●田島明子先生のサイトから来られた方へ
はじめまして。私は障害児を持つ一母親で「まいはは」と申します。当初は運営中のホームページ「しーず・ざ・でい!」にアップする予定でしたが、手直ししたいこともありまして、現在仮アップということで、ホームページにはリンクしておりません。もし興味をもたれた方がいらっしゃいましたら、ぜひサイトにも足を運んでいただければ、と思います。
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(1)まえがき
(2)今までの主な「障害受容」説
(3)障害受容説に対する批評
(4)私の「障害受容」〜「受容」ではなく「共存」を
(5)あとがき
(6)参考にした本、サイトなどの紹介

(1)前書き
 いわゆる「障害児」のわいちゃんを授かって2年半、母親の私も人間としていろいろ経験してきたわ。自分の内面の変化を振り返り、同じような立場の人や医療関係者の書いた本や文章をいくつか読んで興味を持った言葉がある。「障害受容」だ。簡単に言えば、病気やそれに伴う「障害」を持つことになった本人や家族がそれを受け容れていく過程をいう。でも、受容って何?受容って本当に出来るの? 私は娘の病気を受容しているのだろうか、生きていく上で受容することは大切なのか? 私なりに考えてみた。堅苦しいかもしれないけど、どうしても自分の考えをまとめたくて、長々と書いてみた。完全自己満足なんだけど(^_^;)
(病気を持つ本人と、その家族とでは思いも違うでしょうし、病気や障害をどのようにとらえるか、色んな形があっていいと思います。なので今回はあえて「私見」にしました。)

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(2)今までの主な「障害受容」説
 まず本やサイトで「障害受容」について調べてみた。「障害受容」にはいくつかの説があり今も論議されているようだ。
A:段階説
 有名な精神科医E・キューブラー・ロスの「死の受容」を障害受容にもあてはめた説だ。諸説あるものの、だいたいはこんな感じ。
1)ショック:自分が病気であることを飲み込めない
2)回復への期待:病気がよくなると思う
3)悲哀:回復しないことへの悲しみ、怒りなど
4)防衛:病気や障害に負けずに生きよう(障害を否認することで自己を守ろうとする)
5)受容:病気や障害を受け容れる。
1〜5の段階を踏んで経験し、やがて障害を受容していく(適応という人もいる)。これら一連を階段に例え、階段を一段ずつ昇っていき、障害受容もしくは適応という頂上に昇る、というもの。ヒジョーに分かりやすく、長期間に渡って支持された説だが、最近は否定的な意見も多いようだ。
よし、次行ってみよう。
B:価値転換説
 失った機能についての価値観が変化し、障害受容に至るという説。障害の受容とは「あきらめでも居直りでもなく、障害に対する価値観(感)の転換であり、障害をもつことが自己の全体としての人間的価値を低下させるものではないことの認識と体得を通じて、恥の意識や劣等感を克服し、積極的な生活態度に転ずること」と定義している。
1)価値の範囲の拡大:失った価値にとらわれない、失ったものは本質的でないという考え
2)身体の価値を従属的なものとすること:身体の機能より、人格や性格などの内面を重視する
3)比較価値から資産価値への転換:他人と比較しない、自分の持っている固有の価値観を重視する
4)障害の与える影響の制限:病気や障害を受けたからといって、自分の存在までもが劣っているわけではないという考え
以上のように価値観が変わっていき、障害を受容すると言う説だ。

 しかし、上の説は障害を持つ個人にしか焦点を合わせていないという批判があり、新たに出てきたのが次の説だ。
C:社会受容
 病気や障害を持つ苦しみを、「自分の中から生まれる苦しみ」と「他者から負わせられる苦しみ」に分け、後者の苦しみに対する対応を「社会受容」とする考え。そして「他者からの苦しみを和らげる最良の方法は、他者がそうしないように心を入れ替えてもらうこと」「他者が障害者を心から受け入れること」、これが「社会受容」ってことね。
A〜Cのどの説も、障害を「受容する」ことを目標としているイメージを受けますね。

