北海道新聞連載V(21-31)

  1. パソ婚通信?
  2. がんばれイボンヌ
  3. 名前と性別
  4. 痴漢という犯罪
  5. 女性の残業規制撤廃を
  6. 前向きな離婚
  7. 性のエチケット
  8. 国境という不思議な壁
  9. 入れ墨の人権
  10. 熱い街、ホーチミン
  11. 僕たちの老後

 

21.英語しゃべれますか?

       「ユー・ハウ・メニー?」その女性は横に座るなり、私の顔をのぞき込むようにしてそういった。

       院生時代、委託の仕事でインドネシアに行ったときのこと。調査の後、日系企業の駐在員は、行きつけのスナックに連れていってくれた。インドネシア語のできない私のために、「英語のできる」女性をつけるといって、出てきたのが、その人なのだ。

       なぜか「あんた、なんぼや」という関西弁が頭に浮かび、僕の値段じゃあるまいし、年齢だろう(ハウ・オールド・アー・ユー)と思い、28と答えた。その後続いた彼女の英語は、単語をつないだだけで、お世辞にも上手とは言えない。おまけにインドネシア語の影響で、必ず形容詞が名詞の後ろから。でも慣れてしまえば、簡単な意志疎通には困らない。初対面の飲み屋での会話くらい、いざとなれば単語の羅列でも充分なのだ。

       そうか、これで「英語ができる」のか、と新鮮な発見をした気分だった。英語がしゃべれるかと聞かれれば、皆さんの大半が、私なんてとても、としり込みするに違いない。でもあの彼女で「英語ができる」のなら、日本の中学を出た人は、皆英語の達人だ。

       日本人は大小、善悪、イス、机といった基本的な形容詞・名詞の英語をほとんど知っている。それを組み合わせれば、正しい英文ではないにせよ、日常生活で困らない程度の会話は充分できるのだ。それが証拠に、もしあなたが、英語と同程度の語学力を、タイ語について持っていたら、きっとあなたは「タイ語ができる」と言ったはずである。英語だって、日本ではしゃべれなくても、海外旅行でいざとなれば、何とか通じた経験があるはずだ。

       要するに学校で、正しい英語を使わなければダメだと、教えられ、黒板で直された影響で、正しい表現でないと恥ずかしくてしゃべれないのだ。だから横に日本人がいるときには、英語を使えない。でも大半の日本人の英語力は、実は相当なものなのだ。

       「英語さえできれば」これは今の職場に不満を持つ若い女性が、よく口にする言葉だ。そして英会話学校も、語学留学も圧倒的に女性が多い。もちろん勉強するのはよいことだし、男中心の企業社会の中で、語学力に頼ろうとする気持ちはよくわかる。でも実は今でも、英語は「できる」のだ。それをより正確にしゃべることより、しゃべる内容を持っていることの方が、本当はよっぽど大事である。いざとなれば単語の羅列でも、言いたいことは伝わるのだから。

      ユー・イングリッシュ・オーケー!?

Topへ

22.パソ婚通信?

       「ブー、くじけずにもう一度ね」。

       世のおじさんたちは、矢沢永吉からアホの坂田まで、パソコンと格闘しているらしい。「冗談じゃねぇよ」というあの屈折は、男の失墜を象徴するようで、少し痛ましい。そう、ことパソコンの操作に関しては、おじさんたちよりも若い女性の方が、よっぽど習熟しているのだ。企業で端末の前に座るのは、決まって女性。ところが、パソコン通信の加入者は圧倒的に男性が多い。一体どうしてなのだろう。

       電子メールは明らかに電話とも、手紙とも異なる新しいメディアだ。世界中と気軽に連絡が取れる点もさることながら、相手の迷惑にならずに、自分を伝えることができる、という点が、今の時代に受けるのだと思う。

