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| このページでは沢木さんがお住まいの鎌倉の街の四季折々の様子を当サイト管理人が紹介します。 | ||||
| 鎌倉便り2001.10〜2002.5 | 鎌倉便り2003.7〜 | |||
| 2003.5.5 長谷あたり | ||||
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由比ヶ浜通りから一本入った路地に吉屋信子記念館があります。普段は一般公開されておらず、年4回(5、6、10、11月の1〜3日)の限られた期間のみ見学出来ますが、今年はこの4回に加えて、3〜6月と10、11月の毎土曜日も公開されるそうです。 吉屋信子記念館から歩いて3〜4分のところにある、鎌倉文学館では今、世界的な映画監督、小津安二郎の生誕百年を記念した企画展が開かれています。(6月29日まで) 何でもないことは流行に従う、 文学館はこれからバラの季節。つぼみが大きくなってきました。連休は終わってしまいましたが、バラと小津安二郎展はまだこれから楽しめます。 |
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| 2003.4.27 妙本寺 | ||||
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若葉の季節になりました。大型連休(今年は少々小型ですが)始めの週末は、若々しい山の緑に誘われた多くのハイカーで賑わいました。 鎌倉駅から歩いて5分ほど、スルガ銀行角の道を入り本覚寺を通り抜け、夷堂橋を渡ると突き当たりに妙本寺の山門が見えます。古くからこのあたりを比企ガ谷(ひきがやつ)と呼んでいます。鎌倉時代には有力な御家人であった比企能員(ひきよしかず)の一族が住んでいました。 山門を入ると参道には住宅が建ち並んでいますが、すぐに両側が林の坂道になります。この参道は道の上まで枝を張った木々のこずえが季節毎に違った表情を見せてくれます。 鎌倉時代、ここに屋敷を構えていた比企能員の娘、若狭の局は二代将軍頼家の側室となり、男子(一幡)を生みました。頼家が重い病に罹ると、比企氏の権力が増大するのを恐れた北条氏は頼家の弟、千幡(後の実朝)を次の将軍に推し、比企氏打倒を画策します。能員を謀殺された比企一族は一幡を擁して比企ガ谷の屋敷に立て籠もり、北条や三浦、和田などの大軍勢と戦いますが、敗れて一族は滅亡します(比企の乱)。 妙本寺は鎌倉駅から近く、歴史のある寺ですが、いわゆる“名物”が無いためか訪れる人は以外に少なく、心静かな時を過ごすことが出来る、とっておきの場所となっています。 |
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参道の木立は季節ごとにいろいろな表情を見せてくれます
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若葉が輝き、まぶしいほど |
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| 2003.3.15 光明寺裏山の石仏 | ||||
| まだ寒さが残る鎌倉ですが、野山には怠らぬ春の歩みを感じます。 梅に代わり、沈丁花の香りが漂うようになり、白木蓮のつぼみも空に向かって開くばかりになっています。 鎌倉開府から現在に至るまで、鎌倉の都市構造の骨格を成す若宮大路が由比ヶ浜に達するあたり、滑川の河口から東側の浜は材木座海岸と呼ばれています。 このあたり、鎌倉時代は宋からの船も出入りする、国際港でした。多くの商人が集まり、活発な取引を行っていたのでしょう。また、そのころ元に圧迫された宋から多くの高僧が日本に渡ってきましたが、彼らもここから鎌倉に上陸したのかも知れません。 かつての港の姿は、日本最古の築港遺跡、和賀江島にその名残を留めています。 さて、今は静かな砂浜が広がる材木座海岸に向かって、浄土宗関東総本山の格式をもつ光明寺の壮大な山門が建っています。小堀遠州作と伝えられる庭園や石庭など見ておきたいものがあるお寺ですが、今回は光明寺境内を抜け、裏手の山に登ってみました。 裏山に建つ住宅の先に古びた鳥居がありました。その先の参道は細い山道のようになっています。山道を5分ばかり歩き、登り切った場所、山の尾根がとぎれその先が崖になった場所に小さな社がありました。名前も分からない小さな神社ですが、そこまでの山道には数多くの石仏が並んでいました。 石仏は高さが30cmほどで、享保、元文などと年号が読めるものがいくつもあり、多くが江戸時代のものと思われました。 日が西の空に傾き、赤みが差してきた日射しを浴びた石仏の、穏やかなお顔に気持ちがとても和らいで来ます。どんな人が何を願って、あるいは願がかなって、これらの石仏を納めたのか、今はもう知る由もありませんが、往時の人々の厚い信仰を感じました。 山を下り、光明寺へ戻って境内の案内板をみると、裏手の山に「秋葉山大権現」と記されていました。あの神社のことなのでしょうか。 山門を出て路地を抜けるとすぐに海岸です。引き潮の広い砂浜には多くの人たちが散歩を楽しんでいました。 |
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夕日を浴びて佇む石仏は、人々のどんな思いを受け止めてきたのでしょうか
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| 2003.1.13 初春 | ||||
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正月休みを過ぎてから、鎌倉も気温の低い日が続いていたのですが、成人式の連休は晴天に恵まれ暖かい日でした。 |
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(写真上) (写真左) |
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| 2003.1.1 ゆく年くる年 | ||||
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鎌倉には円覚寺、浄智寺、東慶寺、瑞泉寺、妙本寺、杉本寺、光明寺など除夜の鐘をつかせて下さる寺が多くあります。 |
