英語との格闘 2004.3.21

 「英語のできないアメリカ人を育てていいのだろうか?」そんな疑問を抱くようになったのは、アメリカという社会がなぜこの子にシティズンシップまで与えるのかについて、少しわかるようになったからだった。旅先で「こいつが我が家唯一のアメリカ人で、ほかに二つ国籍があり……」などと説明すると「この子は大統領にだってなれるんだよ」と応じてくれる。アメリカ人2世の彼女は自然な英語をしゃべり、親世代の文化とアメリカ社会の多様性とをつなぐ存在として期待されている。

 そんなわけで満1歳で日本に帰ってから2年半、娘には基本的に英語でしゃべり続けてきた。日本語の絵本を即興で英語に訳して読んだり、見せるテレビやビデオは極力英語のものにしたり。「カーテン閉めて」と英語で言うとちゃんと閉めに行くので、聞く方は少しはわかっているようだ。でも話す方は相変わらずほぼ一語文の世界。保育所で言語を憶えるからしょうがないとはいえ、保育所の同じクラスのアイリーンちゃんがSVOの構文で英語をしゃべるのに比べると、遅れているのは確かだ。

 それより何より、こちらの英語が彼女のレベルについて行かなくなってきた。絵本はすでに複雑すぎて私の「同時通訳」では太刀打ちできなくなり、「どうしてお月さまあるの」といった彼女の「哲学的質問」にももはや対応できない。もともと私はネイティブでもなければ、留学が長かったわけでもない。子どもの頃一時期アメリカにいたので、発音が普通の日本人よりはいい、というだけだ。それでも英語のシャワーを浴びせ続けることで、娘が聞き取る音の幅を広げられればと思ってきた。

 こうしたバイリンガル教育には賛否両論があり、日本語でしっかり論理的に思考するトレーニングをしたあとでなければ、中途半端になりかねない、といった批判は絶えない。私自身、自分の子どもにしかできない「人体実験」という感じで、本当に大丈夫だろうか、との不安がないわけではない。

 でも保育所にはアメリカ人がお父さんのアイリーンのほかにも、フランス語圏ベルギー人の子どもが二人、イタリア人の子どもが二人とハーフの子どもがたくさんいて、かなりの程度バイリンガルだ。やっぱり自分の力不足かなぁと思ったり、将来インターナショナルスクールに入れるには、もとやらなきゃだめかなぁと不安になったり。

 もうそろそろこちらの努力が限界かなぁと思い始めていた矢先に、娘の発話に変化がみられるようになった。それまでは英語の質問にも全部日本語で答えていたが、時々「イェーシュ」とか「ノゥ」などと答える。「マイ・グラファーザス・クロッ……」と「大きなのっぽの古時計」を英語でなぞって歌うようになった。なんとか英語のように聞こえる。さらに「アイ・ミートゥ・トメイト」と、I want a tomato. を不完全にしたようなSVOの構文も出てくる。ネイティヴなら2歳前後の段階なので遅れていることは確かだが、どうやら頭の中で、二つのコンピュータが動くようになったらしい。

 となるとここで撤退というわけにはいかない。ちょっと無理をさせているかなぁと思いながら「Listen , Meayong !」とお説教も英語で始める。しかし当の私の言葉が続かず、しゃべりはじめてから「えーっと」と頭で考えてしまう。なんのことはない。娘ではなく、私が英語と格闘しているのだ。


はじめてのハイキング 2004.4.29

 ゴールデンウィーク初日は五月晴れ。つれあいに休んでもらう意味もあって、保育所のハイキングに父娘で参加した。父母や保育士あわせて総勢44人の大部隊。改めて見回したのだが、この保育所の行事には本当にお父さんがよく参加する。今回も父子のみの参加が多い。高給取りの弁護士さんや忙しくてゴールデンウィークがないという税理士さんが来ている。みんな送り迎えでよく会う人たちだ。

 子どもの方は上は一年前に卒園した小学2年生、一番下が3歳半の我が娘である。たかが標高600メートルの高尾山が相手とはいえ、初めてのハイキングだ。正直に言って、娘がちゃんと歩いてくれるのかどうか不安だった。担任の保育士さんに「美瑛はまぁ大丈夫かな」と言われなければ、とても参加する気にはならなかっただろう。3歳児はほかにあと「俊さん」一人だけ。途中にケーブルカーもあるからと半信半疑のスタートとなった。