       たとえば長い間連絡していない人とちょっと話をしたいとき、いきなり電話は気が引けるが、メールなら気楽だ。旅行の誘いも、メールなら断る時に困らない。手紙では短すぎるような、お礼の挨拶や用件も、失礼にならない。歯の浮くような愛の言葉も、違和感なくやりとりできる。パソコン通信を通じて知り合った「パソ婚カップル」の登場も理解に難くない。やはり手紙や肉声の方がと、おっしゃる方もいるだろうが、人と人との距離が少し遠く、個人の時間を大切にすることに慣れている若年層にとっては、実に見事な隙間商品なのだ。

       ところがその通信ネットに女性が少ない。結婚紹介業のやっているようなことは、通信ネットでやれば、全部自分で検索できる。テレクラと同じにならないように最初に面接をしておけば、年会費を三〇万も払わなくとも、きっと同じようなことができるはずだ。それが女性が少ないために、ほとんど成立しない。インターネットに自分の(ちょっと修正した)写真入りホームページを開いた友人の女性は、あまりのアクセスの多さに気味が悪くなって、ページを閉じてしまった。

       ファッションのコーディネートだって、インターネットでやれば、自分でボトムとジャケットの組み合わせを変えるなんてことも、簡単にできる。グルメも旅行も、女性雑誌の情報はすぐ提供できる。 何人かの女性にパソコンを買わない理由を聞いてみたのだが、どうも釈然としない。高いといっても、海外旅行にはもっと払っている。結局のところ女性向けの情報が発信されていないために、女性ユーザーが増えず、そのために女性向け情報の発信も少ない、という悪循環があるようだ。

       とりあえず電子メールでファンレターでも募集してみるか?

Topへ

23.がんばれイボンヌ

       オリンピックが始まった。しかし私は、どうもあのオリンピックにまつわるナショナリズムのにおいが、好きになれない。なぜ選手たちは、国旗を胸に競技をし、表彰ごとに国歌が演奏されるのだろう。個人としてその選手と向き合うことは、できないのだろうか。 そんななかで、私が注目している選手が一人いる。金沢イボンヌという女子百�ハードルの日本代表である。母親が日本人なので日本国籍だが、顔立ちは明らかに黒人で、母の面影がわずかに残る程度だ。日本語はできず、インタビューにはすべて英語で答えていた。仕草や口調は典型的なアメリカ人だ。

       彼女を見て、「ずるい」と評した友人がいる。彼女がどういう経緯で日本代表になったのかを私は知らないが、おそらく日本にほとんど住んだこともないだろう彼女が、突然日本代表になってしまうことに対する違和感は、理解できなくもない。

       しかしそれを「ずるい」というのなら、朝鮮高級学校に長い間大会の参加を認めなかった日本の高校スポーツ界の閉鎖性を、なんと形容するのだ。曙や武蔵丸を帰化させてしまう日本社会の圧力に対して、どういう申し開きをするのか。

       以前から私は、いつになったら、黒人の日本人選手というのが現れるだろう、と考えていた。それはきっと「日本人」のイメージを変える一つのきっかけになってくれるだろうと思ったのだ。日本で働く外国人が急増する中で、日の丸をつけて活躍する選手が、民族的には日本人ではないことなど十分にありうるはずだ。これからもきっとこんな選手が出続けるに違いない。

       われわれはいまだに、在日韓国・朝鮮人二世・三世のように、言語的にも文化的にも、ほとんど日本にとけ込んでいる人たちに対して、開かれた社会を築けていない。地方公務員の採用について、国籍条項を撤廃する動きが、川崎市などで見られるが、これに対して国は全く無理解である。そしてその一方で、血統主義を採る日本の国籍条項では、言語的・文化的に明らかに異質な人も日本人になりうる。彼女の存在は、そんな日本の国籍条項の持つ奇妙さを浮き彫りにしてくれるのだ。

       日本生まれで日本人の血を引く多くの日本人にとっては、「日本人」の範囲は自明であり、「黒人の日本人」など、定義矛盾に聞こえるかもしれない。しかし日本は事実として明らかに、多民族国家なのだ。だからあえて言おう。「がんばれイボンヌ!」日本社会の多様性のために。

