北海道新聞連載T(1-10)

  1. ハゲとバストの間
  2. 「優しくって頼りがいのある人」
  3. セーラームーンの子供たち
  4. 華のスチュワーデス?
  5. チビとダイエット
  6. 性の商品と性差別
  7. スキーとテニスの男性差別
  8. ポルノコミックの男女比較
  9. 男女の「おごり」の力学
  10. 恋愛と結婚の「規制緩和」


1.        ハゲとバストの間

 私程度の年齢の男性で髪の毛が薄くなるというと、結構悩みは深い。いつもはおちゃらけてる友人が「これがなくならないうちに、相手を見つけないとなぁ」などと真顔でつぶやくのを見ると、なんとフォローをしていいのかわからなくなってしまう。

 一方で若い女性が街頭インタビューで理想のタイプを聞かれて、「え〜、私なんかぁ、もらってくれるだけでいいです。とりあえずぅ、髪の毛さえあればぁ」などとのたまっていて、笑うに笑えない。 実際ハゲという言葉は結構差別的に使われるのだ。もちろん、差別用語だから使うのはやめましょう、これからは「髪の毛の不自由な人」と呼びましょう、といったところで何の解決にもならないことはいうまでもない。

 交際相手を見つけるに際して、女性ほどではないにせよ、男性にも間違いなく外見は要求されている。顔の造作だけではなく、身長や髪の量まで。「外見で相手を選ぶのなんてやめましょう」などとお説教をたれるつもりは毛頭ない。当人同士の了解のもとに好きに選べばよいことだ。ただそうしたくない人にまで、またそうしたこととは無関係な状況にまで、過剰に外見は要求されてはいないだろうか。

 ハゲはすぐ目に付きやすいという点で、女性のバストと共通の要素をもっている。バストの大小は、自分が性的に見られたくないときにまで、性的存在としての値踏みにさらされるという意味で、そして男性の求める「理想のバスト」に縛られるという意味で、女性にとってしばしば悩みの種になる。フェミニストたちが問題にしようとしたのは、それが個人的な悩みではなく、性別にまつわる構造的な問題だからだ。

 その点でもハゲは同じ構図をとる。女性の視線から、あるべき男性像というのが要求されていて、それからはずれているのではないかと悩み、さらには職場のように髪の毛の量が仕事の遂行にはなんら関係を持たないような場所でも、ある種の引け目を負ったりするのである。

 これは決して個人の問題ではなく、フェミニズムの扱うような性別間の構造的問題であるはずだ。しかし女性たちはフェミニズムの中で集団として声を上げたにも関わらず、男性たちは依然として個人として悩み続けているように思われる。もう少しあるべき女性・男性像という枠にとらわれずに生きることができたなら、ハゲとバストの間をある種の共感でつなぐことができるはずなのだが。


2.        「優しくって頼りがいのある人」

  最近若い男性は優しくなった。無骨で男臭くて粗野で、「俺についてこい」というような、そんな菅原文太みたいな男性は、身近に接する学生や友人たちを見る限りどうも少数派のようである。

これに対して多数派なのが、優しい男性たちだ。よくいえば繊細、悪くいえばなよっとしていて、よく気がつくけど、少し気が弱い。独断専行を避けて人の意見を聞いた上で判断をしようとするから、どうしても優柔不断になってしまう。当然家事は半分分担、というほどフェミニストではないにしても、いわれれば皿洗いくらいはきちんとやる。

 ちょうど槙原敬之の歌の世界の主人公に似ている。彼のいかにも優しそうな風貌通り、ちょっとしだ女へのプレゼントに気を使ったり、ふられて落ち込んでみたり、三角関係に悩んだり。そこに描かれているのはまさに同世代、二〇代前後の優しい男性たちの心象風景である。そしてこうした歌が若い男女に受ける理由もまさにそこにある。

こんな優しい男性の出現は時代の要請、主として若い女性たちが求めたものであった。女性たちは単に男性に従うのではなく、自分の気持ちを汲んでくれる思いやりのある男性を求めた。女性たちが自己主張を強める中で、それを受けとめるにはこうした優しい男性が不可欠だったのだ。

