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佐々木俊尚 Toshinao Sasaki
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『ペシミスティック・サイボーグ―普遍言語機械への欲望』
「思考する機械」を目指すコンピュータテクノロジーに、人類の暗い欲望の歴史の再現を見る大胆なコンピュータ文化論。
著者:西垣通
青土社
かつて遠い昔、第5世代コンピュータという国家プロジェクトがあった。非ノイマン型の「考えるコンピュータ」を作ろうという壮大な計画は、1982年に通産省が旗振り役を務めてスタート。10年以上の月日をかけて500億円以上の国費が投じられ、しかし結果的にはコンピュータテクノロジの世界に何ももたらさず、ほぼ無に帰して終わった。
この計画に対しては、すでに数え切れないほど多くの批判や反省、検証が行われている。だがこの本の著者、東大大学院情報学環の西垣通教授は、その失敗の原因を日米のコンピュータ文化の違いに起因すると説いた。
そもそも「考えるコンピュータ」とは、いったい何を目指していたのだろうか。コンピュータとはいったい何か? 人間のようなコンピュータとは何を意味するのか? 人間のような知能を持つコンピュータという存在は可能なのか?
だが第5世代コンピュータプロジェクトは、最初に考えて考え抜くべきそうした哲学的な命題をパスし、技術的な次元に努力の焦点をシフトさせていってしまった。「現実的で効率的、一見いかにも怜悧(クレバー)な戦略である。ほとんど無意識のレヴェルでこういう戦略をとってしまうこと、ここにわたしたち日本人の情報テクノロジーの体質が露呈していると言っていいだろう」と西垣教授は指摘する。
欧米のコンピュータ文化の底流には、ユダヤ教の「カバラ」に源泉がある普遍論理思考があると西垣教授は言う。カバラは12世紀ごろに成立し、アリストテレス哲学や中性の自然科学と結びつき、統合的な体系を作り上げていった神秘主義だ。このカバラがキリスト教の世界に入り込み、ルネサンスの原動力にもなっていった。その論理的・数学的な体系はユダヤ人の普遍論理思考の礎となり、欧州での迫害から追われたユダヤ系知識人たちとともに米国に渡り、やがて知識処理型コンピュータというひとつの結実を見ることになる――西垣教授は、そんな流れが米国のコンピュータ文化の底流にあると見る。
一方で、日本ではロジックで生活を規定するような必要性は、まったくなかった。有史以来各地を放浪し、追放体験を重ねてきたユダヤ人が、ロジックに頼ることによってみずからのアイデンティティを保ってきたのと比べれば、土地に張り付いてきた日本人にはそうした必要性はほとんどなかった。
そんな日本人が、論理的な言語知識をコンピュータに詰め込んだ知識情報処理システムを、そうたやすく使いこなせるわけがない。その結果、第五世代コンピュータプロジェクトは「いつしか錯綜した大迷宮の闇にはまりこんでいった」というのだ。
この文章が書かれたのは1993年。出版からすでに10年の月日が経つ。だがこの本で描かれたコンピュータ文化の問題は、今も日本のIT業界に深い影を落としているのかもしれない。
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『プログラムはなぜ動くのか――知っておきたいプログラミングの基礎知識』
プログラムがメモリーにロードされ、CPUによって解釈・実行されるまでの仕組みを誰にでもわかるように図入りで説明したベストセラー。
著者:矢沢久雄
監修:日経ソフトウエア
日経BP社
わかりやすいタイトルと親しみやすい装丁からは、一見、コンピュータ初心者を対象にした本に見える。だが実際は、主な読者対象はプログラマ。日経BPの月刊誌「日経ソフトウエア」の連載の単行本化したものだ。
コンピュータの専門家であるプログラマであっても、実は自分の組んだコードがどうやってハードウエア上で解釈され、実行されているのかを隅々まで理解している人は案外と少ない。特にWindows時代になってから、そうしたプログラマは加速度的に多くなった。そうした人に向けて、いわば自分自身の仕事を納得してもらうために書かれた本である。
とはいえ、書店の一般書籍の棚にも平積みにされ、ごく普通の文化系ビジネスマンたちにも支持されて、2001年秋に出版されたこの本は驚異的なベストセラーとなった。コンピュータというブラックボックスへの漠とした不安が、それほどまでに大きいということだろうか? それともIT時代に取り残されそうな心配が、この本を手に取らせたのだろうか?