 また、
D:慢性的悲哀(絶えざる悲しみ)
という説も見つけた。これは主に障害児を持つ親の心理状況を示している。内容は以下の通り。
1)障害のような終結することがない状況では、悲哀は常に内面に存在する
2)悲嘆は表面にいつも現れているわけではなく、時々再起するか、周期的に再燃する
3)慢性的悲哀は、問題の悪化だけでなく、家族のライフサイクルで起きる普通の出来事、例えば就学、就職、結婚、転勤、老齢化などがきっかけになることが多い
4)慢性的悲哀が再起する時には、喪失感、否認、失望、落胆、恐れ、怒りなど障害受容の段階説で上げられている感情や状態と同じ反応が含まれる
そして親が子供の障害を認識する課程を理解する時に、表裏の色の違うリボンを例にあげている。表が障害の肯定を表し、裏が否定を表す。リボンの端を持ってたらすと、クルクルとらせん状になって伸びますね。リボンがねじれて表と裏の両方が見えるはず。つまり、障害を肯定する気持ちと否定する気持ちを持ち合わせているのだ、と述べている。
上の「段階説」「価値転換説」「社会受容説」とはかなりイメージが違います。親だけでなく、障害者自身にもこのような思いを抱いている方はいるかもしれません。

 私がネットや本で探した「障害受容」に関する説は以上。他にも新たな説があったらぜひ教えてくださいね。

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(3)障害受容の説と私の考えを比較して
 障害受容について調べた私の印象は正直「なんか違う」だった。沢山の先生方が研究され積み重ねられた説に対して批評するなんておこがましいけどね(大冷汗)。
 わいちゃんの病気をある程度冷静に話せるようになった。病気に関して勉強し、正しく認識している(だろう)。わいちゃんの病気にとらわれずに、楽しく暮らそうとも思う。TVゲームも大好きだし、ヒロシを見て思いっきり笑えるし、ご飯をおいしいと感じられるし、普通の「おばちゃん」と化してしまった(笑)。でも、心の奥底にはドロドロした感情がある。自転車を乗り回す子や水泳に通う子を見るたび「うらやましい」と思う。幸せそうな家族を見るたび「どうしてうちの娘が」と思う(その家族の中にも内部障害の方がいるかもしれないのに!) 「あの時すぐに産婦人科へ行っていれば」という後悔や自責の念に何ら変わりはない。自分の身を切られるような激しい感情の痛みには今でも耐えられない。後悔や自責の念と、希望や喜びは相反するものではなく、みんな自分の一部だし、すべてを抱え込んでいるんだ。それを考えると、「A:段階説」はまず自分には当てはまらない。「段階説」は一つ一つの心理状態を独立させているけど、単純な私だってそんなに簡単に割り切れるものではありません(^_^;)。
 娘を授かって私の価値観は変わったのか。「B:価値転換説」の4つの考えだけど、熟考すれば当たり前のことじゃん。宗教哲学心理学果てはお昼の人生相談にも、言われている。「他人と比べない」「中身で勝負」「別の部分で秀でていればよい」理想はそうだが現実は違う。現実社会では学歴社会だし、持ち物や車、家、果ては夫の出世や子供の成績まですべて比較対象にして一喜一憂している。物のない時代や豊かな国と比べて、少しでも便利に快適に過ごしたい、豊かな国になりたいといって、この国は本当に豊かになった。それを誰も批判しないくせに、障害者には比較するな、失ったものを追うな、内面で勝負だ、というのはなぜか。障害者は明るく清く正しくあれという固定観念を押し付けないで欲しい。障害者だって人間だ、比較したっていいじゃないか。お金で買えない、たった一つしか存在しない、自分だけの大切なものが奪われたのだ。追い求めて何が悪いんだろうね。それに個人的な意見だけど、価値観なんて精神の根っこの部分だと思う。簡単には変わらないし、変わるべきものでもないと思ってる。だから価値転換なんてそうそうありえない、よってB説も却下。
 次、「C:社会受容説」。「ぶつぶつ」の「頑張らない」などにも書いた通り、周囲が変わればどんなにいいだろうか。周囲の言動に何回傷ついただろう。だから頑張って本を読んだ。難しすぎて分かんなかったけど(^_^;) 具体的にどう動けば社会は障害者を心から受け入れてくれるのか。本にはアメリカにおける障害者の自立生活運動を例に挙げ、障害者が引きこもるのをやめ、自分の殻を飛び出し、社会の人に慣れてもらうこと、などと書かれていた。残念ながら、私の期待には沿わなかった。
 アメリカは障害者に対する制度も充実しているし暮らしやすいと聞く。障害者が自ら運動を起こし、社会制度を変えていったことも十分評価できる。しかし、運動が続いた時期と、ベトナム戦争で障害を持つ人が急増した時期が重なっているのは偶然だろうか。国が起こした戦争で障害を負った以上、国にはその後の生活保障を手厚くする義務がある。障害を負った多くの退役軍人への支援が障害者の自立生活運動と結びつき、現在に繋がるという考えも出来るのではないか。歴史も宗教も背景も違うアメリカの動きをそのままこの国にあてはめるのは、強引じゃないかな?
そして最も疑問を抱いたのは、引きこもっていたのでは事態は変わらないから「赤信号みんなで渡ればこわくない」といった仲間意識をもつことを薦めていることだ。あれ、結局は障害者が変わんなくちゃいけないの? 個人に責任を負わせた反省から「社会受容」という説を唱えたのでは?障害者が変化すべきなんて、A・B説と同じじゃん。
勿論私も変わんなくちゃいけない。自分の考えを理解してもらう為には主張もしていかなくちゃいけない。役所や病院の職員相手にも意見したり、口論したりもする。でもね、しんどい時は外に出ることさえ出来ないんだ。言葉や視線の暴力、元気な子供を見ることさえ嫌な時がある。そしてそんな自分がもっと嫌でまた引きこもる。そんな気持ちを理解しているのかな。障害者には危険な赤信号を渡れと言ってるけど、この説を唱えた人たちは一緒に渡ってはくれないの? 自分は青信号で待機してるつもり? それって余りにも不公平だし卑怯だよ。環境を変えるには障害者の努力も必要だけど、そうじゃない人たちも同じように努力して欲しいし、どうすべきかもっと考えて欲しかった。