Topへ

24.名前と性別

   「お父様は将棋がお好きなんですか?」

    自己紹介をするたびに、よくこんな質問を受ける。私もつい悪のりして「えぇ、せっかくですから子供ができたら、香か歩(あゆむ)にしようと思うんです」などとまぜっ返してしまうのだが、最近は「そうですか」と真に受ける人もいて、困ってしまう。「祖母が二人いるんですが、金さんと銀さんというんです。」といったところでようやく冗談だとわかってもらえるようだ。

   実は私自身は、こんな角の立つような名前はあまり好きではない。できればはたちになったら、自分で自分の名前をつけられないものかと思うのだが、姓だけでも珍しいのにこの変わった名前だ、いろいろおもしろい経験もする。

   まず名字と名前の区切りがわからない(らしい)。病院で「瀬地さーん、瀬地さんかくさーん」なんてやられるのは日常茶飯事だ。しかし一体どこの親が、子供に「さんかく」なんて名前をつけるのだ。そんなわけで、私はいつも姓と名前の間に一字スペースを空けてもらうようお願いしている。

   興味深いのは、私の論文を読んで、女性だと思いこむ人が多いことである。「『すみ』と読んで、女性だと思っていました」と講演で言われたこともあるし、果ては「女性だと思ったので引用した。男性なら引用しなかったのに。」といった「性差別」発言まである。フェミニズムのような、女性の研究者ばかりの分野で論文を書いているので、そうした誤解が生じるのだが、人間はどうやら他人に会った瞬間に、まず最初に相手の性別を見分けようとするようだ。そしてそれが不明のときには、非常に不安な気持ちになる。同性愛や異性装の人たちに対するいわれなき差別や嫌悪感の淵源(えんげん)は、きっとこんなところにあるのだろう。だから私の本を出している出版社にも私の性別を問う電話がかかる。気持ちは分からないでもないが、一体私の性別いかんによって、私の論文の評価は、変わってしまうのだろうか。確かに男と女として出会いたいときもあるけれど、時にはもう少し性別と無関係に、人と出会うことはできないのだろうか。世の中のすべての人間が、女と男という二つしかない箱に分類・整理されてしまうとしたら、それは間違いなくかなり窮屈なことである。性別不詳の名前というのは、そんな分類を逃れるという点では、意味があるのかもしれない。

  え? それで結局お前の名前はなんて読むのかって? まぁ人間、たまには秘密があってもいいじゃないですか。

Topへ

25.痴漢という犯罪

「痴漢は犯罪です」。この夏全国の鉄道の駅などに、こんな警察のポスターが張り出された。甚だ不謹慎だが、見た瞬間に冗談のように思えてしまった。「強盗は犯罪です」という標語と同じくらい当たり前のことを言っているように見えて、「?」と思ったのだ。しかしこんな言葉がナンセンスにならないところに、この問題の複雑さがある。
痴漢はもちろん立派な犯罪だ。しかしどうやら加害者の側には、そうした意識が希薄らしい。それがこの犯罪の一つの特徴でもある。

痴漢は強姦(ごうかん)のような能動的な暴力を必要とする犯罪に比べると、満員電車という状況に依存したいささか「消極的な」犯罪である。「たまたま触れただけ」なんてごまかしもききそうな分、「ついつい」と「った気持ちを起こす不届き者がいるのだろう。

鉄道に日本で初めて「婦人専用車」が導入されたのは、一九一二年。混雑が激しくなったためとされているが、それだけではあるまい。痴漢はおそらく、女性の身体が家庭の外の空間へと解き放たれたことと関係している。それはセクハラと並んで、女性の社会進出とともに古いのだ。

ただ欧米では痴漢は必ずしも一般的ではない。そもそもあんな身動きも取れない状態で人の体が触れる、といった状況があまり発生しないためである。しかしだからといって安全なわけではもちろんなく、性犯罪はより暴力的な形をとる。韓国人や中国人から痴漢の話をよく聞くことを考えると、この犯罪は人口密度の高いアジアに特徴的に見られる現象なのかもしれない。

