キリスト教は最初から嘘なのかも?

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 キリスト教は最初から嘘なのかも?


 私は神の存在を信じクリスチャンになりました。1992年のことです。しかしその時はイエス・キリストについては良くわかりませんでした。ただとにかく神はいると思ったのです。キリストが罪からの救い主というのがわかったのはだいぶん後になってからです。はじめは聖書を読んでも難しくてなんだかよくわかりませんでした。読んだらわかる言葉だけ理解してわかったつもりでいましたが、そのうちよくわからないことばにはどういう意味があるのか、聖書が神の言葉なら意味のない記述はないはずだと思い、謙虚に読むことを始めました。聖書を教える人は誰が読んでもわかるところばかり取り上げて「聖書にはこう書いてある」ばかりでなく、意味を理解しずらいところもきちんと解釈できなければなりません。その解釈も「自己流」はいただけません。聖書は聖書自身が最上の注解とはよく言われますがまさにそのとおりだと思います。

 謙虚に読むとはどういうことかというと、ひとつは自分の都合で解釈しないということです。これは大前提ですが意外と簡単にこれにはまってしまう危険性があります。なぜなら人間は、人間の目には正しいと思えることをそのまま神も正しいと思っているはずだとしてしまうからです。言い換えると人間の義を神の義としてしまうからです。ローマ10:1〜3には神に熱心に奉仕しているクリスチャンがいるのは認めるけど、みことばの正確な知識に基づかないでやっている、たとえば読んでわかるみことばだけ取り上げてやっているから、みことばの知識(これは奥義とでも言えます。聖書には奥義があるとはっきり書いてあります)が足りず結局人間の目に正しいと見えることを行い、それで神の義を建てていると思っているクリスチャンのことが書いてあります。つまり「的外れなこと」を熱心に行っている訳です。(あれ?罪って「的外れ」という意味じゃなかったっけ?)そうしたクリスチャンに対してパウロは「彼らの救われること」を願っています。兄弟に対して救われることを願っているのですよ。
 
 人類の歴史上、もっとも多くの殺人を犯している宗教は間違いなくキリスト教でしょう。神の義を建てるためになされた「殺人」も聖書にはたくさん記述があります。極端な話ですがしかし、このことを受け入れて読まないと聖書の語ることはわかりません。また神が「聖」と言われることをそのまま国語辞典に出てくる聖と一緒だと思うとこれも的をはずしてしまいます。同様に「一致」とか「謙遜」とかいう言葉も気をつけなければなりません。聖書的な意味合いがこれらの語にはあるのです。また「献身」とよく言われますが聖書にはこの「献身」という言葉はありません。言葉の中身をよく吟味せず使っているといつのまにかその言葉に縛られてしまう可能性があります。

 もうひとつは、これも極端だと言われそうですが「キリスト教」のイメージを捨てて読むということです。従来キリスト教のイメージと言えば、清楚とか敬虔とかいう感じだと思いますし、教会というと十字架があってステンドグラスの建物、を想像するかもしれませんがこれはまさに長年作られてきたキリスト教というもののイメージに見事にはまってしまっているのです。キリスト教はパウロが聖霊によってアジアにみことばを語るのを禁じられ(使徒16:6)ヨーロッパ回りで西回りに広まりました。そして西の果ては表向き「キリスト教国」といわれるアメリカなのですがその間に聖書の中身はキリスト教という神学にうまく当てはめられてしまったのです。
 
 もし、どこかにキリスト教の先入観なしに聖書だけを何度も読み続けて神を信じた人が日本にやってきたとします。するとこの人はきっと十字架やステンドグラスの教会を見てもここが神を礼拝する場所だとは一見してはわからないと思います。ところがこの人が神社へ来たら「ここは聖書に書かれている神殿だ、ここがイスラエルの神を礼拝する場所だ」と叫ぶに違いありません。これほどまでにキリスト教というイメージは浸透してしまって、逆にこれがまだまだ聖書に隠されている真理をわからなくしているのではないかと思うのです。本当に極端な話ですが、キリスト教というか、キリスト教神学というのは、その始めのうちからみことばの真理を隠すものでありそこにサタンが関与していた可能性があるのです。なんせサタンは人類の歴史の前から存在し、初めから人間をだまし、しかもその仕事だけをもう6千年くらい行ってきたわけですからこの世界の裏にはどんな仕掛けがあるかわかりません。きっと世の終わりには神による「大どんでん返し」があるでしょう。

 「後のものが先になる」「ぶどう園の農夫の話」「放蕩息子のたとえ」「盛大な宴会のたとえ」「取税人や遊女が先に天の国に入っている」などなど、福音書のたとえ話の多くは、先に救われているクリスチャンがなんと天の御国に入れず、今までキリストを信じてもいなかった異邦人がどっと天の御国に入っていることの暗示なのです。なぜそういう結末を迎えるかというと神の義を知らないからなのです。

 聖書の記述にはある一定のルールがあるように思います。同じ言葉が何度か時を隔てて出てきたりします。たとえば「空の鳥」とか「はうもの」とか、剣や槍、金、銀、ぶどう酒など頻繁に出てきますし、またイエス様が治す病気も、たしかにあらゆる患いを治されたと書いてありますが盲人とか足なえとかいうふうな感じで、骨折や蓄膿とか胃潰瘍とかは出てきません。これらの語句の出てくる所をよんでみると、やはりこれらの語句にはどうも関連した意味合いのたとえで使われているらしいということがわかります。私はずっとヨハネ4:35は、刈り入れるばかりになっているというからにはもう救われんばかりの未信者がたくさんいる情景だと思っていましたが、しかしここはアモス4:7さらには黙示14:14〜20と関連して読むとわかってきます。また、やたら酒飲みの人や酔っ払いが出てきますがこれはアル中のおっさんの話ではなく、「霊のわざ」に酔いしれているクリスチャンの情景なのです。ただしそれがどんな霊なのかはわかりません。

 聖書には金持ちの人が出てきます。金持ちが天の御国に入るのは難しいと書いてありますが、私にとって年収500万の公務員は「金持ち」なのですが、ある人にとっては「庶民」でしょう。聖書は天の御国に入る、入れないという大事な基準を「金持ち」という非常にあいまいな基準で決めているのでしょうか?お金や金銀や富は何を言っているのか、聖書的な意味合いがあるのです。詩篇の115:4を見ると金銀が「人の手のわざ」にたとえられているのがわかります。要するに金持ちは人のわざを行うクリスチャンのことを言っているのです。

 さてこうしてみるとみことばの本当の隠れた意味合いがわかってきます。そしてこれはいままでのキリスト教神学に心が捕らわれていると決して気づかずに過ごしてしまうのです。ですから謙虚に読む、自分の義を建てないということが大事なのです。キリスト教の本は特に神学関係のものはあまり当てにならないのではないかと思います。本を買うなら、単に事実を述べてあるものだけ(例えば××と言う町はどこどこにあってその意味は○○である。)というようなものだけにしたほうがいいと思います。

 私は終末に肉的にイスラエルが回復すると信じています。そしてその重大な鍵を東の果ての国、日出ずる国、日本が握っていると思います。かつて西回りで広がったキリスト教は東から肉的な回復とともに霊的な回復を果たす時が来るでしょう。その時はもう近いのです。


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