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佐々木俊尚 Toshinao Sasaki


 米国のエルピーダメモリ販売子会社に出向していた飯田達也(47)は、今年1月、東京・八重洲のエルピーダ本社に営業部門の統括責任者として呼び戻された。抜擢した社長の坂本幸雄(55)に呼ばれた飯田は、こんな指示を受けた。
 「飯田君、部下を怒らないようにしてね」
 飯田にしても、特段に部下を強く叱った経験はない。なぜそんなことを言うのだろう――と不審がる飯田に、坂本はこう続けた。
 「彼らはそういう風に教育されていないから、仕方ない。今から僕たちがきちんと話をして、教えていけばいいんだよ」
 この時のことを振り返り、飯田は言う。
 「ダメの烙印を押された会社の社員だって、大学の成績が優秀な人材を採っている大企業と互角に戦い、勝つことができる。負けていた人間だって、きちんとマネジメントされれば高い能力を発揮できる。社長はそんなことを言いたかったんだと、後から実感するようになった」
 そして当の坂本も、こう話すのだ。
 「当時はエルピーダの全員が負け犬になっていた」
 社員たちはただひたすら、NECと日立製作所という2つの親会社の意向を待つだけだった。指示が出ない限り、何もしない。双方の親会社からは異なる意見が下りてくる。それをいちいち聞いて、そして結果として何も決まらない。やがて社内の雰囲気は暗くなっていく。誰も冗談も言わない。誰も笑わない。
 それが半導体業界の“日の丸”復権を担う希望、エルピーダの姿だった。

 エルピーダ。その会社名は、希望を意味する「エルピス」というギリシャ語から取られた。
 日本の半導体産業の歴史は、栄光と恥辱に彩られている。「産業のコメ」として日本の技術者たちが血のにじむような努力で開発を続けてきた成果は1980年代に実を結び、DRAM(記憶保持動作が必要な随時書き込み読み出しメモリー)の世界市場で8割を握るまでになる。だがその市場支配は、アジアのメーカーが力をつけてくるのに従ってやがて崩壊していく。90年代に入り、韓国や台湾のメーカーが激しい価格競争を打って出るようになり、DRAMの価格は瞬く間に下落。それまで順調に成長を続けていた日本の半導体業界は、軌道修正を余儀なくされた。半導体産業は巨大な投資を必要としながら、しかし激しい低価格競争の中でスピーディーな経営判断と小回りの利いたタクティクスが必要とされる世界である。あまりにも組織が巨大化し、制度疲労を起こしつつある日本のITメーカーが戦える土俵ではなくなっていたのだ。
 富士通と東芝は市場から撤退する道を選び、90年代末、DRAMメーカーはNECと日立製作所、三菱電機の3社だけになっていた。そしてNECと日立のDRAM事業を統合する形でエルピーダは99年に発足。そして三菱電機のメモリー事業も統合し、同社は日本で唯一のDRAMメーカーとなったのである。
 だがその後も、日本のDRAMは地盤沈下を続けていく。2001年には過去に例を見ないほどの猛烈な半導体不況が世界を襲い、DRAMの価格が1個1ドルを割るという前代未聞の事態にまで陥ってしまう。その波をもっとも大きく足をさらわれたのが、エルピーダだった。会社設立時に15%あった同社の世界シェアは、昨年にはわずか4%に落ち込んでしまう。韓国のサムスンとハイニックス、米マイクロン、独インフィニオンテクノロジーズの4社が世界市場の75%を占める中で、エルピーダの生き残る道はもうどこにも見えないような状況にまでなっていた。
 そんなどん底の中で、日本の半導体業界はその最後の希望を、“再建屋”として名を馳せていた坂本幸雄という男に託した。昨年5月、エルピーダの親会社であるNECの西垣浩司社長(当時、現副会長)は坂本を呼び出し、こう説得したという。
 「日本の半導体業界は本当に厳しい。それを復活させるために、頑張ってくれないか」
 坂本はこのときのことを振り返る。「男気を感じた。そこまで言われれば、頑張らざるをえない。そう決意した」
 そして当時社長を務めていた台湾系半導体メーカー、日本ファウンドリー再建のメドがつくのを待ち、坂本はエルピーダに乗り込んだ。昨年11月のことだった。

