「世界」

 ヘップバーンとタヌキの間
 婚姻届に異議あり!
 クレヨンしんちゃんの比較社会学
 パパは粗大ゴミ?

 性の相手は男でも女でも?!
 「女性問題」なんか問題じゃない!
 「信濃の国」とナショナリズム

 鉄道オタクってヘンですか?

 ヘップバーンとタヌキの間
       SG系とかクマ系・タヌキ系といった言葉を聞いたことのある人はいるだろうか?ゼミで性の商品化をテーマに取り上げたおかげで、ずいぶん変わった専門用語に詳しくなってしまった。性の商品化といっても、単にそれをすべて悪と考えるのではなく、とりあえずさまざまな性に関する雑誌を集めて分析する、という作業をやってみようと考えた。私の狙いは、現代社会の性欲が決して本能で決定されているのではなく、いかに社会的に構成されたものであるかを、学生さんにとっては身近な(?)性の商品を通じて考えてもらうことだった。いわば「エロ本」を通じて社会が見える、という議論をしてみたかったのだ。性の商品は決して男性向けだけではなく、女性向けの商品もかなり発達している。特にレディースコミックは、中小出版社から性描写の豊富なものが月刊で30誌程度出されており、多いもので公称数十万部と、無視できないスケールになっている。さらに女性同性愛の性行為のみが描かれたレディースコミックや男性同性愛向けのさまざまな写真雑誌を見ていると、性の商品化を性差別の文脈でのみ捉えることは、ほぼ不可能になってしまう。

その一方で私たちの性欲が、こうした商品を媒介として構成されていることも事実である。男性誌やアダルトビデオでは、「○○フェチ」といった分類がなされ、同性愛雑誌では、雑誌を見ることを通じて、その世界に「目覚めた」といった告白が、投欄にあふれている。つまり商品を媒介として、性欲に名前が与えられ、今度はその商品を買い続けることによって、その世界に分類され、「はまって」いく。

これは消費社会論と同じ問題構制ということになる。つまり商品は欲望を充足するだけではなく、次なる欲望を作り出していく。まるでわっかの中を走るネズミのように、私たちは商品を通じて、欲望の充足と刺激を繰り返しているのだ。だからこそ性の商品化なんてナンセンス、との主張にも一理あると言わざるを得ない。こんな馬鹿げたゲームを降りた方が、穏やかな暮らしができるのかもしれない。ただ私がそんな性的保守主義に与しないのは、商品を離れたところに何か本質としての性が存在する、とは考えないからだ。商品はさまざまな欲望を解放する。わっかの外には安息の地が待つのではなく、別の軛があったりするのだ。その意味で性を愛とのみ結びつける考え方は、現代日本社会の主流ではあるけれど、多様な性を認めないという点では、明らかに狭隘な立場なのだ。

       冒頭の言葉は、男性同性愛の雑誌を扱ったときに出てきた用語である。男性同性愛というと、『薔薇族』や『さぶ』といった雑誌が有名で、確かにこれはそれなりに「きれい」だと思う。性欲の対象になるかどうかはともかく、元木やキムタクのヌードなら同性が見ても美しいだろう。しかし学生さんの発表で紹介されたものは、そんな「一般的(?)」なものだけではない。おまけにその筋の本屋で資料収集をした男子学生が、痴漢に遭ってしまったなどという後日談まであって、議論が盛り上がってしまった。お待ちかねの(?)解答だが、SG系とは「スーパーがっちり系」の略らしく、体育会系の体格のいい男性のヌードが載っている。これはまだいい。これに体毛がでてくるとクマ系、さらにおなかの出た中年男性、となるとタヌキ系なのだ。このタヌキ系の雑誌は強烈だった。腹の出た中年男性のヌード写真というのは、私には想像を絶する世界で、気持ち悪いという以外の感情は起きなかった。少なくともこんなものをあまり人目に付くところにおいてほしくはない。ここではたと気がついたのだが、これは「職場にビキニのポスターを貼るな」と主張する一部のフェミニストが持つ感情と全く同種のものだ。彼女たちの主張が、一定の正当性を持つことを肌身で実感できる。

       一方今の日本社会で、たとえばオードリー・ヘップバーンのポスターを職場に貼っても、非難されることはほとんどないだろう。しかしヘップバーンは足首が見えている。肩も出ていたりする。顔や髪の毛も隠していない。時代をビクトリア期に戻したり、イスラム原理主義の社会に持っていったりすれば、これも立派な性の商品になってしまうだろう。

とすると、ここで恐ろしい結論が導出される。つまりタヌキのヌードとヘップバーンのポスターは、性の商品であるという意味において、全く同格なのだ。そして私たちはその間に、線を引いたつもりになっているのだが、これは自分の(もしくは我々の社会の)「恣意的な」性的嗜好を投影したものにすぎないということになるのだ。タヌキのヌードは、私にとって全く無縁の世界という意味で、極北をなす。しかし自分が見たくないということは、見たい人がそれを見る自由を制限できることを意味しない。見たくない人が見ずにすむ自由と、見たい人が見る自由。これを両立させるには、ある種の棲み分けを行っていくしかないのだ。性の商品化は、決して頭から否定してすむような単純な問題ではない。ヘップバーンとタヌキの間に引かれたさまざまな線を検証していくことで、きっと私たちの社会の性のあり方を逆照射することができるはずなのだ。とりあえずこの線の間で危ない冒険をしてくれた学生さんたちに感謝!

