経済学はなぜ大恐慌の謎を解けないのか
関岡正弘
本論文は東京国際大学国際関係学部論叢に掲載した論文です。
目次:
1 ケインジアンもマネタリストも
2 自明の原理
3 経済体質の変化
4 経済学とは何なのか
5 経済学の批判的系譜
6 ケインズ革命とはなんだったのか
7 新古典派総合という概念が果たした歴史的役割
8 大恐慌あるいは大不況のメカニズム
9 経済学が大恐慌の謎を解けない理由
10 否定されるべき労働価値説
11 マネ−とは
12 マネ−と貨幣数量説
13 経済学の選択
1 ケインジアンもマネタリストも
20世紀も終わりに近い。100年間の経済的事件のベストテンを選ぶとすれば、
1929年の大恐慌は間違いなく選ばれるだろう。
筆者など、その影響の程度を考慮に入れれば間違いなく第一位に選ばれると信じている。
しかるに経済学は、それ以後70年が過ぎ去ったというのに未だにその謎を解明していない。
その点を証言した記事を紹介しよう。1987年10月のブラック・マンデ−の直後、吉富勝1は、
雑誌記者の「経済政策の間違いが、かっての大恐慌を激化させたといわれます。
間違いはどういうところにあったのでしょうか」という質問に対し、次のとおり答えている。
「金融政策でしょう。株の大暴落の後、アメリカの公定歩合が下がっていったのはいいが、
マネ−サプライを十分供給しなかった。ただそれも議論は分かれているんです。
フリ−ドマンをはじめとするマネタリストは、金融政策に間違いがあった、もっとマネ−を供給すべき
だったと言います。一方、ケインズやケインズ派は、いや民間経済自体が不安定なのだと主張する。
この二つの学派の論争はいまもって決着していません。大恐慌の原因はいまもって
よく分かっていない。だから無気味なんです」
吉富は、名著と言われる「アメリカの大恐慌」の著者である。「アメリカの大恐慌」は
1965年に公刊されたが、アメリカ経済を実証的に分析し1929年の株式恐慌や1933年の銀行恐慌
へ至るプロセスを解明した。その彼が「大恐慌の原因はいまもってよく分かっていない」というのだ。
「経済学が大恐慌の原因を解明していない」ことを客観的に証言してもらうとすれば、
彼以上に適任者はいない。
大恐慌の謎については、
ポ−ル・サミュエルソンとミルトン・フリ−ドマンの二人が、1969年5月にテレビ討論を行なった4。当時のサミュエルソンはアメリカを代表する経済学者であり、経済学の二大潮流、本来、水と油である
はずのケインズ理論と一般均衡論を新古典派統合の名の下、統合したと信じられていた。
一方、フリ−ドマンはマネタリストの総帥として知られ、当時ケインズ理論に対する孤高の批判者であった。
二人ともノ−ベル経済学賞の受賞者である。この時のテレビ討論では、大恐慌について、
フリ−ドマンは「世界不況はアメリカが金融政策を実施する際に犯した誤りが唯一の原因で起きた」
と主張し、一方サミュエルソンは「一連の偶発事件がそれを引き起こした」と主張した。
フリ−ドマンはアメリカ政府が十分なマネ−を供給しさえしていれば大不況は起きなかったと
主張しているのだが、現象としての大恐慌あるいは大不況のメカニズムを
説明してくれたわけではない。そもそもフリ−ドマンの言う「十分なマネ−」という言葉が
何を意味するも明確ではない。というのは、現在の経済学がマネ−という概念について
定義をしていないからである。
経済学の教科書を読んでみれば分かるが、経済学はM1、M2などマネ−の分類を述べるだけである。
それ故フリ−ドマンが、「政府が供給すべき」とする「十分なマネ−」が如何なるマネ−なのか明確ではない。
そもそも政府ができることは金融政策と財政政策しかない。
前者は金利操作だけであり具体的にマネ−を供給するわけではない。
また後者はフリ−ドマンが攻撃してやまないケインズ政策に属する。
率直に言って、大恐慌の原因に対する二人のノ−ベル賞受賞者の意見に説得力はなかった。
先の吉富の雑誌記者に対する答えは、このテレビ討論を念頭に置いたものだったかもしれない。
20世紀が終ろうとする今、大恐慌の謎は解いておかなければならない。
それは、その謎が解けない経済学の鼎の軽重を問うことでもある。
2 自明の原理
不思議なことに19世紀前半には、大恐慌はいざ知らず恐慌がなぜ起こるのかは誰でも知っていた。
なんらかの原因で好況が始まったとする。好況とは物価が騰がる現象である。
生産が拡大し雇用が増える。人々の所得が増え支出が増大する。景気は益々良くなる。
やがて物価がさらに高騰し始める。そうなると投機が始まる。たとえば19世紀前半のイギリスでは、
アメリカの綿花に対する投機が起きた。投機とは誰かが追加的な支出をすることを意味する。
それは別の誰かの所得になる。それ故、投機が始まると景気は一層良くなる。
しかし永遠に続く投機などありえない。必ず崩壊するのだ。投機は未来の先取りだが、
それには限度があるからである。そして投機の崩壊こそが恐慌である。
恐慌でもっとも被害を被るのは投機に参加した起業家(アントラプルヌ−ル)または企業家、
経済でもっとも活動的な人々である。彼らが破産する結果、雇用が縮小する。失業者が増え、
人々の所得は縮小する。商品が売れなくなり、銀行借入れが返済できなくなり、
企業や銀行が破産する。この過程が不況である。
好況、投機、恐慌(投機の崩壊)、不況のサイクルは必然の過程として理解されていた。
19世紀前半、好況から不況へのサイクルは約10年の周期で繰り返された。
イギリスで1825年に起きた恐慌を第一回目の循環的恐慌と位置付ける考えがある。
図式は「恐慌は好況の必然的産物」である。そもそも1844年にピ−ル条例が施行され、
イギリスの金本位制が確立されたのも、起こってしまってからでは手の打ちようがなく
政治問題になりやすい恐慌を避ける唯一の方法が、投機が発生しないよう、好況を過熱させないために
マネ−の供給をコントロ−ルすることという認識があったためである。
恐慌の原因が投機だったとすれば、大恐慌の原因は大投機以外ではありえない。
1929年の大恐慌に先立って、アメリカで歴史的な大投機が行われていたことは誰でも知っている。
物価が上昇する好況時、投機が始まるのは必然といってよいであろう。投機はいずれ崩壊する。
これも必然である。つまり「恐慌は好況の必然的産物」という図式は原理といえる。
大恐慌の謎が解けない経済学は自明の原理を忘れたことになる。
3 経済体質の変化
経済学はなぜ大事な原理を忘れてしまったのだろうか。理由は二つある。第一は、
19世紀後半から20世紀になると約10年周期の循環的恐慌がだんだんと姿を消したことだ。
この社会現象における変化は経済学の用語に微妙に反映した。
ジョン・ケネス・ガルブレイスはその著書「マネ−・その歴史と展開」で、次のように書いている。
「経済的な不運が問題になる場合、それを何と名づけるかについて一言しておく必要がある。(中略)
19世紀中とそれから1907年まで、アメリカはいくつかのパニックを経験したが、当時はそれが、
遠慮会釈なくパニックと呼ばれた。しかしながら、1907年になると、中略)当時のいかなる経済的な
後退も本当はパニックではなくて、単なる危機(クライシス)にすぎないという説明をすでに
始めていた。(中略)しかし1920年代には危機という言葉もまた、それによって描写された
事態の恐るべき内容をその意味としてもつようになってしまった。したがって人々は、これは危機では
なく単に不況(デプレッション)にすぎないと説明することによって安心させようとした。
その後『大不況』のおかげで、不況という言葉をきくと経済的不幸のなかでももっとも恐ろしいものを
想像するようになった。そこで今度は、経済語義学者は、いかなる不況も連想されない、
せいぜい景気後退(リセッション)が見込まれるにすぎないと説明するようになった。
次いで、1950年代に軽度の景気後退が起きた時、経済学者と役人たちは一致して、
それは景気後退ではない、単なる景気の横滑り運動あるいは循環再調整にすぎぬと言い出した」
いささかシニカルなガルブレイスの文章は、選挙を意識した政治家の責任逃れとその圧力に屈した
経済学者あるいはエコノミストを皮肉っている。しかしそこに描写された経過は、客観的にも
