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佐々木俊尚 Toshinao Sasaki
広野道子
トゥエニーワンレイディ社長
ひろの みちこ
1961年、京都府岩滝町生まれ。町立岩滝小、同橋立中、府立宮津高校を経て関西学院大学文学部日本文学科に入学。1985年、富士通オアシススクールに入社し、大阪府刊行情報紙の編集に携わる。88年2月、ベンチャーリンクに入社。3カ月後に子会社「モベラ」専務取締役に就任し、上京。93年、プラザクリエイトに移籍し、経営推進室長。翌94年にポッカとの合弁会社「ポッカクリエイト」常務取締役に就任し、カフェドクリエの立ち上げに携わる。96年、プラザクリエイト取締役社長室長を兼務。97年、同専務。98年、三井物産の子会社エム・ヴィ・シーに移籍し、上級副社長に就任するとともに、タリーズコーヒージャパンの取締役副社長を兼務。00年3月、21LADY・COMを設立、代表取締役社長に就任。02年6月、洋菓子のヒロタをグループ会社化する。
誰のこころの中にも、原風景はある。疾風怒濤のベンチャービジネス業界にあって、若い起業家たちの原風景はどんな光景をかたちづくっているのだろうか。
広野道子の底流に浮かんでいる原風景は、こんな風だ。
場所は阪神間。六甲の東斜面に閑静な町並みが連なる芦屋や夙川の街。緑の多い住宅街を分け入っていくと、こじんまりとしたレストランやカフェ、ショップが点在している。どの店も派手には走らず、しかし地味ではない洗練された雰囲気を持っている。通りはまぶしい光にあふれ、海に向かって開けた街らしい明るさに包まれている。
広野はこの街で、学生時代を過ごした。時は1980年代前半のプレバブル時代。男女雇用機会均等法の成立前夜のこの時期にあって、まもなく到来する女性の時代を象徴するように、人々の生活には豊かさがあふれ、デザイナーズブランドに身を包んだJJファッションの若い女性たちが街を闊歩していた。
広野も、そんな女子大生のひとりだった。
「おだやかな街なみにとけ込んだような美しい外観のショップやカフェ、レストランがたくさんあった。街に集まってくる人たちには女性が圧倒的に多くて、新しいお店を見つけてくるのが楽しみでした」
そんな話をするときの広野の表情には、夢見る少女の面影が鮮やかに浮かび上がってくる。
今をときめく女性経営者である。これまで、タリーズやカフェドクリエ、大戸屋、プラザクリエイトなど誰でも知っているフランチャイズチェーンの運営を手がけてきた。8社を渡り歩き、うち6社で取締役を歴任。2000年にみずから起業し、トゥエニーワンレイディ株式会社を設立。フランチャイズ事業を通じ、女性たちの起業を支援するビジネスを展開してきた。さらに2002年には、経営危機に陥った洋菓子のヒロタを買収。わずか半年で単月黒字化に成功している。産業再生のあり方が模索される時代状況の中で、女性起業家の再建ビジネスは大きな注目を集めた。資生堂が女性経営者を支援するために設立したファンドの、最初の投資先にも選ばれたほどだ。
経歴と実績は華々しく、過激だ。大企業とも組んで多くの仕事を立ち上げてきたが、常に引かず、フランチャイズビジネスのプロフェッショナルとしての意地を見せつけてきた。
だがその一方で、この人ほど「女性らしさ」や「素人らしさ」の大切さを説いてきた人はいない。素人らしさをこれほどまでに巧みにビジネスへと昇華させた女性起業家は、空前絶後だろう。
トゥエニーワン創業時からのスタッフで、現在はファンド担当取締役を務める横山亜由美(27)は言う。「広野さんは取引先との交渉も、事業の決定スピードも圧倒的。人と話をするときも、相手が何を求めているのかをいち早く察し、時間を無駄にしない。でもその強さの反面、相手をフォローすることを忘れない。とてもかわいらしい面があると思う」
