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85年に放映されたテレビアニメ「機動戦士Zガンダム」は、いろいろな意味でつらい作品だった。その「つらさ」は、しかし今まで一般的にきちんと語られてきたわけではない。「Z」という作品にさまざまな可能性を読みとることはできるし、それは大変興味深いことだとは思うが、この作品は何よりも「つらい」作品だった。それをきちんと認識しないと、そこから可能性をすくい取ろうとすることもできないのではないか。なぜなら、可能性はその「つらさ」の中にこそあると考えるからだ。 今年公開された劇場版「機動戦士Zガンダム」第1作は、その「つらさ」を編集によってそぎ落としている作品だった。それは、そこにあった可能性を同時にそぎ落としていったということでもある。 たとえば、主人公カミーユの登場シーン。突然理不尽にキレて、見ず知らずの人間に殴りかかるという展開が、劇場版ではカットされている。もともと、このカミーユという人間を視聴者に印象づけたテレビ版の第1、2話は、正直いって「キレやすい少年」の描写がきわめて浅はかであり、作り手のねらいはともかく、出来としてはかなり「つらい」内容だった。このアニメの作り手は、現代の「キレやすい少年」を描こうとしているが、大人の思いこみで描いているだけで、実は何もわかっちゃいないじゃないか――そんな感想を抱かずにいられないような展開だった。だから、第1話からいきなりキレて暴走する主人公を描くという作品のねらいには驚かされたし、興味を引かれはしたものの、作り手のねらいの空転ばかりが感じられたのだ。 そういう意味で、今回作り手が劇場用に再編集するにあたり、その一連のシーンををカットしたくなる気持ちもわからなくはない。特に富野監督は、インタビューなどを読む限りこの劇場版を「健やかなものにしたい」と一貫して語っているようである。その方針自体は、それなりに理解できることだ。しかし、だからといって、なぜ「キレる少年」をカットしなければならないのか。カットするのではなく、むしろ徹底すべきだったのではないか。暗部を切り捨てることで得られる相対的な明るさは、監督の考えるような「真の健やかさ」を描くことを阻害しはしないか? 真に「健やかさ」を描くつもりなら、かつて自分で描いた「暗部」を切り捨てるのではなく、その「暗部」の奥行きを今こそ掘り下げ、内実あるものに高め、正面から描ききることによってこそ、それは乗り超えられ、その先の健やかさへと到達できるのではないか? 今回の劇場版が、「つらさ」といっしょに可能性をもそぎ落としてしまったと私が考えるのは、そういう点だ。しかも、劇場版1作目を観るかぎり、カットされたはずのカミーユの負の側面は、画面の中に中途半端に取り残され、隠しようもなく嫌な空気を周囲に振りまいている。それは、前後の展開が省略されている分だけ、かえって無根拠な嫌悪感としてただよい、この劇場版の空気を支配する結果となっている。 だから、「健やかさ」を描くためにさまざまに配慮された新作カットは、その中に飲み込まれて、作り手が意図した効果を発揮しきれていないように見える。たとえば、アーガマの中でカミーユが子どもらしくレコアにもたれかかるというシーンがあるが、そもそもカミーユがいかなる人間なのかが描ききれていないのだから、わざわざ新作カットでこのシーンを追加しても、むしろ作り手の意図ばかりが先行している印象が強く、「カミーユの変化の兆し」という意図が情報として透けて見えてしまうばかりである。もともとのカミーユの激しさをテレビ版でよく知っている観客や作り手自身にとっては、それでもいいのかもしれない。そもそも富野監督の作る再編集劇場版は、だいたいいつもそんな「観客おいてけぼり」の情報圧縮ぶりなのだから、今さら始まったことでもないともいえる。しかし、監督の言う「健やかさ」を真に受けて考えるならば、この劇場版第1作がそれを達成しているとは、私には思えない。むしろ、健やかさを描くのではなく、「健やかさを描いたというアリバイ作り」に終わってしまわないかという懸念を持って劇場を出てきたというのが、正直なところである。 なにしろこれは「Z」なのだ。どうやったって「Z」は「Z」だ。作品の基本性格を変更しようなどという考えは、一歩間違えば「Z」という作品への裏切りでしかない。そのとき、「Z」のもつ危うい可能性も、そこで失われていく。
85年当時には浅はかにしか描けなかった「キレる少年」の姿を、富野監督はカットするのではなく、より意味のあるものとしてきちんと描きなおし、超えてみせるべきだった、と私は思う。そうでない限り、そこで描こうとした「健やかさ」は、この現在の世の中の薄っぺらい自己肯定気分と齟齬を起こすことなく安らい、幸せな気分に包まれたまま根腐れしていくような気がしてならない。 以上が、第1作を見た私の感想である。第2作以降を見ていない段階での感想だから、この先の展開によって印象が変わるかもしれないが、それはまた次の機会に。 ◆ ■『tetsujin』Vol.2後記より
この劇場版に関しては、富野監督がさまざまなメディアのインタビューに答えて、ずいぶん多くのことを語っているようだ。私が読んだのはごく一部だけれども、多くの場合そこに書いてあるのは、じつは「劇場版Z」のことではなく、それをきっかけにして「最近の富野由悠季の思索」を語っているだけの部分が多いように思える。ここ数年の富野監督が、じつにさまざまなことを勉強して思索を深めているのはよくわかるのだが、ではそれが実際にどこまで「劇場版Z」の内容に反映されているかというと、しょせんこのアニメは再編集作品でしかなく、画面から伝わっている空気や感覚は、圧倒的にかつての85年の「Z」だ。少なくとも、「ニュー・トランスレイション」と監督が自負するほどには、そこに「新訳」は感じられない。むしろ、本文に記したとおり、内容を改変し取りつくろったことが逆の効果を発揮してはいないか。下手をすると、それは単にアリバイ作りになってしまわないか。 2005.8.11/tetsujin Vol.2 2005.8.14 |