『大不況』の場合を除き、この種の出来事がだんだんと温和な形態に変わっていったこと
を示している。
20世紀には、19世紀に起きていた10年サイクルの恐慌が起きなくなった代りに、世紀的規模の
大恐慌が唯一度だけ起きたのだ。実はこの点こそが大恐慌の謎を解明する手掛かりである。
この問題は後で考察することとしたい。自明の原理を経済学が忘れてしまった第二の理由、
あるいは金本位制制定の過程で行われた議論の成果を取り入れなかった理由は経済学自体にある。
あらためて経済学とは何なのかという問題を問わなければならない。
4 経済学とは何なのか
経済学は何故、大恐慌の謎を解明できないのだろうか。「謎」が新しい謎を生んだことになる。
新しい謎の解明のためには、「経済学とは何なのか」という本質問題を避けて通れない。
「経済学とは何だろうか」6の著者、佐和隆光は、アメリカの経済学者レ−ヨン・フ−フッドの
興味深い論文を紹介している。その題は「エコン族の生態」という。少し長くなるが引用したい。
「エコン族(経済学者集団)は、先祖伝来の極北の地に居住する民族であり、隣国のポルスシス族
(政治学者)やソシオグス族(社会学者)に対する優越感を満喫する極端に排他的な民族である。
彼らの社会的連帯は、よそ者に対する不信の共有によって保たれており、また内に対しても
この民族は高度に身分志向的である。民族内部での階級は、フィ−ルド(専攻分野)によって決まり、
階級内での身分序列は、モドゥル(数式によって表される経済モデル)づくりの腕前によって
決められる。しかし作られるモドゥルの大半は、実際の役には立たず、神前に供える御供
(専門誌上の陳列物)として用いられるにすぎない。階級としては、マス・エコン(数理経済学)、
ミクロ(価格分析)、マクロ(国民所得分析)、デブロプス(経済発展論)、オ−・メトルズ
(実証的研究)などがある。階級間の序列は、おおよそ記した順序どおりであるが、最高位の
マス・エコン階級は部族の司祭としてあがめたてまつられており、デブロプス階級はモドゥル作りが
へたくそなため、また、オ−・メトルズ階級は汚らわしい手仕事に従事するがゆえに、
いずれも下位に位置づけられている。もっとも、階級間でおたがいどうしけなしあうのが、
エコン族特有の風習であり、この部族の階級構造は、一筋縄で片がつくほど単純明快ではない」
「エコン族の生態」は、1970年代に留学した佐和が、そのアメリカ経済学界の実態を念頭に
紹介したものである。今でもその実体は基本的に変わっていないであろう。
モドゥル(数式によって表される経済モデル)偏重の現状については、
「フュ−チャ−・オブ・エコノミックス」7に意見を寄せた世界の多くの経済学者たちも、
かなりの憂いを込めて指摘している。たとえばミルトン・フリ−ドマンは、
「初期の頃の論文は、テ−マのいかんにかかわらず、英語で書かれているのが普通であった。
したがって、いまでも経済学者は英語で当時の文献を読み、理解することができる。(中略)
戦後の大きな変化は、数学と計量経済学の用語が台頭するようになったことである。
論文、解説の半分は数学で占められており、(中略)英語は単に補助的な役割を果たす
第二の言語にすぎなくなっている。(中略)経済学の変化は、コンピュ−タ−の発展とともに
起こってきた。コンピュ−タ−は、現代の経済学にとってきわめて生産的な用具である。
しかしどんな良いものでも限界を超えて使うことには危険が伴う。コンピュ−タ−革命は、
経済学者に数学と計量経済学に対する信頼をもたらした。
しかしいまや、あらゆる種類の革命が経験するのと同じように、初期の爆発的な勢いが
一つの臨界点を超え、経済学の効率を低下させはじめた、と私は確信している」
と書いている。
また森嶋通夫は、
「経済学は経験的事実から離れる方向に発展してきており、特に一般均衡理論は、経済理論の中核
としての数学的社会哲学となってしまった」
と述べ、さらに
「一般均衡理論の世界は、実は夢の世界だとも言える。この夢の世界は、現実の社会状況の下では
完全に作動しないのである。一般均衡理論という夢の世界のステ−ジで演ずる俳優たちの数は、
あまりにも少なすぎる」
と述べている。
大恐慌は現実の社会現象であり、夢の世界の理論で解けるわけもない。現在の経済学は
アメリカによって支配されているといっても過言ではない。
佐和によれば、当時のアメリカでは毎年800人余りの経済学博士と2500人前後の経済学修士が
誕生していたという。今でも基本的に変わらないであろう。
佐和は、アメリカの大学院は、「欧米諸国のなかでも、きわめて特異な性格をもつ研究者養成機関」
と批判する。ヨ−ロッパの大学に残るアマチュア的発想やアカデミックな雰囲気は締め出され、
プロフェッショナルなスペシャリストを大量に生産する機関となったのだ。
数で世界の経済学界を圧倒するアメリカ経済学界は、どうやら数式偏重の偏った独特の世界を
築き上げてしまったらしい。数式偏重の最大の問題点はそれがもたらす非現実性であろう。
モドゥルは数式で表現されなければならない。しかし少しでも現実に近いモデルをつくろうとすると
変数の数が多くなり、数学的処理が難しくなる。数式表現にこだわれば、
現実性を犠牲にせざるをえない。
そんなアメリカ経済学界の武器は制度化と標準化である。標準的教科書がつくられ、
論文に対するレフェリ−制度がつくられて異端を排除する仕組みが確立している。
第二次大戦後、アメリカでとくに経済学の数学化が進んだ背景には、
大戦中、オペレ−ションズ・リサ−チ研究のため動員されていた数学者の一部が経済学に流れ込んだ
という事情があった。
オペレ−ションズ・リサ−チは、戦争の合理的遂行のため人間行動を
数学的に解析することを目的としていた。
それが、経済学の方法論に応用され計量経済学という新しい分野を生んだ。
それにしても、経済学サイドに数学化、単純化を受け入れる素地があったことも確かである。
5 経済学の批判的系譜
数学的モデル偏重で、現実を無視あるいは軽視するアメリカ経済学誕生の背景には、
如何なる歴史があったのか。現在の経済学は、すべてアダム・スミスを源流としている。
スミスの学説はディビット・リカ−ドに受け継がれた。
スミスとリカ−ドの経済学を古典派経済学という。
リカ−ドの後、経済学は大きく三つに分かれた。
第一は、イギリス正統派のミル親子からアルフレッド・マ−シャルに引き継がれたケンブリッジ学派。
新古典派経済学とも呼ばれた。この流れからジョン・メイナ−ド・ケインズが出た。
第二はカ−ル・マルクス。そして第三が限界効用理論から一般均衡論へ発展した
レオン・ワルラスである。ワルラスはロ−ザンヌ学派と呼ばれた。
ワルラスの理論はパレ−トに受け継がれる。
ワルラスとほぼ同時にやはり限界効用理論をとなえたカ−ル・メンガ−の弟子たちは
オ−ストリア学派を形成した。この学派からフリ−ドリッヒ・A. フォン・ハイエクが出る。
ロ−ザンヌ学派とオ−ストリア学派は歴史的な分類で、現在では同じ一つの流れと考えてよいだろう。
スミス以後の経済学を支配する根本原理は労働価値説である。
スミスは、国富論のなかで貴金属のみを富とする重商主義の学説を排撃、
富の根源は人間の労働だと主張した。ここまでは間違っていたとは思えない。
しかしスミスは行き過ぎた。人間労働の生産性を向上させるためには分業が必要だ
と考えたスミスは、その結果必然となる交換の基準として交換価値なる概念を導入した。
そして交換価値は、商品の生産に必要だった労働時間で決まるとした。
スミスの有名な
「一頭の鹿を掴まえるのに一日を要し、一匹のビ−ヴァ−を掴まえるのに
二日を要するとすれば、一匹のビ−ヴァ−は二頭の鹿と交換されなければならない」
という命題は、単純明快なるが故にその後の経済学を呪縛してしまった。
労働価値説の最大の責任は、
商品の価値が生産の時点で決まるという概念を経済学の基礎に据え付けてしまった点にある。
そのため、経済学は変化する価値を扱えなくなってしまった。
変化する価値とは、蓄積され、それ故に存在する価値つまりストックである。
念のため強調しておきたいが、存在するすべてのものは時の流れとともに変化せざるをえない。
また決定論的な労働価値説は、経済学をしてマネ−を取り扱うことを不可能にした。
マネ−は必ずしも人間労働の生産物とはいえない。