そしてこの「アジア的犯罪」に対して、われわれの関心はいまだに低いといわざるをえない。性暴力というと学問の領域でも、運動の場面でも主として強姦に注目が集まる。これは欧米の性暴力研究が、専ら強姦に照準してきたことと無関係ではないだろう。

しかし日本はこと強姦に関する限り、世界でも安全な社会に属する。告発される比率の低さを割り引いても発生率は低く、件数自体も微減傾向にある。だから現状でよい、というつもりは決してないが、少なくとも欧米やほかのアジア諸国との比較において、安全であることは事実である。

そしてその一方で、毎日おびただしい数の痴漢が発生し、それが犯罪とも認識されていないのである。自分の性を自分のものとして管理することは、性的自己決定権の根幹であり、痴漢はそれを侵害する犯罪だ。この日本社会特有の問題に、われわれはもっと切り込んでいかなければならない。

Topへ

26.女性の残業規制撤廃を

雇用機会均等法は施行から十年を迎え、現在婦人問題審議会で見直しが進められている。ここで問題となっているのが、女子の時間外・深夜労働を制限する条項を撤廃するか否かである。深夜業に関しては、現行法では特定の職種を除き、午後十時から午前五時の間女子の使用を禁ずる規定があり、これらが議論の的となっているのである。

労働組合を中心に、この女子保護規定の撤廃は労働強化につながるとの批判がある。一方で使用者側だけでなく、現場の女性たちからも、結果として仕事が制限される、といった批判が絶えない。

男女間の平等という立場から見たとき、この規定にはやはり大いに問題がある。労働組合の主張する男女双方の[夜業の禁止というのは、働く側にとって確かに望ましいかも知れない。しかし利用者の立場から考えて、それだけの不便を今すぐに社会が許容できるかどうかは疑わしい。注文の商品はなかなか来ないだろうし、夜九時には全ての店が閉まってしまうのだから。

男女ともの深夜業禁止が短期的には実現不可能なときに、性に関する平等という観点から次善の策としてとるべきは、決して女子のみの保護ではなく、男女ともの禁止規定撤廃である。女子のみの保護は、女子の労働力としてのコストを増大させ、女子を雇う動機を失わせる。東証一部上場企業で働く女性を対象とする調査でも、過半数が規制の廃止に賛成しているのだ。

女性には家事や育児があるのだからという議論もおかしい。家事や育児は女性の役割ではないのだ。現実にそれを自らの役割とする女性が多いとしても、全ての女性が家庭責任を負っているわけではない。にもかかわらず性別を理由に、全ての女性の労働が規制されるというのは明らかに不正義である。性別を問わず、家庭責任があると申告した人に、保護を認めるといった制度に改める必要があろう。また個人の労働時間の総量は変わらないのだから、保護の撤廃=労働強化ではない。より一層の時短の推進に努力すればよいことである。

この問題には男女間の平等の他に、性別からの自由という次元が含まれている。(男女間ではなく)女性内の平等を重視する人たちは、禁止規定撤廃を一部エリート女性の要求にあわせて女性を分断するものだ、と批判するが、これは性別からの自由という理想に全く反した批判だ。性別に関係なく働くという自由を保証する制度を作らなければならないのである。今月中旬の最終答申が注目される。

Topへ

27.前向きな離婚

「聖輝」の離婚から一月あまりが過ぎた。たかが一芸能人の離婚に大騒ぎするな、という意見もごもっともだが、彼女を巡る報道のあり方は、社会の規範を映していて絶好の観察対象だ。というわけで私はこの一ヶ月、三大女性週刊誌の聖子報道を追いかけることとなった。

私が少し意外だったのは、保守的な「聖子バッシング」が、さほど目立たなかったことだ。道新でも読者の反響を集約していたが、三〇代以下の若い世代を中心に聖子擁護派が結構多い。彼女の奔放さに、「私はあんな無茶はしない」と思いながらも、どこかで「私も才能があったらあんな生き方をしてみたい」と羨望(せんぼう)を感じているのが、平均的な受け取り方なのだろう。