 最初ははしゃいで飛ばす。俊さんと二人で走り始めるのだ。「おいおい」と思っていたら、行程の4分の1ほどのところで、案の定「つかれたぁ、パ〜パ、抱ぁっこぉ!」。冗談じゃない。子どもの目の高さにしゃがんで、"No ! You have to walk !"。しばらくはそれで持ったのだが、10分ほどでまた「抱ぁっこぉ!」。やっぱり無理だったかなぁ、でもケーブルカーの終点まで登るにも、登山口まで引き返すのも、とても「抱っこ」する気になる距離ではない。突っ走る小学生グループを尻目に、迷惑をかけるだけかもしれないと思いながら、とにかく励ますことにした。"You have to walk !"。

 子どもの視線というのはいつ見てもおもしろい。大人にはとうてい通れないと思うような隙間をくぐり抜けたり、小さな段差に怖がってみたり。娘は観念したのか、グループのしっぽにくっついて歩いてくれるようになった。

 高尾山は神仏習合の山岳仏教の社寺らしく、山の傾斜に従って山門や本堂、奥の院が連なっている。仏教と鳥居が入り交じった様は、改めて考えるとけっこうおもしろかったりする。お昼ご飯の目的地は山門の先。たいした距離ではない。登山口から3キロほどだろう。それでも時折ある階段は子どもにとっては膝の高さになるわけで、大人でも息が少しあがる。

 それがある段階からあきらめたのか、「抱っこ」がなくなり、案外あっさりと山門まで到達してくれた。「やるじゃん!」、最年少を引率した親としては、もうこれで役割を十分果たした気分。自分が偉いわけでもないのに、何となく晴れがましい。11時過ぎに少し早いお昼を食べながら、とりあえず胸をなで下ろした。

 このあと山頂までは20分ほどの距離。「もっと登る?」何度も英語で聞いた。意味は通じていたと思う。「イェーシュ」と答える。でも俊さんはもう帰るらしいので、よけいに不安だった。奥の院にかけての石段が続く箇所で、不安そうに振り向いて「かえる」と言った。"You want to go home ?"「うん」。しょうがない引き返すかと思っていたら、後ろから4歳児の集団が上がってきた。「行く!」娘の表情が急に変わって、一緒について行く。仲間っておもしろいなぁと感心する。結局美瑛は4歳児のひかるやかなちゃんとキャーキャー叫びながら、その後は一度も「抱っこ」ということなく、立派に山頂に登り、さらにリフト乗り場まで下っていった。

 帰りの電車で疲れて寝てしまった娘を抱きかかえて歩く。左肩にかかるあの安心しきった頭の重みが、とても幸せな気分にさせてくれる。"You did a great job today ! " その日は何度も娘の頭をなでた。平凡でそしてとても特別な初めてのハイキングだった。


新園舎完成 2004.5.21

 娘の通う保育所に大きな変化があった。大学の予算で立派な新園舎が建設され、新しい場所での保育が始まったのだ。でもこれまでの道のりは決して平坦ではなかった。

 私の娘が入所した2001年秋、利用者の大半は地域の人で、教授会のメンバーは私だけだった。教職員組合が学部との接点だったのだが、私を含めて利用者に組合員がいない。つまり保育所の問題が学部につながる回路を持っていなかったのだ。

 もともと1971年に教職員組合が学部長の了承の下に、共同保育を始めたものなのだが、建物自体は大学の帳簿に載っておらず、いわば「不法占拠」の状態が続いていた。

 これはまず学部に保育所の存在を「認知」してもらうことから始めなければ、と考え、私は元利用者を含めた学内の有志を募って、学部長に直訴した。
 当時の学部長は組合出身者で、私もこの人が学部長のうちになんとか道をつけたい、と考えていた。学部長はそうした経緯を熟知していて、自分の任期が終わっても、路線が変更されることのないように考えてくださった。男女共同参画社会基本法に基づいた、学部のプラン作りの一環として学内保育所を位置づけることになったのだ。

 認知の次は改築である。なにせ築50年を超える木造の建物で、大地震が来たらいつ倒壊するかわからない。建築事務所に査定を依頼して、「震度5でも大丈夫とはいえない」という書類を作ってもらった。

 存在を認めた建物が震度5でも危ない、という書類を学部に出せば、何かあったときには当然学部の責任となる。予算や用地を巡って何度も紆余曲折があったが、新園舎建設の方向性は、学部長が替わっても揺らぐことはなかった。

