北海道新聞連載V(11-20)
私は童顔で、まず学生と区別がつかない。この間もコンパで、知らない人に「ここに先生が一人混じっています、誰でしょう」とやったら見事にはずされてしまった。さすがに少しショックだった。
別にだからというわけではないが、日本社会の年齢規範には、よく疑問を感じる。ひと月ほど前、英国の金融機関の若手ディーラーが、株式先物の取引で大きな損失を出し、伝統ある銀行の身売りを招く、という事件があったが、日本の各新聞は一様に、ディーラーの年齢に注目した見出しを掲げている。「破綻の主役はスゴ腕28歳」(道新三月一日付)「女王の銀行28歳が幕引き」(朝日、同)といった具合にである。
これを見て、あれっと思った。この手のディーラーは年をとるとできないといわれ、彼の年齢は特に珍しくはない。また一定の権限を与えられて仕事をした以上、二十八だろうが、五十八だろうが関係はないはずである。それでも彼が五十八歳なら、こんな見出しはでないはずだ。つまりここには、「二十八の若造が」という年齢に関するある種の「差別」意識が現れている。
興味を持ったので、本国イギリスの新聞を調べてみた。「ザ・タイムズ」は一面全部で報じているが、年齢は見出しには全く出てこない。大衆紙「デーリーミラー」は彼が数学が不得意だったことを大きく報じているが、やはり年齢の扱いは小さい。保守系の新聞「デーリーテレグラフ」は「公営住宅出身の悪者トレーダー」という表現で彼が労働者階級出身であることを暗に問題にしている。 階級的出自が問題になるあたり、いかにもイギリスだが、年齢がこれほど着目されるのは、いかにも日本的なのである。年功序列を当然としているからこそ、「若造が会社をつぶす」のはおお事なのだ。
年齢に関する序列というのは、性別に関する序列と同様、家族関係の中に基礎を持つ。日本の場合、かつて兄か弟かは大きな違いであり、そうした序列意識が学校の中で先輩・後輩という関係になって、制度化された。数才でも年上には敬意を表すという、われわれには当たり前の行動も、英米文化の中では決して普遍的ではない。だから一方では履歴書に年齢は不要なのだし、かたや年功序列の企業組織ができあがるのだ。
こうした年齢「差別」は、誰でも年をとるとその恩恵に浴するという点で、性差別とは異なる構造をもつ。だからこそ大半の人には差別と意識されずに、堂々と新聞の見出しになるのだ。でもそうでない社会もあることは、意識しておいてもよいだろう。
朝鮮民主主義人民共和国(いわゆる北朝鮮)に行って来た。五日間で約二〇万円という、この円高のご時世に信じがたい値段のツアーだが、研究の都合上一度は見ておかなければと思い、大枚をはたいた。
名古屋から高麗航空のチャーター便に乗る。ところがこれが救命器具の説明を水平飛行に入ってからやったり、帰りはそもそも説明がなく、おかしいなと思って椅子の下を見ると救命胴衣の袋が空っぽだったりと、フライトだけでも「やってくれるぜ」という感じだった。
平壌の中心街はゴミ一つなく、きれいな一方で、生活のにおいを感じさせない。裏通りに入ろうとすると、ホテルから尾行してきた人に止められたりで、実像に迫ることはままならなかった。広告は全くなく、?るのはスローガンばかり。特に「私たちは幸福です」という標語は笑える。外国との隔離、個人崇拝の徹底など、いずれも文化大革命期の中国を髣髴(ほうふつ)させるものだった。
街をゆく女性たちは、判で押したように皆スカートをはいている。ズボンをはいた女性は、農作業をしている人たちなどごく一部で、町中ではほとんど見かけない。これは私には少し奇妙な風景だった。中国は社会主義化を進めた時期に、男女の差を、職業の上でも、外見の上でも小さくしようとした。文革期の女性たちは皆人民服のズボン姿だ。ところがこの国では、外見的な男女の別はかたくななまでに守られている。男性的なズボン姿が存在しないことは、そうした区別が、強く意識されていることの証左だろう。
