朝日新聞社、1991、p.6-222参照)
人間も、確かに農業・漁業や食品産業などを中心として食べ物の生産(農機具や肥料、農業生産資材等の製造も含む)、流通(運搬も含む)、加工、販売(飲食店なども含む)にたずさわる人以外は、たべもののことに費やす時間は少ないように見える。
しかし、よく考えると、それは社会的な分業の結果であって、日本の場合エンゲル係数(1998年は23.8)から考えて、労働時間の4分の1ぐらいは食べ物を得ることに費やしているのであり、食料品の買い出しや家庭での調理時間、食事時間、片づけ時間などを含めれば人間も鳥に匹敵するぐらいの活動時間を食べ物のために費やしているのではないだろうか。(ただし、日本の場合、食料自給率をみると、穀物自給率は世界178ヶ国・地域の中で130位の27%、供給熱量自給率は主要先進国中最低水準の40%なので、日本人自身が食料生産に直接関わっている部分は少なく、「国際分業論」の優等生といえる。ちなみに、日本では一生懸命働いて手に入れた食料も、27%が食べ残されたり廃棄されたりしているという。一方世界では栄養不足の人口が8億人いる。−以上、数値的な部分は、2000年8月7日付の日本農業新聞掲載の坂本元子氏の論説より−)
人間や鳥を含めてあらゆる生物の食べ物は、もとをたどれば毎日地球に降り注ぐ太陽エネルギーを植物が光合成で固定したものだ。その植物も(人間も含む)動物の様々な活動との相互関係の中に置かれている。
人間の活動は産業革命以来、過去に地球に降り注いだ太陽エネルギーを生物が固定化した化石エネルギーに多くを依存してきたが、これはいわば貯金の取り崩しでありいずれは底をつく。農林漁業に比べて工業が「生産性」が高いとされているが、貯金を取り崩しながらの「生産性」だからコストが安くて済むのは当たり前だ。もちろん現在では農林漁業も多かれ少なかれ化石エネルギーに依存しているが、工業のように純然たる貯金の取り崩しではない。(この辺については、石川英輔「大江戸えねるぎー事情」、講談社文庫、1993年、同じく石川英輔「大江戸リサイクル事情」、講談社、1994年 などが面白い。)
風力発電などもあるにしても現在のところはごく一部だ。原子力発電は今のところその廃棄物の問題で未来に多くの借金を残すと言われている。なお、化石エネルギーの利用は、その資源の枯渇の問題だけでなく、地中から炭素化合物を掘り出し大気中に二酸化炭素を放出して地球温暖化を進め、生物が追いついていけないほどの速さで生態系を変える。
これらは、ここであらためて言うまでもなく全地球的課題として今問題となっていることであるが、同時に、我々ひとりひとりが自分たちの生活の依って立つ基盤がどういうものかを見つめることがますます大事だと思う。
最近思うことなど その1〔1998年2月17日〕
鳥を見始めた頃は、初めて見る鳥ばかりで、なんという鳥だろうとハンドブックと見比べて、日に日に名前が分かる鳥が増えていった。
最初はどれも同じに聞こえていた鳴き声も、次第に区別がつくようになった。
カメラを持ち歩くようになると、双眼鏡を覗くより前にカメラを鳥に向ける癖がついてしまい、以前のようにじっくり観察することをしなくなってしまった。
以前はノートに姿をスケッチしたりしぐさを書いたりしていたが、写真を撮ることばかり考えて、目に見えて観察がおろそかになっていることに気づく。
ついつい鳥に近づいてしまうのもよくないことだ。遠くから双眼鏡でゆっくり見るように心がけたいと思う。
観察の内容も、はじめの頃から少しも進歩していないような気がする。マンネリ化しているといってもよい。けれども鳥を見ているときは、何もかも忘れて無心になることができる点は、鳥を見始めたときと変わっていない。