       その一方で若い女性たちには、そんな男性が頼りなく映るらしい。「男でしょ、しっかりしてよ」といいたくなるらしいのだ。「優しくって、いざというときは私をひっぱってくれる頼りがいのある人がいいわ」というのだが、それには「ちょっと待ってよ」といいたくなる。優しさと男性優位のリーダーシップはそもそも両立が難しいのだ。「優しい」というのは人に対して自分の判断を抑える傾向であり、「頼りがい」はその全く逆。もちろんこれを使い分ける器用な人がいるのは事実だが、これを一人の人間に求めるのは、「美人で頭のいい人」を求めるよりずっと難しい。「華奢でグラマーな人」を求めるくらい矛盾しているからだ。

       それでも女性たちが優しさと頼りがいを求めるのは、きっと彼女たち自身がどこかで自立を恐れているからだろう。自分の主張は認めてほしいけど、全部責任を負わされるのはちょっと、という気持ちの表れなのだ。でも男女が対等になっていくということは、どちらかの性に決定をゆだねるという態度からの脱皮を含んでいるはずだ。「頼りない」彼と一緒に悩んで結論を出すのが、新しいカップルの風景なのではないだろうか。

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3.        セーラームーンの子供たち

       大学の私の研究室にはセーラームーンの人形がおいてある。北大時代の自主ゼミの学生さんたちが、必ず研究室におくようにと念を押して、餞別にくれたものだ。来客にはギョッとされるし、「対象年齢三歳以上」という箱の注意書きも気になるのだが、学生さんのしゃれのセンスに免じて約束を守っている。

       学生さんがセーラームーンをくれたのは、私がファンだからというのではもちろんない(念のため)。ゼミで話題になったことがあったのだ。私はうかつにもそれまで、セーラームーンなんてロリコン趣味の男性が見ているのだろう、ぐらいにしか思っていなかった。ところがいま小学生の女の子たちの間では絶大な人気だというのだ。くだんの人形はついに単年度の売り上ーでかの「リカちゃん人形」をしのいだと聞く。

       愛と正義のために変身して闘う女の子たちがでてくるのだが、この設定は結構珍しい。正義のために変身といえば、「ウルトラマン」「仮面ライダー」といずれも男の子向けの番組だった。変身自体は子供番組の重要なモチーフで、女の子向けの番組でもしばしば登場する。しかしその場合「秘密のアッコちゃん」のように願望充足の手段として魔法や変身がでてくるのであって、光線を出して闘ったりはしなかった。「キューティーハニー」が例外といえそうだが、人気ではセーラームーンの比ではない。もちろん闘う目的が「ピュアな心」のためだったりするところが、「地球の平和を守る」ための男の子向けと違う点である。愛と正義の比重が微妙に違うのだ。さらにはピンチになるとときどき(年上の男性である)「タキシード仮面」がでてきて救ってしまうあたり、性役割を踏襲していてウームと思ってしまうが、それでも女の子が「リカちゃん」で着せ替えをするのではなくて、「ムーン・スパイラル・ハート・アターック」などと叫びながら、公園を走り回るというのは間違いなく一つの変化であろう。

       その一方で男の子は「クレヨンしんちゃん」を見ながらおちゃらけているのだ。男の子が例の口調で「成せば成る、洗えば食える、何物も」などといっている横で、女の子が「愛と正義」のために闘っているのだとしたら、これは結構象徴的な出来事だ。

       しんちゃんは大きくなったらきっとあのパパのような優しい男性になる。セーラームーンの女の子たちはどんな女性に育つのだろう。

      大きくなっても闘うのだろうか。それともタキシード仮面に頼ってしまうのだろうか。
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4.        華のスチュワーデス?