そのマネ−を無理して労働価値説で扱おうとすると、素材価値を重視する金属主義になってしまう。
しかし現代のマネ−は銀行預金で金属ではない。
仮にすべてのマネ−が貴金属である空想の経済空間を想定したとしても、
貴金属は「存在する価値」であり変化するが故に労働価値説では扱えなくなってしまう。
経済学がマネ−を取り扱う場合のもう一つの選択肢、名目主義は、
金属主義の限界を乗り越えようとする試みといえるが、労働価値説を基盤とする
経済学の範囲で考える限り、今度はマネ−の価値性を否定せざるをえない立場に追い込まれる。
極端な場合、オ−ストリア学派のベ−ム=バヴェルクのようにマネ−をヴェ−ルと看做すことになる。
先にも触れたが、マネ−を扱えない経済学の教科書はM1やM2などマネ−の分類に触れるのみで、
マネ−そのものに迫った議論を回避している。
労働価値説はスミスからリカ−ドへ受け継がれた。リカ−ドは階級という概念を経済学に導入した。
リカ−ドが問題にした階級は自分が属する新興の市民階級と、それと対立する
貴族・地主階級であった。ところがマルクスは、
階級を資本家と労働者の間の緊張関係と定義し直した。
さらにマルクスは「労働者のみがすべての価値の生産者」と論理を飛躍させた。
そこから搾取という概念が生まれた。そもそも被雇用者としての労働者は、
雇用されることによってのみ収入にありつけること、その雇用は
リスクテイカ−としての起業家(アントラプルヌ−ル)によってのみ提供されること
などは一切無視された。
資本家という名の下、アントラプルヌ−ルの存在を抹殺しようとしたマルクス経済学は
経済の原動力を否定したことになる。経済学というよりはイデオロギ−
あるいは政治学の性格を持っていたといえる。
ケンブリッジ学派は、基本的にケインズが現れるまでは
偉大なる停滞が続いたと信じられている。
一方、レオン・ワルラスは1870年頃、メンガ−、ジェボンズとともに限界革命を起こした。
ケインズ革命と並ぶ経済学における革命である。
ワルラスは数学者になるつもりだったが、うまくいかず経済学者になったと言われる。
そのせいか、経済学に数学を持ち込むことに熱心だった。
経済学では、限界という概念は「効用」という概念に関連して生み出された。
効用という概念は、しばしば「主観的価値」と扱われる。
しかし厳密には両者は区別されるべきであろう。
主観的価値は労働価値と対比されるべきである。
つまり後者を否定した上で設定されるべき概念と言える。
いずれにせよ、それ自体価値なのだ。それに対して効用とは、
商品が労働価値説に従い客観的価値あるいは絶対的価値を持っていることを前提として、
その商品とそれを消費する人間との相対的関係を意味する言葉である。
効用という概念がもっとも意味を持つのは、限界効用逓減の法則としてである。
この法則は、空腹な人間がパンを食べる時最初のパンは大きな効用を持つが、
二個目、三個目となるに従って効用が低下していくという例でもっともよく説明しうる。
効用はゼロになるのではなく一定の値に収斂していくのである。
多分ワルラスは、収斂という概念を通じて均衡という概念に達したのであろう。
ケンブリッジ学派のマ−シャルも別個に均衡という概念に達した。
縦軸に価格、横軸に数量(供給量あるいは需要量)を取ると、
右上がりの供給曲線と右下がりの需給曲線の交点で、価格と供給および需要が
同時に決まるという学説である。
マ−シャルは個々の商品について均衡を考えた。しかしワルラスは
すべての商品が均衡する状態を考えた。
マ−シャルの理論を部分均衡論、ワルラスの理論を一般均衡論と呼ぶ。
均衡という概念は限界革命を経て確立されたが、
本来的にはスミスの「見えざる手」理論を具体化したものと考えてよいであろう。
確かに現実の世界にもプライス・メカニズムは存在する。それ故、
個々の商品については実現しないまでも、指向する均衡点が存在する可能性はないとは言えない。
しかしそこまでである。率直にいって、すべての商品の需給と価格が均衡するなどといった
「一般均衡」という概念の非現実性は否定し難い。
そのせいだろうか。一般均衡論では、理論を成り立たせるために一切の変化を捨象した。
また時間という概念を無視した。その結果、
「静態」を対象とする「静学」という非現実の世界に自らを閉じ込めてしまった。
それにしても一般均衡論という非現実的で不自然な理論が一世紀以上も生き残ることができたのは、
すべての商品の価値(交換価値)が生産された時点で固定されてしまうと考える
(価値という経済学の原点で変化を否定している)労働価値説を基盤に据えた、
経済学の内部でのみ議論が行われてきたからであろう。
一般均衡論の非現実性を最初に問題視したのはジョゼフ・シュンペ−タ−である。
彼は、封建経済では「静態」がありえたとしても、資本主義経済は本質的に動態的であると考えた。
そして彼は1910年頃「経済発展論」を書いた。発展という言葉で動態を表現したのであろう。
シュンペ−タ−は、経済発展のダイナミズムはアントラプルヌ−ルの創造的破壊にあるとした。
またその際の銀行家の役割を重視した。
惜しまれてならない。シュンペ−タ−がやろうとしていたことは、
本人が意識していたかどうかは別として、市場という空間の理論として出発した経済学に
人間的要素、あるいは主役を持ち込もうとしていたのだ。
もしシュンペ−タ−が成功していたら、ワルラスの頭の中にのみ存在しえた一般均衡なる概念は、
泡沫の如く消えうせていたことが期待できる。
だとしたら経済学の現在の惨状はありえなかったであろう。
しかしシュンペ−タ−は経済学から離れてしまった。第一次大戦が始まったせいであろう。
戦後、彼は大蔵大臣や銀行の頭取を務めた。しかし銀行では折りからの
ハイパ−・インフレ−ションに巻込まれ破産してしまった。
シュンペ−タ−が経済学に本格的に復帰したのは、1930年頃アメリカの
ハ−ヴァ−ド大学に迎えられた時である。
シュンペ−タ−も最初の頃は優れた弟子に恵まれた。1920年代までのアメリカの経済学界は
ソ−スタイン・ヴェブレンなどの制度派経済学が主流であり、後進的とされていた。
ヴェブレンは一般均衡論に批判的で19世紀的概念だと決め付けたといわれる。
筆者など、制度派経済学は企業など経済の主役に着目していた点で高く評価すべきだと考えているが、
当時のアメリカではヨ−ロッパ経済学に対するコンプレックスが存在した。
1930年代以降アメリカの経済学界は、経済学の先進国ヨ−ロッパからやってきた
経済学者に席巻される。
シュンペ−タ−には、若き日のポ−ル・サミュエルソンなど俊英が集まった。
しかし1935年にケインズの一般理論が出るや、シュンペ−タ−の弟子たちは
師を見捨てケインジアンになってしまった。
6 ケインズ革命とはなんだったのか
経済学、とくに20世紀の経済学を論ずる場合ケインズ革命を抜きには語れない。
一時は経済学を制圧したように見えたケインズ理論、しかし今やケインズは死んだとも言われている。
ケインズは、いったい何をやろうとしたのだろうか。
手掛かりは、1939年2月20日付けの「一般理論」フランス語版への序にある。
ケインズは、そこで
「経済学は、理解されている以上に、J.B.セイの名と結び付いた学説にによって支配されてきた。
たしかに彼の『販路法則』は、ずっと以前から大部分の経済学者によって否認されているが、
彼らは彼の基本的想定や、とりわけ需要は供給によって創造されるという
彼の誤謬から抜け出すにいたっていない。(中略)本書はJ.B.セイの学説からの最終的離脱である」
と宣言している。
セイの販路法則(以下単にセイの法則という)とは、「生産物は生産物によって支払われる」
換言すれば「供給は需要を生む」という法則である。
重農主義やイギリス古典派経済学の理論の根底にあった考えだという。
セイは1803年に書いた「経済学概論」で販路法則を展開した。
セイの法則では、過剰生産換言すれば恐慌はありえないことになってしまう。
ナポレオン戦争直後の1819年頃、セイは現実に起きた過度的恐慌を前に、
過小消費説を唱えるシスモンディやマルサスを相手に
経済学史上では有名な市場論争あるいは恐慌論争を繰り広げた。セイの味方はリカ−ドだった。
現実の経済ではセイの法則など通用しないことは明らかである。
