賢の半生記E/8

  浪人・留年・休学時代

   浪人時代
 予備校の入学テストで上から二番目の東京理科大クラスに入った。それを聞いて父親は「早稲田には遠く及ばないじゃないか」と僕を責め立てた。 
 予備校は水道橋にある研数学館というところに入った。近くに駿台や代々木ゼミナール、河合塾などもあったが、僕は一校一校を回って早稲田クラスと名乗っているクラスで一体何人実際に早稲田に入っているのかを聞いた。その中で一番生徒数に対する入学者が多かったのが研数学館だった。予備校としてはマイナーであったが、駿台のように一年間狭苦しい机で勉強するのは嫌だったし、代々木ゼミナールは母集団が多すぎてろくに勉強できなそうだった。今考えるとなぜ河合にしなかったのかと思うが、きっと合格割合が低かったのであろう。そんなわけで僕は六十万円ほど親に出してもらって研数学館に入学した。
 
 そのころ家族は千葉に引っ越していた。父が国家公務員を退職して天下りをしたことで、公務員住宅にはいられなくなったのである。僕が三歳の時から高校二年生の時まで新宿の柏木住宅に住み、高校三年生の時は世田谷の祖師谷大蔵に住んでいた。僕が浪人するときになって家族は千葉の家に移り住むことになったが、僕は何かと都会の方が受験に有利だろうと中野の下宿を用意してもらった。水道橋の予備校まで総武線で一本でいけた。
 下宿は以前親戚がお世話になっていたところで、朝晩の食事がついた四畳半だった。おばあさんと娘さんできり盛りしており、うちの父親がおばあさんを自分の母親のように慕っていた。
 僕は一人暮らしができることがうれしくて仕方なかった。恐い父親から離れられることもうれしかったし、英語・数学・物理だけを勉強すればいいということがうれしかった。戸山高校では文理に関係なく数学や理科、古文漢文や社会を学ばなければならなかったから私立理系に絞られたのはうれしくて仕方がなかった。本当は化学も学べば選択肢も広がっただろうが、僕は化学が嫌いだったし、苦手科目だった。早稲田は化学を必要とせず、理科一の分野を出題することになっていたので物理だけを勉強した。
 
 研数学館はレベルが低く、僕は英語の小テストでいつも名前を張り出されていた。実際英語は得意科目で、数学は好きなのだけどあまり出来がよくなく、物理は嫌いで苦手科目だった。
 数学の勉強が楽しくて毎日八時間から十時間も勉強した。いすに長く座りすぎてお尻に出来物ができるくらいだった。予備校の自習室でテキストの復習をし、自分の問題集もやるほど数学が楽しかった。英語は電車の中で単語を覚えるだけで十分高得点を維持できた。物理は不勉強でなかなか成績が上がらなかった。力学以外はあまり好きではなかった。予備校では特に友人をつくらなかった。意図的ではなく、自然に勉強だけをするようになっていたので孤独を苦痛と感じなかった。高校の友人と自習室で一緒に勉強するくらいだった。
 
 しかし楽しい勉強もそう長くは続かなかった。一学期の猛勉強がたたって夏休みに入ってからはあまり勉強をしたくなくなっていた。夏期講習もいっさい取らずに自分の勉強だけをするつもりだったが、自習室へいく機会もあまり多くならずに、だんだんさぼりがちになっていった。鬱状態だった。下宿の部屋で布団に入っている時間が多くなり、昼夜逆転の生活が定着してきた。一学期の成績がよかったので二学期からは一番上のクラスへいくことができた。普通なら早稲田クラスへ進学するのであったが、国立の東大理系クラスへいくこともできると聞いてそちらに進学した。二学期からはテキストもとても難しくなり、よけいに予備校へは行かなくなっていった。一学期の成績が最高によく、あとはほとんど勉強せずにいたので学力はどんどん下がっていった。
 
