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佐々木俊尚 Toshinao Sasaki
ITの将来を嗅ぎ分けるベンチャー経営者 荒川亨[ACCESS社長]
1959年、千葉県市川市生まれ。千葉市立花見川中学、日出学園高校を経て77年東京電機大学工学部通信学科(夜間)入学。79年19歳で「荒川設計事務所」を設立。84年大学を中退し、有限会社アクセスを設立、代表取締役に就任。96年株式会社ACCESSに改組し、代表取締役として現在に至る。情報家電向けインターネット閲覧ソフト「ネットフロント」、携帯電話向けの「コンパクト・ネットフロント」を開発。2001年2月東証マザーズに上場。
2001年の初夏。携帯電話向けのインターネット閲覧ソフト「ネットフロント」で知られるACCESSの荒川亨社長(44)は、突如として出版業への参入を発表し、IT業界関係者の度肝を抜いた。
設立した子会社は「アクセス・パブリッシング」。情報誌『ぴあ』の元編集長である安武不可止(ルビ:やすたけふかし)をはじめとする同誌スタッフが参集し、雑誌・書籍の編集とデジタルメディアへのコンテンツ配信を行うのだという。発表通り、約半年後には月刊情報誌『東京カレンダー』が刊行された。
ネットフロントは、携帯電話やゲーム機、携帯情報端末(PDA)用のインターネット閲覧ソフト市場でシェア8割を占め、特に携帯電話市場ではほぼ100%を制覇する圧倒的存在だ。搭載製品の累計は1億台近くに達し、数少ない”日本発”の技術型ベンチャーとして知られる。「すべてのものをネットに接続する」というのが同社のビジョンだ。
いわば”ガチガチのテクノロジー硬派”として知られる同社が、なぜ文化系の匂いがふんぷんとする出版業務へと乗り出したのか? シナジー(相乗)効果を無視したかのようにも見える行動に、IT業界は驚いた。2年を経た今もまだ、その真意はおそらく理解されていない。
しかし荒川は言う。
「ネットにすべてのものをつなげたら、必ず次の時代はコンテンツビジネスに移る。そんな中でコンテンツの領域を拡大し、可能性を広げるために、あえて遠くにビジネスを立ち上げることにした。シナジー効果は今は期待できないかもしれないが、技術の進化は早い。アクセス・パブリッシングが狙う市場が立ち上がる日はすぐにやってくるはずだ」
それは、ドッグイヤー(通常の7倍の速さで成長すること)といわれるこの業界で、動物的直感に支えられて戦い抜いてきた荒川の”直感”のようなものなのかもしれない。そしてこの直感は、昔から周囲の人々を驚愕(ルビ:きょうがく)させてきたのだ。
アマチュア無線少年から
コンピュータマニアへ
荒川は千葉県市川市に生まれた。当時、無線やラジオのパーツショップが集まる街として知られ、市川からも電車ですぐに行ける秋葉原が、アマチュア無線に熱中していた荒川少年のフィールドだった。
物事への思い入れが強く、自分の納得できること以外は排除するという荒川の性格は、このころから変わっていない。受験勉強に手をつけないまま大学受験に突入し、あえなく全敗。就職でもしようかと考えたが、両親の心配もあって、東京電機大学の二部に入学した。
時は70年代末。コンピュータの世界にマイクロコンピュータ(マイコン)という言葉が出現し、小型化されたマシンを個人で使おうという気運が盛り上がり始めていた。76年にNECが発売した初めての個人向けコンピュータキット「TK80」は、多くの若者の心を惹きつけた。
大学の授業にはほとんど出席せず、プログラミングなどのアルバイトに熱中した荒川は、大学の近くの千代田区神田駿河台にマンションを借りる。「荒川設計事務所」の表札をつけた2DKの部屋は、コンピュータマニアの若者のたまり場となった。
コンピュータの世界は激動していた。業界の巨人・米IBMがパーソナルコンピュータ(パソコン)の投入を決断。新興企業・マイクロソフトのOS、MS−DOSの搭載を決定し、業界に衝撃を与えた。日本のコンピュータ業界も、パソコンの標準OSにMS−DOSを採用するか、それとも当時市場を支配していた米デジタル・リサーチ社のCP/Mを採るか、の話題で持ちきりだった。
だがそんな状況に、若い荒川は苛立っていた。
「OSなんてそんなに難しいものじゃない。なぜ日本で作らないんだろう? 国産OSを作って、それを世界に広めればいいじゃないか」
