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佐々木俊尚 Toshinao Sasaki


 来春公開のハリウッドの超大作映画「ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔」の日本語字幕をめぐり、たいへんな騒動が持ち上がっている。ニュージーランド人監督が、字幕を担当する戸田奈津子女史の「解任」を名言したというのだ。超大物字幕翻訳者に、いったい何が起きたのだろう?

 パリに厳寒が訪れていた12月10日。この日、市内の劇場では映画「ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔」のワールドプレミア上映が賑やかに行われていた。にこやかな笑顔で舞台あいさつをするニュージーランド出身のピーター・ジャクソン監督。全世界で50の言語に翻訳され、約2億人の観客が見込まれているこの超大作の成功を、誰もが疑わなかった。もちろん、日本の関係者たちも――。
 しかしその数日後、ある映像が日本の映画業界を駆けめぐり、配給会社の関係者たちを震え上がらせることになる。その映像とは、パリの舞台あいさつの際にニュージーランドのテレビ局「TVNZ」がジャクソン監督をインタビューしたもの。テレビ放映されたその映像の中で、何とジャクソン監督はこう断言しているのだ。
 「日本の字幕翻訳者は『ロード・オブ・ザ・リング』のことをまったくわかっておらず、ひどい間違いをしていると日本のファンたちは訴えている。そして第2作の『二つの塔』では、同じ人に翻訳をさせないでくれと言う。それでわれわれもそうすることにした。今回は別の人間を翻訳に起用する」
 「字幕翻訳者」とは言わずとしれた日本の字幕界の超大物、あの戸田奈津子女史。つまり、ジャクソン監督は戸田女史を解任すると名言しているのだ。いったい何が起きたのだろうか?

世界中に熱狂的ファンを持つ「ロード・オブ・ザ・リング」

 その前にまず、「ロード・オブ・ザ・リング」という超大作映画のおさらいをしておきたい。原作はイギリスのJ・R・R・トールキンが1954年に発表した「指輪物語」(評論社刊)。架空の世界を舞台にホビット族や魔法使いが活躍する物語で、「現代のすべてのファンタジー小説の原点」「20世紀最高のファンタジー」と呼ばれ、全世界で1億部以上が出版された。そして映像化は無理といわれたこの小説を映画化したのが、今春に日本でも公開された「ロード・オブ・ザ・リング」。米アカデミー賞を4部門受賞し、全世界で8億5400万ドル(約1025億円)もの興行収入を記録した。日本でも700万人を動員、興行収入90億円を達成している。そして第2作の「二つの塔」がこのほど完成し、来春には日本でも公開が予定されているのだ。
 国内での配給を行う日本ヘラルド映画の女性宣伝プロデューサーは、疲れ切った表情で言う。「第2作では字幕に通常の倍の時間をかけ、万全を期した字幕を用意しつつありました。それがどうしてこんなことに……ジャクソン監督の『解任』発言は寝耳に水のできごとで、確認を急いでいるところです」
 実は第1作では、公開当初から日本語版字幕の質に関してファンたちからの批判が集中。ネット上での抗議行動にまで発展していたのだ。日本ヘラルドが「今回は字幕に通常の倍の時間をかけた」のは、そうした事態を受けてのことだった。
 抗議運動のメンバーのひとりで、「『ロード・オブ・ザ・リング』字幕抗議のための英語工房」というホームページを開いているフリー翻訳者の女性が言う。「戸田奈津子氏という個人への攻撃が目的ではありません。間違った字幕がすぐれた映画作品を破壊したという事実を嘆き怒り、『まともな字幕』をつけて欲しいというファンからの嘆願が繰り返し無視された結果、ジャクソン監督への直訴が行われたんです」。今回のジャクソン監督のテレビでの発言は、その直訴が実ったということなのだろう。

魅力的な登場人物が字幕では「嘘つき」呼ばわり?

 「戸田字幕」の何が問題だったのだろうか。前出のフリー翻訳者は怒りを込めて語る。
 「たとえば、映画の第3部でも登場する現役の権力者を『(彼は)執政だった』としたため、観客はみなその人物が故人になったか、失脚したかと思わされてしまったこと。これはまるで源義経が『兄の頼朝は生前に……』と語っているようなものです。義経が兄頼朝に追われて敗死したのは、歴史を知る人なら常識でしょう? 指輪物語のファンなら当たり前のことが、映画では誤って伝えられているんです」
 また、誤訳のために、重要な登場人物の性格が変わってしまっているという。「滅びに瀕した祖国を救いたい一心で魔の指輪に手を伸ばす悲劇の武人が、字幕では主人公から『嘘つき!』呼ばわりされています。でもこの人物は、ジャクソン監督がもっとも思い入れ強く描いた人で、原作以上の魅力と役割を映画の中で与えられている。英語のセリフは『You are not yourself!』で、『あなたはそんな人ではない!』と訳すべきなんです」
 「戸田字幕」には、こうした作品性に影響するような誤訳や強引な意訳が数多く見られるのだという。こうした声が集まり、ファンたちは約1300人の署名を集めて今年5月、日本ヘラルド宛に提出した。これに対して同社は@ビデオ版では、原作の共訳者だった田中明子さんと版元の評論社の協力で字幕を手直しするA今後公開予定の第2部、第3部でも田中さんと評論社の協力を得て戸田奈津子女史が字幕を担当する――という2点を自社のホームページ上で発表。だが過熱していた運動はこれで収まらず、「原作に敬意を払う翻訳家が雇われることを切に望みます」と記した英語の嘆願書を作り、約150人が配給元の米ニューラインシネマとジャクソン監督に送るにいたったのだ。