にもかかわらず経済学の基盤に居座ってしまったのは何故だろうか。
この点に関し、「世界を変えた12人の経済学者」8は、次の通り言う。
「(リカ−ドが書いたものに関しては)議論の余地も多く、
したがって多くの学問的論争を準備した。
一例は一般均衡の理論だ。この定理はふつうセイに帰せられている。
しかしリカ−ドは独立に同じ認識に到達していた。リカ−ドはこう言った。
人間の欲望(需要)が飽和しえないという前提のもとでは、
一国民の経済において商品の供給過剰(販路恐慌)に到ることは不可能である。
それは、商品とともに常に、その商品の買い取りに必要な貨幣もまた生産されるからだ。
というのは、商品の価格を構成するのは他でもない、諸所得、つまり労働者が賃金として、
企業家が利潤として、地主が地代として得る所得だからだ」
ジャ−ナリストのケステルは大胆にも問題の核心に切り込んだ。
その大胆さをケインズに求めることは無理だったのだろうか。
彼(ケインズ)は「本書はJ.B.セイの学説からの最終的離脱である」
と述べるのではなく、リカ−ドからの離別、あるいはそれが無理にしたら
ワルラスの一般均衡論の否定を宣言すべきだった。
しかし衡平さを維持するために、彼の「一般理論」ドイツ語版への序で書いた
「現代のイギリス経済学者は、アルフレッド・マ−シャルの『経済学原理』によって
はぐくまれてきたが、そのマ−シャルは自分の思想がリカ−ドと連続していることを
強調するのにとくに苦心を払っていた。彼の仕事は大部分、
限界原理と代替の法則をリカ−ドの伝統に接続させることであった」
という言葉を紹介しておかなければならない。
また「一般理論」フランス語版への序の
「過去100年以上もの間、イギリスの経済学は正統派によって支配されてきた。
(中略)私はそれを学び、それを教え、それを叙述した。
外部から見ている人々にとっては、私はまだそれに属しているように見えるかもしれない。
のちの学説史家は、本書を本質的に同じ伝統の中にあるとみなすことであろう」
という事情もまた、ケインズのために理解しなければならない。
それはともかくケインズの不徹底さが生んだ最悪の事態が「新古典派総合」なる代物であった。
7 新古典派総合という概念が果たした歴史的役割
新古典派総合という概念について、小学館版万有百科大事典は、
「『新古典派総合』とは、ポ−ル・サミュエルソンが『経済学』第三版(1955年)において、
現代の所得決定の有効な核心と古典的経済原理との一つの総合として提出した主張であり、
ケインズ的な財政・金融政策によって完全雇用を達成すれば、市場価格機構が復位して、
新古典派理論の妥当性が回復するという見方である。J. ト−ビンやR.M. ソロ−らもこれに同調し、
ケネディ・ジョンソン政権のいわゆるニュ−・エコノミックスの理論的基礎ともなった」
と解説した上、
「新古典派総合の主張には理論的に問題がある。ケインズ的な総需要政策によって
完全雇用を達成する経済は、本来価格が硬直的で伸縮的な調整機能が働き難い経済であり、
完全雇用が達成されたからといって市場価格機構が有効に働く新古典派的な経済が実現する
保証はないからである」と批判。最後に、
「サミュエルソンは『経済学』第八版(1970年)から新古典派総合という言葉を取り除いた」
と締めくくっている。
新古典派総合という言葉を著作から取り除いた時、
サミュエルソンは自らの過ちを認めたのだろうか。少なくとも文脈からはそう読み取れる。
サミュエルソンは「一般理論」のフランス語版への序を読まなかったのだろうか。
英語圏の彼にとってその可能性は高い。そもそもケインズは、
もっとも大事なポイントを何故本文に書かなかったのだろうか。
せめて英語版の初版の序に書くべきだった。
あるいはまた、サミュエルソンはフランス語版への序を読んでいたとしても、
セイの法則と一般均衡論は同じもの(9)と考えなかったのかもしれない。
アメリカの経済学界は1930年頃、大きく変る。
オ−ストリア学派のシュンペ−タ−がやってきてハ−ヴァ−ド大学の教授になる。
1936年以降、本人は来なかったが、一般理論に集約されたケインズの経済学がアメリカを席巻する。
それまでの制度学派は歴史学派として軽んじられ、アメリカの若き経済学徒は
先進的なヨ−ロッパからもたらされた「理論」に飛び付いた。
1950年には、オ−ストリア学派の嫡流とされる
フリ−ドリッヒ・オウガスト・フォン・ハイエクが大西洋を渡って来て、
10年ほどシカゴ大学教授を務める。ハイエクが得意とするのは景気理論(11)と自由主義論である。
ハイエクは、1946年から76年までシカゴ大学にいたミルトン・フリ−ドマンとともに
自由主義の旗印の下、モンペルラン協会をつくって自由主義思想の発展のために尽くした。
ハイエクはケインズ学派の批判者となるのだが、その理由は、
「ケインズが貨幣賃金を切り下げるよりも、実質賃金の低下(物価騰貴による)をはかって
労働者をだます方が、より容易な政策であり、こうした政策は実質賃金が高すぎて、
完全雇用の達成に支障をきたすときは、いつでも実行されるべきだと主張していることを
厳しく批判し、ケインズの犯した重大な誤りは、労働者がこのような欺瞞策に長い間だまされ、
実質賃金の低下を黙認して新たな賃上げを要求しないという、愚かな信念にあると断定した」
という点にあった。
ハイエクは1946年にケインズに会った時、彼の真意を直接聞いた後は
それまでのケインズ観を改め、非難の的をケインズ自身ではなく
彼の理論を乱用したケインジアンに絞るようになった。
1950年代半ば、ニュ−・マネタリズムを確立したとされるフリ−ドマンは、
ハイエクがヨ−ロッパへ戻った後シカゴ学派の総帥となった。
フリ−ドマンはケインズ理論に対する最大の批判者として知られる。そのポイントは、
経済理論の場というよりイデオロギ−上の対立だった。スペンディング・ポリシ−を
中核とするケインズ政策を推し進めていくと、必然的に政府が肥大化する。
自由主義者であるフリ−ドマンはその事実に耐えられなかったのであろう。
問題の一般均衡論がアメリカに侵入したのはオ−ストリア学派のハイエク経由ではなかった。
歴史的にみてその伝播経路は、オクスフォ−ド大学のジョン・リチャ−ド・ヒックス経由
であったろう。ヒックスは「価値と資本」という本を書いた。それは
「ワルラス、パレ−トに由来する一般均衡理論を継承しつつ、これに新しい発展を
与えた新古典派経済学の代表的な書物」13
とされる。
ヒックスは「多数市場均衡の安定の理論」の開拓に貢献したという。その理論に対しては、
サミュエルソンが動学的安定理論の立場から批判を加えたというが、その批判は、
批判の内容よりはヒックスの著作に関心をかき立てることに歴史的使命があったと思われる。
いずれにせよサミュエルソンが一般均衡論のアメリカ導入に大きな力を果たしたと推理しうる。
歴史は皮肉である。サミュエルソンの新古典派総合の理論がまかり通っていたのは
ケインズ派の全盛時代であった。もしその頃ケインジアンたちが、
師が意図した「セイの法則からの最終的決別」という目標を明確に定めて
一般均衡論の非現実性を攻撃していれば、後者はひとたまりもなかった可能性がある。
新古典派総合なる概念は、異質のものを等質として暖かい毛布を掛けてやったことになる。
結論として、新古典派総合なる概念は1960年代という経済学にとって大事な時期に
ピエロ的役割を果たした可能性がある。
8 大恐慌あるいは大不況のメカニズム
「経済学はなぜ大恐慌の謎を解けないのか」という問題に関連して、
これまで経済学とはなんなのかを追求してきた。
次は大恐慌と大不況という概念を明確にしなければならない。
経済学はこれまで、必ずしも大恐慌と大不況という概念を明確に区別してこなかった。
その理由は、経済学がこの種の問題を扱う時、唯一の手段となるのが景気循環論だったからだ。
景気循環論は短期から長期までのいくつかの波動の合成結果が、
景気つまり経済状態を動かすという理論である。しかしその理論は
過去の統計から経験的に波動を指摘するだけで、その因果のメカニズムに関しては無関心である。
あらためて、19世紀前半には認識されていた「好況・投機・恐慌・不況」の基本的メカニズム
について検討しよう。
まず「好況」からである。好況が始まる原因として何でも良い。