      大学院生の常で私も就職口がなく、二十九歳で北大に拾ってもらうまではアルバイト三昧の暮らしだった。当時私は都内の専門学校でスチュワーデス養成講座の非常勤講師をやっていて、華のスチュワーデスをめざす女子大生を相手に入社試験問題の解説をしたりしていた。おかげで予備校や塾で教える大学院の同僚からはずいぶん羨ましがられたが、別になにか役得があるはずもない。強いていえば「かぼちゃ畑」を相手に講義をする(失礼!)のが、「お花畑」相手になる程度のものだ。それこそ大きな違いだと友人は力説していたが・・・。

       そんなわけで私はこの「業界」には少し詳しいのだが、最近は国内大手三社が経営再建のために日本人客室乗務員の採用を中止していて、スチュワーデス講座も閑古鳥のようである。それでもスチュワーデス人気は衰えない。男性にとっては若ノ花の例を出すまでもなく、美人ぞろいで理想の相手ということになっているし、高給で華やかで海外に行ける職種として若い女性には憧れの的である。

      外資系航空会社の国外在住・現地通貨建ての契約社員募集や日本の航空会社の時給制での募集など、多少条件が悪くなっても志望者が殺到するあたり、人気のほどが窺える。

       確かに短大卒の女性で事務職について単純労働を繰り返すことに比べれば、いろんなところに行けて、ステータスもあって、手当を含めて月に三十万円はもらえるとなれば、スチュワーデス受験は人生を大きく変えるチャンスであろう。しかし総合職で働くことに比べれば、要求される知識の量、キャリアの上昇に伴う仕事の拡がりなどの面で、必ずしも発展性のある職種とはいえない。スチュワーデスになった感想を聞かれた卒業生が、「喫茶店のウェートレスが空を飛んでるだけですから」と謙遜していたが、ある一面を言い当てているのは事実だろう。

       「スチュワーデスなんてくだらない」などといいたいのではない。どうも現在のスチュワーデス人気は過大評価で、さらにそれは女性の社会進出が進んでいないことの裏返しだと思われるのだ。アメリカではパンナム全盛の時代ならともかく、今や客室乗務員は肉体労働の一種であり、それほど特殊な職業とは考えられていない。飛行機も海外旅行も特別なものではない時代、女性が活躍できる職場がもっと他にあれば、スチュワーデスの相対的な人気は下がるはずなのである。二、三年後大手三社の国内採用が再開されるとまたスチュワーデス講座は賑わうのだろうか。
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5.        チビとダイエット

      「食べちゃうと太るしなぁ」コースメニューのデザートを前にして、友人の女性が逡巡している。あれだけ肉料理を食べておいて、何をいまさらと言いたくなるが、その言葉は御法度だ。国民生活センターの調査では、やせたいと思う女性は年齢に関わらず約六割に達するという。実際周囲の女性たちは二言目にはダイエットを口にする。確かにその必要のありそうな人から全く必要性のなさそうな人まで。

       一方女性の関心が体重だとしたら、男性の関心は身長に向かう。何を隠そう私は子供の頃からチビで、一再ならず身長を気にしたことがある。 まず小・中学校。背の順に並ばされて前から五番目より後ろに行ったことがないのだが、あれはどうも屈辱的だった。背の高さというのはあの?の子供にとっては、成績や五〇�走のタイムと同程度には気がかりな一つの価値で、その順に並ばせるということに一体どれほどの合理性があるのだろう。どう考えても見た目にきれいだという軍隊行進式の発想に思えてならない。高校は自由な校風で、整列の際の順序も決まっていなかった。その分時間もかかるのだが、妙に解放された気分になったのを憶えている。       

大学時代になると、それほど低くなかったこともあってほとんど気にしなかったが、それでも定期検診で一六五・四�が五・六�になったときは少しうれしかった。「何センチ?」と聞かれたときの値が1�増えるからだ。だから私には体重計の五百�の差に一喜一憂する女性を笑う資格などない。気にしていないつもりでも「三高」の基準が一八〇�などといわれると何となく気後れを感じたのは事実なのだし。

       こんなつまらぬ身体意識から解放される手だてはと考えると暗くなってしまう。「気にすることなどない」というフェミニズム的な言説は百%正しい。気にする社会が間違っている。でもだからといって、それだけでは当の個人にとっては何の解決にもならないのだ。異性や他人によく見られたいというそれ自体は否定しがたい欲望に基づく身体意識に対して、気にするなといっても根本的にはなぐさめ程度にしかならないからだ。

       それでも身長が体重より恵まれているとすれば、それは一定の年齢で「もうこれ以上伸びない」と諦められる点にあるのかもしれない。雑誌広告の奇妙な靴を履くぐらいしか手だてがないからこそ、それを受け入れることができるのだ。これで身長が増減可能だったら、私は毎日一�牛乳を飲んでいそうで恐ろしい。
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6.        性の商品と性差別