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静かに新年を迎える大仏様
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(上)除夜の鐘をつく順番を待つ参拝客-長谷寺
(下)初詣客で大混雑の八幡宮参道 |
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| 2002.12.3 化粧坂切通し | ||||
| 鎌倉七切通しのひとつで“けわいざか”と読みます。 鎌倉駅西口を出て紀ノ国屋前を右折、今小路を寿福寺、英勝寺を過ぎてしばらく歩き、谷戸の奥に建つ海蔵寺手前の小道を左に折れ、住宅地の坂道を抜けると、まもなく急な坂道に変わります。これが化粧坂切通しです。 紅葉も終わりに近づいた、晩秋の切通しを歩きました。 今は緑深く細い山道の風情の化粧坂ですが、鎌倉時代は幹線道路だったと言います。鎌倉時代半ばまで、東海道の藤沢から鎌倉へ入る道は、化粧坂切通しか稲村ヶ崎の険しい岩場を越える(後にこちらには極楽寺坂切通しが出来ました)かの二つだったのです。 化粧坂と何か艶めかしい名前を持った切通しですが、その名の起こりは、平家の武将の首をここで化粧して首実検に備えたからとも、ここに遊女の里があったからとも言われ、はっきりしていないようです。 化粧坂を登り切った先にある葛原が岡神社は、鎌倉時代末期に倒幕運動を起こして捕らえられた公家・日野俊基が処刑された場所です。 日野俊基処刑の翌年(1333年)、鎌倉へ攻め寄せた倒幕軍に対し、ここを守った北条方は三万騎、そのほとんどが討ち死にしたと言われます。ここにも「もののふの都」鎌倉の血なまぐさい歴史が伝えられています。 紅葉に彩られた山が鮮やかな季節に歩いたのに、華やかさよりも林のほの暗さが印象に残ってしまうのは、こんな陰惨な歴史、滅びの歴史を感じて歩いてしまうからかも知れません。 |
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| 2002.9.29 釈迦堂口トンネル | ||||
| かつて鎌倉と六浦(横浜市金沢区)を結んだ金沢街道は、鎌倉の主要な幹線道路のひとつでした。金沢街道沿いの浄明寺と呼ばれているあたりは、幕府からも近く、鎌倉の中心でした。 浄明寺にある釈迦堂ヶ谷は、北条泰時が父義時のために釈迦堂を建てたことからこの名が付いたそうです。 かつてはこの浄明寺から大町(名越)方面へ抜けるのに、釈迦堂口トンネルを使うことが出来ました。今は崩落の危険があり、通行止めになっていることもあって、付近は緑に溢れた静かな山道の風情を感じさせます。 浄明寺の住宅地を抜け、釈迦堂ヶ谷のすこし急になった山合いの坂道を登っていくと、眼前に唐突に、灰白色の岩肌をむき出しにした釈迦堂口のトンネルが圧倒的な迫力で現れます。 荒々しい岩肌の陰影と、差し込む陽の光の対比が心に残る、魅力的な場所です。是非、晴れた日に訪ねてみてください。 <お詫び> 29日に「釈迦堂切通し」としてUPした後、ふと気になって、作家の永井路子先生にお尋ねしました。 永井先生のお答えは次のようなものでした。 「切通しというのは、天井が無く上が開放された道のことを言うので、釈迦堂切通しと呼ぶのは間違い」 「鎌倉時代は現在のトンネルより上にあった道を通っていたようだ」 先生の指摘を受けて文章を改めました。 永井路子先生は鎌倉に長く住まわれ、鎌倉を舞台にした歴史小説も書かれており、鎌倉の歴史に非常にお詳しい方です。先生のお書きになった「私のかまくら道」は、私達の鎌倉歩きの参考書です。 |
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釈迦堂トンネル(浄明寺側)
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釈迦堂トンネル(大町側)
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| 2002.8.15 路地歩き | ||||
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前回に続き、路地の話しです。
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路地を曲がると海が目に飛び込んできました |
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坂の下海岸は、遊泳禁止区域。ここの主役はウインドサーフィンと水上バイクです。賑わう海岸を海水浴客にサーファー、ウインドサーファー、水上バイクなどと漁業が巧く棲み分け、共存しています。 |
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| 2002.6.16 路地の魅力 | ||||
| 鎌倉へ車で行くのは止めた方がよい、とは良く言われることです。 これは道路がいつも渋滞しているから、という意味で使われることが多いのですが、それだけではなく「車では見逃してしまうものがある」と言う意味もあると思っています。 3年ほど前に、市が「鎌倉景観百選」を募集したことがあります。広く一般募集したその中には、もちろん誰でも思い浮かぶ鶴ヶ岡八幡宮や段葛、寺院や海岸などの歴史的景観や自然景観が挙げられる一方で、住宅地の生け垣や塀、門などの身近な景観も思いの外多く挙げられていました。 これは、市民が愛しているのは歴史的な建造物だけではなく、今の鎌倉の落ち着いた佇まいや暮らしだということの表れのように思えます。そのような“市民が本当に大切にしているもの”も是非見て頂きたいと思います。 しかし、残念なことにそんな落ち着いた町並みも、急速に失われているのが鎌倉の現状でもあります。生け垣に囲まれたお屋敷が、ある日気が付くと3〜4軒の分譲住宅に変わってしまっていることも珍しくありません。広い庭の緑が失われ、道が広くなり、現代的な住宅が取って変わってしまうのです。 抗することが出来ない時代の流れかも知れません。 せめて今の鎌倉の景観を目にとどめておこうという気持ちにも動かされて、鎌倉の小径をまた歩くのです。 |
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緑に溢れ落ち着いた路地の風景
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