新しい命
出血が見られたのが一月九日の朝。第一子の時も出血から一日前後で陣痛が来たので、いつでも病院に行ける体制をとった。飲んだくれているお酒もこの日は厳禁だ。
九日の夜十時をすぎたあたりから、弱い陣痛が始まった。「こんなので陣痛って言うのかなぁ」と聞かれるが、こちらは答えようがない。医者から言われたのは「間隔が十分程度になったら病院へ」ということだけだ。入院の書類を見ながら、「この入院日一日あたり一万八千円って、どうやって計算するんだろうね?」「夜十二時過ぎて行ったら、一日分安くなるのかなぁ」などとせこい会話をしていた。でも一万八千円をケチって、車の中で出産なんてことは、やりたくない。何よりも安全第一だ。
日付が変わって十二時過ぎ、そろそろ行くか、ということになり、ぐっすり眠っている娘と入院用の衣類が入ったトランクを抱えて、車に乗せた。三連休の真ん中の夜、山手通りも空いている。アメリカでの初産の時も、夜中、全く車のない道を走った。それに比べるとずいぶん気が楽だ。左側通行だし、言葉は日本語だし、経産婦だし。
それに加えて予定日より三日早く産まれてきそうなことにもホッとした。予定日の十三日から後ろは大学入試センター試験の関係で私はびっしりと拘束される。今日なら出産までゆっくりつきあえるはずだ。「夫にも産休を」と訴え続けてきた立場上、万一の時の交代要員もお願いし、授業は全部休講にした。でも朝八時から夜まで続く入試業務を人に代わってもらうのは申し訳ない。みんなそんな風に考えるから夫の産休は普及しないのだろう。時間の比較的自由になる大学教員でさえ、こんな状況なのだから。
日赤の救急外来でつれあいを下ろす。分娩室に行くかどうかの判断を待つ間、私と娘は廊下のソファーに横になった。アメリカの病院の時は、子宮口の拡大を確認する部屋、分娩室、産後の寝室という順に男性向けの座席がよくなっていったのを憶えている。今回は個室をとらなかったので、家族向けのスペースはない。二時頃になってまだ何時間かかかるから私と娘は家に戻って連絡を待つように言われた。ゆっくり腰を伸ばして休めるので歓迎だったが、眠りに落ちている十五キロの四歳児を運ぶのは、初産の時とは勝手の違う仕事だった。
少しはまどろんだのだろう。朝の五時過ぎに電話のベルが鳴った。その瞬間に眠気が吹き飛んだのを憶えている。今分娩室に向かった、というのだからうかうかしてられない。再び眠りについた十五キロを担いだ。この子と出産を共有することが、今回の重要な目的だ。これで間に合わなければ意味がない。
分娩室ではつれあいが辛そうな声を上げていた。ママが涙目になって息んでいるのを見て、娘は少し怖くなったようだ。私の服を握りしめてママを見つめている。空いている方の手を取ってつれあいの手に重ねた。病院に着いてから三十分ほどしてからだろうか、一月十日午前六時十一分に三一八八cの元気な男の子が生まれた。アメリカ生まれの娘の誕生日が9月11日なので、「911」、この子が「110」どういわけか二人とも警察の緊急番号に縁があるようだ。
「玄聖(げんせい)」でいいかな。後産の処理を終えて一息ついた頃に、つれあいがそういった。実は男の子であることまでわかっていながら、名前が直前まで決まらなかったのだ。私は日本と韓国の間にある玄界灘の玄の字を使いたかった。老荘思想に出てくる玄でもある。あと僧侶のような堅い語感の名前にしたい。それと今回は画数も気にした。そんなのは迷信だと振り払うことができなかった。鬱病に呻吟している間に自分の画数があまりにひどいことに気がつき、なんとなくいい気分でなかったりしたからだ。「究玄」「開玄」「至玄」いろいろ考えてみたが、ことごとくつれあいにNGを食らった。つれあいは「玄」の字には乗り気でなく、名前の話し合いはずっと平行線だった。陣痛の間隔をはかりながら家にいたときに、一緒に漢和辞典を見てみつけたのが「玄聖」だった。候補の中で彼女としては一応「可」をつけられるような名前だったのだろう。「たぐいまれな聖人、賢者」という意味を持つ。いささか大それた名前だが、それに負けずに大きく育ってほしい。
「ママがねぇ、いたいいたいって泣いてねぇ、おしっこの出るところから赤ちゃん出てきたの」。翌日の保育園で娘はみんなに説明したのだという。四歳児に受けさせた最初の性教育だと私は思っている。新しい命を無事に三人で迎えることができた。片手に載るような、あの嬰児の感覚が戻ってきた。
病気の幸せ
