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佐々木俊尚 Toshinao Sasaki


大手マスコミ「インターネット心中報道」の落とし穴

 インターネットの掲示板を通じて見知らぬ同士が出会い、集団自殺する事件が相次いでいる。
 これまで報道されているだけでも、今年に入って12件。男性21人、女性12人の計32人が亡くなっている。山梨県上九一色村で男女4人が重体で発見され、一命を取り留めた事件も含めれば、死傷者の数は36人にも上る。異常な数といっていいかもしれない。
 そもそもの引き金となったのは、昨年10月24日に東京都練馬区のマンションで発見された男女2人の自殺だった。この事件はマンション1階に住む無職の男性(30)と、大阪市内の女性会社員(32)が七輪を使って練炭を焚き、一酸化中毒死。当初、平凡な心中とも思われたが、2人が一緒に生活した形跡はなかった。そして遺された女性の遺書に、
 「インターネットの自殺掲示板で知り合った○○さんと死にます」「やはり1人で死ぬのは寂しい。相手は誰でもよかった」
 という文面が発見される。た男性のパソコンにも、女性に送ったメールの中身が残っていた。
 「いつ来ますか」「七輪で確実に死ねます」
 2人がネットの掲示板で知り合ったのは9月初旬で、わずか1カ月あまり後には2人で死を選んでいたことになる。
 この事件を毎日新聞社会部の記者が取材し、ネットで自殺する者たちの心の闇に迫るルポとして新聞に掲載したのは、昨年12月8日。この記事をウェブで読んだ自殺願望者たちの心が大きく揺さぶられ、なんらかの影響を彼らの精神に与えたのは間違いない。もちろん、この記事を読んで心の平静を取り戻し、自殺を思いとどまった人もいただろう。だが中にはこの記事によって、自殺願望への傾斜をさらに強めてしまった人もいたはずだ。そしてその中の3人が今年2月、埼玉県入間市で集団自殺を決行した。
 亡くなったのは入間市の無職男性(26)と千葉県船橋市の無職女性(24)、川崎市の無職女性(22)の3人。現場はアパートの空き部屋で、七輪で練炭を焚いた跡が残っていた。男性は畳の上で仰向けに倒れ、女性2人は寝袋に入っていた。中心になったとみられる男性は昨年暮れ、自殺の志願者を募るウェブ掲示板で、
 「心中相手を探しております」「練炭・コンロ・睡眠薬・密封できる部屋。すべてそろえ終わりました」
 と書き込んでいた。遺体を発見したのは、同じ掲示板で知り合った女子高校生。この高校生と自殺した3人は今年1月上旬に現場を下見。また同月中旬には渋谷駅近くの喫茶店やカラオケ店で、自殺の具体的計画などを話し合っていたという。かなり用意周到にことを進めていた様子がうかがえる。
 女子高校生はその後、自殺の意志を翻したが、男性たちに連絡を取れなくなってしまって心配し、現場に様子を見に来て遺体を発見した。
 この事件はマスコミの集中砲火的な取材を招き、そしてその集中豪雨的な報道が与えた影響は少なくなかったのだろう――事件以降、集団自殺は加速度的に多発するようになった(表)。

 一連の集団自殺を報道する側のマスコミは、いずれも心理学者や精神科医、社会評論家などのコメントを記事に加えている。あるいは社説や解説などでも、さまざまな論評を加えている。そのスタンスは大まかにいえば、次のようなものだ。
 「日常的な接点がない者同士が死をともにするというのは、対人関係が希薄な社会の問題だ」
 「ネットで集団自殺する人たちは精神的に孤独で、直接顔を合わせないでも共感できるようなタイプだ」
 「家族や隣近所などのコミュニティーが消滅し、気持ちの行き場がなくなったところにネットが入り込んできている」
 ステレオタイプといえば、ステレオタイプ。しかし社会に向けて「死に急ぐな」というあまりに真っ当なメッセージを、真っ直ぐに伝えていかなければいけない――少なくともそうしなければいけないと自ら信じているマスメディアとしては、こうした論調になってしまうのはやむを得ない部分もある。
 しかし、本当にそれでいいのだろうか。みずからの報道が連鎖自殺を招いている責任を考えると、その論調は余りにも単純明快に過ぎる。

 まず第一に、関係性が希薄に見えるようなこうした集団自殺や心中事件は、過去にも数多く起きている。人間の長い歴史を見れば、決して珍しいケースではない。
 そのもっとも身近な例は、1986年4月9日、当時18歳だったアイドル歌手、岡田有希子が自殺した事件だ。東京・四谷4丁目のサン・ミュージック本社から飛び降り自殺したこの事件は、遺体の写真が週刊誌に掲載されたことなども影響し、当時の若者たちに強い衝撃を与えた。ファンを中心に連鎖自殺が相次ぎ、わずか3週間あまりの間に25人以上の中高生が自殺した。飛び降り自殺する10代の女性の数はその当時、毎年50人前後だったのが、この1986年に限っては162人にまで達した。
 さらに時代をさかのぼれば、ドイツの文豪ゲーテの「若きウェルテルの悩み」に触発され、18世紀に自殺が流行したという古い話もある。日本では1903年、一高生の藤村操が「万有の真相は唯一言にしてつくす、曰く不可解。我この恨を懐て煩悶終に死を決す」という有名な文章「厳頭之感」を木の幹に彫り、日光・華厳の滝に飛び降りて自殺する事件が起きた。これをきっかけに自殺者が相次ぎ、華厳の滝が自殺の名所と呼ばれるようになったのは有名だ。
 こうした自殺の名所は数多くあって、大島の三原山や東京・高島平の高層団地群、富士の樹海・青木ケ原など、挙げだしたら切りがない。いずれも最初は単独の自殺や心中事件が起こり、それが大きく報道されたことが起爆剤となって自殺の連鎖が生じている。その連鎖の構図は、今回の一連のネット自殺と変わらない。