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      婚姻届に異議あり!

「あなた、本当に私とやって行くつもりあるの?どうせ届けも出さないくせに。」

「・・・・。」

まずい。結構長くつきあった彼女がキレている。二〇代ならいざ知らず、ここで「ハイ、さようなら」といえるほど、こっちも若くない。どうせ家事をやるのは私だとしても、三〇代半ばにもなれば、そろそろ落ち着きたいという気持ちもある。在日外国人の彼女が受けるかもしれない差別を考えれば、法的な婚姻にもそれなりの意味があるのかもしれない。別姓論者、事実婚主義者の私もこの際節を曲げて、それが彼女の望みなら、国家に届けてもいいかと考えた。ところがだ、翌日某市役所に行ってびっくり。みなさん!婚姻届の様式について真剣に考えたことありますか?

まず私が蹴つまずいたのは「証人欄」。証人の署名捺印の他、住所・本籍地まで書かせている。ちょっと待て。憲法二四条は「婚姻は両性の合意にのみ基づいて成立」すると定めている。僕にとってこれは個人主義の原点だ。これでは天涯孤独の二人は結婚できないではないか。おまけに婚姻届の見本には、しっかり当事者の父親と思われる名前が記載されている。戸主の承認じゃあるまいし。

「変な市民が来た」と煙たがられるのは承知だけれど、こちらも簡単には引き下がれない。証人欄に記入がないと受理されないのかと聞いてみた。回答はやはり「ダメ」。根拠条文は民法七三九条二項で、届け出の要件として「当事者双方及び成年の証人二人以上」による「口頭又は署名した書面」が必要となっている。しかし同時に七四二条二項には、この証人の条件だけが欠けているときには婚姻は無効とならない、との規定もある。ちょっと食い下がってみたのだが、この規定は、これは(誤ってであれ、何であれ)いったん受理された婚姻届に関して、証人欄の不実記載を理由に無効とはされないとの主旨だという。ただし証人に関しては、外国人でもよく、その場合は本籍地及び捺印は不要だという。そうかそれならば、「ウル・トラマン」とか「カメンラ・イダー」という「外国人」が署名した婚姻届はどうなるのだろう。「ふざけないでください」と突っ返されたら、今度は「イブン・ハルドゥーン」や「アン・ジュングン」なら通るかもしれない。だいたい署名は日本語でなくてもいいはずだ。アラビア文字やハングルが並ぶ婚姻届。うーん。友人の弁護士に聞いてみたのだが、「そもそも届出婚を規定した戸籍法七四条が事実婚と区別をしている点で、憲法の主旨に反するといった主張は成り立たなくはないけれど、憲法二四条の立法主旨は戸主権からの独立であって、当人の意志の確認手段として証人という制度があること自体は、ただちに違憲とは言えない」とのお答え。

ちぇ、だめか。

しかし違和感はそれだけではない。父母の氏名や続柄、初婚・再婚の別、再婚の場合は離別・死別の年月日、さらに同居開始前の世帯の主な仕事を記入する欄がある。

ちょっと待て、ともう一度キレてしまった。ある人が再婚であることを隠して結婚することは、当人同士の問題であって、第三者がとやかく言う性質の問題ではないはずだ。それを国が届出の際に暴く必要があるのだろうか?女性の六ヶ月間の再婚禁止規定(民法七三三条)との関係で設けられた記入欄だろうが、新しい出発をしようという再婚の人に、過去の離別・死別の年月日を書かせるなんて、無神経きわまりない。同時に提出される戸籍謄本などで確認できることであり、わざわざ書かせる必要はないはずだ。

おまけに世帯の仕事?あまりに変だと思って、「この欄は書かなくても受理されますか」と聞いたら、「どうしても嫌なら構いません」との答え。でもそれも少し変。これらはいずれも戸籍法施行規則五六条に定められた婚姻届に必要な事項であり、国からの機関委任事務を担当している自治体が独自の権限で取捨選択できるようなものではない。だとすれば、五六条に定められた諸要件に基づいて作られた婚姻届の様式に関して、「どの要件は欠けていてもよい」といった通達が出ているはずだ。いったいどの要件は欠けていても受理してもらえるのだろう。ちなみに全く同じことは離婚届に関しても言える。未成年の子供の親権者を記入すること(戸籍法七六条)は必要としても、戸籍法施行規則五七条に従って、離別前の世帯の職業や父母の名前を書く欄があることはどうにも納得がいかない。

疑問はつきないのだが、私ものんびりしてはいられなかった。不審の点は後日市役所に出しに行くときに、もう一度確認してみることとしよう。その足で都心のMデパートに行き、ミーハーにもティファニーのアクセサリーを買って、自分の印を押した婚姻届とともに彼女に渡したのだ。ところが先方曰く「あぁ、ありがとう。まぁ考えとくね。」

ガーン!婚姻届の様式はともかくとして、この関係にはまだ、肝腎の「両性の合意」が存在しないのであった!