四歳半の娘が初めて熱を出した。という言い方は正確ではない。熱は何度か出しているのだが、元気そうにしているので、一度も心配をしたことがなかった。職場の保育園から研究室に「8℃台の熱があり、元気がない」という電話があった。熱で連絡を受けたことは以前にもあったのだが、元気がないというのは初めてだったのだ。保育所でインフルエンザの子どもがチラホラでていたので、先生もそのことを心配していた。風邪とインフルエンザではわけが違う。
ちょうど学位論文などの審査がピークになる時期に重なっていて、自分が担当する口頭試問まで四、五〇分しかない。終わるまで待つか、今すぐいくか、逡巡したのだが、とりあえず駆けつけることにした。いってみると確かに様子が違う。お昼寝のパジャマを着た状態でぐったりしている。これはとりあえず家に連れて行こうと考え、ずっしり重い体を担ぎ上げた。
一番早く家に行き職場に戻れる交通手段はタクシー。キャンパスの裏門でタクシーを拾い、その間に家に電話をした。マンションの玄関までタクシーで行き、同じタクシーでキャンパスに戻る。広いキャンパスの中では、しょうがないので走った。結局連絡を受けてから口頭試問の会場に戻るまで四十五分、タクシー代は一五〇〇円弱。職場の保育所と職住近接というのは、いざというときにありがたいものだと実感した。一時間ほどの口頭試問が終わった後にまた家に戻り、子どもとつれあいを近所の小児科まで車で送って、再度職場に戻った。インフルエンザは発症から四十八時間以内に薬を処方すれば治りやすいというので、とりあえず急いで小児科に運んだのだ。
そして帰宅後。インフルエンザかどうかは発症からの時間が短すぎてわからなかった。翌朝もう一度来なさいとのこと。「アイスクリームでもゼリーでもヨーグルトでも、好きなもの食べていいよ」。こんなことを言われることは、滅多にないはずなのに、娘の表情はさえない。それどころか、食べたものをほとんど吐いてしまい、苦しそうにしている。こんな姿を見たのは初めてだった。
しかし娘ばかりかまっているわけにもいかない。産まれたばかりの赤ん坊は翌日が一ヶ月検診の日。症状を見る限りインフルエンザの可能性が高いと思われたので、とりあえず赤ん坊への二次感染を防がなくてはいけない。つれあいの方が赤ん坊を、私の方が娘の面倒を見る。二人でバタバタしながら、私は妙に幸せな気分になった。
「家族をやっている」という実感である。子どものいない頃は二人が別の方向を向いてとりあえず併走しているような状態だった。それが四人家族になり、その集団をつねに意識しながら動くようになる。前に進むスピードは格段に遅くなったけれど、切り分けることのできない何かを共有しているという感覚。病気の時に不謹慎かも知れない。インフルエンザ程度の病気だから余裕があったのだろう。それにしてもそれは今まで感じたことのないような幸福感だった。
翌朝、私の方が8℃の熱を出し、頭痛がした。でもとりあえず娘を小児科に連れて行って検査をしたところ、インフルエンザではないという結果が出て、拍子抜けした。そのあと一ヶ月検診のために日赤まで運転をし、長い検診の間中待っていたら、私の風邪が一番重くなってしまった。結局それから一日はひたすら私が寝込むこととなってしまう。「美瑛が熱出したときは、二人いて本当によかったって思ったけど、あなたまで熱だすんならいらないよ」とつれあいに言われる始末。
そういえば東京で一人暮らしを始めた二十数年前、風邪で寝込むのが、とても寂しかった。ちょっとした病気を機に「家族」を持つことの幸せを感じた二日間だった。
Doraといっしょに・・・ 050227
二人目が生まれてから、私はすっかり娘の方の担当になった。アメリカにいた一人目のときは、市販の人工ミルク(アメリカでは粉ではなく、液体の状態で売っていた)をがんがん飲ませていたので、私の出番も多かったのだが、今回の赤ん坊はほとんど母乳で育てているので、泣きわめき始めると、なすすべがない。水を飲ませてみたり、抱っこして軽くスイングしたり、おしゃぶりをくわえさせたり。いろいろやってみるが、1時間くらいが限界だ。粉ミルクにしない限り、つれあいにタッチ交代、とやるしかない。
その分、娘の世話を私が見ることになる。赤ん坊が産まれるまでは、寝るときは「ママと!」と言って譲らなかったのに、今は約束通り「パパと寝る」を実行している。英語の絵本しかダメ、というと不満そうにしているが、内容がわからなくてもピンクの色がきれいな"Felicity