巨大化した現代のOSと異なり、当時のOSは機能も貧弱で、プログラムサイズも小さかった。今や世界に冠たるマイクロソフトも、当時は小さなベンチャー企業でしかない。日本が進出する機会は、確かにあった。しかし国産OSを作ろうという気運は高まらなかった。本格的な国産OSの登場は、86年のTRONを待たなければならない。80年代後半にはマイクロソフトはすでに圧倒的なパワーを持っており、TRONは一敗地にまみれることになる。
”戦友”鎌田との出会いと
初めての挫折
ともあれ、荒川は自分の力でOSを作りたいという熱病にも似た思いにとらわれ、仲間たちに持ちかけた。だが皆の反応は鈍い。
「マイクロソフトと本気で勝負するわけ?」「そんなの日本でやってうまくいくわけがないよ」
だが荒川はあきらめない。東京大学理学部に言語やOSを専門に研究する学科があることを突き止め、その学生の一人をアルバイトに誘った。
やってきたのは、博士課程への進学が決まったばかりの4年生だった。大学院の学費や生活費を自分で稼ぎたいという。荒川は自分のビジョンを熱っぽく語り、そして「OSを作れないかな」と聞いた。相手は「そりゃ作れますけど……」と言葉を切り、周囲を見渡して、こう言った。
「でも本当にバイト代を払えるんですか?」
これが、荒川が「戦友」と呼ぶ唯一無比のパートナー、現ACCESS副社長の鎌田富久(42)との出会いだった。鎌田はこのときを振り返り、「こっちはただの理系の学生で、ビジネスの知識もまったくない。荒川さんはずいぶんしっかりした人だなあという印象だった」と話す。
鎌田はその後現在に至るまで、ACCESSの技術力の中核となり、荒川と二人三脚でACCESSを支えていくことになる。
二人はまず、LOGOと呼ばれるプログラミング言語のソフトを手がけ、製品化を成功させた。バイト代どころか、数千万円の売り上げを計上して大金が転がり込んだ。荒川は大学を中退し、「荒川設計事務所」を「有限会社アクセス」へと模様替えする。社名は、当時コンピュータベンチャーとして名を馳せていたアスキーに対抗し、「50音名簿でアスキーより先に出てくるようにしよう」とつけた。
「テクノロジーの世界には、いずれ通信が主役の時代がやってくる。コンピュータだけでなく、通信に踏み込んだ名前にしたい気持ちもあった」と荒川は振り返る。その後の軌跡を考えれば、この名前には先見の明があったといえる。「すべての機器をネットワークにつなぐ」というACCESSの現在のコンセプトは、「接近」「入手」を意味する社名に凝縮されているといってもいい。
二人は次いで、OSの開発に着手した。だがここで、荒川は初の挫折に直面した。どのメーカーも開発費は出してくれるが、製品化には二の足を踏んだのだ。完成度には自信があった。なぜ、と問うた荒川に、あるメーカーの担当者は答えた。
「IBMぐらいの企業が、お宅の製品を採用してくれたら考えるよ」
IBMに採用されたマイクロソフトのMS−DOSが業界を席巻し、ソフトの市場支配の重要性が認識され始めていたころだった。市場の標準を奪えない製品は、どれだけ性能が良くても価値がない。その意味を荒川はかみしめた。以降、荒川は新しいビジネスを立ち上げるたびに「デファクトスタンダード(事実上の標準)」を激しく意識するようになったのだ。
二度の失敗が生きた
荒川のビジネス人生には、二つの大きな転回点があった。
一つがこのOSの失敗であり、もう一つが後述するインターネットテレビの失敗だった。インターネットテレビでは、「どんなに技術的にすばらしいものを作っても、ニーズが生まれないところではビジネスは成り立たない」という原則を嫌というほど思い知らされた。
デファクトスタンダードと、時代のニーズ――IT業界で勝ち抜くためのキーワードともいえるこの二つの原則を、荒川は2度の手痛い失敗から教訓として得た。その意味では、2度の失敗は貴重な経験だった。
OSで失敗した荒川は悩んだ。「本場アメリカには勝てない」という負け根性が、日本のコンピュータ業界には染みついている。いったいどの分野なら勝てるのだろう? 荒川が鎌田たちとの議論の中で達した結論が、一つは「家電」であり、一つは「ネットワーク」だった。家電はコンピュータと結びついていずれ大きく変貌し、ネットワーク化されていくはずだ。その世界では、日本が強力なプレーヤーとなりうる――。
荒川はまず、通信制御ソフトの開発に取り組んだ。後にインターネットの世界で標準となるTCP/IPというプロトコル(通信手順)に基づいた制御ソフトを日本で初めて開発し、これが工業用機械向けにヒットした。さらに80年代後半から90年代にかけてのOA(オフィスオートメーション)ブームの中で、このソフトが相次いで採用され、ACCESSのビジネスは軌道に乗る。年商は10億円を突破した。
だが順風満帆の中で、荒川は再び将棋の「桂馬」のように、ぽーんと飛ぶことになる。