 その間、保育士と父母の代表が参加する保育所の運営委員会では、運営主体を従来の教職員組合からNPO法人とすることとして、運営の受け皿作りを進めた。

 最近の保育所は公設民営が流行で、大変安いコストで民間業者が参入する。結局それは人件費を極端に切りつめた経営で、経験の浅い若い人を次から次へと雇うことになる。30年来手間をかけて、自然食や自然の遊びを重視してきた保育所としては、今の保育士さんたちが気持ちよく働き続けられる環境を整えたかった。

 そしてついにこの5月、学部の「男女共同参画支援施設」が完成し、そこにNPO法人が入居して保育を始めることとなったのだ。

 園児のお父さんの一級建築士が設計した新園舎は床面積だけで旧園舎の3倍以上。檜をふんだんに使った天井の高い平屋建てで、まるで高原の別荘のようにすてきな建物だ。子どもたちは入るなりキャーキャー叫びながらぐるぐると走り始め、年長の子は大黒柱をよじ登りだした。まさに体で喜びを表現している。

 併せて東京都の認証保育所に移行できることとなり、補助金も増えて財政難からも解放される見通しだ。学部による認知、耐震補強、財政の健全化。保育所が抱えてきた積年の課題がとりあえず解決したのだ。投入されたのは国民の税金だが、職場に保育所があることは、もっと当たり前であっていいと思う。

 「ご苦労様でした」と何人かの父母の方に言われて、うれしかった。私自身、自分の子どもが通う保育所の歴史的な転換点に立ち会えたことに、達成感を感じている。「記念の植樹をしましょうね、やっぱり旧園舎にあった桜ですかね」。この間激務だった園長先生と笑顔で話し合った。 


2度目の憂鬱 2004.7.7

 二人目の子どもを妊娠したことがわかった。できればきょうだいがいる方がいいね、と話してきた結果なのだから、「望まない妊娠」ではない。でもほとんどセックスレスに近い状態で妊娠したのだから、すごい確率だとまず驚いた。一方で育児休業を利用してアメリカ留学に一緒に行けることになった最初の子の時に比べれば、感激は薄い。最初の子どもに比べると2番目の子は写真も少なくて、というのはまぁ世の常なのだが、そんな違いとは異なる、何ともいえない負担感が残るのだ。

 子育てと研究の両立に悩んだあげく鬱病を発症したのが、去年の6月。1年経って症状は少し軽くなったものの、相変わらず薬代だけで月に1万円も払うような状況だ。保健センターにもしポイントカードでもあれば、絶対1回分くらいは無料になっているんじゃないだろうか。毎晩寝る前に服用する薬の量に、我ながら情けない気分になる。産まれてくる子供にはもちろん何の罪もない。ただ子育てにまつわる制約が、また振り出しに戻って続くのかと考えると気が遠くなるのだ。

 最初の子どもの時には、つわりも大したことはなく、子どももいなかったので、私の生活には大きな変化はなかったのだが、今回は最初からつわりで大変そうにしている。私が会議等で遅くなる日を除くと、平日の夕食の準備は基本的に私の仕事になり、週末は疲れて外食。相手に家事の対等な分担を求められない分だけ、こちらの負担感は重い。でも鬱病の一番重かった時期にはそれ以上の迷惑を相手にかけたわけでお互いさまだろう。つらそうにしている相手にものを頼むわけにはいかない。

 つれあいの方は、今から産休に入る時期を計算し、育児休業の時はあれとこれをして、と計画を立てている。会社勤めの彼女にとって、まるまる1年、給料の40%をもらって休める休暇は、これが最後だろう。楽しみにする気持ちはよくわかる。逆に言えばそんな楽しみが今の私にはないのだ。

 片手に収まるような嬰児の感覚を思い出せば、いとおしさがよみがえってくるに違いない。自分では何もすることのできない、あのか弱い生き物を目の前にすると、親はまるで魔法にでもかかったように、献身的にその世話を始める。これはもうDNAに刷り込まれているんじゃないか、と思うぐらい確かな感覚だ。きっと産まれてきたら、長女の時と同じように、一生懸命育児に関わるのだろう。7ヶ月も先の予定日が大学の業務と重なっているので、どうやって休みを取るか、今から考えている。私の主義主張からも、出産時に夫が「産休」をとることはもっと当たり前であっていいはずだ。

