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佐々木俊尚 Toshinao Sasaki


「人間探検――転身エリートが挑戦するITビジネス 安延申・ウッドランド社長」


 「次官候補、驚きの転身」「エースの降板」「官僚支配の終焉」――。安延申は2000年夏、通産省(現経済産業省)電子政策課長を最後に退職し、米スタンフォード大日本研究所長へと転じた。新聞や雑誌にはこんな見出しが躍った。事務次官の最有力候補と呼ばれ、通産省の中枢としてIT政策立案の中心的役割を担っていたエリートの転身は、それほどまでに衝撃的だったのだ。
 あれから3年。今年4月、安延はジャスダック上場のソフトウェア開発・販売会社「ウッドランド」の社長に就任した。今度は企業家という荒波の世界に、再び身を投じようとしているのだ。彼はその官僚人生の中で何を考え、そしてどこへ向かおうとしているのだろうか。
 現役時代の安延が手がけた大きな仕事のひとつに、1995年に大阪市で開かれたアジア・太平洋経済協力会議(APEC)がある。APEC推進室長として、会議全体を切り盛りした。この時、筆頭の課長補佐として安延とともに働いたのが、M&Aコンサルティング社長の村上世彰(44)である。通産省の年次は、安延の5期下。安延より1年早く、通産省を1999年に離れて投資会社を設立している。
 村上は安延と対照的に、直言実行型の人物である。省内でも、意見が対立する相手と衝突することは珍しくなかった。APEC大阪会議の際も、通産省最高幹部のひとりと口論になり、「出て行け!」と怒鳴られる事件が起きた。
 その時、興奮する村上を取りなすように諭したのが直属の上司の安延だった。
 「村上、自分のやりたい目的がきちんとあるんだったら、その目的がどうすれば達成できるのかを考えろ。その途中で、無駄な衝突はするな」
 そして怒る最高幹部をなだめ、事件を不問にするべく動いてくれたのだという。
 村上は当時を振り返って語る。「マネジメント能力において、通産省の中でも圧倒的な人だった。僕みたいないい加減な人間でも、上司として仰いで支えていきたい、この人で働いていきたいと思わせる人だった」
 それはカリスマというのでもないようだ。自分自身が人の先陣を切って働き、そして部下たちをうまく組織化して働かせていく――究極のチームマネージャーとでも言うべきだろうか。通産省という大組織の中における安延のプロジェクト遂行能力は、それほどまでに高かった。
 安延の半生を振り返ると、そこには一本の筋がほのかに見え隠れしている。それは「実業」への強い欲求だ。その欲求はさまざまな局面で湧水のように侵出し、人生の転回点を作り出しているように見える。
 安延は岡山県で生まれた。県立総社高校に進み、京大への進学が最高の目標とされている関西の文化の中にあって、同級生でただひとり東大を受験した。
 もともとは理系を志していたというが、高校3年の夏に経済学部に志望変更する。「法学部というのは、極端に言えばひとりの人間が作った法律をああでもない、こうでもないと解釈する学問。しかもそれが絶対の真理かどうかもわからない。当時はそんな風に思っていた。そんなことより、人々が集まって経済活動を行うと、ある法則性が表れて来るという経済学の世界はとてもおもしろいと思った」
 ロジックでものごとを切り取ろうとする志向、そしてそのロジックを世間という大きな舞台で実現させていこうという志向は、すでにこのころから安延の中に堅固な意志として存在していたのだろう。金融や生保が就職先として人気ナンバーワンだった1970年代末、東大経済学部4年生だった安延は、「人のカネ勘定で食い扶持を得るのは興味がない」と通産省、経済企画庁、トヨタなどから内定を得た。通産省に決めたのは、同省採用担当のこんなひとことが決め手だった。
 「君は経済企画庁のような、辛気くさいデスクワークには向かんよ」
 通産省時代の安延はそのマネジメント手腕を認められ、充実した幸運な官僚人生を送ったと言えるだろう。日米貿易摩擦や日米構造協議などの対米交渉、中国の三峡ダム計画など、常に陽の当たる大舞台で仕事をしてきた。
 社会をどういう理想社会へと向けるのか、そしてその社会の実現は人間の幸福にどう役立つのか――安延が携わった施策はしかし、そうした青臭い理想主義とはある種の間合いを置いているようにも見える。一連の施策を貫いているのは、いかにして施策を普及させ、関係する産業を成功させるかという執行者としての強烈な意志だ。
 その安延の発想が、ITという新たな枠組みとうまくマッチしたとも言えるだろう。ITは徹底的に民が主導する世界であり、そして新たな枠組みをどれだけ迅速に社会に適用し、定着させることができるかどうかが鍵となるからだ。