D:慢性的悲哀説。これが一番共感できた。わいちゃんの病気を認識していても、否定したい気持ちはあるし、治る希望も捨ててはいない。表向き「受容」しているように見えてもね。螺旋のリボンの表裏に障害を肯定/否定する気持ちを例えたのも分かり易い。でも、「慢性的悲哀」と言われるとものすごく暗いイメージを受けちゃう。悲哀もあるが幸福もあるからね、いい表現方法はないかしら?
最後に一つ。「障害を肯定する」とあるが、私はわいちゃんの病気を「肯定」することは出来ないなぁ。

ものすごく偉そうに書いてしまった(^_^;)
障害受容に関する批評はこれでおしまい。私なりの考えを、次に述べようと思います。

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(4)私の「障害受容」〜「受容」ではなく「共存」を
 以前ある人に、自分の内面を「やじろべえ」に例に話したことがある。片方の腕に悲しみ、怒り、自責後悔の念を抱え、そしてもう片方の腕に娘を授かった幸福感、希望、友人や家族の支援を抱え、バランスを取っている状態だ。しかし、何らかの拍子で悲しみが大きくなればバランスが崩れて倒れてしまう、私の精神状態はそれほど不安定だということだ。しかし、これには問題があった。幸福感が大きくなりすぎてもやじろべえは倒れてしまうし、倒れたやじろべえは全くの無力で自分では起き上がれない。でも私は倒れる度にたくさんの協力を得ながらも、最後は自分の力で起き上がってるような気がするし、そうでなくてはいけないと思う。やじろべえは違うなぁ。自分の精神状態をどう説明したらいいのかと悩んだ時に出会ったのが徳川家康の言葉だった。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」