乳児をおぶったり、幼児の手を引いて出勤する女性の姿もたくさん見かけた。この国では既婚女性も仕事を持つことが原則となっており、その分、居住区や職場ごとに託児所が整備されている。夫婦二人で働かないと暮らせない程度の賃金にして、女性の労働力化をすすめ、一方で子供の面倒を見る設備を国が整備するというのは、社会主義国ではよく見られる政策である。
その一方で性役割はかなり残されているように思われる。八〇年代以降、金正日書記の産みの親、金正淑女史を見習う運動が展開されているが、そこに描かれる女性像は「偉大な首領様」に徹底的に仕え、教えを守り、子供を革命的に育てるというものであり、中国の文革期とは大きく異なり、むしろ朝鮮社会の伝統的な儒教的女性像と共鳴する。 街をゆくスカートは、単なる外見にとどまらず、社会主義の基層に残った男女の区別を色濃く反映しているように思われた。
本紙に連載されていた千葉茂樹さんの「主夫の生活」を興味深く読んだ。まぁなるようにしかならなかったのだという諦念とともに、ほろ苦い記憶がよみがえる。実は私もごく短い時間であったが、主夫をしたことがあるのだ。
当時私は貧乏な院生で、パートナーのGは司法修習を終えて弁護士になろうという頃だった。入籍をしなかったのは、戸籍制度に対する反発からで、意識としては結婚だったのだから、当然意識として「バツイチ」という気持ちも残っている。 Gとの生活ではフェミニズムを研究する者としては、貴重な体験をすることとなった。
まずは家事分担。Gは仕事が忙しく、帰宅は連日深夜になる。当然のことながら、家事は私の担当である。家事といっても大した量のものではないし、私の立場上、Gに働きやすい環境を提供することは当然のことであった。「時間のある方が家事を」という原則に従えば、おそらく九対一くらいで私がやるべきだったのだろう。でも私とて拘束時間は少ないが、遊んでいるわけではない。論文を書かないと職も見つからない。実際に私がやったのは六対四くらいだったかもしれない。それでも半分以上やっているというだけで、すごくやっているような錯覚に陥った。「あなたの方が時間があるんだから当然でしょ」と言われると、理不尽にも少し腹が立ったものである。
次に姓の問題。表札はGの姓を前にしたため、当然御用聞きはGの姓を呼びかけ、それに私が応えることになる。多くの女性は相手の姓になる「喜び」としてこの戸惑いを回収するのだろうが、私には違和感が拭えなかった。別姓論者の主張を体感できたような気がする。
そして金銭負担のこと。二人の収入の格差は歴然としていたので、十万強の木造アパートの家賃は、全てGに払ってもらい、残りの生活費を買い物毎に折半した。お金にはならなくても、自分の仕事に誇りを持っていたので、後ろめたさはないつもりだった。
ところがつまらぬことで喧嘩をして激昂したGが、「出ていって!」と叫んだとき、畳一枚分でも家賃を払っておくべきだったと後悔をした。気にしていないつもりでも、実は収入のないことに負担を感じていたのかもしれない。
昔は、職がなければ食べさせてもらって、好きな研究でもすればいいと思っていた。でも外の世界で自分の作業が認められることで、自分の尊厳が保てるのだとすれば、そこと隔絶されては生きていけないと今は思う。私はどうやら主夫失格だったようだ。
先日大学の同期、男四人で集まった。弁護士や中央官庁の役人だったりするのだから、世間的にはエリートということになるのだろうが、実態はその言葉の持つ語感とはほど遠い。三〇半ばを前に独り身といえば、みんなそれぞれどこかに傷がある。「髪の毛が不自由」であったり、離婚歴があったり……。
だいたい三高ならすぐ結婚できるなんて思うのは、女性週刊誌の読みすぎだ。男性にも外見は要求されていて、当然それは背の高だけではない。ついでにいえば三高と聞いて石田純一や唐沢寿明を思い浮かべるのは、ドラマの見すぎ。実際には蛭子能収みたいだったりするのだから(蛭子さんごめんなさい)。