「農業恐慌と景気循環」15は、資本主義経済以前にも好況や不況が繰り返されていたことを示した。
そして好況が始まる原因としては貴金属の流入、技術革新、不作など様々なものがあったとしている。
極端な例としては、豊作も不作も好況の原因になりえた。
好況時、必然的に起きる現象は商品価格の騰貴である。むしろそれこそが好況という
現象の定義なのだ。商品価格の上昇は、それが原因となって二つの結果をもたらす。
第一は生産者をして、より多くの商品を生産させること。
第二はその商品に対する投機である。
現在の経済学は第一の問題は扱うことができる。しかし第二の問題は扱えない。
というのは、労働価値説に立つ経済学は「価格」には二次的な重要性しか与えていないからである。
というより事実上無視している。
人間に欲望がある限り、好況から投機への過程は必然と捉えなければならない。
にもかかわらず労働価値説は、経済学をしてこの必然の過程の研究に踏み込むことを妨げている。
ここで投機という言葉を定義する必要があるだろう。投機は投資と対比されるが、
投機と投資の区別は限りなく曖昧である。それは、両者とも
マネ−を「マネ−以外のもの」に変える点では同じだからだ。目的も同じである。
マネ−を「マネ−以外のもの」に変えることは常にリスクを伴う。
にもかかわらずリスクを冒すのは、「マネ−以外のもの」をもう一度マネ−に戻した時に
増殖していることが期待されているからである。
結局、投機と投資の差は「マネ−以外のもの」の性質によることになる。
投資は「マネ−以外のもの」になんらかの変化を与えることによって
マネ−の増殖を計る行為であり、
一方投機は存在する価値つまりストックの時間的変化が対象とするマネ−増殖行為である。
ストックについて検討しなければならなくなった。
ストックは蓄積された価値あるいは存在する価値と定義できる。
ここから重要な属性が生ずる。存在するすべてのものは、時の流れとともに変化せざるをえない。
これは宇宙の大原則である。ストックは変化する価値なのだ。投機はその変化に賭ける行為である。
変化する価値は価格として具現化される。ちなみに商品の価値を生産した時点で
固定してしまう労働価値説では、価値と価格の分離という奇妙な問題を生ずる。
投機がストックの価値の変化に賭ける行為である以上、
いずれ崩壊せざるをえないことは自明の理で、経済学の原理すら不必要である。
この世には無限はありえないということである。そして投機の崩壊が恐慌である。
「好況・投機・恐慌・不況」の基本的メカニズムのうち、
最後の、恐慌から不況への過程がもっとも重要なポイントである。
恐慌はなぜ不況をもたらすのか。
それは必然の過程なのか、などを明らかにしなければならない。
投機を実物経済と関係のないバブルと考える経済学は、この重要な過程を説明できない。
まず不況という現象の特徴を把握しなければならないが、それは破産と失業に要約できる。
その他諸々の現象は二次的な重要性を持つにすぎない。
破産は債務不履行、換言すれば借金を返せなくなった状態である。
つまり破産は借金が前提となる。では、誰が借金していたのだろうか。
現代社会ではマネ−の貸し手は銀行である。銀行は誰にでも貸すわけでない。
返済してくれることが確実と考えられる存在のみに貸してくれる。
その相手は、借りたマネ−を増殖する能力の持ち主以外にいない。
結局、企業あるいは企業家ないし起業家しか銀行から借りられない16。
投機の基本的な主体が起業家ないし企業であることは明らかである。
恐慌は起業家ないし企業の破産を意味する。
雇用主が破産すれば失業が発生するのは当然である。
かくて大不況のそもそもの原因が大投機にあることは明白である。
9 経済学が大恐慌の謎を解けない理由
第一に挙げなければならないのは、時間と変化を捨象した一般均衡論が
経済学の中核に居座っている点である。
一方、大恐慌そして大不況の根本原因である投機は
ストックつまり蓄積された価値の時間による変化に賭ける行為である。
一般均衡論を中核とした経済学に解ける筈もない。
第二のポイントは、スミス由来の経済学が市場の経済学、
換言すれば空間の経済学であって人間要素を捨象しているという点にある。
すでに述べたように森嶋通夫は、
「一般均衡理論という夢の世界のステ−ジで演ずる俳優たちの数は、あまりにも少なすぎる」
と嘆いているが、少ないのではなく皆無なのである。
シュンペ−タ−のアントラプルヌ−ルを経済学に持ち込もうとした試みも失敗に終わった。
その理由は、時間と変化を捨象した「死の世界」には生きた人間が入り込む余地はないからであろう。
一方、投機はもちろん高度の人間行動である。
第三に挙げなければならないのは、深刻かつより本質的な問題である。
スミスの経済学は労働価値説で基盤が構成されており、
商品の価値は生産された時点で決まってしまう。
それ故、蓄積された価値つまりストックを扱えない。また生産物ではないマネ−も扱えない。
それ故、マネ−とストックの絡みで勝負する投機は扱えない。
投機の結果である大恐慌の謎も解ける筈もない。
10 否定されるべき労働価値説
経済学が大恐慌の謎を何故解けないのかという問題を検討してきた結果、
たいへん重大な結果に辿りついた。問題の根幹として労働価値説にぶち当たったのだ。
労働価値説の最大の問題点は商品の価値を生産した段階で固定してしまう点にある。
そこからいろいろな問題が生じて来た。
最大の問題は蓄積された価値つまりストックを扱えなくなったことである。
何故なら、蓄積され、存在する価値は必ず変化することが避けられないからである。
変化することが前提とされる価値は労働価値説に馴染まない。これほど奇妙なことはない。
経済学は本来、価値の科学でなければならない。ストックは価値である。
ストックは富あるいは財産と呼ばれている。
現代の具体的なストックは、銀行預金つまりマネ−、株式、それに土地など不動産である。
ストックを扱えない経済学はこれらのすべてを扱えないのである。
それは現実の経済を扱えないということだ。
経済学を非現実的にしている諸悪の根源が労働価値説にあることは確かである。
あらためて価値について考えよう。
価値という概念が人間の頭の中に起源を持っていることは否定できない。
人間ほど気紛れな存在はない。なるが故に人間なのだ。
人間の価値観が主観的であることは認めなければならない。
そのことを示す良い例がある。
貧しかった石川啄木は、ある時迷った挙げ句「オスカ−・ワイルド 芸術と道徳」
という豪華本に大枚の3円50銭をはたいてしまった。
しかし彼は生活苦の中、すぐ後悔してその本を古本屋に1円30銭で叩き売ってしまう。
典型的な気紛れ価値観である。
この例では、それは単に価格の問題にすぎないと主張する経済学者がいるかもしれない。
もしそうだとしたら、この豪華本の価値とは何なのか教えて欲しい。
奇妙にもこれまで経済学は、価値そのものについての議論をほとんどしてこなかった。
その理由は、そもそもの出発点からスミスの一匹のビ−バ−と二頭の鹿の例え話によって
労働価値説の鋳型に鋳込まれていたからであろう。
さりとて今更、価値とは何かを議論することも意味はない。
それはすでに哲学の世界では、Axiologyとして結論が出ないという結論が出ているのだ。
今やるべきことは、価値とは何かという問題をブラックボックスに入れたまま
「価値は主観的」と認めることである。
いずれにせよ経済学を現実解明の科学とするためには労働価値説を否定しなければならない。
しかしそれは容易なことではない。
労働価値説がいかに現在の経済学の基盤を構成しているか、
そのよき例は国民所得計算の三面等価の原則である。
この原則は、よく知られているように
生産
分配
支出
の三面で計った国民所得は相等しいとする原則だが、第一に問題なのは
もっとも重要な過程である販売の過程が無視されていることだ。
生産された段階ではまだ価値は実現されていない。実現されるのは販売された後である。
三面等価の原則は暗黙裡に生産されたものすべてが売れると前提しているわけで、
ケインズが否定しようとしたセイの法則そのものと言える。
三面等価の原則よりもさらに問題なのはY=C+Sという基本方程式である。
この方程式はマクロ経済学と計量経済学の基本方程式だが、
