BACK    TOP

佐々木俊尚 Toshinao Sasaki


 日本オラクルが今年6月から、育児や介護、療養などの事情で出勤の難しくなった社員を対象にした在宅勤務制度「Work@Home」をスタートさせた。VPN(Virtual Private Network)を使って自宅と会社を結び、オフィスにいるのとまったく同じネットワーク環境でしてもらうという内容だ。適用された社員は週に1度のミーティングに出社することが義務づけられているだけで、ほぼ完全な在宅ワークが可能になる。
 「雇用型SOHO」ともいえる在宅勤務は、実は歴史はかなり深い。1980年代に外資系を中心に先進的な企業で導入が始まり、90年代には多くの業種に広がった。これまであまり普及してこなかったのは、第1には社会のあり方そのものが在宅という勤務形態にまだなじめなかったことがある。そして第2に、「自宅」という場所に通信インフラが整備されておらず、仕事に適した環境になっていなかったことも大きい。
 だが21世紀に入るころから、そうした障壁は崩れ始めてきた。長引く不況の中で、企業の側が社員の仕事に対し、目に見える成果をきちんと求めるようになった。会社に出社したのはいいけれど、のんびりお茶を飲んだり、新聞を読んだりしているような社員を雇う余裕はなくなってきたということだろう。どこで何をしていてもいいから、とにかく成果を出してほしい。企業の考え方はそんな風に変わりつつある。
 成果報酬を前面に打ち出した裁量労働制が普及し始めたことも、そうした傾向を後押ししている。
 裁量労働制というのは、仕事の成果に対して報酬を与える制度だ。タイムカードなどで実際の労働時間を管理する必要がなく、ソフトウェア開発や研究などの知能労働の分野に適しているとされる。給料は成果に従って支給され、残業代などはつかない。1987年の労働基準法改正によって導入が始まり、弁護士や取材記者、研究開発、企画・調査などの職種が対象となっている。もっとも採用企業はまだ数%程度しかなく、本格的な普及はこれからだ。
 さらに、育児休業制度や介護休業制度などが社会的に認知されるようになってきたこともある。育児休業は1歳未満の子供を持つ親が最長1年間は仕事を休業できる制度で、1休業中も定められた割合で賃金を受け取ることができ、雇用保険からも給付金が支払われる。1992年に導入されて以来、10年かけて社会の隅々にまで認知されるようになってきている。2002年の実績では、育児休業の取得率は女性で64%に上っている。厚生労働省の現在の目標は、この率を80%にまで引き上げることだ。
 通信インフラも、この2年間の間に爆発的に普及したブロードバンドによって、ほぼ問題は解決した。在宅勤務の黎明期であった80年代末から90年代初頭にかけては、通信インフラといえばアナログ回線を使ったRAS(Remote Access Service)が主流。少し時代を下って、64KbpsのISDN回線といったところだろう。テキストメールの送受信程度ならともかく、telnetでサーバにログインするとかなりいらいらさせられる。ましてやftpで巨大なファイルを受信し、ローカルで作業するなんてことは現実的ではなかった。しかし2003年の今、12/26MbpsのADSLは月額2000円程度、100MbpsのFTTHでも月額5000円に満たない程度で使えてしまう。VPNを使えば情報が漏れる心配もなく、ftpもtelnetもメールも自由自在、というところだ。
 こうしてさまざまな条件が出そろってきた。機は熟したということなのだろう。
 実際、日本テレワーク協会の統計によると、企業に勤務して在宅勤務を行っている「雇用型テレワーカー」といわれる人は昨年3月時点で約285万7000人。1996年当時は約81万人だったといい、7年間で3.5倍にまで拡大した。同協会では在宅勤務者は2007年には現在の倍の約563万人にまで拡大すると予測している。いよいよ本格普及時代の幕開けともいえそうな状況になってきたのだ。