Wishes"や有名な"Curious George"のシリーズを楽しそうに聞いている。家族の関心が赤ん坊に集まり、彼女としては少し寂しいだろうに、けなげなものだ。彼女なりに気を遣っているのだろう。
その娘が最近、毎日のように「ドーラ見たい!」とうるさい。"Dora the
Explorer"(日本名ドーラといっしょに大冒険)というニコロディオン(アメリカの子ども向けチャンネル)の番組だ。Doraという2歳くらいの女の子が出てきて、いろんなところに出かけるというアニメである。ニコロディオンには3歳の女の子が主人公の"Allegra's
Window"や5歳の男の子が主人公の"Little Bill"など年齢別の番組がたくさんある。アレグラやリトル・ビルも見ないわけではないのだが、3歳児の英語はすでに彼女には難しすぎる。画面を見ながら、絵として楽しんでいるのだろう。
その点ドーラは2歳児だ。出てくるフレーズが決まっていて、単語の数を抑えるように工夫されている。もちろん全て聞き取れているわけでは決してなく、むしろなんとなく絵から理解している部分の方が多いのだろうが、それでも「赤くて丸いものを探そう」といった単純な課題が出るので、なんとなくわかる。
そろそろ英語での語りかけに限界を感じ、放棄寸前だった私としては、ありがたい援軍だった。とりあえず見たい、見たいというので、これが最後だよ、と約束させながら、毎日2〜3編見ている。
考えてみると、娘が好んでみるビデオのたぐいには、「はやりすたり」のようなものがある。最初は3歳の前半頃で"Madeline"(日本名マドレーヌちゃん)のビデオを繰り返し見た。フランス語なまりの英語に、"Bon
jour !"だの"Guten Tag !"だのが混じっていて、英語の教材としては奇妙だが、3歳児にそんなことは関係ない。クリスマスにプレゼントをもらうシーンが好きで、来る日も来る日も「マーデライン!」だった。その次がトトロ。これもDVDを英語で見せるという倒錯的なことをしたのはすでに書いたとおり。このあとしばらく「シンデレーラ!」と言った時期がある。ディズニーの「シンデレラU」というDVDなのだが、大人の目でトトロの後に見ると、ディズニー映画の浅薄さだけが目についた。
そして4歳になる頃から「ドーラ!」が始まった。英語の表現としては、むしろ易しくなっているのだが、画像を見るだけの状態から、少しずつ言葉を理解して反応を示しているところがおもしろい。"Who
do we ask for help when we don't know which way to go ?"という決まり文句が出てくると"The
map ! "と、条件反射のように答える。
しかしこれまた困るのがDoraがスペイン語とのバイリンガルという設定になっていることだ。ブルーやイエローという英語は知っていることが前提となった上で、azulやamarilloといったスペイン語が繰り返される。娘が「アマリーヨ!」などというたびに、これ以上混乱させないで、と言いたくなる。
そんな風にハラハラしながら、でも英語に興味を持ってくれるだけいいか、と思いながら、Doraをマニュアルとにらめっこでハードディスクに録画する日々が続いている。
4歳児のスキー 20050319
スキー場のスキースクールは満4歳から対応というところが多い。去年までは学生さんとスキーに行く間は、近くの保育施設にあずけていたのだが、今シーズンからはいっしょに滑ってみることにした。
穂高からだと、鹿島槍、五竜とおみ、八方尾根などがほぼ1時間圏内。今までは一番近い鹿島槍に行くことが多かったのだが、平日はキッズ向けのスクールがないというので、まず五竜にいってみた。一月の平日、スキー場が一番空いている時期なので、大丈夫だとふんだ。ところが行ってみると修学旅行の団体の対応で、コーチが足りないとのこと。ガーン。
仕方なく股の間に入れて、すべって遊んだりしたのだが、親がやるとすぐに「ハの字作って」とやってしまい、かえって子どもの機嫌を悪くする。おまけに持っていった手袋が袖が短く、防水が効かず・・・。美瑛は「もうやだ」と言い出してしまった。まずい。
