偶像礼拝するなとはどういうことか

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 偶像礼拝するなとはどういうことか

偶像礼拝すんなってどういうこと?

 クリスチャンでありながら、仏壇に手をあわせて拝む人はいないと思います。また、神社に行く人はいても、心から神社に祭っている神様を拝んで帰ってくる人もいないと思います。
 それなのに聖書にはくどいほど「偶像を拝んではならない」と繰り返し命令されています。しかもその命令にそむき、

黙示9:20 これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、・・・
 
る人々のことがやはり繰り返し書かれています。

 これは、単に昔の人々が「あほ」だったからでしょうか、霊的に悟りが無かったからでしょうか、救われていなかったからでしょうか?一体「真の神」を知っていながら偶像を礼拝し続けることが出来るのでしょうか。いずれにしても聖書が偶像について記述いることはあまりに多く、ふつうにクリスチャンが読んでも自分には関係の無いことだと思っても仕方ないくらいその記述も「そんな罪犯すわけないじゃん?」みたいなものです。しかし神の民が神の命令のそむきつづけ偶像を礼拝しつづけたのも事実です。こんにちこのことは何を意味するのでしょう。

 一体、礼拝と言う行為は、普通神さまを知っているひとしかしない行為です。日本人の多くはお正月に神社へ行ったりしますが彼らはそこで「礼拝」しているわけではありません。ただ自分の「願掛け」しに行っているだけです。それにせいぜい、何の神様かわからないけど感謝しているくらいのもんです。しかしクリスチャンは礼拝という行為がどういうことかを知っています。

 よくクリスチャンに対するメッセージとして「イエス様以上に大切にしているもの、それが偶像です。」と言われることがあるようです。普通にクリスチャンは神様第一に生活していると思っているはずなのですが、牧師先生様に言われると、急に不安になって来て自分は何をどうしたらいいのか?などと悩む人もいるようです。
 確かに不健全な雑誌を読みふけり、星占いの記事をチェックしている人や、タロットカードに未来を託している人、神棚や仏壇と向き合う人が日課としてある人は「これが偶像礼拝かぁ」とわかりますが、クリスチャンでありながらもそういうことをしている人は普通の感覚で言えば、いません。そういうことをしている人は失礼なことを言うようですが実際「クリスチャン」ではありません。「自称クリスチャン」とでも言ったほうが良いでしょう。

 さて、それはさておき、ここに言っている偶像礼拝とは、自分では真の神と思いながらも偶像化した神を礼拝していると言うことではないでしょうか。そのことを考えてみます。

エゼキエル14:3 「人の子よ。これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らの願いを聞いてやれようか。

 聖書は自分の心に秘めているものを一つ「偶像」といっているようです。だいたい、偶像といえば「形に作ったもの」としか思い浮かばないようですが、「像」とは想像の像でもあります。つまり、「イメージ」するの「イメージ」です。自分たちが心に思い描いているものを、勝手に神の像とし、それを拝むことを偶像礼拝と言っているのです。「自分で想像したイエス様」の姿を拝んでいる・・・それを偶像礼拝というのです。

 
ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 この聖書の一節に聖書全体のメッセージが現されている、としてこのみことばを握っていれば大丈夫などという、まやかしのことばに騙されてはいけません。たしかにこの一節にはみこころがあらわされていますが、ではみことばを握るというのはどういう状態を言っているのでしょう?信じてみことばを握るなどと言うのは「異端」と呼ばれる信者でもしていることです。「異端」の彼らでもキリストを神と信じみことばを研究し握っているではないですか。かれらもクリスチャンとして天国へいけるのでしょうか。大切なのは「契約」を守ることなのです。この一節を強調されるあまり、自分は神に愛されていると思い込み、その他の守るべき聖書にかかれている「契約」を忘れ、自分のイメージ、または人から教わったイエス様のイメージを心に描きそれを日々礼拝しているのです。そのような人は全く神を恐れていません。

コロサイ3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

 そしてその「イメージによるイエス様」は、あらゆるむさぼりに走ります。地上のからだとは、キリストの体なる教会でしょう。教会は「イメージによるイエス様」によって欲を出し、「人間の義」による「人間の教会」を作り上げることを神の至上命令とおきかえ、「神の義」から遠ざかっていきます。