アプリケーションやプログラミングの手順ばかりを書き連ねた本は、今でも大量に出版され、書店の店頭に並んでいる。だが技術を解説しながらも、その向こう側に見えてくるコンピュータテクノロジの地平線をかいま見せくれるような本はきわめて少ない。この本は、その希なケースの1冊といえる。
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『未来をつくった人々――ゼロックス・パロアルト研究所とコンピュータエイジの黎明』
コンピュータの歴史の中で伝説的な存在として知られる1970年代のゼロックス・パルアルト研究所を舞台に、人々がどのようにしてパーソナルコンピュータを生み出していったのかを描く。
著者:マイケル・ヒルツィック
翻訳:鴨澤眞夫
監訳:エ・ビスコム・テック・ラボ
毎日コミュニケーションズ
すべてのグラフィカルユーザーインターフェイス(GUI)の原型となった伝説的なマシン「ALTO」。この最初のパーソナルコンピュータは1973年、米カリフォルニア州サンタクララ・バレーにあるゼロックス・パロアルト研究所(PARC)で生まれた。
この時代にパーソナルコンピュータ文化の礎を築き上げた人々がいる――ALTOの設計者であるチャールズ・サッカーや「ダイナブック」の哲学者アラン・ケイ、マウスの発明者として知られるダグラス・エンゲルバート……。2003年のIT業界を支配する大物たちは、まだ歴史に登場していない。マイクロソフトのビル・ゲイツはこの年、ハーバード大の1年生。アップルのスティーブ・ジョブスは大学をドロップアウトし、インドを放浪していた。
この本では、当時の伝説的なエンジニアたちの行動や葛藤を克明に描き出していく。その描写は、まるでギリシャ神話を読んでいるようだ。
「彼は断固たる夢想家であり、スタンフォード研究所という小さなシンクタンクに、自分の王宮を持っていた」(エンゲルバート)
「そのローマ貴族的な振る舞いは、科学の偉大な高見からじっと見つめている感じだ」(ALTOの開発に尽力したランプソン)
「ドイッチュは白い竜巻で、せっかちで、常に手をせわしなく動かす」(ランプソンのパートナーの熟練プログラマ、ドイッチュ)
「革新的な技術の開発をとがめた咎により、上司たちに背教者の烙印を押された男なのである」(レーザープリンタの発明者、シュタークウェザー)
著者はロサンゼルスタイムスのIT担当記者。圧倒的なノンフィクションである。
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『コンピュータは、むずかしすぎて使えない!』
エンジニアの著者が、コンピュータ業界を覆っているバカバカしい勘違いの数々を明らかにし、なぜソフトウエアが使いにくいかを解き明かした本。
著者:アラン・クーパー
翻訳:山形浩生
翔泳社
なぜコンピュータが使いにくいのか、という根元的な問題には、今まで誰も本気で取り組んでこなかった。特に某大手IT企業が作るガリバー的存在のアプリケーション。発売前に再三、一般ユーザーによるユーザービリティ試験を繰り返しています……とメーカーはアナウンスしている。それが本当なら、どうしてあれほどまでにメニュー構成が複雑怪奇で、目的のコマンドを探すのに四苦八苦しなければならないのか? 直感的なインターフェイスが採用されていないのはどうしてなのか?
あるいは、日本の家電製品はなぜあれほどまでにボタンが多く、機能がテンコモリになっているのか?
しかしそうした質問を下手に投げかけると、専門家たちからは「これだから素人は困る」といった冷ややかな目で一瞥されてしまうのがオチだった。
そこに登場したこの本は、そうしたやり場のない怒りを胸に秘めていたユーザーたちに喝采を叫ばせたに違いない。
コンピュータが使いにくい原因は明確だ。「機能がとにかく多い方がいい」「いらなければ使わなければいい」という考え方がエンジニアたちの頭に住み着いているからだ。彼らのコンピュータの使い方自体、あまりにも機械と同化してマニアックな世界に入り込んでいるため、普通の人の望むユーザーインターフェイスがどんなものなのかがまったく理解できなくなってしまっているということもある。
どんな市場にも「ニーズがあって商品を世に出す」というパラダイムと、「ある技術が生まれ、その技術を使った商品を出す」というパラダイムがある。コンピュータ市場はこれまで明らかに後者に傾きすぎていて、バランスを著しく欠いていた。パソコンのコモディティ(日用品)化の中で、状況は変わっていくだろうか。
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『ライト、ついてますか―問題発見の人間学』
ジェリー・ワインバーグとその仲間たちが描くコンピュータの人間学の本。問題発見についての深い洞察がある。
著者:ドナルド・C・ゴース/ジェラルド・M・ワインバーグ
翻訳:木村泉
共立出版
1987年に発行され、すでに49刷を数える超ロングセラー。原著は1982年の出版だから、もう20年以上も前だ。「いま目の前に横たわっている問題とは何か」という、コンピューティングのもっとも基礎となる課題を、どう見つければいいのかを実例を挙げながら、わかりやすく描いている。ところどころに挿入されているイラストは、何とも70年代テイストにあふれ、懐かしさを呼び起こす。