その日のうちに手袋を買い換えて、翌日はスクールの充実している八方尾根に出かけた。応対してくださったのは、優しそうなお姉さん。いろんなお話をしながら娘の緊張を解いてくれたようだ。「すっごく上手に滑れたよ」と誇らしげに報告してくれた。やはりプロの人が教えると違う。なにより少しのことができるたびに、いっぱいほめてくれる姿勢には感心した。私はどうもほめるのが下手だ。
ただうまくなったとはいえ、まだ「滑っている」とは言い難い。フラフープで後ろから支えてもらって、やっと短い緩斜面を降りられるという感じだった。半日で4000円もスクール代金を払った割には、すぐにできるようになったりはしないんだなぁと思った。
次のスキーは入試の雑用が終わった3月。また同じ院生さんたちに相手をしてもらった。初日、やはり八方でスクールに入れたのだが、終わって子どもを迎えに行くと、「力不足ですみません、進歩しませんでした」と男の先生。恐怖心が先に立ち、少しでも手が離れると滑れないらしい。前回八方に行ったときにもらった到達度を表すスタンプ帳は、前回と同じ「まっすぐ滑る」まで。まだ「止まる」こともできないらしい。
スキーは怖いときに怖い方向に体重移動するという、人間の恐怖心の常識に反した方向への動きを要求するので、言葉で説明できる年にならないと、その恐怖心がなかなかとれないのかも知れない。何事につけ慎重派の美瑛には、ハードルが高いのかも。
すぐにうまくなると高をくくっていたので、少しがっかりだ。この分では今年はもうだめなのかもしれない、と考えたりもした。しかし当人はいたってご機嫌である。スクールの後もスキー場脇のキッズ向けの緩斜面で、フラフープを使いながら、滑る練習をした。しかしこれは大人の三人がばててしまった。20メートルほどの斜面なのだが、上りはリフトも何もなく引っぱって上がらなければならない。「まだやる」泣き叫ぶ子どもをまた明日滑るからとなだめすかした。
4歳児は筋肉痛などとは無縁らしい。普段の保育所での鍛え方が違うのか、大人が翌朝しゃがむたびに悲鳴を上げるのに、子どもの方は全く疲れたそぶりを見せない。大したものだ。
二日目は八方尾根の中でキッズ向けのコーナーがある咲花ゲレンデに向かった。やはり半日4000円。高いとは思うが、他に申し込む人はいないので個人レッスン。働く側から見ると決して高い報酬ではない。「今日の美瑛ちゃんのご機嫌はどうかな?」出てきたのは昨日と同じ男性の先生だった。昨日は最初少し緊張したようだったが、美瑛は早速「これあげる」とアメの交換をしていた。
その日は強風で上部に行くリフトが全部止まっており、大人には物足りない状況だった。そこで何度かキッズコーナーのそばのリフトに乗り、娘の滑りを観察した。「あ、滑ってるじゃん」。
迎えに行ってみると確かにハの字ができるようになっており、さらに先生が前から指導すると曲がることもできる。すごい!リフトにもいっしょに乗っけて滑ってみたのだが、確かに緩斜面ならちゃんとひとりで滑って曲がって止まっている。大したものだ。
翌日は五竜に行くことにした。ここは下の方のゲレンデに緩斜面が広がっている。もうスクールには入れないで、交代で子どもの面倒を見ながら滑る。私も教えやすいようにショートスキーにした。最初の一本を滑ろうとすると「こわい」といってぐずる。ついつい「もうやめる?」なんて言ってしまった。いけない、いけない。子どもはほめて育てなければ。美瑛は上を過ぎる青い乗り物をさして「あれに乗りたい」というのだが、ゴンドラに乗ると上部の斜面を滑らなければいけない。「もっと練習したらね」とはぐらかした。
斜面が急になると、スピードが出て止まれなくなる点を除けば、基本的にはちゃんとコントロールできている。体重がかかとに乗って後傾したボーゲンなのに、妙な安定感のある典型的な子どものフォームだ。「かわい〜ぃ!あの子何歳?」そんなボーダーの声を浴びながら滑るのはなんとなく誇らしい。
最後はとうとうゴンドラにも乗せて上の斜面を少し滑った。これはまず無理だろうと思っていたので、とても驚いた。下山は下り乗車したが、とにかく自分でなんとか滑れるようになった。来年の保育所のスキーには、もう「滑れる子チーム」に参加できるだろう。午後3回分のスキースクール代しめて1万2千円の投資は無駄ではなかった。
北大に勤めていた頃、私は一冬で40日くらいスキーに行った。そしてお父さんのスキーとお母さんのスキーと子どものスキーをまるで鯉のぼりのように並べて走るSUVを見て、いつかあんな暮らしがしたいと思った。下の子を含めればあと10何年か、そんな「ありふれた」家族の時間を持つことができる。