そして広野自身は、こう語る。
「消費者としての女性から人気を集める中食や外食のサービスは、これからの日本経済を牽引していく大きなパワーになると思います。そうした視点をきちんと持てる素人の女性の活躍の場は、これからどんどん広がっていくはず。その活躍の場をフランチャイズが提供していくんです」
たとえばトゥエニーワンレイディの子会社、リテールネットが手がける持ち帰りシュークリーム専門店チェーン「シューファクトリー」。フランチャイズ店舗の初期投資額を1000万円程度に設定し、分譲マンションを購入する頭金程度の資金で起業できるようにしている。物件探しや技術、店員教育についてはフランチャイズ本部が指導し、経験のない女性でもすぐにビジネスをスタートさせることができる。
シューファクトリーの店舗イメージには、広野の学生時代の“原風景”が明るく投影されている。たとえば1日千人以上が来店し、1個120円の焼きたてシュークリームが5000個以上は売れるというJR上野駅構内の「シューファクトリー」を訪れてみよう。店の色は赤と白に鮮やかに彩られ、シェフ風の清潔でかわいらしいユニフォームに身を包んだ従業員が、その場でシュークリームを箱詰めしてくれる。
透徹したプロフェッショナルとしての起業家と、夢見る少女の原風景――。そのふたつのラインはどうつながり、どう結ばれていったのだろうか。
広野は1961年、天橋立を望むおだやかな海辺の街、京都府岩滝町で生まれた。若狭湾の懐深くにあり、天然の良港に恵まれた岩滝は江戸時代から交易船が行き来する廻船問屋の街として賑わった。
実家は明治時代から続く老舗の呉服問屋。京都の呉服屋から注文を取り、地元の織り屋に糸を預けて委託製造をしてもらう。自宅と隣接する店で、父母はいつも忙しく立ち働いていた。この家で広野は思春期を過ごし、高校は隣町の宮津高校に通った。1970年代から織物を中心とする伝統産業が地盤沈下を始め、京都の呉服屋が次々につぶれていき、やがて大きな地殻変動を起こしていく様子を、広野はその目で如実に見ていくことになる。子供のころのそんな経験が、マーケットというものの恐ろしさと不思議さを彼女の脳裏に深く刻みつけていったのかもしれない。
関西学院大学文学部に進み、しかし勉学にはあまり気は入らず、遊びとアルバイトに熱中する。当時は男女雇用機会均等法の成立前夜。アルバイト先の大企業では、女性がコピー取りやお茶くみに甘んじている姿を見せつけられた。大企業への就職をあきらめ、情報紙編集を経て京都市のベンチャーリンクに転職する。フランチャイズ支援で後に名を馳せる同社は、設立されてからまだ3年しか経たない若いベンチャー企業だった。
バブルという祭りの時代は、頂点に達しようとしていた。そしてベンチャーリンクの社内も、そんな時代状況の中にあって熱気が渦を巻いていた。男女の性差も年齢も関係なく、深夜まで働く日々が続く。最初の仕事は、地方銀行が運営する経営者クラブの支援。愛媛県内に毎週月曜日に向かい、地元の第二地銀の幹部とともに中小企業経営者を回ってクラブへの加入を勧誘する。土曜日に京都に戻り、週明けには再び四国入りするというハードなスケジュールだった。ビジネスのおもしろさを、少しずつつかめるようになってくる。そして3カ月後には、東京に新規設立された子会社「モベラ」の専務取締役として上京。小回りのきく先鋭的なベンチャーらしい大抜擢人事だった。
地縁血縁が濃く、すべてが狭い範囲の人間関係に収れんしていく関西と比べ、東京のビジネス風土は何から何まで異なっていた。「古い地縁血縁がまったくなく、毎日のように新しい人と会える。マーケットも関西の百倍ぐらい大きい。こんなに仕事がやりやすくておもしろい場所があったのかと思った」
あこがれの花の都。広野は無理をし、六本木に賃貸マンションを借りた。給料の半分が家賃に消える生活を続けながら、ますます仕事に没頭していく。