 

おことわり:本文中の登場人物はすべて架空のものであって、実在する「私」とは一切関係がありません。悪しからず。

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       クレヨンしんちゃんの比較社会学

「おー、ねぇ〜ちゃん、オラをナンパしてる゛なぁ!」

実は私は野原しんのすけの物真似が結構得意だったりする。特段歌がうまいわけでもないので、カラオケに行くとついついお笑い路線に走るのだが、クレヨンしんちゃんは、必ずウケが取れるのでなかなか重宝だ。いや、そんなことはどうでもいい。このクレヨンしんちゃんが中国語や韓国語に翻訳されていることをみなさんはご存じだろうか。

     

 日本の漫画がアジアで翻訳されること自体は、珍しいことでも何でもない。漫画やアニメに関しては、日本は世界で最大級の生産国である。当然水準も高いため、輸出競争力があり、トヨタの自動車やテレビゲームなみに世界中へと広まっていく。「ドラゴンボール」や「セーラームーン」はその代表例だろう。まぁこれはわかる。格闘技ものというのは、子供の世界では定番だし、特に女の子が闘うという設定を持つセーラームーンは、なかなかユニークだ。セーラームーンの場合は、世界中の女の子が、実は「闘う」欲望を投影できる対象を探していた、というわけなのだ。世界に広がるだけのユニバーサルな「売り」をこれらの漫画・アニメは持っている。それに引き替えクレヨンしんちゃんは、あまりにローカルではないか。やれ春日部だの、かとうれいこの写真集だの。同じローカルでも「ちびまるこちゃん」が台湾でウケるのは理解できる。地方都市清水を舞台とするほのぼのとした三世代同居の風景は、ちょうど「おしん」が発展途上国で熱烈に受け入れられたのと同じように、古き良き時代への共通の郷愁を誘うものだからだ。しかししんちゃんにどんな「普遍性」があるというのだろう。

       大人の目から見たときのクレヨンしんちゃんのおもしろさは、「変な子供」という点につきる。母親の名前を呼び捨てにしたり、お留守番のご褒美にハイレグの写真集をねだったり、妙にこまっしゃくれたガキである。子供はもっと素直で純真、と(勝手に)信じている世のお母さんたちが、あれを子供に見せたくない、というのはよくわかる。しかしこの漫画は、大人向け(掲載誌は『アクション』)でスタートしたものの、数年前爆発的な人気となったのは、子供にウケたからだ。子供にとってのしんちゃんは、新しいタイプのヒーローである。同じいたずらっ子でもカツオ君のように素直ではなく、母親を困らせようと思って、何かをしでかし、勝利宣言をしていたりする。実は子供は自分たちの鬱憤を晴らしてくれるこんな「邪悪な」ヒーローを待っていたのだ。

       台湾でクレヨンしんちゃんがバカウケしたときに、新聞などで日本と全く同じように、「あれは子供にはみせたくない」という親の意見が紹介されていたことは、しんちゃんのヒーローとしての「素質」がかなりユニバーサルなものであることを物語っているのである。さらに中国語版と韓国語版のしんちゃんを読んでいくと、日本の漫画に対する東アジアの微妙なスタンスの違いが、見事に現れる。中国語版の方は、台湾で翻訳されており、私の知る限り、香港にはあるが大陸では流通していない。大陸では性的表現などが敬遠され、輸入が禁じられているものと思われる。タイトルは「蝋筆(=クレヨン)小新(=新ちゃん)」とほぼ直訳に近く、春日部やかとうれいこもそのまま登場する。みさえも「美冴」と表記され、日本が舞台であることをむしろ強調するような作りになっている。台湾の読者がこれを読んで一体どこまでわかるのだろうと少し疑問に思うときもあるのだが、とにかくしんちゃんは台湾では大ヒット。一時はミッキーマウスをもしのぐキャラクターとなり、デパートにはしんちゃんのぬいぐるみが並んでいる。おもしろいのは韓国だ。日本の映画や歌謡曲は、現在開放するか否かで熱い議論の最中だが、この制限は列挙事項だったために、漫画には適用されていない。韓国の週刊や月刊の漫画誌は、作り自体が日本の影響を強く受けている上に、作品でも日本の翻訳がかなり見られる。クレヨンしんちゃんのような「下品な」漫画はダメだろうと思いきや、これがちゃんと翻訳されて雑誌に連載されている上に、単行本もある。ただし「成人漫画」!帯には「これで成人漫画の概念は変わった!」と書かれていて、本屋で大笑いしそうになった。野原しんのすけは「孟(メン)チャング」、タイトルも「チャングにはかなわない」、作中の固有名詞はほとんど韓国風に改められているので、韓国人が読めば、韓国の情景のように読み進められるはずだ。かとうれいこの写真集は、シャロンストーンの写真集に化けていた。「お雑煮よ!」と言われて「象」煮だと思って慌てるといった日本語の言葉遊びについては、仕方なく欄外に説明が加えられている。全体として日本色を極力薄めて受け入れようとする韓国側の姿勢がよくわかるのだ。日本の漫画文化の圧倒的な影響力にさらされる台湾と韓国。十年もすれば、しんちゃんを見たアジアの子供たちが、成人として出会うのかもしれない。しかし両国のしんちゃんの待遇は対照的なまでに異なっている。しんちゃんの比較社会学は、私の物真似よりずっとおもしろいのだ。

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       パパは粗大ゴミ?