 ただそのことと、停滞している研究とをどう両立していいのかがわからない。子供を持つ女性の研究者なら誰でも抱えたような悩みのはずなのに、なぜ自分だけできないのだろうという気になってしまう。何か特別なことをしているわけではない。単に「生活」をしているだけなのに、要領が悪いのか、全く仕事にならない。そしてその感覚が確実に自分の症状を重くしている。

 ワーク・ライフ・バランスという意味では、「生活」に重きをおいた時期だと割り切ればいいのかもしれない。頭ではわかっているし、講演では人にそう説いてまわっているようなことなのに、いざ自分のこととなると少し腰が引けている。  
 ぐったりしているつれあいを尻目に夕食のネギを刻みながら、去年鬱病で座り込んだときも確かネギを切っていたと思い出した。


2度目の夏休み 2004.8.15

 鬱病を発症して2度目の夏休み。期末試験の採点作業を早めに済ませて、東京を離れることにした。夏は症状が悪化する。真夏日が40日も続いた記録的な炎暑から、少しでも逃れる時間を作りたかった。

 長期の休暇は基本的に子連れになる。保育所が私の職場にある関係上、つれあいに送迎を任せて、私だけが休暇というわけにはなかなかいかないからだ。

 最初は学生さんにおつきあいをいただいた。日本にきてまだ旅行をする機会もなかったゼミの留学生を招待した。夏の長い台湾からの学生さんには、肌寒いほどの信州の空気は新鮮だったようだ。

 去年も預けた一時保育施設に子どもを預けることにしたのだが、最近口が達者になった娘は、なんのかんのと文句を言う。「ほたかの保育園や〜だ」"Why ?"「だってみよんお弁当ないんだもん」。なるほど去年の夏は昼ご飯の手間を省いて、電子レンジで冷凍食品を温めるだけの園の食事にまかせていた。自然食に気を配る職場の保育園の食事や、よその子のお弁当がうらやましかったに違いない。

 "Then I'm gonna prepare a lunch box for you."「お弁当?」"Yeap ! Is that OK ?" 「うん」。なんだ、それだけのことか。というわけで今回は朝お弁当も作ることに。といってもごはんにふりかけをかけ、ソーセージをタコ型に炒め、チェリートマトと卵焼きを添えるだけ。10分ほどの作業だ。

 それでもお迎えの時には、「お弁当全部食べたよ、ピッカピカ」とうれしそうに報告してくれた。簡単簡単。これなら夏を乗り切れるかな、と考えた。

 一度東京に戻り、とんぼ返りするようにまた中央高速を飛ばした。今度はつれあいが夏休みをとり、さらに私の父も加わって少しにぎやかになった。

 保育園には預けることなく、娘はおじいちゃんを相手に終日笑い転げていた。この間にぎやかなのはいいのだが、私の方はまったく仕事にならなかった。

 おまけにブロードバンドの快適なインターネット環境からいきなり時代遅れのダイアルアップに引き戻され、ちょっとした調べもので音を上げてしまい、薬の量を増やさざるを得なくなった。

 さてみんなが帰って父子二人でまた夏の後半を、と思っていたら、娘が「ママと帰る」と言いだした。お弁当作るよ、ここだと花火できるよ、となだめるのだが、どうも気が乗らないらしい。

 " Are you sure you want to go back to Tokyo with Mommy ?" 「うん」"You can stay here with Daddy." 「ノゥ」。最終日までどうするか迷ったのだが、娘の意思は固いようだ。

 大渋滞の高速道路を避けるために、母子で電車で東京に戻ることになり、電話回線をほとんどつなぎっぱなしにしてJRのインターネット予約を検索し、なんとか1席確保した。

 私はもうしばらく暑さを避けて本を読み、数日後に車で戻ることになった。たった数日なのになんとなく寂しい。近くの駅まで見送りに行き、"See you ! " 。すると東京に着いたつれあいからすぐに電話があった。電車が出たあと「やっぱりパパと残ればよかった」「どうして」「だってパパかわいそうじゃん」「じゃぁ帰る?」「もう電車出たから戻れないの」とのたまったというのだ。

 もう去年のようにこちらが決めたとおりに黙って従ってくれたりはしない。そして自分と相手との関係を態度だけでなく、言葉で表現しようとする。これがこの一年間の成長の証なのだろう。