そして安延の官僚生活の集大成が、1997年からの一連のIT施策だった。
 この年、安延は情報処理振興課長に就任した。時は、インターネットが爆発的に普及し、電子商取引が黎明期を迎えていた時代。後に「IT革命」と呼ばれることになる産業界の劇的な変革が、インターネット先進国のアメリカから押し寄せようとしていた。小渕内閣は「情報通信の普及こそが大不況脱却の切り札になる」と考え、ITへの莫大な国家予算の投入を決意する。
 その予算の大きな部分を差配したのが、安延だった。わずか1年の間に投じられた予算は、約2000億円。もともと公共事業の予算の少ない通産省にあって、一事業としては空前絶後の金額だった。
 ITに走り始めていた産業界を、いかにして離陸させるか。その難題に取り組んだ安延が採った方法は、予算の総花式配分だった。民間から申請のあったプロジェクトに関して、外部の専門家に依頼してビジネスの実現可能性を審査する。審査結果をランキングにして並べ、予算の許す限り、上から順に補助金を流し込んでいったのだ。
 この手法には当時、省内からさえも批判が巻き起こった。「予算のばらまきではないか」というのだ。通産相の与謝野馨からも「もっと骨太の予算にできんのかね」と小言を言われたほどだった。政策理念に重きが置かれる霞が関の社会にあって、「ばらまき」という指摘は無能呼ばわりに近いとも言えるだろう。だが安延は、そうした批判を意に介さなかった。「ITは変革のまっただ中にあり、どの方向に進んでいくのかはまだわからない。役所が決めたって、それが当たらなかったらどうしようもないじゃないか。役所が誘導すべきじゃない」と言い放ったのだ。
 この「予算ばらまき」がIT社会の実現に、どれほどの役割を果たしたのか。その答はまだ出ていない。しかし現在IT業界を牽引しているベンチャーのいくつかが、この予算によってビジネスの礎を築くことができたのは、紛れもない事実だろう。
 それにしても、「役所が誘導すべきではない」とは――。それは正論ではあっても、霞が関のレゾンデートル(存在理由)そのものを否定しかねない。そしてそのジレンマは、今もIT施策を覆っているように見える。
 その象徴といえるのが、内閣官房が中心となって進めているe−Japan戦略といえるかもしれない。
 政府は2001年に戦略をスタートさせ、ブロードバンド普及や規制緩和策などインフラ面の充実を最優先に進めてきた。このe−Japanの最初の青写真を描いたのが、安延だった。情報処理振興課長として巨額の国家予算をIT業界に注ぎ込んだ安延は、98年に電子政策課長に動く。IT社会に見合った法整備として不正アクセス防止法と電子署名法に取り組み、さらに2000年夏には沖縄サミットで採択された「沖縄IT憲章」の草案作りを行った。そして最後の仕事として行ったのが、IT戦略会議という新しい諮問機関の発足だった。
 政府は同年7月、出井伸之・ソニー会長を議長にしてIT戦略会議を発足させる。会議は当初から、ブロードバンドの整備と電子商取引のルール整備、電子政府実現、IT関連の人材育成という4本柱を打ち出し、同年11月にはIT国家基本戦略(e−Japan戦略)をまとめている。
 その後、わずか2年間でブロードバンド人口が1000万世帯を突破するなど、e−Japanは一定の成功は収めているように見える。だがその一方で、国家として次のIT戦略をどう打ち出すかという難問を前に、政府は深いジレンマに陥っているようにも見える。今年夏にまとめられた「e−Japan戦略U」ではITの利用・活用面を主題にしながらも、その具体策として「民間の努力」が前面に打ち出されているのだ。IT革命は、政府の努力ではどうにもならない段階へと来ているということなのだろう。政策立案を行う官僚の側でさえ、IT社会がどこへ転がっていくのかという明確な未来図を描けない。
 そのジレンマを背負うべき安延は、しかしe−Japanが動き出す前にすでに通産省を去っていた。IT戦略会議の枠組み作りを行い、e−Japan戦略の立案に関わりながらも、会議発足直後に通産省を退官したのだ。
 この退官劇については、メディアでもさまざまに語られた。「役人は異動でどんな仕事に回されるかわからず、ITの仕事を続けるために民に転じた」「官に見切りをつけた」――。安延自身は、当時を振り返ってこう語る。
 「官僚の宿命として、上級幹部になると幅広い行政分野に責任を持てるようになるかわりに、同時に第一線の個別の行政分野との関わりは希薄になってしまい、予算取りや国会での根回しなどが中心業務にならざるを得ない。もともと『経済実態に関わりたい』という理由で通産省を就職先に選んだように、私自身がどちらかといえば現場が好きなタイプ。こうした仕事に対する魅力をあまり感じなかった」