 さて、それでは「金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像」とはなんでしょう。また、太陽や月、天の万象を拝んだりすることは何を意味するのでしょう。天体や石は比較的簡単です。それは「神の器」を指すことがわかると思います。海の砂、天の星は神の民をさすたとえです。そして、岩はキリストご自身や弟子をさしていっています。「神の器」を拝むとはありもしなさそうな話なのですが、

マタイ23:6 また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、
23:7 広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。
23:8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。

先生と呼ばれるな!という聖書の命令に逆らい必ず「先生」とつけて呼ばせ、「牧師のいうとおりにすれば必ず祝福される」といって、牧師の命令=神のみこころとし、自分で直接神にみこころを聞くことを出来なくするのは偶像礼拝ではないでしょうか。カトリックの誤りの一つは「法王の権威」が絶対で、聖書とおなじくらいの権威があることです。明らかに聖書に反していることを命じられたら「あれ?おかしいな」と思うことも出来ましょうが、聖書に書いてないことをいかにも理にかなったように命ぜられると「そうかな」と思うものです。このようなことはひんぱんに行われています。聖書が繰り返し天の万象に目を奪われるなと警告していることの意味を良く考えなければなりません。神の民も、

第一サムエル8:19 それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。

と王すなわち自分たちの、「目に見える指導者」を欲したことが記されています。そしてこの王を立てた国は王が悪い事をすれば民も滅んでいったのです。王だけが裁かれたのではありません。それどころか、

第一歴代21:17 ダビデは神に言った。「民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪を犯したのは、はなはだしい悪を行なったのは、この私です。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。あなたの民は、疫病に渡さないでください。」

と、ダビデ王のおかした罪で裁かれたのは民のほうであったことが記されています。
今教会では「預言の賜物」は封ぜられています。新約聖書で、第一コリント14:1 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。と命ぜられているのに、私はいまだかつてこのように勧められたことは一度もありません。このことつまり預言者がいないとはどういうことかというと、「牧師のまちがいを指摘することが出来る人がいない」ということです。サタンの作り上げた一番の成功はこの「牧師の間違いを指摘し正すシステムを作らなかった」ということです。

 もうひとつ、神が偶像だと言ってるものに、「人の手のわざ」があります。

詩篇115:4 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。

 ここで、金銀が人の手のわざ、とたとえられていることを学んでいただきたいと思います。金銀とは、信仰による人の手のわざなのです。金持ちのたとえも同様です。

マルコ10:25 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

使徒3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」

 人の手のわざによるそのような信仰はないが、「キリストの名」はたしかに持っている。それがペテロ、真のキリストの弟子というものです。そのような人の手のわざは神の忌み嫌われる偶像です。人数を誇る教会、他からいろいろ見学や研修に来る教会、人がひとりもいなくなると結局何も出来なくなる教会は要注意です。
 
ハバクク2:19 ああ。木に向かって目をさませと言い、黙っている石に向かって起きろと言う者よ。それは像だ。それは金や銀をかぶせたもの。その中には何の息もない。

 というように聖霊の息が働いていない、人の力で上塗りした「神の業と勝手に思い込んでいること」に酔っていると主は言われるのです。

第一ペテロ4:3 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。

異邦人の好きなことは、キリストという夫がありながら、悪霊のわざに喜ぶ「好色」、魂の救いのためだと言っては好き勝手なことを行う「情欲」、悪霊のわざに酔っている「酔酒」、キリストの名を用いてこの世の人達をもてあそぶ「遊興」、楽器をガンガン鳴らして悪霊の振舞う霊に酔い、偽りのみことばを飲み食いする「宴会騒ぎ」、そして偶像礼拝ですが、このようなことをしているものは神の国を相続できません。「エサウ」のように長子の権利を売るクリスチャンとなるでしょう。エサウは相続する権利を失い、

へブル12:17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。

結局滅んでいったのです。相続できないことについて聖書は多くの警告を発しています。


エペソ5:5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者・・これが偶像礼拝者です。・・こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。

ガラテヤ5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

そのようなことはもうやめよ、と神はいわれます。なぜなら、裁きの日が近いからです。

詩篇46:10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。

やめよ、というのは、人の手のわざをもうやめよということです。今は静まって神のみ声に聞くべきです。

第一コリント6:9 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、

今行われている「礼拝」「聖会」という「集会」に騙されてはいけません。騙されつづける人は

黙示9:20 これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、

結局滅びを自分の身に招くことになるのです。




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