 坂本は「日本体育大卒業」というIT業界にあってはきわめて珍しい学歴を持っている。
 子供のころから野球に熱中し、前橋商業高校から同大学に合格した。
 「野球のことしか考えていなかった。中学の時には、高校に合格しなかったらプロボクサーになろうと思っていた。でも高校や大学の時には、自分はこれから一生、野球をして生きていくんだと信じていた」
 そう語る坂本の若いころの夢は、高校野球の監督になることだったという。だが大学4年の時に教員採用試験に落ち、その夢はあっけなくつぶれてしまう。代わりに就職先に選んだのが、姉の夫が勤めていた米国系の日本テキサス・インスツルメンツ(TI)だった。
 野球ひとすじという体育会系の若者を最初は扱いかねたのか、配属先は埼玉県鳩ケ谷市にある倉庫だった。倉庫の商品を出したり、引き上げたり、そんな仕事に汗を流しながら坂本は自分の将来像を考える。さまざまに考えて出した結論は、
 「人事課長になる」
 というものだった。外資系のハイテクメーカーで、体育大学から来た人間ができることは人的マネジメントしかない、という判断だったという。それにしても、夢が人事課長とは――。
 「人事課長になって、社内運動会とか社員旅行とかそんなイベントの時に頑張ろう。そこまで行ったら、自分のサラリーマン人生は成功なんじゃないか。そう思っていた」
 坂本はそんな思い出をしみじみと語るのである。その後の派手な活躍ぶりに比べれば、あまりにも地味な将来ビジョンではないか。
 そもそも坂本という人物は、自分の人生というものにあまり興味を持っていない節がある。将来の夢や老後の人生、余暇の話を振っても、「うーん、あんまりそういうことは考えないですね」といった言葉があっさりと返ってくるのだ。TIで出世階段を上り詰め、40歳代前半でワールドワイドの製造・開発本部長に就任した時も「もうこれで終わりでいいかなあ」と考えたという。そして「50歳になったら仕事を辞めて、引退しよう」と考えていたというのだ。
 「でもね、実際に50歳になったら『なんだまだ意外と若いじゃないか。じゃあ55歳になったら引退しよう』と思い直して、また頑張ることにした。でも55歳になってみたら、また『まだ意外と若いなあ。もう何年かできるなあ』と思うようになって……」
 人を食ったようなセリフだが、坂本はそんなことを真顔で言うのだ。そして55歳の今は、「エルピーダは最後の仕事。60歳になったら引退する」と周囲に宣言している。それなのに、引退後の生活設計を聞くと、
 「何にも考えてないなあ。適応力は結構あると思うんだけど、イメージはまだ全然湧かないなあ」
 と呆然とした表情で答えるのだ。仕事の虫で、自分の生活にはあまり興味を持たないタイプなのだろう。上州人らしい、木訥としながらもからりと明快な口調で語られるそんな話を聞いていると、日本古来からのよきリーダーシップ性である「公平無私」という言葉も浮かんでくる。
 だが坂本という人は、それほどに枯れた人物ではないようにも思える。もっと生々しく、アグレッシブな攻撃性を兼ね備えているようにも見える。その秘密は、いったいどこにあるのだろうか。

 TIでの倉庫番生活は2年で終わりを告げ、坂本はやがて出世階段を猛スピードで駆け上っていった。野球で鍛え上げられた体力、ねばり強さに加え、社会人になってから表に出てきた持ち前の論理的思考が頭角を現したということなのだろう。直属の米国人上司に買われ、引っ張り上げられたことも大きかった。わずか25歳で課長に就任。そして89年からは米国の本社で、ワールドワイドの製品開発に関わる。93年には日本法人の副社長にまで上り詰めた。
 米国系企業という徹底的にロジックを重視する世界で、この時期に坂本の精神と頭脳の中に醸成されていったパワーは、途方もなく大きかったのだろう。とりわけ坂本が圧倒されたのは、TIという企業が持つ戦略性だった。