 生きていればいいことばっかりではない。成長するにつれて荷物を背負うことになる。荷物が軽ければ、楽に人生を歩けるだろう。でも、病気や後遺症としての障害、と言うのはものすごい重荷だ。これを担いで歩いていくには大変な力が要る。あまりの重さによろめき、つまずき、立つことさえ不可能になる。それでも人生歩いていかなくてはいけない。重荷に慣れる期間は人それぞれ、個人差はとても大きい。慣れるのに○ヶ月なんて目安は全く役に立たない。「家族・友人の協力」はエネルギーや筋肉・体力を作る為の栄養源。しっかり栄養を取ればスタミナがついて疲れにくくなる。「希望」という光が道を照らしてくれたら、色んな景色が見られて、歩くのも楽しくなるかもしれない。でもそうじゃない人もいる。真っ暗闇の中、手探りでしか進めない人もいるだろう。ふらついて転びそうな人もいるだろうし、腰や関節を痛める人もいる。痛みがひどければ病院で診てもらわなくてはいけない。疲れやすくて休憩しながらじゃないと歩けない人もいるだろうし、あまりの重さに、一時的に重荷を下ろす必要だってあるかもしれない。荷を担げないからといってその人を責めるのは酷だよね。
私も最初は荷を担げなかった。重荷を担いで歩けないなら、歩くのをやめよう(=死への願望)と考えたこともあった。重荷を下ろせば自分が楽になれると思って、恥ずかしい話、わいちゃんの存在を無視しようとした時期もあった。でもやっぱり、わいちゃんが可愛くて下ろすことは出来なかった。わいちゃんがいたからこそ、私はたくさんの友達に出会えた。友達の援助は私に力を与えてくれた。元気に成長しているわいちゃんは自信を与えてくれる。医療の進歩は明るく暖かく光を差し込んでくれた。苦しくなっても、優秀なピットクルー(主治医や看護師さん、臨床心理士さん)がついている。大丈夫、私は歩けるぞ。そう思いながら、いつの間にか荷を担げるようになったのだ。
 笑って担げることは出来るようになったが、荷が軽くなることは決してない。重複するが、嫉妬や自責や後悔の念は不意に爆発するし無責任な発言にも傷つく。その度に荷は重くなる一方だ。現時点ではわいちゃんも元気だしたくさんの友達が支えてくれるから、荷が重くなってよろめきながらも「よいしょ」って担ぎ直して人生歩いている。でもものすごく傷つけられるようなことを言われた時、わいちゃんの病気が悪化した時、支えてくれる人がいなくなった時、私は倒れてしまうだろう。笑っているから、明るいから、わいちゃんの病気を受容したとか乗り越えた訳ではない。そこを勘違いして「お母さんは明るいからもう大丈夫だね」とか「笑えるようになったから受容したんだわ」なんて言ってもらっては非常に困る。

 なぜ「受容」なんて曖昧な言葉が出てきたんだろう。「障害受容」とは何か、どんな経過をたどって受容に達するのか、なんて論じられてもねぇ。まるで受容が人生の目標みたいだし、受容できない・しない人は目標に到達してない=ダメ、とみなされる危険性もある。受容することがそんなに大切なのかねぇ。
わいちゃんの「病気」が難病であり、予後不良と言われ、10年生存率が半分に届かない厳しい病気であることは認識している。その反面、奇跡を望む自分もいる。元気なわいちゃんを見ると、「もしかしたら心筋が再生してるかも」なんて思ってしまう。医学的にありえないことだと知っていても。新聞やネットの再生医療関連記事は全て穴が開くほど読んでしまう。それが動物実験でも、海外のニュースでも、期待せずにはいられないんだ。
わいちゃんが病気で弱っていくのを受容するなんて、私には出来ない。認識と受容は全くの別物だ。病気と付き合う上で、ある程度の知識や認識は必要だが、それが受容につながることは決してないし、生きていく上で受容することが重要だとも思わない。「病気や障害とどう向き合うのか」という極めて個人的で多様性のある問題を、赤の他人から一括りに「受容出来ている・出来ていない」と判断されるなんて、大きなお世話だ。
それに、人生の主役は「人間」であって「障害」ではない。障害を受容するとか克服するなどと世間ではよく言われるが(障害を乗り越えて○○するなど「美談」の種にもなるよね)、私にとってわいちゃんの病気・障害は「対象物」ではなく「付属物」だ。だから私は受容も克服もするつもりは毛頭ございません。受容する為に何をすべきか考えるなんて時間の無駄だし、難しいことを考える暇があるならネットかゲームか手芸の練習か寝るに限るわ(^_^;)

