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佐々木俊尚 Toshinao Sasaki


 インターネット業界最強の技術者集団として知られるインターネットイニシアティブ(IIJ)はこの春、電力系通信会社パワードコムと合併を果たす。「電力系・IIJ連合」の誕生でガリバーNTTの巨大な対抗軸が生まれ、日本の通信業界は大きな再編の波にさらされる可能性が高くなってきた。そしてその新会社をゆだねられるのが、IIJを率いる代表取締役社長、鈴木幸一(56)だ。
 鈴木に会うと感じさせる独特の雰囲気がある。それはひりひりとするほどまでに無骨で、しかしな透徹した理論性のようなものといえばいいだろうか。それは時に独善的になりがちな団塊の世代の生硬さとは異なり、あるいは成功したベンチャー経営者の度量とも少し違うように見える。その精神性を形作っているのは何なのだろうか。

 鈴木の原点は、1970年代の工場の風景にまでさかのぼる。
 まだ日本が、高度経済成長のにおいを色濃く残し、ものづくりの文化が光り輝いていた時代。大学を卒業したばかりの彼は、日本能率協会の駆け出しコンサルタントとして全国の工場を歩いていた。現場の改善指導、つまり「カイゼン」運動の指導を行うのがその仕事だった。カイゼン運動によって現場における生産の限界はわずかずつ解決され、それによって新しい技術、新しい工程が生み出される。その積み重ねによって日本の国際競争力はじわじわと向上し、やがて世界に冠たる工業国家を作り上げた。その理念は、いまも戦後日本の産業界の金字塔として語られ続ける。
 だが若い鈴木の目に映る工場現場の風景は、カルチャーショック以外のなにものでもなかった。
 中学を卒業し、すぐに集団就職で地方から上京し、朝から晩まで油まみれで働く若者たち。貧しい家庭に生まれ、何とかそこからはい上がろうともがきながら、結局はまた貧困の中に沈み、荒れ果てた生活の中へと姿を消していく女たち。みずからの技術に誇りを持ち、生産現場を腕一本で支えている職人気質の男たち。そして劣悪な労働条件。工場労働者の給料は、新卒のサラリーマンである鈴木の月給の半分にも満たなかった。
 でも彼らはみな、あふれるような強靱なバイタリティとともに生活を切り開いていこうとしているように見えた。戦後日本の青空の下、工場に響き渡る鉄の音をたどっていけば、たしかに明るい未来の地平線へとつながっているようにも見えたのだ。
 そんな思いは、「センセイ」と呼ばれ、工場長や幹部に案内されてスーツ姿で工場を回る鈴木の精神を少しずつ変えていく。
 「それまで酒ばっかり飲んでる大学生だった僕は、いろんな意味であの時代に人生を学んだと思う。工場を回っていたあのころが、今の僕の性格を作り上げている」
 鈴木はいくぶん懐かしく、そしていくぶん嬉しそうに、そう振り返るのだ。スーツを着た若いセンセイはやがて上着を脱ぎ捨てて工場の人たちの世界へと入り込み、工場の社員食堂で工員たちと肩を並べて昼食を取り、夜ともなれば熟練工たちと酒を酌み交わすようになる。自堕落で、工場の生産性を下げているように見えていた女子工員が、実は仲間のあいだではもっとも人気が高く、皆から厚い信頼を寄せられていたことを知る。肩書きに関係なく、分け隔てなく誰とでもつきあえる男たちにたまらない魅力を感じていく。

 だが当時の鈴木の生活は、それだけではなかった。
 工場でのカイゼン運動を10年間も続けるかたわら、鈴木はひそかに寝る間も惜しみ、学生時代から続けていたコンピューターやネットワーク関連書籍の翻訳に取り組んでいた。日本におけるUNIXの先駆者として知られる岸田孝一(現SRA最高顧問)と知り合ったのも、このころだ。
 もともと鈴木の大学生時代の専攻は、言語学である。「すべての言語は深層では同じ構造を持つ」という持論を展開した言語学の大家、ノーム・チョムスキーに憧れを持ち、早稲田大の文学部に進んだのだという。コンピューターの持つロジックの世界とは親和性が高かったのだろう。昼は工場を回り、夜になると岸田の家に泊まり込み、ニンニクの醤油漬けやみそ漬けをポリポリとかじりながらソフトウェアの仕様書を書き、技術書を翻訳するような生活が続く。鈴木は「この当時に学んださまざまな知識と、岸田さんを通じて知り合った技術者をはじめとする多くの人たちとの交流は貴重な体験だった」と語る。
 最先端のネットワーク技術と、濃い人間関係が渦巻く工場現場――ミスマッチとも思えるような組み合わせが、この時期の鈴木の生活を支配していた。
 だが一見相反するように見える二重生活は、じわじわとある種の化学反応を起こしていったのだろう。反応によって生じた物質は、DNAのように鈴木の精神と身体へと染み通っていく。蓄えられていったエネルギーは、やがてひとつの帰結を生み出す。
 鈴木はコンサルタント会社役員を経て92年、アスキーのソフトウェア開発部長だった深瀬弘恭らとともにIIJを設立する。日本初の商用インターネットプロバイダー(接続会社)の誕生である。