レディース・コミックは性描写の過激度を強め、男性ヌードショーで話題の東京の「J・men’s」は連日若い女性であふれている。性の商品の消費者は確かに男性の方が多いが、それが性の商品の本質とはいえない。いったい性の商品に対してどんなスタンスが可能なのだろう。

       性が解放されるべきか否かは、信じる神の違いである。性は寝室の外へ出るべきではない、という性の抑制論は、多様な性を許さない点で抑圧的である。一方性の解放論には、人間の羞恥心の原点である性を無条件に解放してよいのかとの批判がつきまとう。

       このあいだの綱引きは歴史的・文化的に決定されるのであって「正解」などない。日本では統計的には年齢が上がるほど、学歴が下がるほど、また男性より女性で抑制論に傾くことが知られている。 こうした状況の中でフェミニズムは解放論に立っていた。女性も性の主体となることはフェミニズムの主張の重要な一部だった。そこからは何が見えるのだろう。

       まず解放論に立つと意外なことだが性の商品化は否定できなくなる。現代社会にあって、自由な情報の流通を保証するものが商品取引だとすれば、性の解放を主張して、商品化を否定することはできない。商品化なき性の流通では、国家による「正しい性」の宣伝ぐらいしか残らないのだ。

       現実の性の商品に性差別的なものが含まれていることは疑いない。しかし同性愛・「変態」など、多様な性を保証するのが商品だとすれば、商品になること自体が性差別的なのではない。金銭を対価に労働を売るのは、労働の本質であって、性のみが特殊との議論はかなり難しい。つまりそこには良い商品と悪い商品があるのであって、性の解放論からできるのは悪い商品の批判なのである。

       この善悪の基準は、一般的には確定不能である。良い文学が定義不能なのと同じで、これは社会成員の快・不快の綱引きの結果決まるのである。この際売る側・買う側の自由意志が存在することは最低限不可欠の条件だし、性差別的なものを不快だと主張することも当然重要だ。

       一方子供に対しては別の立論が必要で、何歳から上を主体とみなすかなど議論はより複雑となる。ただその中でいわゆる有害コミック規制は、性描写一般に対する規制であることから明らかに性の抑制論に立つ。解放論が出自のフェミニズムとしては安易にくみするのは危険ではないか。

       女性も性の商品の消費者となる時代にあって、性の商品化は自明な悪ではなく、開かれた問いなのである。
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7.        スキーとテニスの男性差別

       札幌ではそろそろ雪が舞いはじめる頃だろうか。北大時代、五月からこの頃まで私は時折テニスを楽しんだ。夏でも爽やかな札幌でのテニスは、まるで高原のコートにいるようで実に爽快だった。

       そして手稲山が白さを増しはじめると、もうじっとしていられない。週末はゲレンデめぐりである。東京での学生時代、夜行バスで人ごみのスキー場に通った身からすれば天国のような環境だった。

       こんな北海道賛歌をはじめると私はきりがないのだが、今日のテーマはそのことではない。私が熱中したテニスとスキーにまつわる男女の力学についてである。いきなり結論から入ろう。「テニスとスキーでは男性の初心者は許されない」のである。 他のスポーツで考えてみよう。男女がいて女性の方が卓球がうまい、乗馬がうまい、といっても特に違和はない。クラブでやっていたんだろうと思われるだけである。できる人というのはそれを専門に練習した特殊な人であり、普通の人ができなくてもなんら不自然ではないのである。

       ところがテニスとスキーは違う。これは現代の若者にとっていわば必修科目で、サークルでやろうがやるまいが、とりあえずこなせることが要求される。夏にみんなでどこかに行けば、特に経験者がいなくてもテニスをする。冬に合宿といえば、もうこれはスキーで決まり。

      北海道の人には理解しがたいかもしれないが東京の人間にとってスキーは、年に一、二度行くか行かないかの華やかなイベントだ。

      そうした必修科目では男性の方がうまくなければいけないという規範が働くのである。  みんながたしなむメジャーなスポーツ。「やっぱスキーってぇ、男の子のたしなみよねぇ」スチュワーデス養成講座の女子大生が言った言葉はあまりに象徴的だ。

