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佐々木俊尚 Toshinao Sasaki


「人間探検――反権威の『インターネットの伝道師』 会津泉・アジアネットワーク研究所代表」

 さまざまな人物が群雄割拠するインターネット業界で、これほど毀誉褒貶の激しい人も少ないだろう。会津泉(52)。アジアネットワーク研究所代表、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)主幹研究員。1990年代には「インターネットの伝道師」とも呼ばれ、コンピューターネットワークの社会的意義を発信し続け、そして多くの市民運動を組織し、インターネット業界に大きな影響を与えてきた。しかしその発言はあちこちで軋轢も生んできた。
 最近も、知人からこう指摘されたという。
 「会津さんと口を利きたくないって言ってる人は、いっぱいいるよ」
 公式非公式を問わず、さまざまな会議やシンポジウム、会合に出席するたびに理路整然とした主張を早口で展開する。面と向かっての激しい議論を良しとしない日本人技術者の穏やかな文化の中にあって、会津は異質な存在だ。

 彼のネットワーク伝道師としての原点は、1985年に出版した一冊の報告書にある。「アメリカにおけるパソコン・ネットワーク実態調査報告書」。書き出しはこう始まる。
 「それはある日、突然始まった。三月の晴れた日曜日の朝、いつものように電話とパソコンをつないで、自分の部屋からアメリカと通信している最中のことだった」
 インターネットはまだ一般社会には影も形もなく、パソコン通信がようやく黎明期を迎えていたころである。会津はこの当時、米国でサービスを提供していた「ザ・ソース」というパソコン通信に接続し、英語圏の人々とのメッセージ交換を繰り返していた。そしてこのザ・ソースが生み出しつつあるものを知ろうと、当時勤務していた会社を退職して米国に渡る。米国の最先端に直に触れ、熱病に浮かされるようにネットワークという新しい枠組みのすみずみまでを味わった。
 レポートは全編、弾むような明るい期待感に貫かれている。あとがきの中で、33歳の会津はこう書き記した。「この報告書はまた、私自身の『発見の旅』の紀行文でもある」
 当時、パソコン通信やコンピュータの主な用途はデータベース、すなわち巨大な知の集積を利用者が自由自在に使いこなせるようになることだと多くの人が考えていた。その構図の中では情報を作って送信する側と、それを受信して享受するユーザーの側は厳密に分けられている。だが会津は米国に渡り、直感的な理解を得た。「パソコン通信は、情報を双方向にやりとりするコミュニケーションこそが本質だ」
 情報の送り手と受け手が混じり合い、旧来のメディアの枠組みでは説明できない新しい社会を作り出す――レポートが打ち出した論理は明確で、そして何より新しかった。通信の世界で知名度ゼロだった会津がおずおずと世に問うた初めてのレポートは、彼を時代の寵児へと押し上げていく最初の契機となった。