赤ちゃん返り 2004.8.30 BOG→MEXの機内にて

 二人目の妊娠がわかって数ヶ月が過ぎた。娘はよほどうれしかったようで、保育園で「男の子(なぜか根拠もなく彼女はそう断定している)できるんだよ」とふれ回っていた。私たちは安定期に入るまではと慎重になり、保育士さんたちは一応親の側から伝えられるまではと、口外されなかったようで、我が家の妊娠はしばらく公然の秘密状態となっていた。

 安定期に入ると今度は急速に母体のおなかが大きくなった。二人目は大きくなるのが速いらしいのだが、確かに一人目の時よりずっと大きい。そしてその大きなおなかを触りながら、「美瑛ねぇ、赤ちゃん来たら優しくするの」とお姉さんになる心の準備が始まっているようだ。ちょっとしたはずみでおなかにぶつかったりして叱られると神妙にしている。

 ところがそんな「弟」思いのいわゆる「いい子」なのだと思っていたら、保育園からの通信に「一番甘えん坊さんかな」と書いてあり、少し驚いた。そういえば最近いったんぐずり始めると顔をゆがめて「やなの!」と決して言うことを聞かないことがある。保育園の帰りに学内のレストランに行くか行かないかということだけで大騒ぎになったりする。

 さらに学生さんたちとの合宿に連れて行ったときのこと。娘は学生さんに「パパには内緒ね」と念を押しながらお菓子をねだり、「ご飯まではだめでしょ」と聞き入れられないと、だだをこねて、叩いたり蹴飛ばしたりしていたらしい。ずいぶん悪知恵がついたものだ。

 お姉さんになるという責任感と甘えられない寂しさとの間を揺れ動く赤ちゃん返りが、すでに始まっているらしい。この規律と甘えの間をどう調整するかという問題は、育児書の古くて新しいテーマだ。抱き癖がつくと言われてだっこを控えるように言われてみたり、思い切り甘えられる場所があって初めて外で規律を守れるのだと言われたり。学問的にはおそらく、厳密な意味での検証は不可能で、ある種の通俗科学の域を出ないのではないかと思う。そしてその通俗科学が絶大な影響力を持って、大人の思考を支配する。3歳児神話が信奉され、そしてわざわざ厚生白書で否定されるプロセスは、そのことを象徴しているように思う。

 時代だけでなく、文化によっても異なる。人前で泣き叫ぶ赤ん坊を前にして、ドイツ人ならおそらく厳しくしかりつけて黙らせるだろうし、中国人なら泣き声は幸せを呼ぶと甘えるままにさせるだろう。赤ちゃんを対象にした厳密な「人体実験」ができるわけもなく、それぞれの時代や文化の思惑が、「科学」の名の下に滑り込むのだ。

 しかしいずれにせよ、甘えてぐずる子どもを前にして、親は何らかの判断をしなければならない。それもなるべく場当たり的ではなく、子どもにもわかる一定の基準を持った形で。下の子が生まれてくれば、自ずとお姉ちゃんとしての対応ができるようになっていくのかもしれない。しかしそれまで両親を独占していた状況を奪われることは、それなりの苦痛であるに違いない。

 育児書を無前提に信奉することができなくなった私たちにとって、この甘えとどうつきあっていくのかは、これから数年間悩まされ続けるような問題なのだろう。


英語のトトロ 2004.8.31 YVRにて

 娘が「となりのトロロ」にはまっている。さつきちゃんという小学生とめいという4歳くらいの姉妹が森の主のトトロに出会う、というまぁ言ってみれば毒にも薬にもならないほのぼのとした映画なのだが、娘はどうやらそのめいちゃんに自分を重ねて見ているようだ。めいちゃんが迷子になる過程では、「さつきちゃんの言うこと聞かないからなんだよ」と説明してくれる。

 私は全く知らなかったのだが、最近のDVDというのはよくできていて、日本語のほかに英語の音声や字幕を選ぶことができる。ちなみに今年の話題をさらった韓国ドラマ「冬のソナタ」も、我が家では中国大陸向けの韓国語と中国語が入ったDVD全20話をインターネットのサイトからわずか4000円で手に入れた。家にはまだDVDプレーヤーがないので、型落ちのパソコンを使い、テレビに出力する。

