五谷有利 遺句集から

<昭和44年> 
秋の風思へばにくき人なりき
爽やかな文なり逢つて話したく
秋袷逢はぬと決めてたたみけり
掌のいよいようすく秋思濃く
来よと言ふ夜霧の街を見よといふ
生くことの挫折幾度日記果つ

<昭和45年> 
ふり出しに戻る心の初詣
端然と大白椿落ちにけり
子の匂ひ生涯知らず鳥雲に
忘却も生きる術とし万愚節
恋の唄お上手でしたチューリップ
エキスポは原色の街サングラス
縫ひかへて母が着てゐる父のセル
非はつねに己にありて蟻地獄
砂丘来てとまるものなき秋の蝶
秋扇これから独りどこへゆく
わが生きし誇りは何ぞ日記果つ
独り生くる家計簿つけて一葉忌

<昭和46年> 
着ぶくれて愛怨遠き想ひかな
病むことを知られたくなし寒紅す
へだたりを縮め得ずして春暖炉
空港の別れさまざまシクラメン
胸過ぐる人のいくたり雁帰る
蜜豆やクラスメートでライバルで
なす漬けて男ごころの裏知らず
歌舞伎座のロビーにゐても毛糸編む
云ふならばプラトニックラブ聖菓切る


<昭和47年>
アパートの一ト間も城よ鏡餅
一葉の賀状心に波立てり
悴みて心ちつとも通はざる
春愁のさみしくないと云へば嘘
再婚に動く心や目刺焼く
香水や過去美しと思ふのみ
涼しさや生きて愛して働けて
文をもて別離云ふべし雁渡る
吾が四肢を人に拭かるる秋の風


<昭和48年>
点滴に明日信ずべし寒灯
この胸に縋る子の欲し雛飾る
春愁のふと出来心髪を切る
花は好き山好き街のネオン好き
逝く春や誘はるるかに二つの訃
貧厨を輝やかしたりサクランボ
愉しさは君がゐるからサクランボ
金魚死ぬな十三日の金曜日
能涼し舞台を天の月渡る
誘惑を拒み夜寒の俄かなる


<昭和49年>

初髪や女は変りやすかりき
芸出来し犬と焼芋頒ちをり
病名をさとりし顔や冴返る
草笛やはや少年の喉ぼとけ
パンと花買うて私の惜春譜
ふたたびの雇はれマダム柳散る
かたくなに胸を閉ざして毛糸編む
胸に棲む人憎しとも毛糸編む

<昭和50年>
憎からぬ人の激しき雪つぶて
あかぎれやこの生き方の他知らず
佳き人と別るる如く春惜む
水打って女将は夜の顔となる
許し合ふ仲か水着を選ばせて
地図凉し槍も穂高も指の中
乳房吸ふ汗と涙を押しつけて
病日記つづり勤労感謝の日

<昭和51年>
泣きほくろ永遠に変らず初鏡
恋という魔者棲みゐて息白し
春愁や動けぬ身にも爪のびて
蜆汁箸に重たく病み痩せぬ
看護婦に四肢拭かれゐて春惜む

本名 八田房子 生年不詳


下村非文師(当時主宰)の「遺句集 序文」を、そのまま、全文引用します。

「私の耳は貝の殻 海のひびきをなつかしむ」

これはフランス近代作家コクトーの詩である。有利さんはこの短詩をいつも愛誦し
たそうである。
生まれつき蒲柳の質で、入院生活の多かった有利さんは、少女時代からフランス文
学に興味を持ち、特にボードレールやコクトーの詩を好んだ。一方日本文学の中で
は近松・西鶴をはじめ、荷風や太宰の 作品に心をひかれて貪り読んだそうである。
この文学的土壌に有利さんという個性豊かなユニークな俳句が花を咲かせたに違い
ない。有利さんは元々自由奔放で、華やかな多情多感な詩人である。短かかった作
句生活の間に有利さんらしい佳句を数多く残した。有利さんにファンの多かったの
も、それらの作品にひかれたからであろう。

一葉落つ少女ひらりと人妻に
鉄骨は男の匂ひサングラス
自画像は若き日のもの巴里祭
近松忌身捨つるほどの恋ありや
独りゐることは怖ろし椿落つ
いつしかにパリーは遠し木の葉髪
切々と切々と雨原爆忌
神代より男と女鳥雲に
生きざまのなお奔放に鳥雲に
野の果ての大夕焼けやさらはれたし
太陽をすこし下さい路地のバラ
これ以上雨はたくさん花菖蒲
陸橋は街の峠よ鰯雲

自分のアパートの暗い一室に、金魚の如く閉じこもって、ひとりで気ままに暮らし
た晩年も、遂には二年の長い闘病のあと、人知れず、ひそかに、その弱々しい一生
を結んだ。家の外に出て吟行することも少なく、自然の風物に接する機会も又乏し
かったに違いない。従って叙景的の句よりも、自分の揺れ動く心の底をじっと見
る心象描写の作品の多いのも肯かれる。
かなしい女心の綾なす愛恕の世界が、なやましく繰りひろげられている。