そもそも日曜の昼に会ったのも、役人のPが゚労と心労からノイローゼ気味で、好きな酒を断っているからだった。昼飯をゆっくり食べて二時くらい。さてどうしようと考えて、困ってしまった。帰るには早すぎる。いきなり喫茶店というのも能がない。男四人で飲みに行っていれば、「次は俺の行きつけの店に行こう」とハシゴをするのだろうが、酒がないとなると、途端に行き場所がなくなってしまうのだ。麻雀、パチンコ、競馬もみんながやるわけではなく、テニス、ゴルフも趣味が一致しないとできない。札幌ならドライブでもと考えるが、東京では渋滞に巻き込まれるのがオチだ。こんなとき女性なら、ウィンドーショッピングをしたり、ケーキバイキングに行ったりするのかもしれない。昼の繁華街には、夜とは逆に男の居場所がないのだ。
考えてみれば性別で明確に出入りが規制されている空間は、トイレと更衣室ぐらいだが、実は都市も性別によってかなり区切られた空間を持っている。若い女性は、キャバレーやスナックはもちろんのこと、牛丼屋や路地の定食屋にも一人では入りにくい。
一方、百貨店というのは、紳士物の売場を除くと、典型的な女性の空間である。男性の下着を女性が買っていても変ではないが、私には到底女性用の下着売場をうろつく勇気はない。プレゼントのために宝石店を覗くなんて、中学生の頃初めてファンシーグッズの店に入った時のような気恥ずかしさがあって、頭が真っ白になってしまう。
女装という生き方を選択した蔦森樹氏は、どちらのトイレに入ればよいのか迷ったと言っていたが、彼(?)でなくとも、性別がじゃまになることはある。それにしても女性も入れる店づくりは盛んなのに、女性の空間に入る男性というのはどうしていつも白い眼で見られるのだろう。たまには堂々とチョコレートパフェでも食べてみたい。
もうすぐ十五歳というところで実家の愛犬が亡くなった。人間にすれば九十歳前後の高齢だから、立派に天寿を全うしたのだろう。同じ家に暮らした期間こそ短いが、私の人生の約半分、青春時代を共に過ごした同志を失ったような気分だった。
十五年の間、大病といえば、三年前一度だけぐったりして寝込んだことがあったくらいである。妹と慌てて帰省したが、その甲斐あってか、徐々に回復していった。回復の過程で、尻尾を振ったり、飛び回る虫を追ったりという「無駄な」行動が少しずつ増えてくる。そうした「無駄」を見て、ああ生き返ったな、と思った。犬にしてすでに、などといえば愛犬は怒るかもしれないが、彼らも決して生きるために生きているのではない。生きるためにはさしあたり不必要な、感情の表現や行動を指して、われわれは「生きている」と感じるのだ。ふとダンプカーに立ち向かっていった子犬の頃を想い出した。
今回は結局前のような回復は起きなかった。愛犬は徐々に食事をとらなくなり、最後は衰弱するようにして死んでいった。点滴でもすれば少しは生きながらえたのかもしれないが、医者が嫌いだった愛犬の意志を尊重した。実際、老いてまで嫌いな医療行為で自由を奪われた愛犬の様を見たいとは思わなかった。
よろよろするようになった愛犬が、最後まで気をくだいたのが排泄だった。室外犬だったので、最初は庭に糞をするのも嫌がったし、それがかなわなくなっても、最後の力を振り絞るようにして、粗相を避けようとした。犬にしてすでに、とまた言いたくなるが、食べることと排泄することの区別は、おそらく動物にとって生命の尊厳の根幹に関わることなのだろう。そしてそれが不如意になるとき、愛犬はまるで食を断つようにして、その尊厳を守りつつ死んでいった。
翻って人間のことを考える。もちろん少しでも長生きできるようにと願って、医療や福祉が発達することは全く望ましい。ただその中で排泄の尊厳を奪われ、「下の世話」をしてもらうというのは、どんなに屈辱的なことだろう。判断能力が低下する中で、尊厳ある死を選択するにはどうすればよいのだろう。
愛犬の死後、父は仕事から帰ると連日ワープロに向かい、長文の追悼文を書き上げた。私たちは自分を含めて人間の完結した一生なるものを窺うことはできない、と父は言う。愛犬はその窺い知ることの許されない完結した生を駆けおおせて見せて、私たちを去った。天命を生きた者のみに与えられる不思議なすがすがしさが残される。