中年男性が休日家でゴロゴロしていると、「粗大ゴミ」などと揶揄されてしまう。

しかし実はこれ、エコロジーとフェミニズムの類縁性を示す最高のたとえだって、気が付いていましたか?

 

フェミニズムが問題にしてきた労働力の再生産とは、今日使って疲弊した労働力が、明日も働けるためのリサイクルメカニズムのこと。その日その日の家事に加えて、次世代の労働力を育てること(育児)、さらには「使い古し」の労働力のケア(介護)を含めれば、私たちが広い意味で家事だと考えている家事・育児・介護はいずれも労働力の再生産という経済の裏側のメカニズムだということになる。これが安定的に機能していないと、労働力という商品にとって、ひいては経済全体にとって「明日」はないのである。

       家事は個々の機械の日々の手入れ、育児は古くなった機械の置き換え、ここまでは機械や部品と同じだ。しかし人間は機械ではないので、労働力として経済的に役に立たないからといって、「ハイ、さようなら」というわけにはもちろんいかない。人間としての尊厳を経済的な有用性に還元できないのは当然であるし、使えなくなったらさようなら、では経済的に有用なシステムとすらいえない。そうした観点から見ると、労働力の再生産とは、実は労働力という商品にとっての「ゴミ問題」なのだ。人間の世話をすることを指して「ゴミ問題」とは何事か、とのお怒りは至極ごもっとも。しかしここはそうした言葉尻に捕らわれず、今までの経済計算の外側にあるものが、広い意味で「ゴミ」なのだと考えていただきたい。子ども・老人・帰宅後のオヤジは、その意味で「ゴミ」なのだが、それは商品が商品としてあるために、不可欠なものでもあるのだ。従来の(主婦という)「ゴミ処理システム」というのは、性別によって労働力商品(企業戦士)とゴミ処理担当者(主婦)がわけられ、企業は「ゴミ処理」のプロセスやコストをほぼ意識することなく、(男子)労働力という商品を消費することができた。これはゴミ処理を担当する側から不満が出ない限りにおいては、それなりに合理的なものであったかもしれない。一九世紀のイギリス以降、この制度が多くの資本主義社会で採用されたことは、それが一定の支持を得ていたことを示しているだろう。

しかし高齢社会を前にして、もはやこのシステムでは、介護や子育てにまつわる莫大な「ゴミ」を処理できないということが明らかになってきた。これが現代日本の抱えるもう一つの「ゴミ問題」なのである。商品を買えばゴミは出る。このコストを生産者と消費者、それに行政が分担していかなければ、ゴミ処理はたちゆかない。この環境問題にとっての常識をもう一つの「ゴミ問題」に当てはめれば、解決の方向性は自ずから明らかとなる。性別による、労働力とゴミ処理担当者という区分がもはや不可能だとすれば、「ゴミ」は家庭の外に出され、行政や(労働力の消費者である)企業の力を借りて処理されることになる。主婦だった人が外で働けば、その分行政には税金が、企業には新たな(労働力と

いう)商品が提供されるのだから、行政や企業に応分の負担が求められるのは当然である。またそれを促進するためにも、配偶者控除のような家庭内ゴミ担当者を特別に優遇するような制度は、撤廃しなければならない。ゴミ(子ども)を出さないという選択肢は、次世代労働力の確保という観点からあまり奨励できない。とすれば家庭の外でそれを処理できるシステムが必要なのである。こうした前提から考えれば、現在の企業社会における男女差別や女子学生の就職難は、ゴミ処理コストを誰にどう加算するかという問題として捉えられる。今、きちんとした処理をせず(したがって料金が安いが)汚染をまき散らす産廃業者と、基準通りの処理をする産廃業者がいたとしよう。企業にとってのゴミ処理コストは、いい加減な処理をする業者の方が安いため、この業者に注文が集中し、挙げ句の果てには未処理のゴミが不法投棄されてしまう。これは女子学生の就職難と全く同じ問題なのだ。企業にとって、育児休業や家事の制約がある女子労働力は、コストの高い労働力である。つまり労働力の再生産というゴミ処理コストは、(本来労働力という商品全体のコストであるにもかかわらず、)現在は女子労働力の上にのみ加算されており、市場では女子は男子に比べて高い商品になってしまうのだ。現状ではゴミ処理のコストが正しく商品に加算されていないのであって、これでは商品のリサイクルは成り立たないのである。産廃業者の比喩を使うならば、まずは再生産コストが正当に加算されていない悪徳業者に襟を正してもらわなければならない。要するに男性ももっと家事を、ということだ。さらに行政でもそれを誘導するために、男性の育児休暇取得や妻の出産に際しての休暇取得を促進するなど、「品質管理」に一定の基準を要求することが必要だろう。(消費者である)企業も短期的に安ければいい、といった発想を克服しなければならない。次世代の商品に向けた「ゴミ処理」をきちんと行っている商品を選択するという「グリーン・コンシューマリズム」が求められるのだ。さらに商品としてのわれわれ自身、自分が「ゴミ」にならないようにするということにも取り組まなければならない。何のことはない、要するに働ける限り働くのだ。

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      性の相手は男でも女でも?!