これほど非現実的な方程式もないだろう。
何故なら現実の世界では、Y−Cの答えは売れ残りでしかないからだ。
売れ残ったものが貯蓄である筈もないが、より重要なのは
貯蓄は銀行の預金勘定に記載される数字という事実である。
C+Sという式は生産物と預金という次元の違う二つのものを足し算しようとしているわけだが、
どんな答えが期待されているのだろうか。
とはいえY=C+Sという数式を否定すれば、
マクロ経済学も計量経済学もまったく無意味なものになってしまう。
ことは重大である。しかし現実の問題を解ける科学をつくることと、
経済学を守ることとどちらを選ぶかと問われれば、経済学者以外は前者を選択するであろう。
11 マネ−とは
経済学が価値に関する科学だとすれば、マネ−をこそ経済学の中核に据えるべきである。
にもかかわらず、これまでマネ−ほど経済学によって軽視されてきたものはない。
その理由が労働価値説を基盤に据えたスミス以来の経済学の基本的性格にある
ことはこれまで述べてきたとおりである。
マネ−とはなんだろうか。
マネ−についてジョン・ケネス・ガルブレイスは、その著書
「マネ−(Money;Whence It Came, Where It Went)」の中で、
「歴史以外の方法により、貨幣について長く批判に耐えうるような事柄を
たくさん学ぶことができるかどうかは、たいへん疑わしい」
と言っている。
その意見には同意できる。しかしガルブレイスがその著書で問うた歴史は
アメリカのマネ−史に限られる。
またジョン・メイナ−ド・ケインズが、その「貨幣論」第一編・第一章でマネ−の起源について
「氷河が溶けつつあった時代の霧の中へ没している」と書いているのは、
いくらなんでも行き過ぎだと思う。
氷河が溶け始めたのは1万5000年前。まだ農業すら始まっていない。
ケインズがこの世を去った後急速に解読が進んだ古代メソポタミアの楔形文字文書に、
「銀にして」という表現が出て来る17。BC1800年頃の文書である。
その表現は、銀以外のすべての商品の価値が銀の重さで表現されるようになったことを示している。
それはマネ−の重要な特性である。興味深いのは、
それより600年程前に同様の目的で書かれた長距離交易文書には、
それぞれの商品の種類別に重さが記載されていることである。
「銀にして」という表現は出て来ないのだ。
この事実から、銀がマネ−になったのはこの600年の間、多分BC2000年頃と考えられる。
しかしさらに古いと考えられる文書には「牛にして何頭」という表現も出て来る。
また銀が存在しない地域と時代では、例えば独立以前のアメリカのタバコなど
銀以外のものがマネ−として流通していた事実もある。
しかしいずれの場合も一時的で地域的な慣習で終わった。
マクロ的あるいは本質的な議論としては、銀こそが人類の歴史で初代のマネ−である。
この場合、敢えて貴金属という言葉を使わなかったのは、もう一つの貴金属、金が
余りの希少性故秘匿され、なかなかマネ−になることができなかった歴史を強調するためである。
人類史上で「誰が金を所有していたのか」という問題はたいへん興味深い18。
金に限らず蓄積された価値の持ち主は絶大なる権力を握ることができる。
金の所在は世界の政治の裏面史を証言している。しかしこの問題を追求することは
至難の業である。金は秘匿される場合が多く記録に残されることが少ない。
また誰かに持ち去られた後は如何なる考古学的証拠も残さない。
それ故、金の歴史は伝説や風聞を元にした推論の域を出ない。
しかし資源屋の筆者としては、だからといってこの問題を見過ごすことには抵抗がある。
いささか大胆すぎるかもしれない筆者の推論によると、金の歴史は大略以下のとおりである。
古代、金の生産はナイル川沿岸に偏っていた19。その金はファラオによって独占された。
古代エジプト文明が金の文明になった由来である。
歴史時代に入る以前からエジプトに独占されてきた金を持ち出したのは、
アケメネス朝ペルシア帝国第二代の王カンビセスと推定しうる。
以後、金の太宗の在処はエジプトからペルシアに移った。
興味深いのは、BC330年頃から始まるアレキサンダ−大王の征服地はすべて、
金が保管されていたかその生産地だった点である。
アレキサンダ−大王は、相対的な意味で史上最大の金の所有者になったが若死にした。
その後彼の遺産は一時セレウコス朝のものとなったが、
やがて復活したペルシア帝国、パルティア朝からササン朝へと受け継がれた。
ここまで、金は王者によって独占され流通の場に投じられることはなかった。
その間、銀のみがマネ−の役割を努めた。
この点については一つの例外に言及しておく必要がある。
ロ−マ帝国が一時的に所有していたロ−カルな金である。
ロ−マは、その頃金の産地であったイベリアとゴ−ルの金を手に入れた。
さらにエジプトのプトレマイオス朝を滅ぼすと、その金を手に入れたと推定しうる。
いずれにせよロ−マの金は、世界的にみればロ−カルな量にすぎなかった。
ロ−マはその金を東方からシルクや香料を購入するのに使ってしまう。
ロ−マが比較的豊富な金を保有していたのは、シ−ザ−の時代からBC100年頃までと推理しうる。
興味深いのは、ロ−マ帝国が数百年にわたって執拗にペルシア帝国へ攻め込むことである。
しかし遂にロ−マ帝国はペルシア帝国の金を手に入れることができなかった。
金を失ったことがロ−マ帝国衰退の原因だったという説は興味深い。
長く続いた古代という時代、金の太宗は
エジプトからペルシアへと持ち主は変わったが王者によって退蔵され、
マネ−として流通することはなかった。
その点こそが、古代という時代を経済的に停滞させたと推理しうる。
しかしイスラム・アラブが最後のペルシア帝国、ササン朝を滅ぼすと歴史は大きく転換する。
アラブは商業民族であり王を持たなかった。
彼らはペルシアから奪った金を共同体の構成員の間で分配した。
それは史上かってない精巧な金貨として鋳込まれ広域に流通した。
金がようやくマネ−になったのだ。
その結果は今や幻の、空前の規模の国際商業ネット・ワ−クの出現であった。
イスラム・アラブの国際商業ネット・ワ−クはおよそ200年弱の寿命で消滅した。
再び金は誰かによって退蔵されたのである。その誰かの候補としては三つ考えられる。
第一はインドである。第二はビザンチン帝国。そして第三はアッバス朝の残片、
その旧領にできたエジプトのファティマ王朝と中央アジアのサ−マン朝である。
以上のうち、第三の金の一部が十字軍によってヨ−ロッパへもたらされる。
さらにビザンチン帝国の金は、1202年から1204年にかけて行われた第四次十字軍
によってヴェネチアに持ち去られた21。
インドの金についてははっきりしない。しかし大胆に推理すれば、
18世紀後半から19世紀初めにかけてイギリスに奪われるまで、インドにあったと考えられる。
筆者の考えでは、マネ−に関する唯一、絶対的な定義は
「あるものを誰かが受け取る時、そのあるものを、将来別の誰かが同じ価値で
受け取ってくれることが確実だと期待できる時」
その「あるもの」は具現化されたマネ−になりうるというものである。
この条件に合致する実在物としては、長い間貴金属しかなかった。
しかし金はマネ−になったり退蔵されたりした。その気まぐれが歴史を動かした。
しかるに17世紀末、イギリスでマネ−の歴史では革命的な出来事が起きた。
ゴ−ルド・スミス(金細工師)の複式簿記の上で預金および銀行券という
ペ−パ−・マネ−が誕生したのである22。
それは金の預かり証として、金の価値にリンクされていた。
ゴ−ルド・スミスはやがて預金・貸付銀行へ変身する。
銀行の貸付けは摩訶不思議な信用創造というメカニズムを生み出す。
それは必要に応じていくらでもマネ−を創造出来る便利なシステムである。
イギリスはペ−パ−・マネ−制度で100年以上世界に先駆けた。
マネ−は経済活動の原動力である。マネ−が無ければ経済は停滞するし、
マネ−が流れ込めば経済は放っておいても興隆する。
イギリスが産業革命で世界をリ−ドした背景にはイングランド銀行を中核に据えた
ペ−パ−・マネ−制度の充実があった。
とはいえペ−パ−・マネ−は、金との兌換の保障を前提に成り立っている。
ナポレオン戦争が始まると、イングランド銀行は一時イングランド銀行券の金との兌換を
