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佐々木俊尚 Toshinao Sasaki


 埼玉県の最北端、秩父山系のふもとに位置する神泉村。御巣鷹山を源流とする清流・神流川が村の中央を流れ、深い森に囲まれた静かな山村だ。そしてこの人口1400人の小さな村が全国に誇る名産品に、「神泉水」というミネラルウォーターがある。秩父古成層に磨かれ、村内の城峰山中から湧き出している神泉水は、硬度34ミリグラム/リットルという軟水で、特徴的なまろやかさは全国的に人気が高いという。非加熱殺菌で出荷されているほど源泉がきれいなのも特徴だ。
 しかし今、この神泉水が危機に立たされている。
 地元で最近まで水源地の管理をしていたという野口清さん(71)が憤懣やるかたない、といった表情で語る。
 「神泉水の人気が高まるにつれ、水源地に水を汲みに来る人が増えてきたんです。中にはタンクローリーで乗り付けて水源を占領し、数百リットルもの量を汲んでいく業者もいて、夏場は長い行列ができる。そしてそうした人たちが捨てるゴミがぼう大な量になっていて水源を汚しつつある」

家電リサイクル法が水源地を汚す?

 村の中心部から林道を上がっていくと、標高800メートルの高所に「百年の森」と呼ばれる美しい森林公園が広がっている。神泉水の水源地はこの公園の中にあり、誰でも水を汲めるように整備されている。しかしこの場所が、心ない人たちのおかげで汚されようとしているというのだ。
 そしてこの水汲み人たちの“公害”よりも、さらに深刻な問題が神泉水の水源地一帯で起きつつある。それが、ゴミの不法投棄だ。地元の神泉村役場産業観光課の担当職員が苦労話を打ち明ける。
 「役場や地元の人間でパトロールを続けていますが、水源地のある城峰山付近でも山林に産業廃棄物が捨てられているのを発見するのは日常茶飯事になっています。昨年秋にも役場職員38人で手分けして百年の森や城峰山など3カ所の山林をまわり、2トントラックと軽トラックの計2台がいっぱいになってしまう量のゴミを回収しました」
 ゴミの中身は、建物の解体現場で出る廃材やガレキ。それに加えて昨年来、テレビや冷蔵庫、エアコン――つまり家電の類が急増しているという。
 「家電リサイクル法が施行されて以降、山林に不法投棄されるゴミの量は明らかにどんどん増えています。こちらで処分し直すのにもばく大なカネがかかるし、村の予算を圧迫しつつある。何のためのリサイクル法なのか、と問いたい気持ちでいっぱいですね」(神泉村担当者)
 家電リサイクル法はご存じの方も多いだろう。使用済み家電の処理・再生を義務づけた法律だ。2001年4月に施行され、家電をリサイクルする際に数千円の費用がかかるようになった。この代金支払いを避けるため、山林などに不法投棄するケースが激増しているのだ。
 神泉村では、村役場の職員や地元の人たちの賢明な努力によって、水源地はきれいなまま今も何とか保全されている。しかしそのために支払っている代償は、決して小さくない。

危険な廃液が水源地に……

 そして問題は、産廃や家電だけではない。
 一昨年3月には、富士山の西に広がる朝霧高原で、猛毒として知られる硫酸ピッチの廃液約4・65トンがドラム缶68本に入ったまま不法投棄されているのが見つかる事件があった。富士山麓といえば、ミネラルウォーターの産地として知られる一帯だ。廃液はドラム缶からあふれ出し、地中に染みこんでいたという。もしこの廃液が、地下深くを流れる水脈に流れ込んでいたら――。静岡県が実施した撤去作業はまる1カ月を要し、汚染された土壌約7・4トンの除去という大がかりなものとなった。
 「水のソムリエ」として知られ、ミネラルウォーターに関する多数の著作がある映画監督の早川光氏が指摘する。
 「日本人は、日本の水はきれいだと信じている人が多い。しかし欧州の水の科学者に日本の水について聞いてみると、たいてい『あんな国土の狭いところに人口が密集していて、いい環境が保てるわけがないから、いい水なんかないだろう』と答えるんです」
 日本の水はおいしい、と信じているのは実は日本人だけだ、というのだ。何とも悔しい話ではないか。しかしそうした指摘に反論するだけの根拠は……といえば、かなり心許ない。
 「日本では国立公園や国定公園でも平気で人が立ち入ることができる。おまけに山奥の人が分け入らないような場所に限って、人目につかないのをいいことに産業廃棄物が捨てられている。山奥の水だから安心だ、景勝地の水だから安心だとは言えなくなってしまっているんです」(早川氏)
 さらにいえば、流行に乗って最近乱立しているミネラルウォーターブランドの中には、山奥どころか普通の住宅地にきわめて近い場所で採水しているメーカーも実は少なくないのだという。
 「ミネラルウォーターは原価は限りなくタダに近いが、山奥で取水しているために運搬費が高い。都市部に近いところで取水すれば、この運搬費が安く上がるということになります」(業界関係者)
 果たしてこのような状態で、国内産ミネラルウォーターの安全性は保たれるのだろうか。