」婚件数が結婚件数の四分の一に達する時代、離婚はもはや不幸な病理現象ではなく、人生のよくある出来事の一つにすぎない。

しかも裁判離婚では、女性からの申請が全体の七割に達している。今の日本で結婚という保護された生き方から抜け出そうとするのは、女性の方が多いのだ。そんな時代だからこそ、聖子の離婚は決してわがままではすまされない、ある種の共感を生み出すのだろう。

アメリカでは昨年その名も『離婚マガジン』と題する離婚雑誌(?)が登場した。『リストラ離婚』(双葉社)の著者池内ひろ美さんから現物をいただいたので、パラパラと読んでみたのだが、記事は離婚に際しての心構えや、子供への説明の仕方など。法律事務所、カウンセリングクリニック、部屋探しのための不動産屋といった広告も全て離婚向けである。裁判(アメリカは日本と異なり、当事者が離婚に同意していても必ず裁判を行う)で有利になるための、相手の秘密の暴き方まで載っているのには、少し戸惑ってしまったが、離婚を人生のステップとして、前向きに捉えようとする姿勢は共感できる。

もちろん離婚はできればしないですむ方がいいし、軽い気持ちでできるほど簡単なものではない。でも『リストラ離婚』が一貫して主張しているように、離婚は人生に絶望してするものではなく、人生をやり直したいという強い意志のある人だけが、行う行為なのだ。北海道は日本の中でも離婚率が非常に高い。いずれは札幌や東京でも離婚がビジネスになる日が来るのかも知れない、などと考えながら聖子報道を読んでいた。

だから近所のコンビニのお姉さん、仕事帰りに牛乳と一緒に『女性自身』を買う僕をそんな変な目で見ないで下さいね。

Topへ

28.性のエチケット

「これ結構おもしろいですよ」。学生さんが持ってきてくれたのは、彼女がアメリカ留学時代にもらった大学生向けの性教育教材だ。

コラムに失敗談が載っているのだが、確かにこれがかなり笑える。カップルで服を買いに行ったときに、試着室で盛り上がってセックスに及んでしまったのだが、一部始終が防犯カメラに捉えられていたらしく、あとで守衛にこってりしぼられた、なんて話まで載っていて、週刊誌よりよっぽどおもしろいのだ。

『性のエチケット101』と題されたその小冊子は、もちろん性の小噺(こばなし)集ではない。セックスはあくまで両性の合意に基づくものであること、「ノー」というのは、あくまで「ノー」であること、といチた基本原則から始まって、性病に関する知識や寮でセックスをするときは同室者の迷惑にならないようにといった当然の配慮まで、大学生が直面するであろうさまざまな性の問題に関して、正面から論じている。

どんな性のあり方を選ぶかは個人の自由であると同時に、合意のないセックスはすべてレイプであるという性的自己決定権の考え方が貫かれており、アメリカのリベラル派の性観念がよく表れている。

この中で私が特に関心を持ったのは、セックス後の経口避妊薬のことだ。アメリカの大学では保健センターで、避妊措置をとらなかったセックスのあとでも早く飲めば効果がある経口避妊薬を処方しているという。これはおそらく日本の大学でも相当な需要があるはずであり、真剣に検討すべき問題だろう。

日本ではエイズ問題からピル解禁が遅れているが、女性の性的自己決定権という論点をエイズ問題とすり替えるべきではない。コンドーム使用の励行とは別にピルを使う自由は認められなければならないのだ。  

さて一方日本の大学では、エイズ問題に関するハンドブックが配られた程度にとどまっている。教職員向けのガイドの中では、学生にエイズ感染を打ち明けられた場合の対応などが書いてあるのだが、人権の擁護、学業継続の支援などに続いて、四番目にようやく二次感染防止を挙げている点に好感を持った。不特定多数を相手にしようが、結婚までノーセックスでいようが、それは個人の自由だが、確実な安全策を採るべきであるということまでせっかく述べているのだから、エイズだけでなく学生の性の現実にもう一歩踏み込んでほしかったと思う。