 95年、米国本社での戦略会議に参加したときのことは今も強い印象となって記憶に残っている。ダラスの本社に約50人の経営幹部が集まり、1週間に渡って郊外のホテルに缶詰となって戦略を作り上げたのだ。その戦略は「DSP(デジタル・シグナル・プロセッサー)を核として、デジタルネットワーク社会に貢献しながら、利益の高い会社になっていく」という英語にしてわずか3行程度の文章だ。DSPというのは音声や画像などの処理に特化したマイクロプロセッサーで、今後の“脱パソコン”時代にあって大きな市場が見込まれている製品だ。
 「会社のポートフォリオを分析し、どの製品が世界市場の中で競争できるか。その製品が将来、どの程度の市場を形成できるか。それを見極めるために、1週間かけて徹底的に討論を続けた」
 戦略(ストラテジー)は、企業の長期の経営方針を形作るものだ。経営を取り巻く状況やテクノロジーに大きな変化が起きたら、必ずいったんは戦略に立ち返り、その時点で戦略に修正が必要かどうかを分析し直す。TIでこの時に作られた戦略は、坂本が退社した後も守られ続けている。そしてこの戦略で打ち出されたDSPの製造は、2000年になってようやく大きな利益を上げるようになった。戦略は、策定から5年の月日をかけて花開いたというわけだ。
 坂本は「長い戦略というのは、それほどまでに長期的な視野が必要なものだ。そしていったん戦略が決まったら、猛スピードでことを進めなければいけない」という。それが坂本がTIで学んだ半導体産業の真髄だった。
 翻って日本の半導体メーカーは、そうした戦略性に乏しかったのではないかという。坂本は吐き捨てる。「日本メーカーは長期の戦略と短期の戦術(タクティクス)が明確に区別できていない。おまけに戦略を実行に移すスピードも遅い。これでは海外メーカーに勝てるわけがない」
 戦略の不在と、意思決定プロセス。日本企業が抱えるこの2つの弱点を克服しようという思想が、坂本のその後の「再建屋」人生の核となっていく。そしてその集大成ともいえるのが、いま坂本が取り組んでいるエルピーダの再生だ。
 坂本がTIを去ったのは、96年のことだった。日本法人の社長人事をめぐり、会社側と対立したからだ。傷心の中で翌97年、神戸製鋼所に移り、半導体事業の責任者となる。赤字にあえいでいた神鋼の半導体部門を、わずか2年という期間で黒字化し、名声を半導体業界に鳴り響かせた。
 ついで日鉄セミコンダクター(現日本ファウンドリー)の社長へと転身。赤字だった同社を製造受託事業へと転換させることで再建の軌道に乗せ、名声はさらに高まった。しあかし02年、同社の再建の見通しがつくと、坂本の心にはもう「虫」がうずき始める。
 「ダメな会社の目が死んだ社員たちが、再建の途上で目を輝かせはじめる。そんなときの輝きが、僕にとってはいちばんおもしろい。良くなっちゃったら、もうおもしろくないね」
 そう語る坂本の表情は、誇りに満ちあふれている。そして「企業を再建させ、成功した経営者としての地位を楽しもうと思わないのか?」と聞くと、こう答えた。
 「ゆっくりするのは、もう少し後でいい。今はただひたすら動き続けたい」

 そして輝かしき「再建のプロ」は、日本の最後の希望であるエルピーダへとやってきた。昨年11月のことだった。
 しかしエルピーダに乗り込んだ坂本を迎えたのは、社内の守旧勢力からの頑強な抵抗だった。坂本が「日米の市場さえ押さえれば、それはグローバル市場を制覇することになる。欧州や東南アジアに経営資源の多くを割くべきではない」と、欧州・東南アジアの営業部門縮小を指示する。本部長や部長たちからは、さまざまな反論のメールが返ってくる。「顧客の優先順位をつけよ」という指示にも答えない。催促すると、「なかなか難しくてできません」という返事が来る。
 おまけに組織形態も、非効率がはびこっていた。同社はにはこれまで、11の本部の下に28の部、さらにその下に100にも上る課があった。しかも本部には本部長と副本部長、部には部長と副部長を置き、出資元であるNECと日立製作所からの出向者をたすき掛けさせている。わずか1000人足らずの企業としては、あまりにも肥大化しているといえるだろう。そして肥大化した組織では意思決定のプロセスが重層化し、経営判断は自然と遅くなる。
 エルピーダの現状に業を煮やした坂本は、思い切った組織変革に打って出た。今年1月、組織をばっさりと仕切り直し、11あった本部を7つの事業部に集約。そして事業部のトップに、40歳代半ばの若手を据えたのだ。同時に、苛烈なほどドライに、抵抗勢力を構成していた“古株”の社員たちを切り捨てた。出向元の親会社に返したのだ。
