日誌 |
酔狂な日誌です。
|
| HOME|作品|日誌|歴史的かな遣ひ|一竿風月&深海 |
![]() |
酔郷日誌 |
.......................................... 平成20年2月1日(金) ......................................... ホームページの引越し 電子メールのプロバイダ、ニフティサーブに加入すると無料でホームページをやらしてくれる。それがこのホームページ。以前にも一度連絡を貰つたのだが、このサービスを止めると。そのかはり、ブログのサービスを用意したからそちらへお移りよとの連絡。そこで、ココログといふブログのサービスを申し込まんと何度かアクセスを試みたが、うかくいかない。弱りはてて、ニフティに電話をしたところ、「あんたOSが古いんでないの」。MAC OS 9.2Jですが。「古いですね〜」。 それから数ヶ月後、5年間放つてをいたOSをハード、ソフトとも一新。どんなホームページでもちやんと閲覧できるようになる。一周遅れのランナーが俄然目覚めてトップに踊りでたやうな気分。これはこれでめでたいことだが、本業の組版の仕事に支障があり、簡単に古い機種を捨てることができない。過去の顧客データを移すのにも支障が生ずるほど新旧のギャップが激しく、単にコピーしますといふ訳にいかない。今年、華甲3年(注1)を閲(けみ)するオイチヤンにはえらく手間暇のかかる作業に思へ、まだ新しいシステムへの引越しを躊躇してゐる。 ここで冒頭の話に戻るのだが、新しいシステムからココログにアクセスしたらちやんとアクセスでけた。ならばと、ホームページの引越しを試みた次第。残念ながら「ブログ」の仕組みを理解してゐないので、現在は、かき込んだ順番にしか表示されず、困つてゐる。 どなたさんか、教へてくださいませんか、次の事を。 1、アクセスしてくださつた方が見る最初の画面は常に一定に表示したい。 2、更新状況をそこに表示したい。 3、本文とは別に、目次のやうな表示をして、たとへば、この「酔郷日誌」などは、このホームページのやうに、「酔郷日誌」の表示をクリックすると開かれるといふやうに。こげな単純なことで悩みつづけてをるのです。I shoud be very grateful it, if you would support me on this matter. (注1)還暦を迎へると華甲1年と年齢の呼び方が変はるのであります。ただし、還暦が満60歳なのか、61歳なのか、今もつて確信がもててはゐません。 .......................................... 平成20年1月24日(木) ......................................... 蕎麦屋の女将さん 昨日初雪をみた。昼に蕎麦屋にはいる。昼時なのに、客はゐない。注文を聞きにきた女将さんが声を掛けてきた。「寒いですねえ」。「さうですね。初雪ですね」のいらへに、女将さん「いえいえ、初雪は先日降りましたよ」「気が付かなかつたなあ」「深夜に、すこしでしたけど」「東京の人間には、雪はこころはづむものがありますね」「さうですねえ」。 めつたに入る蕎麦屋さんではなかつたが、化粧は薄かつたが、楚々とした雰囲気があり、好もしく感じたのも、声を掛けられたせゐかも知れない。 何の変哲もない会話であるが、あとで気が付いた。いままで、蕎麦屋で女将さんに声を掛けられた記憶がないのだ。近所のラーメン屋の親父でも、表であへば会話があるが、店では「いらつしやいませ」だけだつた。 かみさんに、この大発見を報告すると、「東京の人間は冷たいのよ。田舎では普通ですことよ」。「あれ、お主、新婚時代、西船に住んでゐた時分、西船はあたしの住んでゐた津に較べて、とつても田舎だと思ひますは。西船の八百屋、乾物屋の包装紙は新聞紙ですが、津のお店では、白い紙の包装紙を使つてますものと言つてゐたではないか(注:昭和50年代初めころの話)。津は田舎なのか、都会なのか、どちらなんだ」と愚にもつかぬ返答をした。 深夜、帰路、酔眼の目を皿のやうにしてゐたのだが、雪は跡形もなく消えてしまつてをり、翌朝、晴れ。路面も乾いてゐた。 月間賞創設 歌会への参加人数はすくないが、かなり真剣な講評を受けられるので、多少辛ひけれども、その分、反省もし、見識も、やる気も深まると感じてゐる。ありがたいことだ。 講評の折り、提出歌一首の人には○印をつけない。二首以上の人には、提出された歌のなかでは、講師が、これはいいと判断された歌に「この歌がいいよ」と○印を付す。時たまのことだが、とりわけて秀逸と判断される歌には◎(二重丸)をつけてこられた。なんども講師はいはれることだが、この二重丸といへども、その場の講師の判断によるものであり、未来永劫絶対のものではない。とは、いはれるものの、二重丸を貰つた作者にとり、これ以上の励みはなからう。 かういふ状況のもとでの次のやうない新しい提案をいただいた。 