◇◆セフコTの青春時代最後の山行◆◇
   残雪の穂高連峰縦走
 大学を卒業して3年目の五月連休。私と同期のY君とO嬢とY君の職場の同僚2人と、5人で残雪の穂高連峰を縦走することにした。縦走というスタイルの我々にとって憧れとも言える残雪のゴールデンコースである。社会人になり、今回はリッチに小屋泊まり(自炊ですが)。


5月1日(夜行)〜4日・夜行2泊3日

5月1・2日 新宿松本新島々=上高地━明神━徳沢━横尾涸沢ヒュッテ
     3日 1━穂高岳山荘
     4日 2 ━奥穂高岳━前穂高岳━岳沢ヒュッテ

上高地から入山
 初日は晴れのち曇りのまずまずの天気。順調に涸沢ヒュッテ着。翌日は寒冷前線の通過で天気はよくなかったが、とりあえず穂高岳山荘まで上がって、様子をみることにした。穂高岳山荘まではすぐなので、この日は半日停滞のようになった。翌日は朝から快晴で山荘からご来光をながめることが出来た。前日行けなかった涸沢岳をピストンして、予定通り前穂を越えて、岳沢を下ることにした。
涸沢カール
 7時50分、奥穂高岳山頂着。この先前穂高までの吊尾根は緊張の連続となった。朝の冷え込みで雪面は凍っており、斜面のトラバースは気の抜けないピッケル・アイゼンワークとなった。スリップすればそのまま滑落する恐怖感がペースを遅らせた。

 約3時間かかって前穂高岳山頂着。時間は11時20分。風も弱まり、360度の大パノラマを堪能する。ここで昼食、約1時間の大休憩となる。
穂高岳山荘
なぜかモノクロ写真(白黒フィルムで撮影)
前穂高岳山頂
 12時15分、前穂高出発。重太郎新道を下る。雪と岩が交互に出てきて、午後になり雪が腐りはじめ、アイゼンが団子になる。13時50分、10分休憩。このあたりから夏道が出てきて、ピッケル・アイゼンをしまう。

 14時30分、標高2530m地点で再び雪が現れる。約7m程の雪渓のトラバースとなる。トップのO嬢が通過したが、雪が腐っていて滑りやすいとのこと。そのため全員が再びピッケルを持つ。セカンドK君が雪渓でスリップ。5m程滑ったがピッケルによる滑落停止を行い、さらに灌木帯にひっかかり停止した。Y君がK君の所まで行き、キックステップでトレースまで戻る。次にA君が通過。最後に私が通過。私はピッケルを出した時点では、ここを過ぎればまたしまうことになるので、ピッケルバンドを手首に巻いていなかった。しかし前4人が滑ったりして、待つ時間が長かったので、ピッケルバンドを手首に巻いた。(これが後で大きな意味をもつことになる)

 私もみんなと同じ所でスリップした。その時点ではみんなと同じようにあの灌木帯で止まると思って、滑落停止行動をとらなかった。しかしすでに雪渓が滑り台のようになっていたのか、勢いがついて、灌木帯が踏み切り板のようになって体が投げ出されて、横転しながら滑落していった。一瞬何が起きなのか理解できない。しかし、加速度がついて滑落停止など出来る状況ではなくなった。回転しながら頭から落ちていった。ザックがはずれた。ザックはそのまま先に落ちていった。2度3度と雪面にバウンドしながら落ちていく。

 死ぬ、と思った。よくこういう時は過去のことが走馬燈のように駆けめぐる、言われる。でも逆だった。ここで死んだら、これから経験するいろいろなことを俺は経験せずに死んでいくのか、とそんなことを思った。勢いは増すばかり。もうダメかと思った瞬間、体が止まった。木に引っ掛かったわけではない。あたり一面雪の斜面である。

 すでに手から離れていたピッケルが雪の斜面にささったのである。そしてピッケルバンドで繋がれた右手首一本で止まった。うつぶせで万歳した格好で斜面にへばりつくように止まった。助かった、と思った瞬間、落石が頭を直撃。出血。顔中血だらけになる。