 インターネットの原型ともいうべきARPANETが米国防総省の予算で作られたのは、1969年。その後、70年代から80年代にかけ、大学のコンピューター同士をつなぐUSENETなどさまざまなネットワークが米国内に誕生し、これらが相互接続され、揺籃期のインターネットが形作られていく。だがこの時代、まだインターネットは不安定で危険な代物だった。
 だが当時の鈴木たちは、そう考えていなかった。
 「僕たちは、インターネットはたいへんな可能性を持ち、これからの通信インフラはインターネットになると思っていた。巨大な通信事業である電話でさえも、将来はインターネット上の技術として使われるようになるだろうと皆で話し合っていた」
 IIJが設立された1992年は、まだ一般社会ではインターネットという言葉は影も形もなかったといっていい。さらにいえば、今ではインターネットの代名詞となっているホームページ――正確に言えば「ワールドワイドウェブ(WWW)」という技術自体、ティム・バーナーズ・リーという卓越した技術者によって開発・公開されたのが同じ1992年なのである。この時期に日本でプロバイダー事業を立ち上げるということが、いかに先駆的であったか想像できるというものではないか。
 だがあまりにも早すぎる存在は、往々にして社会に受け入れられない。最大の障壁は、郵政省(現総務省)だった。インターネットの国際接続に必要な特別第二種電気通信事業者の免許を取ろうとするが、同省からの認可が下りない。設立時に用意した資本金1800万円は瞬く間に使い果たし、しかし銀行からの融資のめども立たず、立ち上がったばかりのベンチャー会社は窮地に追い込まれる。
 当時、IIJのオフィスは東京・溜池にあった。現在の山王パークタワーが建つ以前、その予定地に古い雑居ビルが林立していた中のひとつだった。インターネットの技術者として世界的に有名で、IIJの創業時メンバーでもある常務取締役、浅羽登志也が当時を振り返る。
 「92年の暮れに会社が設立され、でも翌年の3月から5月までは給料が出なかった。夏のボーナスも出なかった。免許が下りないので仕事もなくて、夕方5時になると空調が止まってしまうオフィスで『寒いから今日はもう帰ろうか』と、とぼとぼ帰路につく毎日だった」
 重い扉をこじ開けるように銀行から融資を取り付け、郵政省から免許を取得できたのは翌94年初頭のことだった。この時期、インターネットをビジネスに利用するという動きは米国から爆発的なうねりとなって生まれはじめていた。インターネットへの接続サービスを開始したIIJは、その波に乗るように瞬く間に顧客を増やし、売り上げを伸ばしていく。わずか1年の間に、顧客は約2000社に達した。「門前列をなすようにクライアントが来てくれて、わが社の技術者たちが朝から晩までネットワーク技術を説明していた。1日40社とか、そんなペースだったと思う」と鈴木は当時の状況を語る。
 莫大なカネが流れ込んでくるようになった。しかし94年から社長に就任していた鈴木は、その収益を技術開発や技術者のヘッドハンティングに集中的に投資する。その投資効果はやがて、同社の「インターネット業界最強の技術者集団」としての地位を不動のものにしていった。