「見た目で選んで何が悪いの?」使い捨てカメラのCMで、瀬戸朝香にそうすごまれると、誰も反論はできない。そりゃ他の条件が同じなら、誰だって見た目のいい方がいいだろう。でも「そうよ、見た目よ!」と割り切れるほど、世の中単純ではない。
配偶者選択にあって見た目が重視されるようになったのは、実は案外最近のことである。家柄や政略によって相手が選ばれていた時代にあっては、外見は二次的な意味を持つにすぎない。近代以降、自由な恋愛というのが可能になったときに、外見はクローズアップされるのだ。
外見なんて持って生まれたもので、それで人を評価してはいけないという言い方がある。もちろん試験の面接のよ、な関係のない状況で外見が評価の対象となるような事態は絶対に避けなければならない。しかし学力が努力の結果と考えられているのに対して、外見が単なる遺伝といえるかいうとそれは疑わしい。私たちは学力が当人の努力以外のさまざまな要素によって左右されることをよく知っている。外見も与えられた素材に正しい情報収集に基づいた一定の努力を加えなければ、人の評価するところとはならない。その意味では学力とたかだか程度の差しかないと思われるのである。そもそも外見は内面とはっきり区別できるものでもなく、どちらを重視しようと人の勝手であろう。
女性が外見で選ばれるということの胡散臭さはしたがって、女性のみが、外見でのみ評価されてしまうといった構造が見え隠れする点にある。美人をたたえるという点だけなら、ミスコンはのど自慢と同様に評価されてよい。ただ「美人はすばらしい」という規範の持つ社会的意味が、のど自慢ほど無邪気に肯定できるものではないために、ミスコンは物議をかもすのだ。
その意味では札幌市のミス札幌もいい加減に見直してはどうだろう。男女ペアでもいい、石川県のように親子でもいい。美人を選ぶこと自体が悪いとは言わないが、若い美人さえ連れていけば、イベントは何とかなるなんて、自治体の発想としてはそろそろ陳腐過ぎはしないだろうか。
ただ時代の方向はむしろ男性が外見で選ばれる方へと向かうのだろう。女性が経済力を付ければ、男性の地位の持つ意味が相対的に下がり、その分だけ男性の外見が評価の対象となるのである。女性の場合に比べてまだまだ余地があるので、この傾向はしばらく続くはずである。瀬戸朝香の文句にビクついたのは、実はそれが自分に跳ね返ってくると感じたからなのだろう。参ったなぁ。
「瀬地山君、君お見合いしないかね。」「はぁ?!」
知り合いの教授が一年ぶりに電話をかけてきて、開口一番こんなことをいうので、私は目が点になってしまった。しかしお会いしたら最後、お断りするのは面倒だ。丁重に辞退させていただいたが、受話器を置いてから、しばらく考え込んでしまった。
晩婚化が話題となって久しい。30歳を過ぎて独身なんて、私の周りには男女を問わずごろごろいる。一人暮らしには慣れているから特に不自由もない。異性の友人も少なくはないが、結婚に踏み切るには少しハードルが高い。
だいたい今の日本の結婚観というのは、「最高の相手と生涯ともに」ということノなっているが、これが難しい。異性との接触がごく自然に認められる社会では、逆に目移りして「最高の生涯の伴侶」なんてなかなか決められない。こんな幻想は「恋は盲目」状態でなければ抱けないのだ。
解決策は二方向しかない。一つは結婚に対する期待を下げ、離婚に対する忌避感を強めて、とにかく婚姻を維持すること。「最高」かどうかはあえて問わずに「生涯」を優先するのだ。これなら年収・家柄などある一定の基準を設けて、それをクリアした人と暮らす、ということもできるだろう。結婚相手に過度の期待をしないという意味では、それなりの知恵なのかもしれない。夫婦関係の維持を、移ろいやすい恋愛感情に求めないというのは、「生涯」優先のための大事な方策なのだ。