出席、欠席にかかはらず、提出された歌の内から、講師が最もよいと判断された歌を月間賞に推す。 これはいい。励みになる。さらに、服部保子さんよりの提案。副賞をつけませう。極論すれば、この歌会に、気まぐれでもいい、歌を提出し、月間賞をとれば、副賞の図書券がもらへる。なかなか都合がつかず、参加できない人にとつても、歌を提出する励みになるのではないかと。ただし授賞式は歌会の席上にて行ひ、遠方とか特殊な事情がないかぎり、三ヶ月受け取りにこられない場合は、無効。 副賞は株式会社MM造園が提供してくだされることになり、一同感激。 これを機に本歌会の後援会を発足させることにした。現在は、株式会社MM造園様一社だが、生々文献も参加させやう。入会規則はこれから考えるが、金品不要。盆暮のどちらかに酒一本頂戴がいいか。当面は「ガンバレ」との意思表明をいただければよしとしやう。特典は、会報を謹呈。さらに事務所の壁に、武道の道場にあるやうな名札を下げて、その栄誉を称へやう。今夜から、蒲鉾を頻繁に食ふことにした。名札に使ふ蒲鉾の板は、多分、たくさん必要だから。 また、「月間賞」といふだけでは色気がない。名前をつけたい。たとへば、「階(きざはし)賞」。甲斐性に通ずるし、講師が甲斐の国にお住ひだから、語呂合はせもなかなかいい。まあ、いづれ決まることであらう。 蛇足ながら八月歌会に酔郷の歌に二重丸がついた。内心「おつ、おれが第一回の月間賞か」と期待に胸を膨らませたのだが、たれからも月間賞の話題はでずじまい。 嗚呼、お玉ちやん まつたく記憶にない差出人の小包が届いた。どうも香典返しのやうだが、この二月ほどの間に、不祝儀に参列した記憶もない。開封し、挨拶状を読み、やつと思ひ出した。確かに弔問に行つてゐた。 小社創業時(昭和四十七年ころ)、近所に和文タイプをやつてくれる人を電話帳で調べ、年輩の玉枝さんと知り合つた。印刷のイの字も知らずに印刷屋を始めた小生にとり、印刷技術の指南役もやつてくださり、関係業者なども紹介してくだすつた。十年くらゐ仕事を頼んでゐたが、老齢が理由で引退され、疎遠になつた。 ただし、年賀状だけは、その後、一昨年まで何十年と出し続けた。お玉ちゃんからはこなくなつたが、それでも出し続けてゐた。戻つてこないとこをみると、受け取られてはゐるのであらうと推測したからであり、小社が印刷業を営むあひだはと。 昨年暮れにご子息から電話を頂戴し、訃報を知らされた。気が動転した。何十年も疎遠にしてゐた人なのに、どうも落ち着けない。葬儀の段取りを聞きそびれてゐたので、かすかな記憶を頼りにご自宅へ弔問にでかけた。アパートまではたどり着けたが、何階の何号室か思ひだせず、だいぶ、うろついた。 ご家族とは当時も面識がなかつたので、上がれとお誘ひくださつたが、かなり疎遠な存在故に、遠慮し、玄関先の挨拶で済ませた。なにをとち狂つたか、お悔やみの言葉をいはず、「その節は本当にお世話になりました。ありがたうございました」。それだけいふと言葉が続かなくなり、そそくさと退出した。 この齢になり、お悔やみの口上ひとつできない自分が情けなくもあつたが、こんなに万感迫ものがあるのかと不思議でならなかつた。年輩の女性に対すると、亡母とイメージがオーバーラップしてしまひ、こころのコントロールがしにくくなる。 坊頭の七三 おしやれに関心がないわけではないが、面倒といふ気持ちと、洋服に金をかけるには実入りが悪すぎるといふ深い訳があり、今日までほどほどで暮らしてきた。 かみさんから声をかけられた。冬物バーゲンをやつてゐますことよ。さういへばこの数年衣類を買つた記憶がない。休日ではあつたが、新宿まで出かけることにした。何点かを購ひ、満足し、コーヒーでも飲んで帰るべえとなる。 とても心が浮き立つのだ。思ひを巡らせ気がついた。自分の衣料品を買ひに、わざわざ休日に電車にのり、出かけた記憶がなかつたのだ。背広を買ふにしても勤めの帰りのついでといふことはあつたが。 自分のファッションの基本はトラッドにおいてゐる。そんなにシビアではない。シャツならボタンダウン、ズボンの裾はダブルにする程度だ。ならうことなら、形態安定加工を売り物にするシャツは避けたい。以前、知人に教はつた。トラッドの場合、シャツは糊とかアイロンを掛けてはいけんよと。ただし、しつかりしたオックス生地ならいざ知らず、たとへ綿百パーセントでも、アイロンをかけないと安物は貧相でならない。一時はクリーニングに出す際に、「ノンブリーチ」なんて注文もつけたこともあるにはあるが。 今回の買ひ物のなかにも、ボタンダウンのシャツがあるが、デザインはトラッドといふには、まがひ物過ぎる。 過去において知人のなかで一番のおしやれといへば、故I氏だ。こだはりやうは尋常ではない。鼻から真似をしようと思はぬ程に徹底してゐた。 かれの極めつけは、「坊頭の七三」である。明治時代にはやつたヘアスタイルださうな。並の床屋ではできない技を要求される。一見、坊主あたまのやうに刈り込み、それを七三に分けるのである。分け目を分け目らしく見せるために、二ミリほどの幅でそり込みをいれる。