 今回のネット自殺が社会に衝撃を与えているのは、それが「見ず知らずの他人とネットの掲示板と出会い、深い精神的ふれあいもないままに一緒に自殺する」という行動が不気味に見えるからなのだろう。
 だが、自殺や鬱などの若者を対象にしたカウンセリング経験の豊富なあるカウンセラーは、「そもそも自殺をしたいと考えている人たちのすべてが、死への強い意志を持っているわけではない」と話す。中には何度も軽い自殺未遂を繰り返す人や、あるいはひとりで死ぬという行為に踏み切れず、行動をともにする人を探すタイプの自殺願望者もいるというのだ。
 「そうした『ひとりで死ねない』『仲間がいなければ自殺できない』というタイプの人は、決断を下すのが苦手という人が多い。そうした人たちはかつては自殺の名所をさまよい、中には地元の人や警察に説得されて思い直す人もいた。しかしそうした場所で自殺を考えている他の人と出会い、一緒に死ぬというケースもあった。自殺の名所では過去、そうした『見知らぬ人と一緒に死ぬ』という事件は少なからず起きているといいます」
 「道連れ型」とでも呼べばいいのだろうか。そうしたタイプの自殺願望者が、インターネット時代になって同じ志を持つ人間と簡単に知り合えるようになった。そう考えればいいのだろうか。

 もうひとつは、インターネットの功罪をめぐる議論だ。こうした事件が相次ぐと、すぐに「安易な自殺者を生み出すインターネットの闇」「自殺を助長するようなネット掲示板は規制すべきだ」といったしたり顔の論調がテレビや新聞に出現するが、あまりに短絡的ではないだろうか。
 ネットが孤独や自殺者を生み出すわけではない。ネットによって、人々の孤独や自殺願望が顕在化するだけなのだ。いままで表に出されなかった人々のこころは、まるで劇場にかけられた芝居のように公衆の面前に曝され、誰でも他人のこころを覗いてしまうことができる時代になりつつある。ネット掲示板はそのためのツールでしかない。そもそも、仮にそうした掲示板を規制したところで、多くは海外サーバに移転するか、P2Pベースの匿名性の高いシステムに移行するだけだろう。テクノロジの進化は、規制の枠組みを常にはみ出し続けていく。
 さらに、もっと根本的な議論もある。それは、自殺に関する掲示板に書き込んだ人や読んだ人のすべてが自殺に走るわけではないということだ。逆に、こうしたネットのコミュニケーションを通じて自殺を思いとどまった膨大な数の人たちがいるはずで、そうしたネット特有の抑止力を忘れてはならない。
 たとえばかつて、「完全自殺マニュアル」(鶴見済著、太田出版)という本があった。自殺の方法をカタログ式に事細かに並べ立てた本だが、自殺者の遺留品からこの本が見つかる事件が相次ぎ、社会問題化。都道府県が有害図書として指定する動きが広がった。だが当時、この本を批判する論調がマスメディアを中心に強まった一方で、ネットの掲示板などでは「『完全自殺マニュアル』を読むことで、逆に『いつでも死ねるんだ』と安心した。死なずにすんだ」といった意見も数多く現れた。同書に対してステレオタイプな批判をしていた識者たちが想像もしていなかったような“抑止力”が、この本には備わっていたのだ。
 もちろん、自殺願望者たちが数多く集まる掲示板では、抑止する力が働くよりは、自殺への願望ばかりが増幅してしまう――という傾向は否定はできないだろう。会社や家庭、親戚、地域、趣味のサークルなどに代表されるような一般社会では、人々の考え方には多くの多様性がある。死に対する考え方も、人それぞれだ。だからこそ励ましたり励ましされたり、癒したり癒されたりといったコミュニケーションが生まれる。だが自殺願望者が集まる掲示板など、単一の指向を持った人が集まる場所では、同じような思考に陥ってしまいがちになる。対話や話し合いは煮詰まり、深い穴の底に向かうスパイラルに入り込んでしまうこともある。同じ目的の人が簡単に集まることができるというインターネットの、そうしたマイナス面は否定すべきではない。
 社会学者の宮台真司氏は、自身のウェブサイト「MIYADAI.com」でこう書いている。
 「この本も自殺系サイトも、自殺手段へのアクセスを容易にする機能を持つだろう。だが、それゆえに自殺する人と、自殺せずに留まる人の『比率』が分からない限り、規制の是非は社会政策論的に定まらない。比率調査が困難である以上は永久の水掛け論となる」
 果たしてインターネットの存在は、『功』なのか『罪』なのか。統計学的な分析が行われていない状況では、軽々しく決めつけるべきでないのは確かだろう。