フランチャイズ支援という仕事を続ける中で、得たものは大きかった。企業を希望する多くの人と出会ったこともそのひとつだった。
「いちばんダメなのは、大企業病にかかってしまっている人たち。大企業の人ほど、会社が何かをしてくれるんじゃないかという甘えの幻想にとらわれている。自分が会社に対して何をできるかという発想が乏しい。そんな人は転職でさえも難しいのに、独立なんてとんでもない」
かわって彼女が注目したのは、女性であっても、そして素人であってもかまわない。市場のニーズを素早くとらえ、そして絶えず発想を切り替えていく。そんな人材だった。「すごく先の市場ニーズでなくてもいい。ほんの半歩先ぐらいを見極めることが大事。それさえできれば、素人でも全然問題ないと思う。フランチャイズは仕入れや教育などがきちんとシステム化されているから、発想させ持つことができればビジネスチャンスを逃さないですむ」
大企業に就職して安定した生活を手に入れ、35年ローンで家を買う。そんな日本のサラリーマンの生活設計についても、広野は手厳しい。「マンションなんて結局は消耗品。そんなもののためにローンを組んでまで苦労をするのは本末転倒。大企業病ですね」
広野が現在、夫と二人で住んでいるのも賃貸マンションだ。「仕事がうまく回らなくなったら、いつでも撤退して安いところに住み替えることができる」と言う。臨機応変、機動力、身軽さ――その不思議なまでの「軽さ」は、日本人が戦後60年近くかけて積み重ねた重みを、根底からひっくり返そうという強固な意志の現われなのかもしれない。
「これから東京に進出していこうと思うんだけど、広野さん、誰か東京でやってくれる人をご存じないでしょうか。探しているんです」
DPEフランチャイズ大手、プラザクリエイトの大島康広社長からそんな相談を受けたのは、93年春のことだった。88年に名古屋市で設立された同社は、当時東京への本格進出のチャンスをうかがっていた。
「誰かっていきなり言われても、なかなかいないですよね」――最初はそう答えた広野だが、次に口をついて出てきた言葉は、自分でも予想していなかったものだった。
「じゃあ私がやりましょうか?」
こうして広野はプラザクリエイトへと移籍した。転機だった。
「コンサルティングは、しょせんはサポートでしかない。実業に臨んでみないと、フランチャイズチェーンをどう開発し、どう事業を組み立てていけばいいのか、核心の部分は理解できていなかった」
プラザクリエイトで取り組んだ仕事の中でも、その後の彼女の仕事にもっとも大きな影響を与えたのは、カフェチェーン「カフェドクリエ」の展開だった。ポッカとの合弁事業を立ち上げ、常務取締役に就任。ゼロから店作りをスタートさせ、時にはパリまでカフェの視察に出向き、内装やメニューの作り方を見て歩いた。カフェの店内に絵を飾って展示即売する仕組みを考え、モンマルトルの丘の路上芸術家たちから絵をまとめて買い付けた。コーヒーカップもインテリアもすべて自分で選び、名古屋のオフィス街に第1号店を出店。わずか数カ月のうちに他の喫茶店の3〜4倍の売り上げを上げるようになり、すぐに東京進出が決定する。3年間に名古屋と関東で計100店舗の出店を果たし、その成功ぶりは外食業界に轟いた。
「女性がひとりで入りやすい店を作る」というコンセプトは明快だった。入り口をオープンにし、明るいインテリアを前面に打ち出す。「男が入る暗い場所」というイメージを一新し、女性客のニーズを一気につかんだのが大きな成功要因となったのだ。この成功がきっかけとなり、1998年には三井物産子会社のエム・ヴィ・シーに移籍。シアトル系カフェチェーン「タリーズ」の日本展開を手がけることになる。カフェドクリエの時と同じように、タリーズでも古い因習やしがらみとの対立は少なからずあった。インテリア会社に内装を発注すると、あまりにもありきたりな日本の喫茶店風内装を作ろうとする。「もっと女性でも入りやすいように、ひとり席を増やして」と口を出すと、「喫茶店は4人席と相場が決まっています」という返答が返ってくる。業を煮やしてシアトルに出かけ、本場のシアトル風カフェを視察して自分の確信が間違っていなかったことにほっとした。どの店も内外装やサービスが日本の古い喫茶店文化とはまったく異なり、広野がずっとこころの中で温めてきた洗練されたカフェのイメージに似通っていたからだ。