 日本オラクルの在宅勤務制度は、そんな中で登場してきた。
 同社人事教育本部人事企画部ディレクターの阿部英治氏は語る。「在宅勤務という言葉はわれわれ人事屋の間では、5、6年前から新しいキーワードとして注目されるようになっていた。社員のためになることなら取り入れたいと思っていたが、正直に言えば、評価や人事管理、安全などの問題を考えて躊躇していた面もあった。だがブロードバンドの環境も整ってきた」
 在宅勤務をいつかは導入したいと考えていたところに、育児・介護休業制度の普及が重なり、この2つのコンセプトがアイデアレベルで結びついた。それが育児や介護、療養を必要とする人を対象とした在宅勤務制度の導入へとつながったのだという。試験導入は、2001年11月からスタートした。6人が利用し、今年6月からの本格運用では2人が在宅勤務に入っている。
 そのひとりの女性社員(32歳)は、育児のために在宅勤務を申請した。仕事は、デザインやコーディング、テスト、メンテナンスなどアプリケーション機能の開発。
 「在宅スタート時はちょうど開発プロジェクトの真っ最中だったので、アプリケーションの速度などで仕事の進み具合に影響が出ないかが心配だった。でも実際にはそうした問題はほとんどなく、VPNを利用するとこでオフィスにいるときとほとんどネットワーク速度も変わらない。当初はマニュアルなどが手元にないため不便を感じたが、現在はほとんどの資料がウェブから入手できるようになった。開発という仕事はもともとオフィスでもスタッフがそれぞれコンピューターに向かっていることが多いため、作業環境としてはオフィスも自宅もほとんど変わらない」と話す。

 在宅勤務のメリットは大きい。
 会社の側からみれば、在宅勤務の導入は長期的には人事コストの削減につながっていく。また、人材流出を防ぐというねらいもある。特に人材流動性がきわめて高い――つまり能力があればいくらでも転職が可能なIT業界では、優秀なスタッフを流出させないための対策は重要だ。
 一方、社員の側のメリットは明白だ。何時間もかけて通勤するよりは、自宅で仕事をした方が時間の節約になる。また育児・介護休業制度などを利用している人の多くは「最新の技術や業界動向についていけなくなる」という不安を抱えている人が多い。ドッグイヤーのIT業界ではなおさらだろう。だが育児を続けながら、介護を続けながらでも在宅で勤務となれば、そうした不安はある程度は解消できる。在宅ワークによって最新動向をキャッチアップしていくことが可能だからだ。日本オラクルでも、「産前休暇と育児休業を合わせて2年も休むよりは、育児休業で1年休み、残りの1年を在宅勤務に振り分けられると喜んでいる人が多い」(人事企画部・馬場竜介氏)という。

 しかし実際に在宅勤務を実施するためには、いくつか考えなければならないハードルがある。
 まず第1に、給料の問題。何時間働いているのか、本人にしかわからないのに、どうやって給料を支払うのか?
 これに関しては、先に挙げた裁量労働制がある。日本オラクルは以前から開発やコンサルタント、システムアナリストなどの職種については青果物やアウトプットによって裁量労働手当を支払う仕組みをすでに導入している。時間給ではなく、成果給なのである。
 第2の課題である仕事の評価についても、同様だ。日本オラクルでは、裁量労働に適した目標管理制度を導入している。社員は、半期ごとに仕事の成果を出すことが求められている。目標を立て、半期ごとに自分の仕事に対するレビューを行い、目標の到達状況を見る。レビューは「重みづけ」と「難易度」で計算する。たとえば半期の最初に立てる目標で、「この仕事には自分の能力の10%を使う」と配分を宣言したとする。その仕事について、上司などと相談しながら難易度を決める。自分のルーティンワークと比べて難しい内容なら、難易度を1.5倍や1.2倍に設定するという意味だ。半期が終わり、仕事の成果が明確になったら、<配分×難易度×達成率>を計算する。その答が、自分の仕事のレビュー結果だ。並行して進めている仕事のレビュー結果をトータルすれば、その半期に自分がどれだけの仕事をしたかというトータルの評価が数値で出されることになる。
 その数値を考慮し、さらに相対評価を行うことによってボーナスの原資を配分するというのが、日本オラクルの評価制度の仕組みだ。同じ等級、年齢でもボーナスの額に4〜5倍の差が出ることもあるという。
 前出の馬場氏は「この制度によって、仕事の成果をきちんとはかることができている。在宅勤務をスムーズに導入するうえで、この制度がベースにあったことはきわめて大きい」と話す。成果をきちんと評価できるのであれば、その過程の仕事の場所がオフィスでも自宅でも何ら変わりはない、ということだろう。
 とはいえ、社員の仕事は、ソフト開発など成果がはっきりしたものばかりではない。たとえば人事、総務、経理などの管理部門や広報、秘書などの部門では、成果をどうはかるのか。「数値の計算の誤差を○%以内に押さえることに成功した」という形になるのか、あるいは別の評価方法を導入するのか。
 同社では今回、在宅勤務導入の職種をソフト開発やシステムアナリストなどの分野に限っている。成果評価は問題なくできても、社外のクライアントや取引先と実際に会うことが必要な営業職種なども除外されている。
 阿部氏は「定常業務が中心の職種では成果評価は難しいが、今後は人事や総務などの分野にも導入を拡大していきたい」と話す。将来の課題のひとつといえるだろう。