"You made a great progress !"なんども美瑛の頭をなでた。いつまでも続くわけではないであろうこんな幸せの瞬間瞬間を憶えていたい。
在日のこれから 050328
話題の映画だというので「パッチギ」を見に行った。1968年の京都が舞台で、京都の朝鮮学校と対立してケンカを繰り返す府立高校の一人の男子生徒(松山君)が、朝高の女生徒に恋してしまうという筋のものだ。松山はテーマソング「イムジン河」の訳詞者の実名でもある。
フォークギターを片手に、民族の違いを乗り越えようと模索する青年の姿はすがすがしいし、同じ頃に関西の空気を吸っていた人間としても懐かしい気分になる映画だった。沢尻エリカの演じる朝高の女子生徒は、とてもきれいで印象的な目をしている。
しかし・・・・。未だにこんな映画が話題にならなければいけない程度に、日本人は在日に対して無知なのだろうか。日本ではフォーク・クルセダーズがカバーした北の名曲「イムジン河」がずっと背景に使われているのだが、河に隔てられた両者を象徴するように、松山君が鴨川をずぶぬれになって渡り、女子生徒に会いに行くシーンがある。なんぼ何でも作り過ぎや。そばに橋あるやろ(笑)。
在日ばかりが集まる葬式の席では、一世とおぼしき老人から、生駒山トンネルの強制連行の話を持ち出され、「何も知らんのに、帰れ」といわれる。生駒山の麓で高校までを過ごした人間としては妙に親近感がわく場面だったが、まだ強制連行のことを説教して教えなあかんのか、と情けない気分になった。
そして河の向こう側にいる相手の女の子は徹底的に美化される。無知による美化と、差別との間の直線距離は、実は驚くほど近い。
崔洋一監督の「月はどっちに出ている」がその年の日本映画の賞を総なめにしたのは、もう12年も前の話だ。岸谷五郎の演じる主人公の在日のタクシー運転手は、いい加減な奴で、でもたくましくて。だからといって差別に直面しないわけではないのだけれど、それは「河」となって、日常生活をすべて規定してしまうような大きなものとしては描かれない。同じ在日だからできたといえばそれまでだけれど、肩の力の抜けたコリアンの姿がそこにはあった。そのとき私は、日本社会の在日を見る目もここまで等身大に来たのだなぁという気がした。
順序が逆ならわかる。「パッチギ」の12年後に「月は…」ならいい。しかし「月は…」の12年後に「パッチギ」を見せられると、なんかなぁ、という気分になる。関西弁で言えば「ひねらんかい!」という感じ。あまりに直球。ストレートすぎて、この12年はなんやったんや、という気分になるのだ。
確かに1968年の京都ならあんな雰囲気だったかもしれない。それは1世や2世たちの世界。私のつれあいは68年生まれで3世。子どもたちは4世だ。「4世の時代やで、もうちょっと進歩してくれよ」と言いたい。
折しも、盧武鉉政権の誕生以降抑制されてきた、日本人の歴史認識に対する韓国人の批判は、島根県の「竹島の日」条例制定を契機にして、すっかり元に戻ってしまった。やはり今年は日韓友情40周年などとお祭りをする年ではなく、光復60周年を考える年なのだ。歴史をしらなすぎる日本人の対応が、韓国のナショナリズムを刺激するという構図は延々と続いている。
新しく生まれた子の名前に「玄」の字をつけたのは、玄界灘が日本と韓国をつなぐ玄関口だから。人が住めるわけでもない「岩」を指して領属を争うことのばかばかしさは、日韓の二つの国籍を持つ子供たちが一番に感じるはずだ。
2世が引退し、3世・4世が在日の主流になる時代。日本社会は、もう少しこの一番そばにいる外国人のことを知っていてもいいのではないかと思う。あの頃は「河」をずぶぬれになって渡らなあかんかってんなぁ。4世の子どもたちは、大きくなって、「パッチギ」を嗤い飛ばしてくれるだろうか。
在日の文化
夕食の時の会話「美瑛キムチ食べれるもん」"You are lying !"「ホントだよ」"No, you are lying." 「ウソじゃないもん、ほら」といって娘はテーブルの上のキムチを一切れつまんで「甘いよ」。唖然とした。
韓国でもこのくらいの年齢から徐々に徐々にキムチになれていく。表面的な辛さの向こうにある「甘さ」を感じている点にも恐れ入った。「さすがおまえは韓国人!」。