停止せざるをえなかった。戦争が終わると金本位制23の復活が模索され、
ようやく1844年のピ−ル条例によって確立した。
ピ−ル条例はイングランド銀行券の発行額を余りにも厳しく規制したのでイギリス経済は停滞したが、
イングランド銀行券の信用は上がりポンド預金は金と等価となった。
それを背景に1870年頃以降、世界の各国はイギリスの銀行に預金して
貿易の決済を行うようになった。
人類の歴史で初めてインタ−ナショナル・ペ−パ−・マネ−が誕生したわけで、
イギリス国内経済が享受してきた必要に応じ新しく生み出すことができる
便利なペ−パ−・マネ−制度を、他の国が国際貿易の分野で利用できるようになったのだ。
世界経済が成長のレ−ルに乗ったのも不思議はない。
ところが第一次大戦が始まるとイギリスは金本位制を停止した。
突如、インタ−ナショナル・ペ−パ−・マネ−が消滅して世界経済は苦しむことになった。
戦争が終わるとイギリスの金本位制復活が期待され、
1925年には一度復活されるが長く維持することができなかった。
1930年代には、国際決済手段を失った世界経済はブロック化した。
世界貿易は激減し大不況の原因となった。
第二次大戦後、アメリカのドルがインタ−ナショナル・ペ−パ−・マネ−として信任された。
その背景には、1934年から41年にかけての8年間にアメリカに1万5000トンの金が流れ込む
という事実があった24。
そのせいか、アメリカは外国政府に限定するという条件付きで辛うじて金本位制を維持した。
インタ−ナショナル・ペ−パ−・マネ−が復活した結果、世界貿易が、そして世界経済が拡大した。
ゴ−ルデン・シクスティ−ズと呼ばれた世界的好景気は
ドルというインタ−ナショナル・ペ−パ−・マネ−によってのみ可能だった。
その半面、アメリカの金本位制の基盤は急速に弱体化していった。
海外で滞留するドルが急速に増える一方で、アメリカの金保有高が減少したからである。
1960年代アメリカはロ−ザ・ボンドや金プ−ルなどの手段によって、
なんとか金本位制を守ろうとした。しかしアメリカは結局、
1971年8月ニクソン・ショックという形で金本位制を放棄せざるをえなかった。
同じ頃、たいへん興味深い出来事が進行した。本来であればイギリスのポンドの場合と同様、
ドルの国際的信任が消滅してもおかしくなかった。しかるに現実の世界では逆のことが起きた。
ユ−ロダラ−という怪物が出現したのである。
ユ−ロダラ−は最初の段階では海外へ流出したドルにすぎなかった。
しかしやがて、銀行がアメリカ国内以外の場所で預かるドル建ての預金を指すようになった。
両者の間に明確な一線を画することは困難だが、
後者ではそれ自体の内部で信用創造が行われるのである。
ユ−ロダラ−の起源は1949年に共産主義化した中国が、凍結されることを恐れて
アメリカのドル預金をソ連の外国銀行のヨ−ロッパ支店にドル建てのまま移した時に遡るとされる。
しかし本格的な基礎が築かれるのは、1950年代末最終的にポンドのインタ−ナショナル・
ペ−パ−・マネ−としての地位を放棄したイギリスが、その代りに
イギリスの銀行がドル預金を預かることを許可した時からである。
1960年代のアメリカのドル防衛策(金本位制を守るための手段)の一つとして
実行された金利平衡税は、皮肉にも意図とは逆にドルの海外流出を促進して
ユ−ロダラ−市場を拡大する効果をもった。
1973年に第一次石油危機が起き原油価格が一挙に四倍になると、ドル不足に陥った
石油輸入国はユ−ロダラ−市場で巨額の借入れを行い代金を支払った。
200億ドル程度だったユ−ロダラ−市場の規模は短期間に一桁跳ね上がった。
ペ−パ−・マネ−としてユ−ロダラ−を見る場合の問題は、
アメリカの国内法規が一切課されないという点にある。
とくに連邦準備制度規則のうちレギュレ−ションD項が課されない点が問題である。
無限の信用創造が行われる可能性が生ずるからだ。
1970年代には、わざわざ無国籍あるいは無法規地帯をつくるため
オフショア−・マネ−・マ−ケットまでつくられた。
1970年代以降、我々は未だ人類が経験したことのない未知の世界にさ迷いだしたのだ。
それは必要に応じていくらでもマネ−を創造できる空間である。
以上、マネ−4000年の歴史を振り返って言えることは次の通りである。
・商品の価値の基準、およびその交換を促進する媒体としてのマネ−に対する需要の起源は、
交換が一般的現象となった時代に遡ると推定しうる。
・何かがマネ−になる必要条件ないし絶対条件は、すでに述べた通り「あるものを誰かが受け取る時、
そのあるものを、将来別の誰かが同じ価値で受け取ってくれることが確実だと期待できる」ことであ
る。そのような「あるもの」としては、それ自体が価値を持つことがもっとも端的である。
・貴金属は、それ自体美しく希少性に富んでいることにより歴史的唯一性をもってマネ−となった。
それ以外にも実に様々なものが一時的にマネ−になったことも歴史的事実だが、マネ−の本質を理解
するためにはむしろ捨象した方がよいと思う。
・ところで以上の歴史的事実にもかかわらず、貴金属そのものをマネ−と考えることは間違っている。
マネ−の本質は人間の頭の中にある認識としての価値である。貴金属はその価値が具現化ないし仮託
されたものにすぎない。そして人間の頭の中に存在するものはすべて主観的である。
マネ−は他のストックと同様、主観的価値なのだ。
・17世紀末、ロンドンのゴ−ルド・スミスの複式簿記の上でペ−パ−・マネ−が誕生した過程は二つの
ことを物語っている。第一に、もともとマネ−は人間の頭の中に存在する主観的価値故、貴金属でな
く複式簿記上の数字に転化しても不思議はなかったこと。第二に、さわさりながら主観的価値を仮託
する対象としては、実感をもってその存在を確信できる貴金属の方が遥かに優っていたこと。
相矛盾する両者の間を埋めたのが、何時でも貴金属と兌換しうる「信用」にその価値を裏付けられた
銀行券というデヴァイスである。
・やがて銀行券の信用を支える制度は金本位制と呼ばれるようになった。
第二次大戦後ドルをインタ−ナショナル・マネ−にしたのは、
大戦の直前アメリカへ流入した1万5000トンの金を基盤とした縮退した最後の金本位制25である。
しかし1971年のニクソン・ショック以後は、ドルは完全に金とのリンクを絶ってしまった。
さらにユ−ロダラ−という、あらゆる国家規制を受けず自由気儘に無限の信用創造を享受する
マネ−・システムが世界経済を支える時代に入った。
それは人類史上かってない壮大なる実験といえる。
しかし経済学は、そのことが何を意味するか関心すら持っていない。
それは、マネ−に対する根本的認識に欠けているからである。
12 マネ−と貨幣数量説
マネ−を検討してきたこの段階で、貨幣数量説(マネタリズム)を無視するわけにいかなくなった。
第一節の表題の如く、マネタリストはかって全盛時代のケインジアンと対等に渡り合った。
その代表者ミルトン・フリ−ドマンは、ケインズ派経済学に対する最強の批判者だった。
貨幣数量説の起源は古い。アダム・スミスの友人で先輩だったデ−ビッド・ヒュ−ムまで遡り、
その後リカ−ドによって精緻なものに仕上げられた。20世紀ではアメリカの
ア−ビング・フィシャ−が知られている。
貨幣数量説の要点はPT=MVという数式で表現しうる。
Pは一般物価水準、
Tは総取引量、
Mはマネ−の量、
Vはマネ−平均流通速度(回転数)である。
貨幣数量説は通常TおよびVを係数つまり固定的と看做し、
マネ−の量が物価水準を決定すると主張する。
先に引用した大恐慌の謎を巡るサミュエルソンとの論争において、
フリ−ドマンがアメリカ政府が十分なマネ−を供給しなかったと非難した背景には
この考え方があった。
筆者の見解では、貨幣数量説は経済学の中で初めて、
マネ−の増減が実物経済に影響を与えることを認識したという点で高く評価できる。
しかし、理論としてはスミスより古いにもかかわらず経済学の主流からは事実上無視されてきた
背景には、それなりの理由が存在したに違いない。あらためて貨幣(マネ−)数量説を吟味しよう。
貨幣数量説は、PT=MVなる式でTとVを固定し専らM(マネ−)が増えれば
P(価格)が上がるという側面でのみ問題を考えてしまった。しかし前節のマネ−の歴史で見た通り、