 鈴木が創業当初から大事に育ててきたIIJ技術者集団の文化を見ていると、古い「町工場」の雰囲気が色濃く映し出されていることに驚かされる。
 そのひとつが、度を超しているといっていいほどの「手づくり感覚」の重視だ。前出の浅羽が苦笑しながら打ち明ける。
 「どこの企業でも、ネットワーク機器を導入する際には業者に任すのが当たり前。だがIIJでは今でも技術者がラックへのネジ留めからソフトのインストールまですべて自前で行わないと納得しない。もちろんトラブルなどの対処を考えれば、すべてを自前で行うのはベストの方法。でも人件費や労力を考えれば、果たしてそれでいいのかどうか。鈴木でさえも『何でもかんでも自前でやる必要があるのか。買えるものは買ってこればいいのに』と文句を言うことがある」
 あるいは、こんな話もある。新しい製品がネットワーク機器メーカーから納品されると、技術者が寄ってたかってまず本体ケースを開けてしまい、中の基板を見て品定めするところからまず始める。「使われているチップは何だ?」「ああ、こんなチップを使ってるのか」。そこでお眼鏡にかなわないと、電源も入れられないままメーカーに送り返される。そんな逸話は同社では枚挙に暇がない。さらにいえば、この会社には「稟議」もない。誰かが「こんな仕事をしたい」と切り出し、賛同者がいれば、会社の決済もないままプロジェクトは自然発生的に進められてしまう。
 そうした組織のあり方への鈴木の理念は、やはり20代につちかった人生経験の影響なのだろう。鈴木のIIJ社長としての生活は、今もそのDNAに深く突き動かされているように見えるのだ。
 それを象徴するのが、自宅で頻繁に開かれる飲み会だ。社員が鈴木の自宅に押しかけては、酒を飲みながら技術や経営についての議論を戦わす。20畳足らずのリビングルームに車座になり、つまみは社員が買ってきたスナック菓子や缶詰だ。酒は鈴木が常備している。
 「ひどいときには1週間にウイスキーのボトルを25本も空けたこともある。夜の9時ごろにどやどややってきて、全員帰るのは4時過ぎだったり。みんなが帰ってから、飲み散らかしているのをひとりで片づけて、ホントに疲れる」と鈴木は笑う。同期会で集まった新入社員たちが、二次会流れでそのまま社長である鈴木の家に夜中にやってきたこともあるというから、日本社会にあってはきわめて珍しい企業文化といっていいだろう。それにしても、これほどまでにプライベートを切り売りし、社員とのコミュニケーションに私生活を捧げている経営者も珍しいのではないか。
 IIJは組織構造的には企業というよりは、町工場――いや、ある種の「ムラ」「コミュニティー」に近い存在といえるかもしれない。鈴木の社内における存在感は、決して家父長的ではないからだ。
 コンピューター技術者の世界に、「コミュニティー」という言葉がある。特にオープンソースソフトウェアのコミュニティーが有名だ。プログラマーたちがお互いに強い共通認識で結ばれながら、ひとつのソフトウェアを作っていこうとする際の自由な共同体を意味する。マイクロソフトの対抗軸として業界を席巻しているOSの「リナックス」は実際、オープンソースコミュニティーの中で作られてきた。ひとつの創造物を生み出す主体は、企業ではなく個人同士のつながりであるというその思想は、きわめて米国西海岸的でもある。
 そしてIIJという企業文化は、このコミュニティーにもつながっているようにも見える。東西のまったく異なる文化が360度ぐるりと回り、鈴木を媒介にしてひとつの大きな円を描いているのだとしたら――。町工場から出発した鈴木は、無意識のうちにこの到達点へとやってきたのだろうか。

 しかしIIJが著名企業へと脱皮していく中で、90年代後半に入って鈴木の心境にはなにがしかの変化があったようにも思われる。
 「ずっと町工場みたいだと言われてきて、今もそれは変わらない。でもそれがゆえに、IIJが日本の中で孤立感を深めることになった」と鈴木は語るのだ。
 その思いは、ある種の転回点を彼にもたらしたのだろうか。みずから「技術屋集団」「町工場的コミュニティー」であるIIJのイメージを振り払うかのように、鈴木は90年代末以降、次々に新たな手を打ち始め、業界を驚かせた。最初は、98年のクロスウェイブコミュニケーションズの設立だ。光ファイバーのバックボーンを運営管理するこの会社の設立で、IIJはインターネット接続だけを担う単なるプロバイダーから、通信インフラも持つデータ通信会社へと変身を遂げることになった。さらに同年には日本の株式市場を飛び越え、いきなり米ナスダック(店頭株式市場)に上場。「IIJを世界に冠たる通信企業にしたい」という思いからだったという。グループ企業の数も急速に増やし、現在9社に達している。「これほどの数の技術者をそろえ、組織を作り上げたのは僕の功績だと思う」と鈴木が珍しくみずからを誇るほどだ。
 鈴木は胸中をこう打ち明ける。
 「このままでは、IIJがラボラトリー(研究所)になってしまうのではないかという危機感があった。気がつけば、インターネットのビジネスが大きく広がっていく中で、IIJは理念派になってしまっていた。でもわれわれとしては、理念派としてではなくきちんとインターネットの理念を守っていきたいと思った。しかし逆に、会社がこれだけ大きくなってしまってどうするのかという問題もある」
 技術者コミュニティーと、拡大への使命を帯びたビジネスの両立――鈴木の中で、そのジレンマはまだ解決していないように見える。
 その鈴木の思いの集大成が、今春に予定されているパワードコムとの合併かもしれない。組織を重視する電力系の会社である同社と、町工場的な企業文化を持つIIJの合併には「本当にうまくいくのか」という指摘も少なくない。鈴木本人でさえも「先方の技術者たちに会ってみたら、『ああ電力会社の人たちだなあ』という印象だった。あまりにも文化が異質なので、逆に衝突しないのではないかと思った」と話すほどだ。
 日本のインターネット発展のために、ガリバーNTTとの対抗軸を作るという理念の勝負とともに、鈴木は別の思いも今回の合併劇に込めているように見える。それは、IIJの誇る「町工場」「技術者コミュニティー」が日本の保守的な産業現場に、どこまで切り込めるのかという思いだ。果たして彼らが日本的な組織に飲み込まれるのか、あるいは新たなうねりを生み出しうるのか。その答が出される時期は、そう遠くない。