91年のことだ。きっかけは、マイクロソフトの発表だった。アップルのマッキントッシュに対抗して作られたウインドウズの次期バージョンに、通信機能が搭載されるというのだ。通信機能が標準搭載されれば、ACCESSの通信制御ソフトは駆逐される可能性が大きい。OS開発のころ、デファクトスタンダードで痛い目にあった荒川には他の選択肢はないように思えた。
「通信制御ソフトをやめる!」
社内外に宣言した。しかし通信制御ソフトは、当時のACCESSの中核製品だった。社の経理担当は、血相を変えて叫んだ。「何を言ってるんですか? 稼ぎ頭をやめるなんて、いい加減にしてください!」
取引先からも、「次期バージョンなんていつ出てくるかわからない」と止められた。だがいったん決めた決断を、荒川は変えなかった。
「次期バージョンのウインドウズ95発売は95年で、いま思えば確かに4年ぐらいの猶予はあった。だがあの時に決断を遅らせていたら、今のACCESSはなかったと思う」
荒川はそう断言する。
そして荒川が次のターゲットに据えたのが「家電」だった。すべての機器にネットワークを接続する――80年代からあたためていた基本コンセプトを実現しようと考えたのだ。“稼ぎ頭”を放り出し、荒海に船をこぎ出したようなものだった。
しかし荒海の航海は、いきなり暗礁に乗り上げる。満を持して作り上げたインターネットテレビが、まったく売れなかったのだ。荒川はその理由を総括する。
「家電をネットワークにつなげたのはいいけれど、それを何に使うのかという提案がなかった。すばらしい技術を持った製品を出せば、使い道は後からついてくると思っていたのが、完全な誤りだった」
優秀な技術者がはまりがちな陥穽に、荒川たちも陥ったということなのだろう。90年代前半の当時、まだインターネットは普及しておらず、ホームページも電子メールも一般に浸透していなかった。そんな中でテレビをネットに接続しても、確かに使い道はなかった。
動物的直感の向こうに
とはいえ、ACCESSの技術は時代の先端を走っていた。荒海の先に大陸が見えてきたのはその後だ。画像や音声、文書を自由に参照できるワールドワイドウェブ(WWW)が登場し、家電とネットワークの融合の道筋が見え始める。荒川たちは、テレビでホームページを閲覧できるソフトの開発に乗り出した。
「ネットフロント」と名付けられたこのソフトは、米国のインターネット閲覧ソフト「ネットスケープ・コミュニケーター」とほぼ同時に完成。ネットスケープがパソコン向けに作られていたのに対し、ネットフロントはテレビなどの家電に搭載されたわずかなメモリでも動くように作られていた。
さらに、iモードの登場が、荒川たちのビジョンを後押しした。「より身近な機器を」と考え、携帯電話に組み込めるネットフロントのコンパクトバージョン開発を進めていた荒川たちと、携帯電話でのインターネットの可能性を探っていたNTTドコモの思惑が一致したのだ。
もっとも、ドコモ側の最初の反応はさんざんだった。鎌田らがドコモの本社に出向いてネットフロントのデモンストレーションを行ったが、「本当に動くのかと、最初はまったく信じてもらえなかった。デモはしょせんデモで、実機で動く証明にはならないから」と荒川は話す。
この扱いに、鎌田が憤然とする。残り2カ月の予定だった開発期間を1週間に短縮し、翌週には完成品をドコモに持ち込んでみせたのだ。
荒川のビジョンは、鎌田が持つ卓越した技術力に支えられている。論理を積み重ね、着実に結論を出していく鎌田に対し、荒川は動物的といえる直感で同じ結論に達する。その飛躍は、余人には理解しがたいだろう。だがその先見性が空回りし、ビジネスが頓挫したケースも多い。先に挙げたOS開発やインターネットテレビがその典型だが、最近でも、携帯電話向けにソフトを貸し出すASP(アプリケーション・サービス・プロバイダー)事業をジャストシステムなどと立ち上げたものの、撤退する結末に終わっている。
鎌田は「うまくいかなかったケースは、ほとんど『投入が早すぎた』もの。マーケティングを工夫すれば、成功の数は増えると思う。技術の方向性が合っていれば、長期的には大きくは外れない」と話す。
荒川の目には、誰にも見えていない地平線の先がくっきりと見えているのだろう。その向こうには、青い海が広がっているのだろうか。
(敬称略)
■個人データ
家族●妻と長男(9)、二男(7)、三男(2)の4人家族
週末の過ごし方●平日は会社近くのマンションに単身赴任しており、週末が子供と過ごす唯一の時間となっている。
最近読み返しておもしろかった本●北方謙三の『三国志』(時代小説文庫)
座右の銘●我が道を行く