「ようするに性欲の対象が、男でも女でもいい、性別に依存していないということです」。

考えてみれば特段珍しいことではないはずなのだが、みんな一瞬ぎょっとして、それでも「うーん、なるほど」とうなってしまった。異性愛は自然であり、それ以外は異常だと信じている人は、案外多いようだ。しかし同性愛行為というのは、サルの世界にも存在する。現代でも男子校や女子校、軍隊のように同性が集中する空間ではごく自然に発生するし、そうした環境になくとも一定の確率で存在するはずである。

よく言われるように、近代社会というのは、同性愛者というのを発見した時代であった。同性愛行為自体はサルの昔からある。それを同性愛者として分類し、「変態」というレッテルを貼り、病気の名のもとに排除しようとしたのが西欧近代だった。「テニスをする」ということと、その人が「テニスプレーヤー」として分類されるということは全く次元の異なることである。性が人格の中枢へと読み込まれていくことで、「同性愛者」が作り出され、カテゴリーとしての同性愛者が作られることで、異性愛者との壁がもうけられるのだ。

       さらにそれに対する対抗として、(自ら同性愛者と名乗り出る)カミングアウトという戦術が用いられる。これは確かに貼り付けられたレッテルの意味を肯定的に捉え返すという意味は持っており、その限りで積極的に評価すべき事であることは疑いない。しかしこれだけでは異性愛との壁を崩すという方向性は持ち得ないこともまた事実である。「テニスプレーヤー」にならないとテニスができない社会より、スキーも好きだけどテニスもやります、という社会の方が、テニスをやりやすいに決まっているのだ。

       男娼の多くいた江戸の社会では、男にとって女を買うか、男を買うかは等価な選択肢であり得た。これは「同性愛者=変態」という西欧近代の性観念を受け入れる以前の多くの社会で見られる現象でもある。買う主体が男でしかなかったという問題は当然あるにせよ、そこには異性愛と同性愛にまつわる、われわれの社会が当然視するような懸隔が存在しない。いわば性欲の対象が、性別に依存していないのである。現在男性向けのポルノグラフィーでは、異性愛向けのものと同性愛向けのものが、はっきりと区別されている。そのどちらにせよ、男らしさが強調されている点も興味深い。異性愛向けのものの中で、女性同性愛が描かれることはあっても、男性同性愛は決して登場しない。これは江戸の性のあり方を考えれば、ある意味で「奇妙な」現象なのだ。

       これに対して女性向けのポルノグラフィーを分析していて印象的なことは、異性愛と同性愛の間の垣根が低く、一つの作品の中で同一の主人公(女性)が男性と女性を相手にするといったストーリーが散見されることである。現代日本では女性の方が、同性愛やバイセクシュアルに対して寛容だということになる。ところが冒頭の発言は、ゼミで「男性向けショタコン誌」をあつかったときに出てきたものだ。ちょっと用語解説が必要だろう。ショタコンとはもともとロリコンの対語で、女性が少年に対して性欲を持つことを指している。ショタの語源は「鉄人28号」のリモコンを握る少年「正太郎」から来ていて、半ズボン姿の少年というのがキーポイントである。この分野は少女漫画ではかなり確立していて、発行部数も多い。ところが部数は多くないものの、男性向けのショタコン雑誌というのがある、というのがそのときの発表の一つのネタだった。そこに描かれた世界というのは、ある意味で変わっていて、家庭教師のお姉さんとセックスをしたかと思うと、兄弟同士が絡んでいたりする。女の子が性欲の対象となるロリコンと近いものとして描かれる場合もあって、そうなると性器が描かれなければ、性別すら判別できない。かわいければ対象となる性別はどちらでもありうるのだそうだ。しかもアニメ系のタッチで描かれている世界は、劇画調の男らしさといったものからも無縁で、男らしさが敬遠されていることがよくわかる。このようにさまざまな意味で、男性向けのポルノコミックの文法を逸脱しているのだ。

       小児性欲にまつわる一連の問題についてはここではひとまずおいておこう。何より興味深いことは、性欲が異性愛と同性愛という垣根を越えて構成されている点だ。これは私たちが普段いかに異性愛へと(もしくは同性愛へと)構成されているか、ということを逆に示してくれる。織田裕二が鈴木保奈美と○○○○の間で揺れる、なんてトレンディドラマがあったっていいはずなのだ(古くてごめんなさい、でも結構話題沸騰だと思うんだけど)。そしてその問いはさらになぜ性が二つに分類されているのかということにもつながっていく。性別が、性欲の対象になりうるかどうかを指し示すものでないとしたら、果たして性別が二つでなければならないということを、説明する根拠はあるだろうか。「かわいいけど性別不詳の世界」というのを見ていると、だんだん自分がなぜ異性愛者なのかがわからなくなってくる。

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       「女性問題」なんか問題じゃない!