 さらには、官僚批判への反発もあった。「世間では官僚は私利私欲の固まりで経済の実態も知らないと思われている。それなら一丁やってみようじゃないか、役人あがりが民間でどれだけのことができるか試してみようじゃないか」と思ったというのだ。もっと正直に言えば、通産省の中枢として名誉欲や権力欲が満たされ、事業欲や金銭欲にチャレンジしてみたくなったこともあった。
 しかしそうした安延のさまざまな思いの背景には、ITという大きなうねりに対する「読み」があったようにも見える。
 産業界を高みから牽引することが通産官僚のレゾンデートルだった時代は、はるかに遠い。
 戦後の焼け跡から高度経済成長へと至るある時期、官僚は日本経済をリードし、国家の命運を左右した。当時、圧倒的な力を誇った通産事務次官、故佐橋滋氏をモデルにした小説「官僚たちの夏」で、著者の城山三郎氏は主人公にこう語らせている。
 「役人は近寄り難くしておいた方が、つけこまれない。天下国家のためを思って、突き放しもし、きびしくもするのだ」
 だが官民の蜜月時代は過ぎ去り、規制緩和の波とともに、官僚の権限は削られていった。天下りのポストも減った。権力の喪失とともに、人材は政界や民間へと流れ出していく。ITは、その起爆剤の役割を果たしているようにも見える。
 官という世界を支えるそのパラダイムの大転換が、安延の精神に大きな影響を与えたであろうことは、想像に難くない。その影響は、湧き水が岩の間から噴出するように安延の行動を促したのかもしれない。
 退官当初、米スタンフォード大学日本センターの今井賢一理事長からの誘いを受け、同センター研究部門所長に就任し、ほぼ同時にみずからのコンサルティング会社「ヤス・クリエイト」を設立する。その後は地方自治体の顧問や早稲田大客員教授、独立行政法人・経済産業研究所の研究員などさまざまなポストに就いた。
 だが現在は、ウッドランドの社長業務に専念している。同社は業務分野の基幹ソフトが主力。グループ全体で社員約270人を抱え、連結売上高約52億円のベンチャー企業だ。
 安延は「辞める以上は実業だと、退官したときからずっと思っていた。その時がやってきたのだ」という。
  先に企業経営の世界に出た村上の目に、安延は退路を断ち、自分を企業経営者として追い込もうとしているように見える。「企業経営の世界に必要とされるのは、カネのにおいを嗅ぎつける力。それは天性の能力で、通産省の経験はまったく役に立たない」と、投資会社で圧倒的な成功を収めている村上は言う。そして安延のチャレンジに対し、「厳しいことを言えば、安延さんは決定事項の執行能力はきわめて高いが、動きの激しいIT業界でどのようにしてカネのにおいを嗅ぎつけ、会社の舵をどこに切っていくのかという能力は見えてこない」と指摘する。「でも、絶対に失敗しないでほしい」とも言う。
 確かに、安延のこれまでの官僚人生には、事業に対する目利きといった要因は存在しなかった。だが安延のロジックは、明確だ。元官僚という部外者でも通用しうる世界は、過去の経験や実績がまったく役に立たないIT業界をおいて他にない。そして自分自身には、ふたつの貴重な武器がある。ひとつは、通産省のIT担当課長として培った業界の人脈。そしてもうひとつは、流通や金融、製造などITが応用される分野に対する知識だ。こうした知識は、IT業界には欠けているケースが多い。通産官僚として、これらの幅広い知識はみずからの中に蓄積され、出番を待っている――。
 彼がこれまであたためてきた実業への強い思い――そしてその思いの中で育まれてきたであろう起業家としての精神は、これからの安延の企業家人生にどのように作用するのだろうか。

■プロフィール
岡山県●市生まれ。1978年、東京大学経済学部を卒業し、通産省に入省。大臣官房秘書課長補佐などを経て、94年通産大臣秘書官。95年、APEC推進室長としてアジア・太平洋経済協力会議(APEC)大阪会議を取りしきる。97年、情報処理振興課長。98年7月に就任した電子政策課長を最後に、2000年7月に通産省を退職。同年8月、コンサルティング会社「ヤス・クリエイト」を設立し、代表取締役社長。同年9月、スタンフォード日本センター研究部門所長。01年、経済産業研究所コンサルティングフェロー。同年、早稲田大学客員教授。02年8月、インスパイア監査役。02年11月、ウッドランド取締役を経て、翌03年4月ウッドランド社長に就任する。

■個人データ
家族●妻と長女(23)、二女(21)
趣味●最近は無趣味で困っているが、強いて言えば大リーグ観戦と読書、写真撮影
好きな作家●開高健
最近読んだ本●読書があまりできておらず、これが問題