 近くの斜面で雪上訓練をしていた人が助けにきてくれた。しばらくするとY君も滑落した斜面を降りてきて、合流。眼下に岳沢ヒュッテが見えた。ヒュッテまではそう遠くないので、二人に両肩をかかえられながら降りる。この間、私の意識ははっきりしていた。しかしなぜか息がうまく出来なかった。あとで病院で診察してわかったのだが、肋骨が2本折れて、それが右の肺にささって肺がつぶれていた。外傷性気胸である。怪我の内容はこの肋骨骨折と気胸、頭部裂傷、肘・膝の打撲、左目の内出血であった。

 小屋で横になっていてもこの呼吸困難が治まらない。小屋のおじさんが、ヘリコプターを呼ぶか、と聞いてきた。ヘリ飛ばすと30万円かかるが、いいかと。ちょっと待ってくれ、と言ったが、この息が出来ない苦しさは半端ではなく、どう考えても、歩いて下山は無理だった。すみません、やっぱり呼んでくださいと言った。この日北アルプスで7件位の遭難があったようで、すでに県警のヘリは出払っていて、民間のヘリがきた。県警のヘリだとお金はかからいようだった。(結局この30万円は親から出してもらった。情けない限りだ。)

 15時45分、ヘリ到着。そのまま松本空港へ。そこから救急車で松本市内の病院へ。医者は呼吸困難の原因がわからず、とまどっていたようだが、レントゲンをとって気胸とわかり、胸に穴をあけて管を通して、もれた空気を出す処置をした。気胸と聞いて、もう自分は一生激しい運動は出来ないと思った。高校時代、テニス部に所属していて(途中退部)、1年先輩が自然気胸で入院した。お見舞いにいったら、先輩が、この病気になると一生激しい運動は出来ない、と言っていたのを思い出した。体育の時間もまともに走れていないのを見ていた。もちろんこんな事故を起こしたのだから、もう二度と山には登らないつもりだった。でも運動が出来なくなるのは嫌だなと思った。(この情報は間違っていたようだ。ちゃんともとの体にもどった。)
笠ヶ岳 笠ヶ岳
前穂北尾根
笠ヶ岳
槍ヶ岳
 松本の病院で5日間、新潟の病院に移って5日間入院して、自宅で20日間程、静養して、東京に戻っていった。もう二度と山には登らないと決めたのに、山の道具を東京に持ち帰った。またザックを背負って家を出ていく息子を親はどう思っただろうか。金銭的・精神的に迷惑をかけて、反省しているなら山の道具は捨てるべきだろう。
 胸の痛みはあったが、サポーターを胸に巻いて職場復帰。痛みがなくなると、ジョギングを開始した。一生激しい運動は出来ないかもしれないことが気になっていた。恐る恐る走ってみた。なんか大丈夫そうだ。事故を起こす前も山に行くために、週に何度か、トレーニングはしていた。段階を踏んで、元通りのトレーニングが出来るまでに回復した。やはりあの頃は若かったんだな、と思う。驚異的な回復力があったのだ。体が元に戻ると、むずむずしてきた。やっぱり山に行きたい。本当に体が元通りになったのか、山に行って確かめたいという思いもあったかもしれない。

 事故から3ヶ月後、私は山に行っていた。穂高で一緒だった同期のY君とO嬢、それと同期の2人?(1人だったかな)で北アルプス・常念岳・蝶ヶ岳を縦走したのだ。事故を起こした穂高がよく見える場所だった。やっぱり全然反省していないことになる。

 しかし、これが私の青春時代最後の山行となった。これを最後に大学の同期の仲間と山に行かなくなった。それは同期が結婚しだしたのである。お互いに結婚式に呼び合って、結婚祝いだ、子供が生まれた、と言っては集まってお祝いをする。そんなことが数年続いた。私も今の嫁さんと事故の翌年に知り合った。つきあうようになり、2年後に結婚。そして私は新潟に戻った。家庭を持ち、仕事も忙しくなれば、自然と昔の仲間とは疎遠となった。年賀状のやりとりと、5年に一度開かれる周年事業を兼ねたOB会で会う程度になった。

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