       私はジェンダー論が専門。こんな発言をすると誤解されてしまいそうだが、それでも黙ってはいられない。そう「女性問題」なんか問題じゃないのだ。ここのところ東京高検の則定衛氏、ニュースステーションの菅沼栄一郎氏と「不倫」が原因の辞任騒ぎが相次いだ。さらに最高検次長検事の「浮気で辞職しなければならないとなると、人の目ばかり気にするようになり、活力を奪うことになる」との発言に対して、女性議員の有志が女性蔑視だとして法相に抗議をするという事態にまで展開してしまった。

       ちょっと待ってほしい。不倫は公職を追われる理由となり、性差別的な行為なのだろうか?則定氏の場合は、業者との癒着があったとすれば、これは不倫の有無とは無関係に大問題である。このことを理由に辞任というのなら当然だ。しかし不倫の方は、当事者同士の合意があるのなら、犯罪でもなんでもない。新聞のコメントでは、「検察官には高い倫理が求められる」という趣旨のものまであった。しかしこれは倫理の高低で済ませられる問題ではないのだ。

       「浮気容認」発言に対する女性議員の抗議は、彼女たちが性関係を結婚した夫婦の間にのみ認めるような、近代家族的規範を強く信じていることを示している。恋愛結婚と結びついた近代家族の一夫一婦制は、性を結婚の範囲内においてのみ認め、両性を拘束するという規範を伴うものであった。この立場からは、従来の家長中心の家制度で男性のみに認められていたような、婚外性交渉や売春は否定されるべきものとなる。そうした家制度的な性規範に対する、男女平等の視点からの批判として、この規範は確かに意味を持っていた。

       しかしこれに対して、現代の性行動は、あきらかに婚姻の範囲を超えており、浮気は一般化している。そして現代の浮気は、決して男性だけが行うものではない。林真理子の『不機嫌な果実』の「夫以外の男とのセックスはどうしてこんなに楽しいのだろうか」という表現が話題となったが、女性もその一端を担う以上、浮気と性差別は別のものである。これが重なるように見えるとすれば、男性の稼ぎなしでは生きていけない専業主婦層の保身以外の何者でもない。近代家族とは、そうした役割分担を前提にして相手を拘束し合う性的排他性を持つものだったといってもいいだろう。そしてそうした近代家族の性規範の息苦しさに対する反発が浮気という形で表面化しているのだ。

       その意味で近代家族的な性規範は、すでに現代という時代とは齟齬を起こしている。つまり女性議員たちの抗議は、(近代家族という)1周前の性規範で、(家制度的な)2周前の性行動を批判するという形になっており、これでは他人の性に対する抑圧的な介入であるとともに、何より女性の性自体を、ある型にはめてしまう危険性があるのだ。

       離婚件数が結婚件数の3割を越える現在、婚姻関係の中で配偶者以外との性交渉が存在することは、珍しいことではないだろう。性的自己決定権を尊重する立場から見れば、性交渉において当事者同士の合意があったかどうかのみがその性交渉を正当化するのであって、法的な婚姻関係の内か外かが重要なのではない。夫婦間でも強姦は犯罪とされるべきだし、不倫は逆に公的に非難されるべきことではないのだ。

       もちろん不倫を勧めるつもりはない。ただしそれは夫婦や当事者間で解決されるべき問題で、他者が安易に介入すべきことではないだろう。たとえば妻が性的排他性を信じ、夫がそれを重視しないという組み合わせならば、両者の力関係でどちらかが譲歩をするのだろうし、菅沼さんのようなケースでも、もし妻が「じゃぁ私も時々浮気をします」ということになれば、どこにも被害者はいないことになる。

       「英雄色を好む」だとか「まぁ男なんてみんなそんなもんだし」といったオヤジたちの酒飲み話のノリで、こんなことを言っているのではない。女性議員たちの抗議が、2周前の旧態依然たる男性たちにのみ向けられるのなら、賛成をしてもいい。でもこれはそんなことですむ問題ではないのだ。性的排他性を信じるかどうかは、個人の性的指向性の問題で、倫理の高低の問題ではない。そして個人の性的指向性や性的プライバシーをもとに公職を追われるようなプレッシャーがかけられるとしたら、これは由々しい事態である。このことを延長すれば、たとえば、離婚をすると最高裁の裁判官を辞めなければならないのだろうか? 同性愛者だと高検の検事長にはなれないのだろうか?

       もちろんお互いに結婚相手との関係のみに拘束し合って生きる、という生き方はこれからも尊重されるなければならない。問題なのは、それを他人に向かって標準として押しつける態度である。性的指向性の多様性を認め合い、お互いがその違いを認識する、ということがない限り、今回のようなリンチが繰り返される。そしてこれは同性愛者へのいわれなき差別や離婚への社会的制裁、といったことと全く同じ構造を持った発想であることを理解してほしいのだ。

       朝日新聞の九七年末の世論調査でも、不倫に関して「許されることもある」と考える人は、全体の四五%、女性でも四〇代以下では五割を超えている。現代はもはや不倫の否定が「正義」となる時代ではない。

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       「信濃の国」とナショナリズム

       君が代は充分な議論もなくあっという間に「国歌」になってしまった。天皇をたたえる明治近代の国民統合装置が、今頃になって再度お墨付きを与えられてしまうことの問題性は、いくら強調しても足りない。由々しい事態だといわざるを得ない。