もう一つは逆に離婚に対する忌避感を弱めて、結婚相手との愛情を重視する。「生涯」かどうかは問わず、その時点での「最高」の人と暮らし、だめになったら次の人を捜すのだ。欧米のように結婚と同棲の境目があまりない社会では、ごく一般に行われているシステムである。連れ子のいる人同士の再婚など、子供には確かにストレスがかかるが、けんかばかりで冷め切った夫婦関係よりは、ましかもしれない。
歴史的には、結婚に対する親の介入や家業の制約が少なくなると、結婚はより恋愛感情に基づくようになる。一方次に性の解放が進むと、婚姻外性交渉の可能性は高まり、離婚の機会は増える。近代の恋愛結婚という制度はその二つの変化のちょうど間にあって、「生涯」と「最高」とを両立させようとしたものだったのだろう。
などと講演でしゃべったら、「難しく考えないで、成り行きで生きていけばいいのよ」と若い女性に一蹴されてしまった。ごもっとも。世の中が明るいのは、こういう人のおかげである。やっぱりお見合いしとけばよかったのかな。
先日専門学校で講演をした。普段勤務先では「授業は黙って聞くもの」という従順な学生たちばかりを相手にしているので、つまらないとすぐにざわつく聴衆を前にしゃべるという「修行」は大切だ。
そこで選んだ話題はずばりセックス。女子だけの学校だったので、まず彼女たちにだれとだったらセックスをしていいかを尋ねてみた。「結婚までだめ」と「気に入ればだれとでも」というのはごく少数。「結婚を前提とした人」が二割くらいで、圧倒的多数は「彼氏とならOK」であった。日本性教育協会の調査で21歳以上の大学生の性交経験率が、男女とも約三分の二であることを考えると、まぁ妥当な反応だろう。どんな性意識を持とうと、それは彼女たちの自由である。頭ごなしにふしだらセと否定しても何も生まれない。これが彼女たちにとっての現実なのだ。
つまりセックスは間違いなく結婚の外側で、結婚と関係なく存在している。避妊がこれほど普及したのだから当たり前だともいえよう。
しかしその一方で、親たちはいまだにセックスを結婚と結びつけて考えていないだろうか。結婚前にセックスをするのが当たり前なのだから、結婚まで処女であるかどうかなど大した意味は持たない。それなのに門限だ、二人の旅行はだめだ、娘が傷物になると考えることにいったいどういう意味があるのだろう。
最も問題なのは、門限で外面的に規制される一方で、彼女たちは自分たちの性をどう扱うべきかに関して何も教えられていない、という点である。相手は不特定でもかまわない。ただ性を快楽として楽しむのなら、避妊はカップルの最も大事な責任であって、望まないセックスを決してしてはいけない、ということを認識していない若い男女は多い。「寝た子を起こす」などと言わないで、「セックスを楽しむなら、きちんと避妊を」と教育をすべきである。門限は破られるためにあるし、婚前旅行はどうせやっているのだから。
性的自己決定権とは、性を各個人が自分のものとして扱う権利を指す。十八を過ぎれば充分に性的主体である。自分に対する尊厳と責任を持って、自分の性を楽しむという態度が、新しい性道徳として求められているのではないかと感じた。
最後に学生さんに感想を書いてもらったら、とても反応が良かった。身近で切実な問題だけに、彼女たちなりに考えさせられたようだ。もっとも中には「こんなことまじめに話す先生って、変な人ですね。」というのも…。 そ、そんなぁ。
「ポトラッチ」という言葉を聞いたことのある人はいるだろうか。「あのフランダースの犬の…」「それはパトラッシュ」「あの十円玉でこするスピードくじ…」「それはスクラッチ」。
漫才をやっている場合ではない。ポトラッチというのはアメリカ北西部のインディアンで観察された習慣で、部族間の贈り物交換が競争となり、次第にエスカレートして、最後には自分の大切にしているものを相手の目の前で投げ捨てたり、焼き捨てたりする現象を指す。これは明らかに交換・贈与の趣旨を逸脱した「無駄」である。しかしわれわれには果たしてそれを嗤(わら)う資格があるだろうか。
