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私は昭和49年(1974年)、栃木県佐野市で車どうしの衝突事故により、首の骨を折り、瀕死(ひんし)の重体となって救急車で佐野厚生総合病院へ運ばれた。
…家族が担当医から『ここ、一週間がヤマ場でしょう…』と告げられ、生命が極めて危うい状態にあった…。しかし、どうにか死の淵を乗り越え、ありがたくも一命を取りとめる事が出来た。
…生命は助かったものの、その日を境に、手も足も自由に動かすことが出来ず、一人では寝返りも打てないと言う重い障害を背負う身体になってしまった。
まだ、24才の時の悲しい出来ごとである。
その佐野厚生総合病院に一年半入院。危(あや)うい病状を脱し、ひどかった床ずれも治りはじめたことから、次は本格的な機能回復訓練を目的に栃木県塩谷郡にある国立塩原温泉病院に一年間入院。
−そして昭和52年(1982年)に、ふる里の由利組合総合病院(秋田県本荘市)へ転院することになった。
その時から、母は病室に寝泊まりし私に付きっきりの看病をしてくれた。
障害の重い私を不憫(ふびん)で病院に一人置いて家に帰ることが出来なかったのだと思う…。
当時、病室での母の居場所は、隣のベットとの僅かな間しかなかった。
固く冷たいコンクリートの床にゴザを敷き、夜は、そこに布団を一枚敷いただけの粗末な寝床だった。
夜中も体位交換、排泄、身体の痛みを訴える私に何度起こされたかわからない。
還暦(かんれき)に近い母には本当に辛い介護生活だったと思う。
…いつの日だったか母はアザミの花を見ながら私に、『アザミの花っこは、ええなー、見でるど気持ちが安らぐなー…」と言いながら、嫁いで来た時からの様々な苦労話を、しみじみと語ってくれた事があった。その時の話は何年過ぎた今も不思議に私の心の中から消えることがない。
若い時から病弱だった母は、特に忙しい農繁期などは普通の人以上に辛かったのだと思う。
一日の農作業を終え、重い荷を背負って家路に向かう途中、あぜ道に咲くアザミの花が、きっと母の疲れを癒(いや)してくれたのだと思う…。
病院で2年間、家で11年間、合わせて約13年間の長い間、母は自らを犠牲(ぎせい)にしながら私の介護に当たってくれた。
…平成2年(1990年)、父母が高齢になったことから、私は在宅生活から井川町の療護施設『桐ケ丘療護園』(きりがおか・りょうごえん)にお世話になることになった。
井川町には桜の名所である「日本国花苑」がある。そこから車で四、五分ほど走ると、緑に囲まれた小高い丘の上に桐ヶ丘療護園が見えてくる。
入所してまもなく、『手も足も思うように動かせないけど自分にも何か出来るものがないだろうか…』と思ってはじめ水彩詩画。
描きたまった作品の中には母を詠った詩画『アザミの花』もある。(1996年/秋田県障害者総合福祉展金賞受賞)
友人のヤッチャンと施設周辺を散歩中、田んぼのあぜ道に咲くアザミの花を見て、あの時、話してくれた母の話が私の脳裏(のうり)を駆けめぐり胸が熱くなった…。
その思いを詩と絵に託して描いたもので、つたない作品ながら私にとっては思いの深い大切な一作となっている。
…お蔭さまで母は今年、満89歳を迎えることが出来た。
腰が曲がり、背も丸くなり一回りも二回りも小さくなってしまったが、有り難いことに耳も聞こえ、痴呆症(ちほうしょう)の心配もなく穏やかな日々を送っている。
いつまでも元気で、長生きしてほしい…と、願ってやまない。
家から離れ桐ヶ丘療護園で生活し、早15年の歳月が流れるが、母への感謝の思いは深まるばかりである…。
−佐々木ひでお
【 随 筆 U 】
親 父 と 山 ブ ド ウ
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