運命ともいふ逃げ言葉鳥雲に
一葉また多情多恨の行方かな
桐一葉落つ何ごとの不思議なく
愛憎やあめ色となる籐寝椅子
独りてふこの自由且つこの寒さ
衣更へて女心の単純に
そのときの乾きし心金魚買ふ
この胸に縋る子の欲し雛飾る
来世も女でゐたし毛糸編む
雁北に深みゆく愛怖るかに
来世もあなたを選ぶ木の葉髪
母と娘のあるジェラシーや蚊喰鳥

一年の半分は咳のでる病弱の身で、常に死を見つめながら、ほとばしる感情を、季語
にぶっつけて、華やかで悲しい俳句を作った。


銀漢や死はきっと来る別々に
約束のごとし風邪神吾に来る
熱出でぬ日は人を恋ひ冬の蝿
死ぬときはおしゃれはするよ曼珠沙華
考へぬことが闘病夜やながし
うそ寒しレントゲン待つ胸開けて
胸うすくなりしゆゑとも花の冷
梅一輪死にたきことも今はなく
憩ひふと愛と死にふれ春灯下
金魚死ぬな十三日の金曜日

有利さんは昭和44年初めて俳句を作り、またたく間にその豊かな詩情を奔放にのばし、
47年には山茶花推薦作家に挙げられた。句歴は僅か8年に過ぎなかったが、山茶花に毎月
発表する句は、多くの読者を魅了して止まなかった。今後の有利さんの詩人としての生長を
どんなに期待していたかは、 私ばかりではなかった。
而し遂に短い命は、かなしく散った。恰も有利さんの好きな椿や金魚のように。
                              (以上 序文)

「あとがき」に山門直三さんはこう書いています。

或る日の夕方、有利が我が家へとびこんで来て、
『伊賀上野へ行くのはどうしたらえゝのん、私は方向音痴だからとんでもない方向へ行きそ
うなの。』私はこの突然の質問にあわてて「一体どうしたんや、あんばい言わんと判らへん
がな。」と言った。
『私の句、掲額されるんよ、芭蕉堂に、最高の名誉やわ。』嬉しくてたまらぬように、こぼ
れる笑顔を、それが癖の、手を垂直に立て指を揃えて、有利は自分の口を覆う。

夕焼の使徒の如くに鳶一羽 有利

この句、実は昭和48年度、芭蕉祭への応募句で特選を得て、芭蕉堂に掲額された句なので
ある。有利が最初の発病の癒える間近に、府立成人病センターの屋上にあって大夕焼を見て
いての感情をうたい上げたという。
病魔の手から脱し得た喜びと同時に、不吉にも病巣の残存を予知してか、その恐怖と、どう
ぞこれで病抜けがしますようにとの祈りとが入りまじった複雑な気持であったと有利は述懐
する。私は有利に手を差し延べて、有利の手を握り句精進の大成功を祝福したが、にぎった
有利の手が意外に硬かったことを今、想い出している。
<中略>
生前、有利は自分の生活の事を話すということは決してなかった。また、昔の事も口を貝の
ように堅くつぐんでいた。だが、時折口をすべらしたかのように言う事柄は彼女のくらし向
きの断片をのぞかせた。
<中略>
母上から享けた潔癖さが、自分の経営するアパートの全階を毎朝くまなく掃除させた。着用
していたドレスもブラウスも、全部カッティングからミシンまで、自らの手でこなしていた
とも云う。病弱を押してでも、女のするべき仕事は一切、自分でやらなければ気がすまぬと
有利はつぶやく。
<中略>
その人が時に非常に唐突に、時には考えあぐねた末、愚問、賢問奇問を発することがままあ
って、我々を失笑させるのであったが、それが何となく、とぼけている様であったので(中略)
遂には「蛍光灯女史」の異名を呈上した程であった。(中略)

ちなみに、この種、句集等の発刊には、おおよその作者の句歴を必要とするのであるが、大
分以前に有利自身の手で句帳や関係資料など焼却されたものの如く<後略>



<お断り>
新たに山茶花の同人・誌友になった方、前回見逃しておられた方からリクエストをいた
だき、あらためて五谷有利さんをご紹介いたします。
この記事は、本ホームページ編集担当・中西英明の拙い感性で句集を要約したもので、
決して故・五谷有利さんの句の魅力すべては表現しきれておりません。
なお、出典は山茶花叢書第14輯、「遺句集 有利」に求めました。
 
第6回 五谷有利という人がいた (再掲)
歴代の主宰や同人をご紹介!
今回は、故・五谷有利さん。
山茶花の俳人たち