Mが増えるとPよりむしろT(生産量または取引量)が増えるのが一般的である。
Tつまり実態をマネ−とは独立の事象と考えた背景には、
ここでも労働価値説の考えに縛られていたのだろうか。
貨幣数量説の第二の問題は、マネ−の交換手段としての属性のみを主として問題にするだけで、
価値貯蔵手段としての属性を軽視している点が挙げられる。
存在するマネ−がすべて交換手段になるわけではない。マネ−の一部、否むしろその大半は、
普段はおとなしく眠っているのだ。この点は、とくにマネ−がペ−パ−・マネ−
つまり銀行預金になった時代以降について言える。
あるいは貨幣数量説論者は、その点は平均流通速度に含められると主張するかもしれない。
しかしそれでは分析の精度を致命的に悪化させるであろう。
そればかりではない。その主張がもし為されるとすれば、
そもそも貨幣数量説がマネ−の本質を正しく捉えていないことを示すことになる。
マネ−の本質は蓄積された価値そのものである。価値そのものであるが故に交換手段になりうる。
新しくマネ−が追加されたとしても、その全部が退蔵されたとしたら
なんらの変化をPTに与えることはない。
とくに大不況の場合のような状態では、マネ−を追加したとて
物価を上昇させることは不可能であろう。
というわけで筆者はフリ−ドマンのマネタリズムには賛成しかねる。
しかし貨幣数量説の基本方程式PT=MVは、実物経済とマネ−経済を結び付ける
基本方程式には違いないので、両辺を現実に合わせて精緻化すれば
経済学再興の糸口になるかもしれない。
13 経済学の選択
問題は重大かつ深刻である。現在の経済学の三大主流、
マクロ経済学
ミクロ経済学
計量経済学
は、すべて労働価値説の上に構築されている。明示的でないにせよ、
生産が出発点となっていることでそう言える。
経済学徒とくに若き経済学徒は重大な選択を迫られているように思われる。
大恐慌の謎を解けない経済学をこのまま続けるか、思い切って労働価値説と決別するか。
どちらの選択をしても、超の字がつく困難が待ち受けているだろう。
これまで非現実的なモドゥルを中心に据えた経済学が生き残ってこられたのは、
第二次大戦後傾向として右上がりの成長カ−ブを続けることができたからである。
程度の差こそあれ、経済学に関心を寄せるべき存在は
他人に寛大であるには十分なほどは幸せだった。
しかし今や、世界のすべての人々は二度目の大恐慌に向けての直行列車に乗せられてしまった
ように思える。というのは大恐慌が大投機の必然的結果だからである。
日本の大投機はすでに過去のものとなり今更取り消すことはできない。
そのスケ−ルからして、それが直ちに世界的大恐慌の引金を引いても不思議はなかった。
しかし幸いなことに、いくつかの理由がその引金の真管を湿らした。
第一は日本的システムが持つウェットな「恥じの文化」の体質である。
明らかに倒産した筈の企業を日本の銀行は、支払えなくなった金利分を
新規貸し付けることによって延命させた。
その動機が銀行サイドの責任逃れにあったにせよ、それが、
倒産が必然的にもたらす筈の失業の発生を抑える効果を持ったことは確かである。
日本の問題先送りは時間かせぎとなった。その間、アメリカ経済が盛り返す余裕が生じたのだ。
アメリカ経済は1970年代と80年代は低迷したが、
90年代に入り俄然未曾有の好景気を享受し始める。
その背景には、マイクロソフトやインテルに代表される新しい産業、新しい企業の興隆があった。
またリエンジニャリングなど、思い切った経営改革が行われたことも功を奏した。
しかしより根本的には、無限の信用創造を行うことが可能なユ−ロダラ−市場の存在、
また日本などアメリカ以外の国がアメリカの国債を購入して
潤沢なマネ−を供給した点を無視できない。
1990年代、アメリカの好況が世界経済を支える構図が続いている。
その間、ドルの価値は堅実に維持された。そして、そのドルとリンクした
東南アジア諸国の通貨の魅力が増した。
それも当然である。これらの国では潜在的なマネ−需要が高く金利が高かったからである。
しかしマネ−が潤沢に供給されると必ず投機が起きる。投機は遅かれ早かれ破綻せざるをえない。
1997年に東南アジアで起きた通貨不安はその投機の崩壊を意味する。
具体的には恐慌が始まったのだ。
今や、世界経済の運命はアメリカ経済の行方に集約されたと言える。
そのアメリカでは過去10年近くウオ−ル街の株高が続いている。
その間、株価は4倍以上になった。
それを過熱と見るかどうかについては意見が分かれている。
しかし問題の1929年10月の大暴落寸前にも楽観論者はいた。
アメリカの個人金融資産の異例に高い比率が株式などリスク証券で運用されているのが気にかかる。
株価を押し上げるエネルギ−の余力が残っていないことを意味しているからだ。
好況・投機・恐慌・不況という連鎖は、
アントラプルヌ−ルのレッセ・フェ−ルを根本哲学とする資本主義経済の本質に基づく。
アメリカの株高が永遠に続くことなどありえない。その際、投機のスケ−ルが
大きければ大きいほどその後の反動も大きくなる。
心配なのは大恐慌に見舞われた時、
一般の人々がこれまでのように経済学に寛大であってくれるかどうかである。
いずれにせよ、社会的ニ−ズを満たさない存在は生き残れないというのが歴史の鉄則である。
生き残りうる経済学は、ストックつまりこの世に存在するが故に変化する価値を
扱えなければならない。その中核にマネ−が位置づけられる。
また経済学に複式簿記を取り入れなければならない。
現代経済はそれによって成り立っているからだ。
注
1 長銀研究所副理事長。当時経済企画庁経済研究所所長
2 週刊東洋経済誌の1987年11月7日号
3 日本評論社
4 キンドルバガ−
5 マルクスは資本論の中で「1825年の恐慌をもって初めてその近代的生活の周期的循環を開始した」と書いてい
る。
6 岩波新書
7 「フュ−チャ−・オブ・エコノミックス」鳥居泰彦監修 同文書院、Royal Economic Societyが同学界の創立100
年と、その機関誌であるEconomic Journalの創刊100年を記念して、世界の著名な経済学者に経済学の現状と将来
について率直な意見を求め、The future of Economicsを編集した、その翻訳。
8 「世界を変えた12人の経済学者」パウル-ハインツ・ケステル著 長尾史郎訳、TBSブリタニカ
9 この点はケステルの大胆な断定にもかかわらず、限りなく曖昧である。
10 経済学では傾向的に経済の現実を見つめる歴史学派は軽んじられている。「エコン族の生態」ではオ−・メ
トルズとして最下位に位置付けられている。
11 ハイエク景気循環論は「恐慌の原因は有効需要の不足ではなく、過剰消費にある。それ故、なによりも信用
を引き締め、貯蓄を増加させなければならない」とする、奇妙かつケインズと真っ向から対立する学説である。
その説明は難解だが、結果的に現実的とは思えない。マンデヴィルの対極に位置する見解と言える。
12 経済学辞典・第2版 岩波書店
13 経済学辞典・第2版 岩波書店
14 経済学辞典・第2版 岩波書店
15 「農業恐慌と景気循環」ヴィルヘルム・ア−ベル著 寺尾誠訳 未来社
16 大企業の社員が銀行から住宅建設資金を借りることができるのは、個人の信用ではなく大企業の信用であ
る。
17 拙著「マネ−文明の経済学」(ダイヤモンド社)
18 筆者は「実業の日本」誌1991年2月号から92年6月号まで「金の移動史」を連載した。
19 「文明の血液」(湯浅赳男著 新評論)が引用するルネ・セディヨの推計
20 「イスラム世界の成立と国際商業」家島彦一著 岩波書店および「イスラム・ネット・ワ−ク」宮崎正勝著
講談社選書メチエ参照。
21 第四次十字軍の兵士たちはイタリアまではやってきたが、中東までの船賃を支払うことができなかった。そ
こでヴェネチアの傭兵となり、コンスタンチノプ−ルを襲った。そして約半世紀その地にラテン王国を維持し
た。
22 この点については拙著「マネ−文明の経済学」(ダイヤモンド社)を参照されたい。
23 銀行券と金の兌換を保障する制度。
24 「マネ−文明の経済学」
25 アメリカ政府は外国政府のみドルと金を兌換することを認めた