 もう少し、時計を巻き戻そう。
 会津はクリスチャンの教育一家に生まれ、神奈川県鎌倉市の名門進学校、栄光学園で中学・高校を過ごした。同級生のほとんどが、東大などの有名大学を目指していた。だが時代は、学園紛争の嵐が全国で吹き荒れていた1960年代末。会津もそのムーブメントの中にみずからを巻き込んでいき、高校1年の夏には「大学には進学しない」と宣言して周囲を驚かせ、さらには授業ボイコットを敢行し、停学処分を食らった。
 高校を卒業した会津は、ますます運動へと没頭する。1970年、福岡県立伝習館高校で社会科教師3人が思想的な理由から懲戒解雇された闘争では、会津は東京の救援活動に取り組んだ。だが自ら選んだはずのドロップアウト生活に、やがて迷いが生まれ始める。「社会のどこにも位置づけのない中途半端な状態では運動はできないと思った」。社会の中に入っていかなければ、本当の闘いにはならない。当時、闘争の現場で盛んに語られたそんなテーゼを、会津は忠実に実行したわけだ。知人に紹介され、小さな印刷会社に入社した。19歳だった。
 そのまま印刷会社を2カ所転々とし、そして3つめの印刷会社が、会津の後半生を変える大きな転機を作ることになる。
 「欧文印刷」というその会社は外国語の印刷物を得意とし、印刷業務以外にも子会社を使って英語マニュアルなどの企画制作を請け負っていた。子会社に回された会津は、英語の勉強に本腰を入れて取り組みながら、海外向けのマニュアルや広告・広報を作るという仕事にのめり込んでいく。猛烈な忙しさの中で、闘争の季節は過去の思い出となっていく。
 そんな中で出会ったのが、コンピューターだった。
 会津は当時、情報技術にまったく興味はなく、「世界で最後までコンピューターを使わない人間になる」などと冗談を口にしていたほどだ。だが納期がタイトな印刷物の工程を効率化しようと考えた末、当時出回り始めていた英語ワードプロセッサーと出会う。米国製の1000万円もするマシンを会社に導入させ、コンピューターの世界の面白さに開眼する結果となった。
 ちょうどそのころ、ベンチャー企業の先駆けとして知られたソード(現・東芝パソコンシステム)が日本初の表計算ソフト「PIPS」を発売し、話題となっていた。興味を持った会津は、自社に来た営業担当者の紹介でソードに広報・宣伝をプレゼンテーションし、契約を勝ち取る。プレゼンでは、「ユーザーコミュニケーション」という言葉を売り込んだ。「これからのコンピューターは、一般の人が誰でも使える時代になる。今のひどい製品マニュアルを改め、ユーザーの目で作ります」
 会津の今をかたちづくる概念は、当時から彼の仕事に色濃く表れていた。その概念とは、「ユーザーの目」というキーワードだ。昔も今も、コンピューターは技術者によって作り上げられ、そして技術者特有の難しい単語や言い回しに取り巻かれている。コンピューターをユーザーの手へと引き戻し、コミュニケーションの道具として社会変革の原動力としていく。会津の仕事の底流には、そんな変革の思想が絶え間なく流れているように見える。それは米国でヒッピー世代の若者たちがコンピュータとネットワークを手に入れ、「パワー・トゥー・ザ・ピープル(民衆に力を)」という思想を体現しようとしていったのと、どこかで呼応していたのかもしれない。
 その集大成が、アップルコンピュータが1985年に発売したパソコン「アップルUc」に同梱されたマニュアル「はじめてのあっぷる」だった。伝説的なコンピューターマニュアルとして知られているそれは、最初に絵本風の童話が掲載されている。リンゴの果実を独占し、誰にも食べさせなかった王様。料理人の息子がリンゴを盗み出し、国中に植えて国民全員が食べられるようにする。王様も結局、最後は罪を許し、国民を祝福するという物語だ。冒頭には、英文が掲げられている。「アップルズ・アー・フォー・エブリワン(アップルはみんなのもの)」
 伝習館闘争からすでに10年。闘争は過去の思い出になったが、そこで醸された何ものかは熾き火のように点り続けていたのだろう。その熾き火は姿を変え、コンピューターという新しいテクノロジーと結びつくことになる。
 だが会津はこの仕事を最後に、欧文印刷を去った。「9年も働いてきて、くたびれてきた。そろそろ潮時かと思ってフリーになった」
 そして直後に渡ったアメリカで出会ったのが、先に挙げた「ザ・ソース」というコンピューターネットワークだったのだ。
 米国から帰国した会津は1986年、友人ら数人とシンクタンク「ネットワークデザイン研究所」を立ち上げる。その後の活躍はめざましい。大分県で生まれた草の根パソコン通信「COARA」の活動に関わり、パソコン通信について積極的に発信を続けた。さまざまな自治体の地域活性化プロジェクトに関わり、パソコン通信によってコミュニティのメンバーが旧来の組織体から脱却し、水平化していくというメリットを説いた。
 西海岸のカウンターカルチャーの中で影響力を持つハイテクジャーナリスト、ハワード・ラインゴールドと出会ったのもこのころだ。ラインゴールは著書「バーチャルコミュニティ」(三田出版会)の中で、会津との出会いを描いた。ラインゴールドを東京に招いた会津は自宅に彼を泊まらせ、掘りごたつで日本茶を飲みながら、夜更けまで人生を語り合った。「私たちはいずれもベビーブーム世代で、60年代後半の政治的プロテストに参加したことがあり、そして今はコミュニケーションを専門の仕事としている」とラインゴールドは書いた。
 時代はパソコン通信の黎明期を脱し、次のステージへと移り始めていた。80年代末からは「マルチメディア」という言葉が盛んに語られるようになり、ネットワークと映像や音声の融合の可能性が探られるようになる。「マルチメディアは、マスコミや役所がお仕着せの情報を垂れ流すだけになる可能性が高いと思った。そうではなく、ユーザーみずからが画像や音声を発信することのできるネットワークを作らなければいけない」。会津たち、ネットワーク文化の中心地になりつつあったGLOCOMの面々はそう考えていた。
 そしてこの動きと、ネットワークの世界的なパラダイム転換は、大きな円を描いて交わることになる。インターネットの登場だ。
 画像や音声を自在に扱うことができ、パソコン通信ごとに分断されていたコミュニティをも統合するインターネットは、会津らが描いていたハイパーネットワークにきわめて近い存在だった。会津はインターネットの重要性を、政府や企業、自治体などに説いて回った。「インターネットの伝道師」という異名がついたのもこのころだ。
 反発も少なくなかった。GLOCOMの主要な取引先であるNTTから、企画書を突き返されたこともある。
 「インターネットは効率が悪く、安全性に問題がある。そもそもデータ通信の本流ではない」というのが、NTTの主張だった。だが93年ごろを境に、インターネットへの批判は急速に姿を消していった。グローバルスタンダードの中でインターネットが認知され、国内最大の巨大通信企業もその存在を無視できなくなっていったのだ。
 94年には、経済同友会の訪米視察団に同行し、ホワイトハウス訪問をコーディネートする。インターネット伝道師時代の、最高潮だった。
 あれから10年。インターネットは普及の臨界点を越え、社会のインフラとして定着した。しかし会津がインターネットに見たビジョンは、必ずしも実現してはいないようだ。
 確かにインターネットは富の再配分をもたらし、古色蒼然とした巨大企業のいくつかに市場からの退場を促して、新たな起業ドリームを実現させた。だがそれは社会変革をもたらしたと言えるのか。一方で匿名での情報発信が蔓延し、ノイズとでも言うべき無責任な発言があふれかえっている。80年代のパソコン通信の理想だったはずのインターネットは、今や巨大な混沌となって理想や文化、概念を呑み込みつつあるようにも見える。
 会津は言う。「確かに、パソコン通信で培われたような特定のコミュニティを作る力は、インターネット時代に入って弱まったように見える。でもわれわれの描いたビジョンとはそれほどには外れていないと思うし、いったんスタート地点に戻っているだけなのかもしれない」
 そしてまた、冒頭に書いたように、会津泉というあくの強い個性に対する強い反発もある。
 ユーザー中心の文化が形成され、文科系的な存在とでもいうべき会津の個性と融和していたパソコン通信文化と異なり、インターネットの中核は、強固な技術者集団によって構成されている。そうしたエンジニアたちと会津との間に、ある種の軋轢が生じるのには、時間はかからなかった。
 「専門的なこともわかっていないくせに」「偉そうなことを言う根拠がない」
 そんな陰口を言う業界人は少なくない。高卒という学歴に対して、それとなく「博士号を取った方がいいのでは」「大学の先生になってみたら」と勧める人もいる。会津はそのたびに「権威を持った専門家ではない、別のクオリティを持たなければ新しい社会は作れない」と反発してきた。
 しかし会津が97年から丸3年間に渡ってマレーシアに拠点を移したのは、そんな軋轢に疲れを感じたこともあったようだ。だが「アジア太平洋という統合軸でネットワークのコミュニティをまとめていきたい」という構想にはやがて行き詰まり、さらに日本企業からの受託でアジアのネットワークを調査するというビジネスも一段落し、2000年春に帰国する。
 会津は現在、ICANNという組織のあり方をめぐって苦闘を続けている。ICANNというのは、ドメイン名とIPアドレスの割り当てを行い、インターネットの中核を担っている国際組織である。米政府との合意に基づき、98年からボランティアの民間団体として活動してきた。だが組織そのものが権力化していく中で、「運営が閉鎖的」という批判が市民団体から相次ぎ、各国政府からも米政府傘下の民間団体という枠組みへの反発は激しい。中国やブラジルなどは政府間組織への移管を要求している。
 会津は、ICANNの会員制度をどう作り上げていくかを検討する委員会に参加し、積極的な発言を続けている。果たしてインターネットは誰のものなのか。もし市民が運営すべきならば、その「市民」とはいったい誰を指すのか。選挙で選ぶのであれば、どのような選挙で誰に投票権を与えるのか。そしてインターネットのパワーを権威化した組織から、再び市民のもとへと引き戻すことができるのか。
 かつて会津が若いころに描いた、明るく希望にあふれたパソコン通信の夢。その時代からは遙かに遠い。インターネットのガバナンス(統治)をめぐる議論はわかりにくく、一般には興味も持たれず、そして答の見い出しにくい難問ばかりだ。
 会津はかつて、インターネットを認めない人々との間で何度も激しい論戦を戦わせた。そして今度は、巨大な権力となりつつあるインターネットに、新たな矛先を向けようとしているようにも見える。彼はどこまで、トリックスターを続けていくのだろうか。