過去にも誤訳・珍訳の多かった戸田女史

 戸田奈津子女史といえば、いまや日本の映画字幕の第一人者。しかし過去、スタンリー・キューブリック監督の映画「フルメタル・ジャケット」(1987年)で、監督から「原文に忠実でない」と字幕翻訳を降ろされた事件は有名だ。また最近でも、「グラディエーター」でローマ共和政を「連邦制」と誤訳したり、「スター・ウォーズ エピソードI ファントム・メナス」で地元民を「ローカル星人」と訳すなど、実は誤訳は少なくない。
 今回の件について戸田女史は取材に対し、「その件でジャクソン監督と話したこともないし、字幕を誰にするかは配給会社が判断されることなので、私は関知していません。何かインターネットで私の字幕について問題にされているようですが、私はインターネットはやらないので、どういうことを言われているのかはわからないですね」と語るのみだが、日本の字幕業界をよく知る関係者のひとりが戸田女史にかわってこう弁明する。
 「確かに今回の件は、反省しなければならない点はたくさんあると思います。誤訳はなくしていかなければならない。でも、字幕なんて本来、なければないに越したことはないもの。画面を見てもらう時間を長く取るためには、どうしても短くわかりやすくする必要がある。観た人全員が満足できる字幕なんてあり得ないんです」
 この関係者によると、字幕制作に要する期間は約3週間。まず英語台本のセリフひとつひとつに番号を振っていく「箱書き」という作業を行い、それぞれのセリフが画面上で何秒分あるかを計算していく。読みやすい字幕の長さは、1秒あたりわずか4文字程度と言われている。しかも観客はじっくりとは読んでくれないから、瞬時に読んで判断できるようなわかりやすい文章にしなければいけない。字幕翻訳の名人として知られた故清水俊二氏は著書「映画字幕は翻訳ではない」(早川書房)などで、「どんなに優秀な翻訳家が取り組んだとしても、映画字幕は観客には全体の7割ぐらいしか理解してもらえない」と繰り返し語っていた。

「万全を期して字幕制作を進めていたのに……」

 第1作の反省から「ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔」では、日本ヘラルドも万全の体制を組んで字幕翻訳に取り組んできた。前出の宣伝プロデューサーが説明する。
 「今回は台本の準備稿が10月中旬に入手できた段階で、評論社と田中さんにセリフすべての逐語訳をお願いしました。完成した膨大な厚さの訳本を戸田さんに渡して字幕に合う翻訳に直してもらい、それをさらに田中さんにチェックをしてもらっています。完成台本もすでにお渡しして再度訳し直してもらっていますし、最終的には映画の完成プリントを関係者全員に観ていただいてチェックしてもらう予定でした」
 それだけに、ジャクソン監督の今回の「解任」発言は、まさかのできごとだったのだ。
 しかし抗議運動側は、配給会社側のこうした姿勢に依然問題があると考えている。メンバーのひとりが訴える。
 「字幕は思い切った意訳が必要と言うが、映画を1、2度観ただけで理解した筋立てに従って、十分な調査もなしに意訳を重ねるというのは、一歩間違えば脚本や主題のねつ造につながる。独断意訳ではなく、正確な訳をしてほしい。わからなければ調べてほしい。字数制限を重視するあまり、強引に脚本をねじ曲げることを選択しないでほしい」
 字幕は常に、『わかりやすさ』と『正確さ』の間で揺れ動いているということだろうか。あるいは字幕のあり方が変われば、『わかりやすさ』と『正確さ』は両立しうるのかもしれない。その意味で、『ロード・オブ・ザ・リング』をめぐる今回の一連の騒ぎは、いまの洋画配給の問題点を浮かび上がらせているようにも見える。
 前出の女性プロデューサーは「映画が好きな方も、原作が好きな方も、みんなが楽しんでいただけることを目指しています」と言う。その気持ちは、抗議運動のメンバーも配給会社も、映画に関わっている全員が気持ちは同じはずなのだが――。