表題の「ライト、ついてますか」というエピソードが特に秀逸だ。
長い自動車用トンネルが完成し、トンネル内の事故を防ぐために入り口に「注意 前方にトンネルがあります ライトをつけてください」という標識が掲げられた。
ところがこの標識のせいで、問題が勃発する。トンネルを抜けた先にある眺めの良い展望台で、ライトをつけ忘れたまま駐車してバッテリーが上がってしまうトラブルが多発したのだ。設計技師はトンネルの出口に「ライトを消せ」という標識を出すことを提案するが、それでは夜間でもライトを消してしまう人が出てくるかもしれない。展望台にバッテリー充電設備をおくのは故障の心配もあるし、維持費もかかる。そこで技師は、こんな標識を出口に掲げることを考える。
「もし今が昼間でライトがついているならライトを消せ もし今暗くてライトが消えているならライトをつけよ もし今が昼間でライトが消えているならライトを消したままとせよ もし今暗くてライトがついているならライトをついたままとせよ」
なんだかできの悪いソフトのユーザーインターフェイスを思い出させるが、こんな標識を読まされては、車は事故ってしまう。それに運転者は、それほど馬鹿ではない。そこで最後に、こんな標識を出口に掲げることで、問題はあっさり解決した。
「ライト、ついてますか?」
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国立科学博物館ウェブサイト『産業技術の歴史―コンピュータ技術』
日本のコンピュータ黎明期から最近までの318製品を、写真と詳細な説明つきで紹介したデジタルミュージアム。
http://www.kahaku.go.jp/database/index.html
日本のコンピュータの栄枯盛衰が、ここにはぎっしりと詰まっている。
米国に追いつけ追いこせと、物まねと言われながらも独自の製品を作り続けた50年代から60年代にかけてのコンピュータ黎明期。たとえば東大が東芝の協力で作った国産初の真空管式デジタル計算機は、まだ戦争の傷跡が癒えない1952年、開発に着手された。戦争のためにコンピュータそのものの知識も乏しく、個信頼性の高い部品も調達されない中で、すべてが専用部品としてゼロから開発された。59年に完成したTACは真空管7000本とダイオード3000石を使い、クロック周波数は250KHz。62年に引退するまで、多くの研究に活用された。
70年代から始まったパーソナルコンピュータの世界。シャープのMZ80-KやNECのPC8001、伝説のPC-100など、特定の世代のパソコンユーザーにとっては涙が出るほど懐かしい製品の画像もある。90年代半ばまで続いたPC9801独占支配時代に、グローバルスタンダードのIBM PC/ATを日本に何とか持ち込もうと考えられたAX(Architecture eXtended)規格も、今となっては昔話だ。87年に19社が参加してAX協議会が作られたが、IBMがその後PC DOS/Vを発売し、さらにWindows 95の登場でPC/ATで日本語が自由に使えるようになり、役割を終えて消滅していった。
時にはこうした古いコンピュータの夢の跡を眺めながら、日本のコンピュータ文化の来し方行く末に思いをめぐらすのも悪くないかもしれない。
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『JM』
主演:キアヌ・リーブス
監督:ロバート・ロンゴ
原作:ウイリアム・ギブスン
配給:ギャガ・コミュニケーションズ
1995年米国映画
ギブスンの小説『記憶屋ジョニイ』を、キアヌ・リーブスと北野武が競演というゾクゾクするようなコンセプトだったが、映画自体は演出も脚本も今ひとつの失敗作だった。
データをみずからの脳に埋め込んだシリコンチップにケーブル経由でダウンロードし、客の依頼に応じて運ぶという「運び屋」を主人公にしたシチュエーション。運んだ先で側頭部にあるジャックにケーブルを差し込むと、外部記憶装置のディスクにデータをダウンロードできるのだ。
主人公ジョニイは知り合いのラルフィから渡された情報を頭の中に入れたままにしていたが、その引き出し方法はラルフィしか知らない。しかしラルフィは殺され、しかもジョニイの頭の中にある情報は世界の暗黒社会である「ヤクザ」に関連するものだとわかり……。
脳でデータを運ぶという描写は、ギブスンが傑作「ニューロマンサー」などで再三描いてきたサイバースペースへの「没入(ジャックイン)」と同じイメージ。だが不思議なのは、主人公が自分が運んでいるデータの受取人を捜すために、インターネットに入り込むシーン。ヘッドセットとパワーグローブをつけ、一昔前に流行ったバーチャルリアリティの操作のようにコマンドを送ったり、データを受信するのだ。せっかく脳をマシンにジャックインできるのだから、脳から直接コマンドを送れるようにはなっていないのだろうか?
パソコンで延々と作業をしているとき、たとえば数字や文字列をあちこちからクリップしたり、コピーしたりといった単純作業を続けているときなど、頭の中のイメージをそのままパソコンに転送できたら……と思ったことはないだろうか。たとえば耳の上あたりにUSB2.0対応のコネクタを装備して、そこにデータをアップロード/ダウンロードできたら……。
この映画のパンクな映像は、そんな妄想を呼び起こさせてくれる。