年齢の関係で友人の披露宴によく出席する。北海道と違い、招待制ェほとんどなので、二、三万円は包まなければならない。二次会にも出るとさらに七、八千円。これは若い勤め人が簡単に出せる額ではない。月に二回も重なったりすると完全に「寿(ことぶき)貧乏」だ。いまどきおいしい食事なんて、どこででも食べられるので、料理も特に珍しくはない。式場の用意した型どおりの演出はどの式に出ても変わり映えしない。五千円前後の引き出物も、似たような食器や花瓶ばかり。捨てるわけにもいかず結局食器棚の肥やしになる。
これではポトラッチと何の違いがあるだろう。友人の結婚を祝いたいという気持ちは強く持っているつもりだが、披露宴自体にはうんざりすることが多いのだ。そう思っているのは私だけではないはずなのに、なぜかどの結婚式も似たり寄ったりになる。
手作りの結婚式をと張り切っていた友人が、悲しそうに「普通の結婚式にするよ」とつぶやいた。日ごろから「家と家との結婚式」に強い抵抗を持っていた友人だったので、「おまえもか」と詰問してしまった。ただ事情を聞くと私にも返す言葉はなかった。差別を受けてきた家族の女性と結婚することになった彼は、「普通の結婚式」をしないと、相手方の親族に痛くもない腹を探られる、というのだ。家族や親せき、さらには職場の了解を取り付けて、ことを進めようとすると、結論はどうしても無難なものになっていく。そして結局ポトラッチ合戦が繰り返されるのだ。
その点北海道の会費制結婚式は、移民社会の相互扶助精神と合理主義が表れていて、はるかに好ましい。この習慣、本州へも輸出できないものだろうか。
そうだ、ポトラッチ結婚式を拒否し、簡素で心のこもった披露宴を目指して、みんなで団結して闘おう! 「それはストライキ」。
皆さんの家では家事の分担はどうなっているのだろう。私は一人なので、気楽なものだが、これで結婚して子供でもできるとなると結構ぞっとする。私の給料では相手の女性は勤め人だろうから、当然食事の支度は半分以上回ってくる。大学に託児所があるので、子供の世話は私の役目になるだろう。子供が二人もいたら、私は研究などできそうもない。女性が結婚に迷ったり、出産を躊躇する気持ちがよくわかる。
さてこの家事労働時間、実は地域や時代でいろいろ違うことを御存じだろうか。何よりも顕著なのは性差である。NHKの調査で女性の一週間の家事労働時間は三二時間四七分であるのに対して、男性はわずかに三時間三七分。仕事の時間は男性が五一時間四八分に対して女性も二オ時間一八分。合計すれば、女性の方が週に五時間も損をしていることになる。これは性役割分担以上に、不平等な二重負担と呼ぶべきものである。
先進国では家事労働時間に関して、こんなに顕著な性差のみられる国はない。アメリカや北欧では男性の家事時間は女性の約半分。また男性の家事参加が有名な中国の都市部では、男性が女性の三分の二程度負担している。特に日本では男性の家事は庭仕事や日曜大工が中心で、炊事の時間は女性のわずか二%しかない。「男子厨房に入らず」は決して過去の話でないようだ。
日本の専業主婦の家事労働時間は、一九六〇年から九〇年に六分増えている。家事の省力化は時間の減少より水準の上昇をもたらしたのだ。さらに同じ日本の中でも地域によってかなり異なる。平日の女性の家事労働時間が最も長い神奈川(五時間三三分)と最も短い高知(四時間二分)では、実に毎日一時間半も家事に費やされる時間が異なっている。しかも男性の家事労働時間も高知は短く、神奈川は長い。国内でも家事労働水準はかなり異なるのだ。そのかわり高知は日本に二つしかない、八時間眠れる県である。ちなみにわが北海道は日曜の男性の家事時間が一時間一分。全国平均より十五分、岡山県より四一分も短い。
家事労働とは社会的には労働力の再生産に関する費用である。これを一方的に女性が担うとなると女性の労務管理コストが上昇し、企業は女性を敬遠する。女子大生の就職難はこうして引き起こされる。したがって男性がもっと厨房に入って、再生産の費用が男子にも加算されることは社会的にも重要なのである。
というわけで皆さん、次の週末はあと三○分多く、夫に家事をしてもらいましょう。