ちなみにこの日本のハンドブックにも笑える調査がある。コンドームは抵抗感があって九割方何かと一緒に買うらしいのだが、その併買品を調査したものだ。一位歯磨き粉、二位生理用品というあたりはわかるのだが、四・五位がドリンク・強壮剤!私にはとてもコンドームと一緒にユンケルを買う勇気はない。

Topへ

29.入れ墨の人権    

「入れ墨お断り」。誰しも銭湯で見たことのあるこんな注意書きを巡って人権問題が起きている。

山梨県山中湖村が村営の温泉にこの張り紙をしたところ、皮膚の色などに基づく差別ではないかとの意見があり、法務局が人権侵害の疑いありとして調査に乗り出すこととなったのだ。

恥ずかしい話だが、このニュースにふれるまで「入れ墨お断り」が人権侵害だなどとは考えたこともなかった。「入れ墨=暴力団員」という図式が頭にあるからなのだが、この等式は確かにあまりに短絡的だ。排除されるべきは暴力行為であって、何もしていない暴力団員を排除できるかどうかは、すでに議論の余地がある。仮に暴力団員を拒否できるとしても、入れ墨は暴力団員だけがするものではない。たとえば欧米ではファッションの一つとなっており、日本でも若年層を中心にボディアートの一種と捉える向きもある。文字通り解釈するとこうした身体表現への抑圧になる可能性もあるのだ。

今回の問題は公営の温泉であるということが関係していて、民間の銭湯などがこうした張り紙をしても、ただちに法律違反となるわけではない。私人の間の契約条件と見なされるからである。しかし同じように民間で「外国人お断り」「身障者お断り」とやったとしたら、法に触れなくとも、マスコミなどから社会的制裁を受けるはずだ。逆に言うと入れ墨は社会的にも保護されるに値しないのだろうか。

札幌で研究者仲間とお酒を飲んでいたときに、郊外の健康ランドにある「入れ墨お断り」の表示を巡って話が盛り上がってしまった。「入れ墨=暴力団員」の等式が成り立つためには、実は入れ墨に付随してさまざまな要素が必要なのではないかというのだ。パンチパーマのいかつい男が、桜吹雪に昇り竜の入れ墨をしている、というのが典型的なパターンだが、これを少しずつずらすとどうなるか。たとえば性別。女性の入れ墨でも問題となるだろうか?髪型や容貌も、小沢健二のような少しなよっとした好青年ならどうだろう。入れ墨の内容にもよっていて、昇り竜の代わりにクレヨンしんちゃんなら何も威圧感はないに違いない。さらには同じ花でも、桜や牡丹はまずいかもしれないが、チューリップやタンポポでは印象が変わるのだ。結局少しずつ変えて実験してみるとおもしろい、ということになった。「私やってみようかな」と言った大学院生のMさん、約束は守って下さいね。スクール水着にタンポポの入れ墨をして健康ランドに行ってくれるんでしょ。

Topへ

30.熱い街、ホーチミン

       ホーチミン市(旧サイゴン)の活気は、首都ハノイの比ではなかった。ハノイよりはるかに広い道をオートバイが四列縦隊、五列縦隊となって突進してくる。ハエのように湧いてくる、ホンダのカブの群をよけながら道を渡るのは一苦労だ。一家四人が一台に乗っていたりするのは、かつて台湾でも見られた光景で、妙に懐かしかった。

         道端には小商店がびっしりと軒を連ねている。ドラマにもなった、自転車型の人力車シクロの運転手は、交差点ごとに乗らないかと声をかけてくる。歩道には、ござの上に見慣れぬ果物を積み上げた露店がたくさんある。売り子の女性が、静かに本を読んでいる姿は、この国の識字率の高さを象徴しているようだ。

      そこには東南アジアの都市から連想されるあらゆる猥雑さがあった。ゴミ、排ガス、騒音、スリ、物乞い、そしてまさにそういったものの総和として実感される熱気である。この国の一体どこが社会主義なのだろう。市場でフォー(ベトナム風うどん)をすすりながら、そう考えずにはいられなかった。