 娘にはアメリカ人としてなるべく英語にふれさせるという方針から、英語で見せるようにしていた。そうすると毎日見ているためか、せりふをたくさん覚えるようになってきた。それも出てくる場面がわかっていて、映像にあわせて発音をする。"Thank you so much."というような実用性の高いものから、"What a neat old junk !"といったまず使わないようなものまで。親の方は字幕を媒介して単語を認識するが、子どもの方は純粋に音のみに反応する。だからこそ不正確なところがたくさんあるのだが、一方でtが軽いlに近い音になる(what a が”ワラ”と発音される)といった点はきれいにできるようになった。

 ここまで4年間私の方が少し無理して英語での語りかけをやっていたのだが、どうやらトトロの方が影響力が強いらしい。つれあいは「あなたが1万回言うよりもトトロの方が効果的ね」などと笑いながらいやみことを言う。私としては、いままで話しかけてきた基礎があるからこそ、英語の音声に対応できるのだと抗弁したいのだが、いかんせん根拠はない。

 さらにややこしいことが起こった。あるときつれあいが「パパが来たら英語にするからね」と約束して日本語の音声を聞かせていて、私が戻ってきたので英語にしようとしたら足をバタバタさせていやがるのだ。私の方は「どうしてそんな一貫性のないことをするの」とつれあいをなじってしまったのだが、そんなことを今から言っても仕方がない。

 そこで英語のはどうしていやなの?と聞くと「だって日本語のがいいの」。日本語・英語という言語の区別が付くようになっていることにも感心したが、やはり保育所で学んでいる言語が圧倒的な影響力を持ち、さらに親がネイティヴでもなければ、家の会話も日本語という状態では、慣れた日本語で見たいという気持ちは当然といえば当然である。特に最近は日本語の能力が飛躍的に伸びてきているので、英語との落差は広がる一方だ。

 でもせっかく少しずつ慣れてきているのだから、親としては英語で見させるようにしたい。子どもにはかわいそうかなぁという気持ちとせっかく関心を持ったのだから英語で見せ続けた方がというという気持ちと。たかだかトトロ相手に今晩も悩みがつきない。 


文字を教える?

 保育所のりんどう組(三〜四歳)の娘はいっこうに文字に興味を示さない。一つ上の組のかなみちゃんが、やはり四歳過ぎの時には、ひらがなは全部読めていたので、それに比べると遅れている。保育所ではカルタ遊びを指をくわえてみているだけだ。

 少しは文字にふれさせた方がいいのかなと思って、カルタを買ってきた。アンパンマンのがいい、と娘が選んだので、一緒にやってみる。二、三回やるとあっという間にできるようになった。「すごいじゃん!」こんなに簡単にものを憶えるのかと思って、じゃぁ「みよん」の「み」は、と上の句を変えると、全くできない。どうやらカルタの文章に対応する絵を探して、文字ではなく絵で選んでいるようなのだ。

 「ひかる」の「ひ」はとやると、「それやだ。絵は?」と聞いてくる。親の意図とは全く違う方向にゲームは進んでしまった。ただ「音楽指揮する」と上の句を読むと、すぐに「タクトマン」と答えて、その絵を探す。この下の句を憶えるスピードには驚いた。あっという間に上の句だけでゲームが成立するようになった。

 さて、それで文字を憶えさせるのはどうすればいいのだろう?保育所の文集を読んでると、去年のりんどう組さんのたいしん君なんか、「教えもしないのにひらがなは全部読めるようになりました」なんて書いてあるのだ。すごいなぁ、やっぱり両親東大やとちゃうんやろか、などとアホなことを考えたりする。

 早期教育には賛否がある。結局早くやっても遅くやっても、その子の潜在能力が最終的には現れるのだから、大して意味はない、と自分の経験では思う。だいたい私自身小学校高学年まで宿題以外の勉強なんかしたことはなかった。そんなことより遊びを遊び込むことを通じて、ルールや根気を養っていくのが今の時期に重要なことであるはずだ。少なくとも幼稚園や小学校に入るための受験には何の意味もないと思う。預けている保育所も教育はせずに、自然との遊びを大事にするというのだから、このままでいいはずだ。でもそういう保育所だってカルタ遊びはしているわけで、これでは文字教育をしているのと何も変わらないのではないかという気もする。

 いずれにしても周りの子と比較して、あんまりできないと心配になるのは事実だ。そのたびに自分の心を静めようと努力する。カルタを絵で選び取る娘に向かって、しつこく「『かなみ』の『か』は?」などと言って不機嫌にさせるのはやめなければと思う。ベネッセから送られてくる「しまじろう」の見本も、チラリと見てゴミ箱に直行させている。