韓国では食事にさじと箸を使い、基本的にご飯はさじで食べる。さじですくったご飯を少しみそ汁に入れてから口に運んだり、あるいは、茶碗のご飯をごっそりみそ汁に入れて食べたり、というのも「正しい」食べ方だ。いずれも日本では上品な食べ方とは言い難い。
一方で韓国ではご飯茶碗を持ち上げて食べたりしてはならず、左手はつねに膝の上に置いておくのがマナーである。
つれあいの実家では、日本社会の流儀にあわせて教育を受けたという。我が家でご飯の準備をすると、私が韓国式にさじなどを縦に並べて、彼女が日本式に横に並べるといった逆転がおきることがよくある。
在日の2世はしばしば日本社会に適応するために、その文化的背景を隠した。3世が逆に自らのアイデンティティを探して、民族的伝統を再発見していたりする。
日本人の子どもとつきあうときに、私の子どもたちは、箸の使い方一つで「変なやつ」と思われるかも知れない。「郷に入らば郷に従え」というのだから、ことさらに韓国式を死守しろと教育をするつもりもない。
しかし箸を縦において、さじでご飯を食べる感覚も持ち続けていてほしいと思う。4世の子どもたちが大きくなったときには、「これって韓国式の食べ方なんだよ」と自然に説明できるようになっていてほしい。
万博に行く
とりあえず話題になっているからと、万博に出かけた。三重県での講演にあわせて、家族4人での移動だ。比較的おとなしくしてくれるからよいものの、やはり新幹線のあの個室がなくなったのは残念だ。
となりのトトロに出てくる「さつきとメイの家」には子供を連れて行きたかった。もう100回くらい見ているDVDの場面を実際に見せることができればと、思ったからだ。ただしこれは抽選、しかも10倍。最初から無理だとは思ったが、やはりはずれた。あたった人が当日来るとは限らず、けっこう空いていたりするらしい。それもなんだか馬鹿げている。まぁこの手のチケットというのは、販売価格が低すぎて、市場価格との乖離が大きくなりすぎるのだろう。だからネットオークションやダフ屋が介在する。「さつきとメイの家」はダフ屋を排除するために本人認証の手続きまで定めてあった。
次に困ったのが、ホテル。インターネットで考えられるシティホテルをすべてあたってみたが、ほとんど空室がない。探し回ったあげく、ほぼ正規料金の3万円あまりを払って、ツインの部屋に4人で泊まった。悪いホテルだったとは思わないが、ホテルに正規料金で泊まることなぞ、あまりしたことがなく、人の足元を見るような値段設定には疑問を感じた。でもこれではダフ屋の話と矛盾する。希望者が多ければ価格が上がる。これは仕方がないのかも知れない。
しかし行く人が多くて、交通機関が機能しないとなると、何のための交通手段だと言いたくなる。名古屋の駅からは地下鉄を使って直接行くのではなく、JRで迂回をして万博八草を経由するルートを推奨している。その20分に一本の「万博シャトル」の輸送量に「リニモ」が追いつかないのだ。万博が終われば単なるローカル線なのだから、仕方がないのかも知れないが、万博八草に着いてからリニモで30分待ちと言われたときにはあきれかえった。電力館に予約をしていたので、その前にどこかを見て、と思っていたのだが、着いたらそんな余裕は全くなかった。
そんなに大して見て回ったわけではない。トヨタのロボットのショーも当然パスだ。いくつかマイナーな国の展示をさらっと見た。驚いたのだが、展示がとても平板なこと。私は○○館にいけば、その国の人口や面積や風土、主要産業くらいは、どこかに書いてあると思っていた。いつも海外旅行に行くと首都にあるその国の国立博物館に行くのだが、それはその国の歴史を概観できるからだ。ところがそういった展示がいっさいない。ひたすらイメージ戦略で、画像を流しているだけ。オーストラリア館なぞ、待たされたあげくくだらない内容だったので、あきれかえった。
こんな展示なら、トヨタの歴史を展示した産業技術記念館など名古屋周辺にある工業関係の博物館の方がよっぽどおもしろい。
唯一おもしろかったのは、音声認識ロボットを扱わせてもらったとき。日英中韓の四言語に対応しているというので、全部できるといってやらせてもらった。すべて認識してくれたので、とりあえずは合格点というところか。
僕は小学校一年生のときに大阪万博があった。アメリカ館に月の石があり、長蛇の列だったことを覚えている。しかしそれは直接の記憶というよりは、古ぼけたアルバムで何度も確認をしたことを通じた「記憶」でしかない。四歳の子供にもなにがしかの子供にも何かの記憶になっていくのだろうか?