      私の念頭にあったのは、平壌の街のことだ。同じ社会主義でも、その様相は全く対照的である。都市基盤整備という意味では、地下鉄も路面電車もある平壌の方が、路線バスも未整備のホーチミン市より、はるかに発達しているだろう。しかしあらゆるものが整然としていて、生活臭が感じられない平壌に対し、ホーチミン市の猥雑さは人々の欲望が、統制の枠をはるかに越えてしまっていることを物語ってくれる。

      一九八六年以降のドイモイ(刷新)政策の展開の中で、ベトナムは市場経済の論理を大幅に取り入れた自由化を進めてきた。一方の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、韓国との関係でなかなか開放路線はとれないだろう。南北統一を成し遂げたベトナムは比較対象を気にすることなく社会主義政権が市場経済化政策を採用することができる。しかし北朝鮮の場合は市場経済化をしたところで、韓国に比肩できるわけもない。情報の流入が政権の求心力をそぐことを恐れ、結局保守的な政策しか取れなくなるのだ。

      サイゴン川のディナークルーズでは韓国の農協の団体客とはち合わせになり、彼らのにぎやかさにすっかり圧倒されてしまった。ところがふと見ると川岸に北朝鮮の船。なんと米の輸送船だった。遠い南国の川の上で、歌に熱中する農協の韓国人と黙々と米を積み込む北朝鮮の船。この落差はホーチミンシティの活気の「使用前・使用後」の風景を象徴するように思われた。

Topへ

31.僕たちの老後

      「巣鴨駅のホームでおばあちゃんが、柱の箱に向かって『あー』『おー』ってゆうてはるから、何してんねやろと思って箱を見たら、『みなさんのお声をお聞かせ下さい』って書いてあるんや」。

      山手線の巣鴨駅界隈は通称「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる。高岩寺のとげぬき地蔵尊は痛いところをこすると病気が治るというのでおばあちゃんたちに大人気なのだ。院生時代近くの専門学校で講義をしていた私は、桂文珍の漫才をまねてずいぶんネタにさせていただいた。

      しかし二〇二五年には日本の総人口の四分の一を六五歳以上が占めるなどと聞くと笑ってばかりもいられない。その頃には私も六〇代、他人事ではないのだ。

      この超高齢化社会を乗り切るためには、負担増を伴う社会政策をいくつか採らざるをえないだろう。まずは老人の定義を変えること。現在も年金の支給は、六〇歳から徐々に六五歳となりつつあるが、私たちは七〇までもらえないかもしれない。六〇代は弱者ではなくなるのだ

      平均寿命が八〇歳前後となった時代、六〇で現役引退となると、二〇歳までと老後の二〇年をあわせて約四〇年、人生の半分を他人に依存して暮らすことになる。これでは社会が成り立つわけがない。となると元気な六〇代は新たな職を見つける必要がある。コンビニやマクドナルドの店員がみんな六〇代になったりするのだろうか。

      年金や税制では専業主婦に対する優遇を廃して、女性が働くことを前提とする社会を造らなければならない。専業主婦は富裕層に多いので、現行の制度は貧しい共働きからお金を取り、豊かな専業主婦に与えるという著しく不平等な制度になっているのだ。

      サラリーマンの主婦が掛け金なしで受給資格を得る第三号被保険者制度をなくして、学生なみの保険料を夫の給与から徴収すれば、一年で一兆数千億の増収となる。配偶者控除をなくし、その分扶養者控除を増やせば、子どもや要介護者がいて働けないという人には一定の保護が与えられ、さらに女性の就労が促進される。急成長する福祉の市場がこうした労働力を吸収することになるだろう。これによって税収や社会保険料収入が見込まれ、莫大な福祉予算の財源を作り出せるのだ。

      さらに私たちはもはや子どもに老後の世話など期待できない世代だ。一人で死と向き合う覚悟をしておかなければならない。なあにそれほど心配はいらない。きっとその頃には病院もとげぬき地蔵もインターネットでアクセスできるはずだから。

Topへ

indexへ