 私の母親は今から三〇数年前、三歳児を六歳になるまでずっと観察したドキュメンタリー番組を作り、それをもとに『三歳から六歳へ』という本を残している。その本は元の出版社から廃版になったあとも、大学の児童心理などの分野で需要があるらしく、未だに売られている。そしてその中で、仲間同士の遊びの重要性を強調しながら、早期教育への警鐘をならしていた。

 文字をどうやって教えていくか、この悩みに亡き母はどう答えただろうか?私は本棚から久しぶりに彼女の本を取り出した。


 「出世」と育児      041226

 2004年が終わろうとしている。病気の方は「春頃には」といわれた目途の時期を大きく過ぎても治らなかった。お酒の飲み過ぎがよくなかったのか、研究のプレッシャーのせいなのか。最近はずいぶんよくなったと思っていたのだが、先日年賀状印刷の郵便番号の位置が、一枚一枚ずれてしまうのを直そうと格闘しているうちに、また鬱特有の強い張りを経験してしまった。やっぱりまだおかしい。好きだったテニスも、今年はとうとう一度もラケットを握れなかった。

 何が自分をここまで追いつめるのだろうと考える。他の人たちはバンバン論文を書いているのに、自分は何をしているのだという自責感である。保育所の送り迎えをして、(つれあい曰く「作っている」とはとてもいえないような水準の)夕食を準備して、何をしているというわけではないのだが、帰宅後は仕事にならない。夜型で一人夜中まで論文を書いていた頃と違い、毎朝一定の時間に起きなければいけないのはとても辛かった。つれあいの実家にお任せして、もっとさぼればよかったのかもしれないが、主義主張の関係上、自分でできることは、なるべく自分でやりたかった。

 働くお母さんはどうやってこれを乗り切ったのだろう、と何度も自問した。30代から40代前半といえば、研究者に限らず、もっとも生産性が高く、バリバリ仕事をする時期だ。「出世」を巡るレースでは、育児なんて軛がない方が有利に決まっている。

 でも一方でいっそそんな競争から降りてしまえば、気楽になれる。(お母さん社員が出世の本流からはずれて閑職に回される)マミートラックならぬ、ダディトラックと割り切るのだ。

 大学の教員なんて、もし本当に研究を諦めることができれば気楽なものだ。大学の場合、採用・昇進では研究で評価されるが、対価は主に教育に対して支払われるので、授業を持たなければ、給料が減るだろうが、論文を書かないからといって、すぐに首になるわけではない。教育上の負担だけならば、仕事としては、それほど重いものではない。幸い私は学生さんからの授業評価は、比較的よい方なので、なんとか食べてはいけるだろう。ただそんな風に割り切って開き直れる人は、きっとそんなに多くない。

 それでも30歳の時に一応専任のポストに就き、33で博士論文を出版できたのだから、かなり運のよかった方だろう。いわばある重要な段階までの「出世」が終わってから、育児に入っているので、まぁ気楽なはずなのだ。育児に追われる今の状況で、もし非常勤の口しかなく、専任のポストを探していたら、その焦燥感は今の比ではなかったに違いない。

 大学院生の頃に思っていたように、どこか名前の知れない田舎の大学で、学生さん相手に漫才みたいな授業をやっていたら、どうだったろうと何度も思う。活躍する仲間たちを傍目に見ながら、「まぁええわ」とダディトラックで落ち着いていただろうか?それともよりよいポストを目指す競争の中に入っていただろうか?

 私は今、自分が学部・大学院を通じて11年学生として過ごした学科に勤めている。院生だった頃の私の判断基準で、自分が教員としてポストに見合う業績を出しているかどうか、と考えたときに、合格点を出せないかもしれない、というのが鬱の大きな要因だ。

 いまは「生活」を優先させる時期なんだから、と自分を納得させようとすると、「育児が終わる頃には生産性が落ちていて、もう研究者としてはダメなのではないか」、という不安が首をもたげる。行き場を失った自責感は、アルコールと一緒に毒になって、心身を蝕んでいく。

 「あなたなんか、自分ががんばればいつでも好きな仕事ができるんだから恵まれているじゃない」。出産を機に完全に社内のマミートラックに乗せられたつれあいの言葉は、100%正しいのだけれど。