 こんな私の姿からは、様々な「障害受容説」とはかけ離れている。わいちゃんの誕生は私に色んなものを与えてくれた。いいこともあれば苦しいこともある。苦しいことは捨てていきたいけど、それもわいちゃんの一部であるからこその感情であれば、全て背負って生きていくんだ。それは「受容」とは違う。うん、「共存」だ。歓迎する相手ではないが「共存」はしておかなくちゃ、って感じ。例えば近所に付き合いにくい苦手な人がいるとする。でもほとんどの人は喧嘩もせず、つかず離れず、それなりにお付き合いしてるはず。挨拶だけする人、なるべく顔を合わせないようにする人、無視を決め込む人、思い切って世間話しちゃえ!って飛び込んでいく人、それぞれだ。病気との付き合いも同じようなもの。「受容」と言われると無条件に受け入れるべき!って印象が強いけど、「共存」の方法は様々だ。仲良くしようがしまいが、それはその人の勝手であって他人と比べる必要はない。自分らしい、自分にあった方法で病気と「共存」出来れば、それにこしたことはない。泣こうが笑おうが、自分が「共存」出来ていると思えば、それでいいんじゃないかな。

 これからも私の荷物はどんどん重くなっていく。わいちゃんも成長するに連れて、自分の背中の荷物を自覚することになるだろう。楽ではない道のりだし、泣いたり笑ったり忙しくなるだろうけど、それでも歩いていこう。わいちゃんがいなければ最短距離で突っ走っていたかもしれない道。ゆっくりのんびり、他の人より随分遅い歩みになるだろうけど、それでも構わない。ゆっくり歩くからこそ道端に咲く花や、雄大な景色を眺められるんだ。どうせなら道草食って、回り道して、抜け道みつけて、買い食いしてね(笑)。わいちゃんも私も、自分の足で歩くんだ。

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(5)あとがき
 長文に最後までおつきあい頂き、ありがとうございました。
わいちゃんが生まれてから出会えたすべての人たちの考えや生き方に影響を受け、この文章を書くことが出来たと思います。本当に感謝しています。
また、サイトの参照とリンクを快諾してくださった田島明子様、「(財)日本障害者リハビリテーション協会情報センター」様、「岡崎市広報課」様には深く御礼を申し上げます。特に田島先生には本文の推敲までしていただきました。本当に有難うございます。
ご意見ご感想等ありましたら、メールにてお知らせいただければ嬉しく思います。

(6)参考にした本、サイトなどの紹介
「障害受容―意味論からの問い」南雲直二著:荘道社
「社会受容」南雲直二著:荘道社
「子供の障害をどう受容するか―家族支援と援助者の役割」中田洋二郎著:大月書店
「障害受容とリハビリテーション」田島明子:http://www5.ocn.ne.jp/~tjmkk/ronbun1.htm
「親の障害の認識と受容に関する考察―受容の段階説と慢性的悲哀―」
中田洋二郎:http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/resource/ld/z12020/z1202001.htm
「家康公の遺訓と遺言碑」
岡崎市広報課:http://www.city.okazaki.aichi.jp/yakusho/ka1030/ka365.htm