       ナショナリズムの原点は、郷土愛にあるなどとよくいわれる。自分の育った空間に対する素朴な愛着と、国民国家という近代社会が生み出した区切りへの愛着を同一視できるかは疑問かもしれない。しかし考えてみれば、「郷土」の範囲も決して自明ではない。毎夏甲子園で繰り返される「都道府県代表」による高校生の野球大会は、おそらく国体以上に、県を単位とするアイデンティティの創出・再生産の装置として機能しているはずだ。そうした装置なしには、九州と四国を合わせたよりも広い北海道が一つのユニットをなし、岩手県ほどの面積の四国が、4つの県に分断されている現状を、誰も説明できないだろう。廃藩置県の直後には百以上あった都道府県が、四七にならなければならない必然性など、ほとんどないに等しいのだ。

       そうした統合の装置として、国では国旗や国歌が用いられるわけだが、皆さんの中で出身都道府県の歌を歌える人はいるだろうか?「そんなのあるの?」という人が大半だろうが、全国に一つだけ、ほとんどの県民が歌える県歌がある。ご存じ(?)長野県の県歌「信濃の国」である。長野オリンピックの開会式でも使われたので、あるいはご記憶かもしれない。長野県民にしてみれば「何をいまさら」という感じかもしれないが、実はこの歌、ナショナリズムを考える上で実に興味深いサンプルなのだ。

       一八九九年作詞のこの歌は、長野師範学校で歌い継がれ、その教え子を通じて、県下の小学校へと浸透していった。教員組織としての信濃教育会は、一九三三年長野教員赤化事件で弾圧を受けるまで、自由主義教育を広めたことで有名であるが、県内の各小学校で現在まで歌われてきた「信濃の国」は、その信州教育の一つの象徴的な存在だったのだ。

       六番まである歌詞はまず、「信濃の国は十州に境連ぬる国にして」と領土の確定から始められる。同じく十九世紀に作られ、一九二二年にドイツ国歌となる「世界に冠たるドイツ」が一番の歌詞で「アース川からメメール川・・・」と川を用いて領土の外延を示しているのと同じである。ちなみにこの一番はナチスとの関係で戦後歌われなくなっているが。

       さらに「松本・伊那・佐久・善光寺、四つの平は肥沃の地」と県内の主要な盆地をあげる。この四つはそれぞれ中信・南信・東信・北信の各地方の代表地で、県内を満遍なく取り上げている。注目すべきは「善光寺」という言葉で長野を表している点である。この歌は長野県の歌なのに「長野」という言葉が一度も出てい。長野というと長野市を連想させるために中信・南信地方などで反発があるのだ。したがって過去の統一のシンボルたる「信濃」が象徴として用いられる。ここには内なる統一をもくろむナショナリズムに絡む中心・周辺問題とそれに対する配慮が表れている。

       二番の歌詞では県内の山川が紹介される。韓国の国歌「愛国歌」が「東海(=日本海)の水と白頭山」で始まるように、山河というのはナショナリズムの象徴に必ず登場する。「基地のない日本」を呼びかける日本共産党のポスターが富士山をバックに用いるのも同じ発想だ。三番では農林漁業養蚕業、と産業が歌われ、四番は寝覚の床などの観光地。五番では木曾義仲から佐久間象山まで県出身の偉人を紹介して子供に希望を持たせ、六番には当時新しく開通した碓氷峠を貫く鉄道が歌われている。後に続けと次世代の子供を鼓舞することは国歌の一つのパターンだし、地名を歌に歌い込むのは、「汽笛一声」の鉄道唱歌と同じで、鉄道の開通など交通の発展とともに、領土を俯瞰する発想が生まれてきたことを示していよう。要するにこの歌を覚えれば県内の名所や産業などを一通り頭に入れることができるようになっているのである。

      長野県は県内の仲があまりよくない県である。�県庁所在地が県内で圧倒的な人口をもつ都市ではない。�県内の交通網が県庁所在地に向かっていない。この二つの条件を満たす県は必ず県内で綱引きが起きる。福島、埼玉、山口などが典型例だが、長野もご多分に漏れない。だからこそ信州大学は四地域にキャンパスを分散させているし、新幹線は長野だが、空港は松本にある。昔から中信+南信対北信+東信で対立があり、前者がしばしば筑摩県の分県運動を起こしてきた。県の歌が必要なくらい、県民統合に苦労してきたといってもいいだろう。昭和二三年の分県の「危機」に際して、県議会傍聴席からわき上がった「信濃の国」の大合唱が、分県運動を抑えたことは有名なエピソードだ。見方によっては分離独立運動に対する「弾圧装置」としての役割を果たしたことにもなるのだ。

       こんな話を講義ですると、長野県出身の学生さんから「県歌なんてみんな歌えるものと思ってたんですが、長野県民だけだと聞いてびっくりしました」なんて感想が来て、こちらがびっくりしてしまうが、「信濃の国」問題が、「問題」にならないのは、なんといっても「信濃の国」を歌う長野県兵士が、岐阜や山梨を侵略したりしなかったからだろう。

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      鉄道オタクってヘンですか?