玄ちゃんの講演デビュー
2005年もいろんなところに講演に出かけた。病気をかかえて週末まで働くのはよくないと思う反面、見知らぬ土地、懐かしい場所への遠出は、ちょっとした気晴らしだったりする。特に11月中旬に雪の積もった北海道岩見沢市に行き、その半月後まだ夏の余熱が残る石垣島に行けたのは楽しかった。
石垣島は、はじめての離島での講演だった。聴衆は200人にも満たず、特に爆笑をとれたと思う講演でもなかったのだが、そのあとの本の売れ行きに驚いた。持っていった20冊はあっという間になくなり、講演の翌日にも市役所に注文が来たりして、結局総計で40冊強だったろうか。普段は出版社から直接送るのだが、今回は担当の町田さんにお願いして、いったん本を研究室に送っていただき、一冊一冊サインをして発送した。
人口5万ほどの離島の本屋に並ぶ本といえば、雑誌と漫画と参考書とベストセラーが関の山だろう。日本にもこうして「本に飢えている」人達がいるのだなぁと感じ入った。
しかし講演も遠出になればなるほど、家族帯同が難しくなる。北海道や沖縄に毎回家族を連れて行っては講演料もすっ飛んでしまう。5歳の美瑛はもう鉄道で膝の上ではちとつらい。横が空いているのを期待してグリーン車にしたりとするのだが、いつも連れて行くとなるとこちらも疲れる。それでも家で一人で子ども二人の面倒を見る苦労を考えれば、なるべくどちらかは連れて行かないとと考える。
幸いオーストラリア旅行を境に、玄聖の世話に自信を持てるようになった。それまでは母親でないと泣きやまないと思っていたのだが、粉ミルクで十分対応できることがわかり、日帰りの講演くらいなら何とかなると思えるようになったのだ。
最初は12月10日小平市での講演。これは近場なので子ども二人を連れて行った。もっとも近場は逆に電車に座れないという難点がある。指定席のある特急やグリーン車付きの普通電車なら少しホッとできるのだが、小平ではそういう手段がない。なにを贅沢な、と思われるかも知れないが、講演は2時間近く立ちっぱなしだ。のぞみで東京から名古屋まで立っていくようなもの。せめてその前後くらいは座って疲れをとりたいのだ。
それでも姉弟を連れての小旅行は楽しかった。ちょっとこれ持ってて、といった手伝いを美瑛が充分にこなしてくれるので、見ていてもほほえましい。「これは大丈夫、なんとかなる」。これが玄聖の講演デビューとなった。
さらに翌日は茨城県のひたちなか市へ。常磐線の勝田までスーパーひたちで行くことになる。小平と違って一日がかりなので、とりあえず玄聖だけ。心配して出かけたのだが、行きは上野に出る前の山手線のあたりから「スーピー」いいながら寝てくれて、特急に乗ってる間、少し仕事ができた。
帰りがけに水戸に住む従姉の家族と久しぶりに話をし、またスーパーひたちに。水戸から先は停まらないので、横の空いている席に移動し、乳母車に座らせた。今度はしばらくぐずったのだが、これもたまごボーロや粉ミルクをやっているうちに「爆睡」。後ろの座席にいたおばさんに、「お父さんと一緒なの?ずいぶん慣れていらっしゃるのねぇ。」などと言われた。慣れているどころか昨日がはじめてだったのだが、代々木からタクシーに乗って自宅に着くまで寝てくれた。なんと扱いやすいこと。えらいえらい。
普通のお父さんは休みの日に子どもを連れて、滑り台のある公園に行く。私はときどき子どもを連れて演台のある講演に行く。この子道具付きの講演旅行、まだしばらく続きそうだ。