       女性は空振りをしては「キャー」と叫び、急斜面に来ては「コワーイ」などと言っていてもよいが、男性がボーゲンでノロノロ滑っていると実に冷たい視線が浴びせられるのだ。「今度スキー教えてください」と初心者の女性が男性に言うのはいいが、逆は難しい。そうしたプレッシャーを私もかつて感じたことがある。だからこそ「この歳になってスキーやテニスなんて始められるかよ」という男性の気持ちは良くわかるのだ。  しかし誰だって最初は初心者なのに、こんな差別が許されていいのだろうか。いや差別というより男性自身もこだわり過ぎなのだろう。

  というわけで北海道の皆さん、この冬はボーゲンの男性スキーヤーを、少し温かい目で見てあげてください。
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8.        ポルノコミックの男女比較

       一、二年生対象のゼミで学生たちが、男性向け・女性向けのポルノコミックの比較をするというので、予習のため(?)かなりの数の「有害コミック」に目を通すこととなった。まず困ったのが入手方法である。堅い本に混ぜて二、三冊というのが古典的だが、とても追いつかないし、何よりよけいに淫靡(いんび)だ。やはり片っ端から集めてどーんとカウンターに置き、「領収書お願いします」、これが一番のようである。

さて読んでみてまず感じるのは、思ったより内容が似ているという点である。男性向けにせよ、女性向けにせよ性描写の多い漫画では、タブー視される事柄はあまりなく、描かれ方にそれほど違いを感じないのである。よく指摘されることだが、「強姦されているのに最後には許してしまう」といったパターンが、女性誌にもかなり登場する。こうした描写については、現実の強姦を誘発する危険性と潜在的な欲望を平和的に発散させる機能との両面から常に問題となるものなのだが、その二面性を象徴しているのかもしれない。

       もちろん違いもたくさんある。印象的だったのは、当然のことながら女性誌では女性の心理描写が細かいという点である。男性誌では、抱かれている女性はいつも「感じて」いて、そうでない場合というのは、精力減退や性器の大小といった男性の典型的なコンプレックスの問題として現れる。これに対し女性誌では、性交渉に際し女性は必ずしも喜んでいるとは限らず、演技であったり、さめていたり、不満や不安をおぼえていたりすることもある。喜んでいる時の描写では大差はないのだが、「さめた性交渉」の描写は女性誌に明らかに多いのだ。

       そしておもしろいのは、そうした不満や不安の原因が決して性器の大小やテクニックの上手下手ではなくて、しばしば「愛情の欠如」に求められる点である。「性=愛」とでも言おうか。一方「下手でも愛があれば幸せ」といったストーリーの代わりに、男性誌の主人公は自らのパワーで女性を圧倒するのである。確かにスポーツに近いような「性=快楽」とでも言うべき即物的な性も女性誌に登場するが、その頻度は男性誌ほどではない。  とりあえず性交渉ができれば最低限事足りてしまう男性と、それ以外の意味づけを求めようとする女性。ポルノコミックの比較はベッドの中で繰り広げられている男女の微妙なすれ違いを見事に照射しているように思えた。

   それにしてもこの部屋中の「有害コミック」の山、一体どう処分したものか。
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9.        男女の「おごり」の力学

       先日、大学時代の友人と久しぶりに酒を飲んだ。都内の女子大を出た彼女は、二、三年前から、とある私立高校の先生をしているという。ふとしたことから、給料の話になったのだが、なんと私の年収は彼女より一割も少ないことが分かり、愕然としてしまった。帰り際、「今日はおごってあげるわ、ボーナス十万くらい多かったんだし」と得意げにコートを羽織る彼女を、私はひたすら苦笑いで見上げるしかなかった。

     国立大学の給料の安いことはもう言うまい。ただ振り返ってみるに、私はよく人におごってもらった。二年前二十九歳で北大に職を得るまで、アルバイト生活でお金がなく、就職をした友人と食事をすると、男女を問わず多めに払ってくれることが多かったのだ。そんなとき私は、素直に好意を受けることにしていた。