       関東大震災後の混乱で虐殺された社会主義者大杉栄は、投獄のたびに新たな外国語を習得して、「一犯一語」などと称したという。その精神力には頭が下がる思いだが、私は勉強なんて到底気力が続かないだろう。読書家でもないので、小説もだめかな。やっぱり差し入れてもらうなら時刻表が一番。意外な経路を見つけだしたり、一番安い行き方を計算したり、あっという間に時間が過ぎていくはずだ。

       小学生の頃、私は結構熱心な鉄道マニアで、当時営業路線から消えつつあったSLを追いかけて、休みごとに一人で関西から親戚のいる鹿児島に行ったりしていた。出張の多かった祖父の旅行プランを立てるのも私の仕事で、それがまたいつもひと味違うルートを選択するものだから、祖父にはよく誉められた。もっとも本当にいつも喜んでいたのかどうかなど、今となっては検証できないのだが。

       それにしても鉄道マニアというのは、どうしてこうも変人扱いされるのだろう。旅客鉄道がこれほど発達しているのは、世界でも日本だけなので、日本の鉄道マニアは層が厚いのだが、ものを集めたりする他のさまざまな趣味と比べて、特に変わっているわけでもなく、一部の性的嗜好のように「平均的な」社会規範から「逸脱」しているわけでもない。航空機マニアやカーマニアと同じように乗り物に興味をもっているというだけなのに、「飛行機オタク」「車オタク」は単なる合成語に過ぎないが、「鉄道オタク」というのは一般名詞のような安定感がある(?)。私自身、「スキーやテニスが趣味で」というのはいいが、「差し入れは時刻表で」なんて「カミングアウト」するのは結構勇気がいるのだ。

       車と鉄道との決定的な違いは、空間の密閉性と助手席の有無にあるのだろう。車雑誌の多くは、表紙に若い女性の写真を載せている。カーレースの世界からレースクイーンのような女性性を典型的に表現する存在が生まれてきたことは、ある意味で象徴的であるかもしれない。つまり男性にとっての車とは、女性を横に乗せるための道具、女性との関係を取り持つ媒体としての役割を果たしており、車への関心は助手席を介して、異性へと開かれていく。そして密閉性は、いうまでもなくその空間がいつでも簡易ラブホテルに転化しうることを意味している。

       車はしばしば服装と同じように、その人(特に男性)のセンスや経済力を誇示するメディアになる。どんな車の助手席がいいかと聞かれて、「アウディ!」「ポルシェ!」などとコギャルが答えていくのを見ながら、さんまが「どないする?」と男性に聞く、缶コーヒーのコマーシャル。そんな女性が多数派かどうかはともかく、これは男性が車を介して異性に抱くコンプレックスを表現しているのだ。私のように、サビが目立つ12年もののファミリアなんかに乗っている人間は、きっと相手にされないような気がする。

       一方鉄道にはこの個室の助手席がほぼ存在せず、したがって鉄道を介して異性へと広がるという回路が閉ざされている。車は車でもバスに関心を持つバスマニア(というのもいるのだが)が、鉄道マニアとほぼ同系列の人種であることは、こうした事情によっている。鉄道雑誌の表紙で、ミニスカートの女性が新造車両を指さしていたりしたら、結構画期的だ。車には助手席、飛行機にはスチュワーデス、というように女性の居場所があるために、車や飛行機にはそれなりに女性のマニアというのも存在するのだが、女性の鉄道マニアは極端に少ない。これも異性へと広がる回路のなさとと関係しているのだろう。

       「オタク」の一つの特徴が、対人関係のぎこちなさにあるのだとしたら、ナンパの道具として車を考える「カーマニア」と女性にもてない「鉄道マニア」とはおそらく対極的な位置にある。「服装にこだわらない」、「同じ撮影現場にいるのにお互いに話もしない」、「周囲の目も気にせずに電車の運転席をずっと見てたりする」。鉄道オタクについてしばしば指摘されるこうした特徴も、女性の不在と対人関係不全といったことで説明できるような気がする。

       もっとも最近では寝台の個室も増え、豪華な車両もある。旅行雑誌では女性がモデルになった個室寝台の試乗記も珍しくはない。鉄道マニアも、旅行の相談相手としては、それなりに役に立つ(たぶん)。日本の地理が一通り頭に入っているので、いろんな地方の出身者とも話を合わせられる(かもしれない)。歌って踊れるかっこいい鉄道マニアだっているはずだ(?)。「今度カシオペアで札幌に行かない?」というのは、「ポルシェ買ったんだ、ドライブしない?」というのと同じような口説き文句になったりするのだろうか?

       初めて一人で寝台特急に乗ったのが小学校三年生の春。当時華やかなりし「順法闘争」で列車が遅れ始めると、私は心配するどころか、愛読書の時刻表を指しながら、「あと十五分遅れると特急料金が払い戻しになるんです」と周囲の人に説明していたのを記憶している。(ちゃんと役に立っている?!)そして西鹿児島の駅に着くなり、私は迎えに来てくれた親戚を突き飛ばすようにして精算窓口に駆け込んで、特急料金六百円をせしめたのであった。やっぱり単なる変人か。

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