欧州の水戦略に呑み込まれる日本

 国産のミネラルウォーターを窮地に追い込んでいるのは、水源地の保全の問題だけではない。実は最近、国産の水が「ナチュラルミネラルウォーター」を名乗れなくなるかもしれない――というたいへんな事態が進行中なのだ。
 ミネラルウォーターの分類は、国内では農水省のガイドラインで@ナチュラルウォーターAナチュラルミネラルウォーターBミネラルウォーターCボトルドウォーターの4つに分けられている。一般的に販売されているミネラルウォーターは95%近くがAのナチュラルミネラルウォーターに入り、「特定水源から採水された地下水のうち、地下でミネラル分が溶け込んだもの」と定義されている。そしてこの名称を名乗るには、食品衛生法によってろ過、沈殿および加熱殺菌を行わなければならない。
 ところが、世界保健機関(WHO)の関連組織である「コーデックス委員会」は、まったく別の規格を持っている。そしてこの規格を、日本に導入しようという動きが政府の中で進みつつあるのだ。
 コーデックス規格が定められている水の名称は、農水省のガイドラインと同じ「ナチュラルミネラルウォーター」なのだが、その内容はずいぶん違う。最大の問題は、取水の際の基準として「取水した水をいっさい処理せずにボトリングすること」「水をタンクローリーなどで輸送せず、水源地で空気に触れることなくボトリングすること」などを定めているのだ。
 昨年11月に開かれた厚生労働省の薬事・食品衛生審議会食品規格部会で、出席した委員らから「殺菌処理した水と無処理の水は区分した方が、わかりやすく実質的だ」という意見が相次ぎ、コーデックス基準の導入が是認された。この背景には厚労省と農水省の省庁間の権益争いがあるのではないかと指摘する声もあるが、今後この動きが既定路線化していく可能性は高い。
 日本産のミネラルウォーターはすべてが加熱処理やろ過などが行われている。水源からタンクローリーで工場まで運び、そこでボトリングする運搬方法も当たり前に行われている。こうした方法をすべて変更し、コーデックス規格に合わせようとすると、たいへんな設備投資が必要となる。さらに同規格は「水源地があらゆる汚染から完全に隔離されている地下水であり、また水源の周辺の自然環境がきちんと保護されている」という厳格な規定もある。水源地が保全されているからこそ、処理しないでボトリングしても大丈夫――という発想が根底にあるというわけだ。水源の保全について法律で何も定められていない日本で、果たしてこれだけ厳しい規定をクリアできるミネラルウォーターがどれだけあるだろうか。

巨大水メーカーのひそかな戦略

 ミネラルウォーターの国際規格に詳しい社団法人・全国清涼飲料工業会の専門委員、福田正彦氏が説明する。
 「そもそもコーデックスは、ミネラルウォーターの本場である欧州の規格がベースとなってできたもので、欧州の水戦略が色濃く反映されているんです。ナチュラルミネラルウォーターというのは欧州独自の製品だから、その名前を欧州以外に使わせないようにしようという発想がある」
 コーデックス規格については、欧州以外からの反対も根強い。たとえばオーストラリアは「人口密度のきわめて低いわが国で、水源地に工場を造ってボトリングしても誰も買いに来てくれない」と訴えているし、アジア諸国からは「高温多湿の熱帯で抗菌処理をしないでボトリングするのはナンセンスだ」という声が上がっているという。
 欧州ではダノンとネスレという二大食品企業がミネラルウォーター市場を独占している。エビアンやペリエ、ボルヴィックといった日本でもなじみの深い欧州産ミネラルウォーターは、ほとんどがこの2社の製品だといっても過言ではない。
 「輸出をほとんどしておらず、国内での消費がほとんどの日本のミネラルウォーターと比べると、欧州の水産業は規模が違う。ダノンとネスレの2社で世界のミネラルウォーター市場の3分の1ずつを握っているといわれています」(福田氏)

世界の水が大資本に買われていく

 そしてこれらのガリバー水企業が、実は世界の水源地を買い漁っているのだ。「ダノンは世界30カ国に70カ所以上の水源地を保有しているといわれているし、ネスレも世界に40カ所以上の土地を買収して水を採取しているという。だが水源は無限ではない。欧州の巨大メーカーがアジアやアフリカの水源地を買い漁ることで、地元の人間が利用できる水源地は逆にどんどん減っていく。ミネラルウォーター市場がこのまま拡大していけば、新たな南北問題の火種にさえなりかねない。
 それどころか、前出の早川氏は、
「日本が巻き込まれる可能性だって、十分シナリオとしてあり得るでしょう」
と警告するのだ。水が枯渇しがちな日本で、もし仮に将来、水道水が汚染されて飲めなくなったらどうなるか。世界各地に安全な水源地を確保している欧州系の外資水メーカーが日本に水を供給するということになり、穀物メジャーや石油メジャーに食糧や燃料の首根っ子を押さえられているのと同じ状況が、水という生命源にまで持ち込まれてしまうことになる。欧州の巨大ミネラルウォーターメーカーにお願いしないと水も飲めない――そんな恐ろしい時代がやってくるかもしれないのだ。
 早川氏は言う。
 「50年後には水が石油と同じような扱いになっているかもしれないということです。もともと日本には戦前にはきれいな水がたくさんあったのに、高度経済成長で多くの飲み水が失われてしまった。今のうちに国内できちんときれいな水を確保できる体勢をとっておくことが何よりも大切なことなのです」
 果たしてわれわれは子供たちの世代にきれいな水を残すことができるだろうか。