■プロフィール
仙台市生まれ。神奈川県逗子市に育ち、私立栄光学園中学・高校を卒業。印刷会社に入社し、営業に従事する。1976年からは欧文印刷の子会社で、海外向け広告・広報の営業、企画・制作に従事。85年、アップルコンピュータの製品マニュアル「はじめてのあっぷる」を制作した後、退社。米国に渡り、パソコンネットワークの実態調査を実施。帰国後、株式会社ネットワークデザイン研究所を設立。87年〜93年、ネットワーキングフォーラム事務局長。91年、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター企画室長兼任。93年、大分県に設立されたハイパーネットワーク社会研究所研究企画部長兼任。97年、マレーシアにアジアネットワーク研究所を設立。98年〜00年、アジア太平洋インターネット協会(APIA)事務局長兼任。00年、日本に帰国。01〜03年、G8のDOTフォースに参加。02年〜03年、世界情報社会サミット(WSIS)にアジアのNGO参加を支援する活動に参画。03年1月、ICANNの一般会員助言委員会の初期委員に就任。

■個人データ
家族■妻と娘4人。
趣味■サッカーを観ること、そして食べること。
愛読書■小説はほとんど読まない。仕事に関連したノンフィクションが中心。年間120日を数える海外出張の中で、最近はチュニジアで地中海のローマ遺跡を見学。またジュネーブでの会議の際もローマ遺跡に触れ、ローマの歴史に改めて興味を持った。「ローマ人の物語」の第1作「ローマは一日にして成らず」(塩野七生著)をおもしろく読んだ。