 そんな調子で受験本番を迎えた。早稲田、慶応、明治、筑波大、青山学院、芝浦工大、武蔵工大、東海、の八校を受験した。早稲田は数学があまり解けず、微分方程式が必ず出題されるので用意はしていたがそれでも解けなかった。慶応は理科が二科目必要だったので受ける前から落ちにいくようなものだった。
センター試験を受けていた。英語は百四十点と出来が悪く、数学は百六十点だった。国語は現代文が漢字の間違えがひとつあっただけで九十八点だった。漢文もまぐれ当たりで五十点満点だった。古文の出来が悪く、総合で百六十点だった。それをもとにボーダーラインを探したら筑波大が浮かんできた。二次試験で理科が二科目必要なのにわざわざ茨城まで受験しにいった。青山は試験日程の谷間があったのでそこを埋めるために受験した。芝浦工大はまさか落ちるとは思わなかった。結局受かったのは青山と武蔵工大と東海大だけだった。早稲田、慶応、筑波大は落ちても仕方なかったが、明治と芝浦工大に落ちたのはショックだった。どちらも模擬試験でA判定がでていたからである。不本意ながら青学へ進学するしかなかった。一年浪人してこれ以上浪人生活を続けても成績が上がるとは思えなかったのである。

   留年時代
 青山学院への入学はなかなか受け入れがたいことだった。プライドが妙に高かった僕はなんで自分が青学なんかに入らなければならないんだと思っていた。それでも無理して学校へ通った。しかし中野から厚木キャンパスへ行くには二時間もかかり、通うのが不便でだんだんいかなくなっていった。僕は学校の近くにアパートを借りてくれるものだと思っていたのに、父親は「浪人の時だけお世話になって受かったらはいさよならなんてことがあるか!」といわれた。結局父は中野のおばあさんが好きだったのである。サークルへも入らなかった。サークルに入らないと昼食をとる席すらなかった。こいつらとは僕は違うんだという反発意識もあり、友達もつくらなかった。そんな状態で前期の途中頃までには大学には通わなくなっていた。親に対して悪いからいかなきゃならない、けどいけないといった板挟みの状態で苦しんでいた。死にたいとまで思い詰め、果物ナイフを買ってきて手首を切ってみようとしたが、痛かったし、死にきれずに指が動かない状態になったら嫌だと思い、諦めた。人生で二度目の自殺未遂だった。
 
 夏休みはいきたくもないのに父親にバイクで北海道を一周しろといわれた。高校の時はバイクのレーサーになりたいと思っていたのに、バイクに乗ってもちっとも楽しくなかった。それでもなぜか高校の友人と日本列島をバイクで縦断していた。
 後期が始まる少し前に両親に大学へは通っていないこと、精神がおかしいので精神科へ行きたいことを話した。それからは病院に隔週で行き、薬をもらって飲んでいた。僕は「精神の耗弱状態」と診断された。両親には公に学校へ通わないことを許され、次の年の四月まで治療に専念した。
 翌年の四月、治ったのか治っていないのかわからずにとにかく大学に行かなければならなかった。三流大学に浪人して入って留年、なんて最悪なんだと思いながら下宿で生活していると、父から電話がかかってきて、帰ってきて説明しろ! といわれた。車の駐車違反とバイクのスピードオーバーで警察から免許停止の文書が実家に行ったのである。

 第五志望のいきたくもない大学で留年して、おまけに恐い父が激怒していた。僕は神に見放されたと思った。死のう、と思った。下宿で死ぬのは他の人に迷惑になるから外で死のう、程々に人がいて発見されやすいところ、代々木公園で死のうと決めた。『完全自殺マニュアル』にどんな薬でも二百錠飲めば死ねると書いてあったので、通院中にもらって飲みきれなかった向精神薬とウイスキーを買って人気のないところに腰を下ろした。ウイスキーがひどくまずかったが薬を胃の中に流し込んだ。何回かに分けて結局全部飲み干した。横になってみた。意識がなくなるのかと思ったらなくならなかった。まだ春先でだんだん気温が下がってきた。暖かいところで死にたい、下宿の布団にくるまりたい、と思って起きあがった。足の感覚がなく、ふわふわ浮いているような状態だった。それでもきちんと切符を買って下宿まで帰って横になることができた。ああ、とか、うう、とかいった声が聞こえたのだろう。僕が気を失っている間に通っていた大学病院に運ばれていた。もうろうとした意識の中で「学校に行かなくちゃ」といって起きあがった。いいからいいから、と僕はベッドにゴムか何かでくくりつけられた。何日かして閉鎖病棟へ解放された。三週間入院して、その年は休学することになった。人生で三回目の自殺未遂だった。

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