そして2000年3月、広野は「1年だけおつきあいする」と約束していたエム・ヴィ・シーを退職し、21LADY・COM(現トゥエニーワンレイディ)を創業する。時はネットバブル最高潮の時期。直接金融で会社を興そうと計画していた広野にとっては、投資ブームの最末期にうまく滑り込んだかたちとなった。集めた資本金は1億1000万円。
「人の資本で仕事をするのは、ストレスがたまる。事業が拡大すればするほど、方針が他のスタッフと食い違ってくるし、迅速な意志決定も難しい。だったら自分ですべてを決定し、納得のいくまでやりたいと思った」
ビジネスモデルは、フランチャイズチェーンの運営・支援と投資ファンド。1年目に「シューファクトリー」のチェーン展開をスタートさせ、2年目には京都銀行と組み、チェーンストアを支援する「京都ライフスタイルファンド投資事業組合」を設立。そして3年目の2002年には、民事再生法を申請していたヒロタをグループ会社化する。
現在はグループ企業としてヒロタとシューファクトリー運営のリテールネット、それにイングリッシュパブチェーンのHUB(ハブ)の3社を有し、従業員数はトゥエニーワングループ全体で約120人に上る。当面の目標は、株式上場と年商100億円規模への成長だ。
シュークリームのチェーンストアに広野が目をつけたのは、ある経験がきっかけだった。日本に出店したタリーズコーヒーの第3号店。親会社の三井物産本社ビルの中に出したその店舗は、月間20日間しか営業せず、しかも完全なテイクアウトで席数ゼロという思い切った展開だったのにも関わらず、月商が800万円にも上ったのだ。店舗面積はわずか20平方メートルほどで、家賃は月30万円程度。利益は400万円にもなった。
それに比べ、第一号店の銀座店は、1階と地下の2フロアを使い、家賃は月350万円。月商が1000万円に達しても、利益は数十万円にしかならなかった。
「日本は土地が高いから、大きな箱が必要な外食ビジネスには多額の資金が必要。でもわたしはそんな見栄を張った豪華なお店より、店舗は小さくても利益をきちんと上げられるテイクアウトの方がずっと魅力に映った」
と広野は話す。
拡大を続ける同社のビジネスの先に、彼女は何を見ているのだろうか。
「有名になることにも、資産を作ることにもわたしは興味はない。でも会社はわたしのライフワーク」。そう言って、広野は明るく笑うのだ。「これまで歩んできた道も、狙って計算してきたんじゃなく、ただ好きなことをやってきただけ」という言葉には、自信に裏打ちされた若干の韜晦も感じさせる。だがそのゆとりと身軽さは、広野道子という傑出したアイデンティティを形作ってきた要素のひとつであるのは間違いない。
日本に失われて久しい、焼け跡時代の抜けるような青空。それを取り戻すのは疲れ切ったサラリーマンではなく、みずからの感性と戦略を武器に戦う彼女のような起業家たちなのかもしれない。それは焼け跡に咲く、大輪の花のように――。
■個人データ
家族●新聞社勤務の夫(41)と二人暮らし。
趣味●仕事が忙しくて海外旅行に出かけられず、もっぱら国内の温泉旅行を楽しむ。最近は山口県の湯田温泉に出かけた。
愛読書●城山三郎の著作をよく読む。
座右の銘●古いものを再生させ、新しい時代にマッチさせる仕事をしているから、「温故知新」
ファッション●定番のファッションを長く着るのが好き。学生時代を送った神戸に似た雰囲気を持つ横浜元町のファッション街がお気に入り。