そこを境にして一センチにも満たない髪の毛を七三に分けるのである。髪の毛は伸びる。伸びれば、境界線が曖昧になる。よつて、毎週床屋へいくことになる。 母は生前、口癖のやうに言つてゐた。身だしなみはきちんとおし、テキ屋のゲンカ(玄関)といつて、なんでもきちんとしてゐないとみくびられるよ。 現在の小生の無精ひげを見たらなんといはれるだらうか。 .......................................... 平成18年6月11日 ......................................... 5月31日で終了する予定でしたこのniftyのサービスが延長になつたやうで、このホームページも閉鎖されてをりません。 また、ぼちぼち、愚にもつかない、酔郷日誌をつけますか。 .......................................... 平成18年3月14日 ......................................... さよなら このホームページはniftyのサービスで素人のわたしでも運営できるホームページでした。この5月でこのサービスが終了します。ホームページ作製ソフトを使つてやる能力も気力もないので、多分、ここは消滅します。もう少し暮らしに余裕ができたら、もう一度勉強をして、ホームページを再度立ち上げたく存念してをります。 最後に、「酔郷日誌」のなかで自分が一番気に入つていたエッセイを再掲しておきます。文章がうまい下手ではなく、「トンボ釣り」を知らない方があまりにも多いのにビツクリしたからです。 とんぼつり 昭和三〇年代、船橋市。とんぼの中の王様はヤンマだつた。ヤンマのなかでも、オニヤンマよりギンヤンマの方が格上であり、シホカラトンボやムギワラトンボは眼中になく、捕まへて自慢できたのはギンヤンマ。 中学校の同窓会の折、「とんぼつり」が話題になつた。ギンヤンマを釣る遊びである。ふしぎなことに、同窓生の大半がその遊びを知らない。その後、別の地方の友人に、とんぼつりの話をしても通じない。遊びのなかで「とんぼつり」は技と知恵と運が要求されるかなり高度なものなのである。 ギンヤンマのメスはほとんどゐない。時たま死んだヲスのヤンマを見つける。見つけた少年は仲間に声をかける「トンボつりにいくべい」。まづ、死んだヲスのヤンマをおかま(メス)にする仕事にかかる。ギンヤンマの胴体はヲスが青、メスは緑色である。あとは変はらない。あさがほの葉をもんで、ヲスの胴体に巻き付ける。いはゆる「オカマ」ができあがる。ほかの材料は、三〜四尺の笹とほどほどの糸である。ザリガニ釣りはご記憶にあらう。仕様はあれと同じ。竿の先に、糸、エサはオカマの死んでゐるヤンマ。 とんぼは、似たやうな場所をぐるぐるまはつてゐる。ギンヤンマを見つけたら、追ひかけずに、通過した場所を確認し、その場でしばし待つ。さすれば、先ほどのヤンマが再び飛んでくる。そのタイミングを逃さず、エサを、いかにも飛んでゐるやうに、空中に泳がす。ヲスはそれを目ざとく見つけて、本能として絡みついてくる。まあ、どんな釣りでもさうだらうが、偽物がばれれば逃げられる。タイミングを釣り人の都合に合はせ、メスが逃げる素振りをさせながら、ガチヤガチヤとなる瞬間には自分の足下にひつぱりこめる位置までオス誘ひこむ。「いけね、こやつは、オカマだ」と敵が気がつくのは一秒か二秒の間である。おたおたしてゐると、逃げられてしまふ。 仲間の人数分を捕まへるには、かなり時間を費やした。みんなの分がスタンバイできる頃には夕暮れとなり、日本一汚いとの評判の千葉弁で「けんべーか(帰へらうか)」となる。そして、苦労して釣つたヤンマは、ポイと捨ててしまふ。元気なヤンマがあると、尻尾を引きちぎり、そこらの小枝を差し込み「おめーも、帰(け)ーんな」と放す。いまでも、世間では、こんな仕打ちを受けてゐるおとーさんがゐるやうな気がする。どうやつて、生きてゆけと言ふんだい。ひどいよなー。反省。 .......................................... 平成18年2月6日 ......................................... 校了、責了 印刷用語で、版下(最近、死語に近いと聞いた)修正がまつたくなく、刷りはじめられる状態を「校了」といふ。それまでは、初校、再校、三校と繰り返し、修正作業をすすめることもある。活版、写植時代の校正作業は、主に、オペレータの入力ミスであつたが、パソコンの普及により、執筆者が自分で入力したデータであるにもかかはらず、印刷の仕上がりがイメージできる校正紙でもつて、推敲をする傾向にある。レイアウトする側としては、執筆者の作文教室のつき合ひをしてゐる気分になり、かなり気がめいる。あまりひどい直しの場合は追加料金を請求 |
![]() |
![]() |
リンク集 |
![]() |
| HOME|作品|日誌|歴史的かな遣ひ|一竿風月&深海 |
|