       おごりに関しては、主に性別、年齢、収入の多寡といった要素が絡む。男性、年齢が上、収入が多い方が払う場合が多い。おじさんが女子大生と食事をすると、この三つがすべて重なり、女子大生が払うことはまず考えられない。元来これらの要素は、男性で年齢が上なら収入が多いという「常識」によって結びつけられていた。女性は外で働かず、賃金は年功序列という社会では、これらは「三位一体」だったのである。

       ところが女性が経済力をつけるにつれて、これらが相互に矛盾する微妙なケースが生まれる。貧乏な院生と会社員の女性というかつての私の場合もその例だが、同い年のカップルで男性は大学生だが、女性の方が短大を出て就職した場合、はたしてどんな負担パターンが一般的なのだろう。

       割り勘のカップルも多い中で、おごりたがる男性というのも結構いる。女性の方でも「ほかの人とは必ず割り勘にしても、彼氏にはおごってほしい」という人は少なくない。守り・守られる関係というのをおごりを通じて再確認したいのだろう。しかしどこか無理をしてはいないだろうか。 男女の場合、学生なら収入に差はないだろうし、二人とも働いていれば、給料の差などさほど大きなものではない。それでも合コンと言えば男性が多く払うのが圧倒的だ。デートの度ごととなれば男性の側の負担も軽くない。結婚しても女性が働く時代、性に基づく負担原則に意味はあるのだろうか。当事者の合意の上というだけなら余計なお節介だが、この意識は明らかに社会的圧力を形成している。性別からもっと自由になれないものだろうか。

 いやそれよりも、せめて割り勘に持ち込める給料がほしい。
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   10. 恋愛と結婚の「規制緩和」

       「昔、僕、義理チョコって 『ぎって(盗んで)きたチョコ』だと思ってたんですよ」と道内出身の学生さんが言って、大笑いしたのは、去年のバレンタインだったろうか。今年は気がついたら二月十四日が過ぎていた。どうも私はこの日が苦手だ。理由なんて・・・・いわずもがなである。

       『美人論』で有名な井上章一氏が『もてへん男』(ともにリブロポート刊)の中で、男性フェミニストの主張には、分け前を求めるもてへん男の屈折した心理が現れている、といった趣旨のことを述べていて、フェミニズムを研究する私としては頭を抱えてしまった。うーん、確かにそういう面も・・・・。

       しかし、むしろフェミニズムは基本的には、恋愛と結婚に関して自由主義者である。男性に経済力、女性には外見と家事遂行能力をもとめて、それが満たされている限りにおいて、結婚は継続されるとしたのが、近代以降の日本の典型的な結婚システムだった。だからこそ特に深く愛し合っていなくとも、連れ添い続けることができた。これに対してフェミニズムは、そうした役割分担に基づく結合を排して、愛情にのみ基づく結婚を実現しようとしたのだ。

 そのことは皮肉にも両性にとって、恋愛に際して外見の持つ意味を重くする結果を招いた。フェミニズムは外見に縛られる必要はない、と主張するが、外見で選ぶ自由までは否定できない。その点に関しては、平等主義ではなく、自由主義をとらざるを得ないのである。 こうした自由主義の一つの結末が離婚である。好きな人と一緒になるということは、嫌いになったら別れるということにつながる。民法改正試案に現れた、責任の所在を問わず、夫婦関係の破綻を離婚の事由として認める、いわゆる破綻主義は、結婚の「規制緩和」の典型例なのだ。

       男性は経済力のあること、女性は家事ができることに、もはや安住はしていられなくなる。もちろん離婚後の子供の養育費に関しては、賃金から天引きするといった確実な支払い手段が講じられるべきだが、主婦の座が脅かされることは避けられない。  そしてそれ以上に、女性が経済力をつけるにつれて、「粗大ゴミ」は捨てられる。恋愛では男性にも外見が求められるようになる。この「規制緩和」、主婦以上に「もてへん男」には大変なのだ。それでも好きな人と一緒になるのが幸せである以上、この流れは止められないだろう。 ばらまかれる義理チョコは、そうした自由主義的競争を覆い隠そうとする、博愛主義のポーズなのかもしれない。

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