 ともかく、これで意思決定を迅速に進める基盤はできた。ついで坂本は、社内会議の方式を改めた。たとえば、それまで定期的に開いていた新製品開発会議を不定期に変更した。「社内向けの厚い書類を準備し、会議のための会議を開くことには何の意味もない。新製品のアイデアが出てきたときに即座に会議を開き、そして開発をどうするかをその場で決めることにした」という。そうした会議は、すべて1時間以内に終わらせる。
 さらには、社員に向けて経営の現状や今後の方針などについて徹底的に情報開示。社員から受け取ったメールには、遅くとも24時間以内に返事を書くことを自らに課した。社員へのインセンティブとして、ストックオプション(株式購入権)とスペシャルボーナス制度も導入した。
 坂本の考えたコンセプトは、きわめて明快だ。
 「社員が仕事をやりやすくする環境を作り、権限を思い切って委譲する。そうすれば、後は社員たちが自らの能力に従って勝手に仕事を転がしていく」
 自律的に動いていく環境を作り出すことが、もっとも重要だというのである。坂本は「日本人は自律的に仕事をする能力が極めて高い。みずから仕事の中身を改善し、よりよいものを作っていく――そんな発想と能力があったから、高度経済成長に日本経済はあれだけのパワーを発揮することができた」と力説する。

 そして同時に坂本が取り組んだのが、巨額の資金調達だった。
 今年3月末。イラク戦争が始まった直後に渡米した坂本は、半導体大手である米インテル本社を訪問。同社の最高幹部に誘われ、車の後部座席にともに乗り込んだ。
 インテル最高幹部が、念を押すように坂本に聞く。
 「坂本さん、あなたは本当に辞めずにエルピーダでこれからも頑張るつもりなんですね?」
 坂本は答えた。
 「もちろん、その通りです」
 その時のあうんの呼吸が、最終的なインテルの意思決定へとつながったと坂本は思っている。直後、同社はエルピーダに約1億ドル(約120億円)もの巨額の出資を決定。これが呼び水となり、エルピーダは最終的に国内外の企業から1000億円を超える資金を調達することに成功した。
 インテルからの資金調達は、IT業界の中では早くも“神話”として語られつつある。業績が倒産一歩手前にまで悪化し、世界から見放されつつあった二流の半導体メーカーに、インテルが出資するとは誰も予想していなかったからだ。
 この資金を新たな設備に投入し、エルピーダはマルチメディア機器向けの付加価値の高いDRAM製造に注力。一方でパソコン向けの安価なDRAMは生産を外部委託し、激しい価格変動を吸収させる。この2本柱の戦略を繰り返し坂本は社内外に説明し続け、「シェアを落としたとはいえ、エルピーダの持つ半導体技術と開発力は非常に高い」と説いた。その簡潔かつ明確なロジックはきわめて力強い。それがインテルを説き伏せることに成功した最大の原動力だったのだろう。
 部下の飯田も、坂本の最大の魅力についてこう話す。
 「われわれはこの会社をこんな方向に持っていこうという戦略が明確で、その戦略を実行するための戦術もきちんとしている。日本企業はコンセプトに美辞麗句を並べるが、精神論に走りがちで現実的ではない。それに比べて坂本の論理はいつも恐ろしいほどにリアルだ」
 上州という乾いた義理人情の土地に生まれ、そして野球というきわめて日本的なスポーツに熱中した青年は、長じてTIというすぐれて戦略的な外資系企業に身を投じ、攻撃的なストラテジーとロジックを学んだ。その混合物が、今の坂本を形作っているのだろうか。そしてエルピーダは、プロの再建屋としての坂本の集大成なのだろう。坂本は「一番最後は、いちばんタフな仕事にしたい。それがエルピーダだ」と語るのだ。
 坂本は最近、一見大風呂敷にも見えるような目標を頻繁に語るようになっている。
 「2004年には世界シェアの15%を奪い、世界のトップスリーを目指す。敵は韓国のサムスンだ」
 ボロボロの旗を掲げて船出した日本の“希望”は、本物の希望へと変わりつつあるようにも見える。水平線の向こうが見えてくるのは、これからだ。