 第3のハードルは、上司や同僚とのコミュニケーションをどう疎通させるかという問題だ。実はこのハードルが、内在している問題は最も大きいといえるかもしれない。
 日本オラクルが2001年に試験スタートさせたWork@Homeでは、こんなエピソードがあった。
 ソフト開発の仕事をしている30歳代の女性社員は、最初の子供を出産して育児中に在宅勤務の試験導入に申し込んだ。期間中に第2子を妊娠し、産前休暇を取るまでの間、そのまま在宅を続けていたという。この途中、ソフト開発プロジェクトに参加し、自宅で熱心に仕事を続けていた。だが週に1度の出勤日に久しぶりに彼女の姿を見た上司は、彼女のやつれ果てた姿にショックを受けることになる。自宅で育児の間にゆとりをもって仕事をしていたはずなのに、どうして……と聞いた上司に、彼女はこう答えた。
 「自宅でひとりで仕事している分、どうしてもきちんとアウトプットを出さなければという気持ちが強くなって、頑張ってしまうんです」
 ひとりで仕事をするという重圧は、実は非常に大きい。会社からノルマを求められているわけでなくとも、「誰もみていないからこそ頑張らなければ」と思ってしまうのだ。仕事にまじめであればあるほど、そうした傾向は強くなるだろう。仕事に追われて労働時間はどんどん増えてしまい、深夜まで仕事を続けてしまうという在宅ワーカーは少なくない。「自宅で仕事をしているんだから怠ける人が増えるかも……」というネガティブな想像は、少なくとも日本社会においては杞憂に近い。
 この女性社員のケースでは、その後上司が折りに触れて電話やメールで「大丈夫か」「無理するなよ」と意識的にコミュニケーションをとるようになり、解決した。
 まだ社会に認知されていない在宅勤務という形態。どうやって向き合っていけばいいのか、わからない部分が多すぎるといことなのだろう。ある企業では、実施している在宅勤務制度に対して3割近い管理職が「これ以上在宅勤務者を増やしたくない」と答えた、というアンケート結果も出ている。「コミュニケーションが難しい」といった回答が多かったのだという。「在宅勤務の部下の家にウェブカメラをつけてくれないか」と冗談を言った上司もいるそうだが、笑い話ではすまない部分もある。
 また日本の伝統的な企業風土には、「会社の自席に座っていてナンボ」などという前時代的、封建的な空気がいまだに漂っているところもある。そうした意見を公然と口に出してはばからない管理職の下で働いた経験のある人は少なくないだろう。
 日本オラクルの阿部氏は「結局は、上司と部下の信頼関係が重要だということです」と強調する。「たとえば余所から異動してきたばかりの部下が在宅勤務に入ってしまったら、『本当に働いているのか?』という疑念が生まれてしまうかもしれない。でもそこは、上司の側の意識を変えていってもらうしかない。若い人たちには意外にそうした面での抵抗はないかもしれない」
 先の在宅勤務中の女性社員は、「週1回のミーティングで仕事の進捗状況や1週間で調べた事柄、資料などを用意してグループ全員で共有できるようにしている。少人数のグループなので、疑問や問題点が出てきたときはすぐに電話で連絡を取っている」と話す。仕事をともにしていくスタッフ全員の意識が変わっていけば、こうした問題は自然に解消していくのかもしれない。
 阿部氏が続ける。「農耕民族的で集団への帰属意識が強い日本人が、物理的な空間でプツリと切られてしまったら、その帰属意識はどうなるのだろう?という疑問は確かにある。しかし入社数年の若い社員たちと、われわれのような世代の人間では、帰属意識自体がすでに変わってしまっているかもしれない。いずれにせよ、その意識を今後は変革していかないと、この時代の中では勝ち残ってはいけない」
 まだ日本社会、日本企業の組織マネジメントの部分には、発展途上の部分もあるということなのだろう。国土が広大で、在宅勤務が当たり前になっている米国と比べれば、彼我の差は予想以上に大きい。
 だが今後は、ビデオ会議などのアプリケーションの登場もあり、リモートによる帰属意識とでも呼ぶべき枠組みが成立していく可能性もある。何しろ、在宅勤務という新たなかたちは、まだ始まったばかりなのだ。