牧師のメッセージ



「ある人に息子が二人いた」の喩え
 ―――ルカ伝十五章11〜32節

 「放蕩息子の喩え」です。今年の初夏のころからこの喩えのことを思い続けて
います。先日も、北海道の十勝に行くことがあり、刈り入れの終わった広大な
畑を眺めながら思いました。お父さんが望んでいたのは、あのミレーの晩鐘の
ように、一日の労働を共に感謝の祈りをもって終えて一緒に家路を辿る――
そういう生活ではなかっただろうか、と。あのときも、そのような家路の途上で
弟帰還の知らせを受けていたのなら、もっと違う兄ではなかっただろうか、と。
 都はるみが『大阪しぐれ』で歌っています。「しあわせ それともいまは
不しあわせ」と。少し冷静になった兄は、そのように反問しているのかもしれま
せん。お父さんは「お前はしあわせじゃないか。いつもわたしと一緒にいるのだ
から」と言うのですが、兄にはそうは思えません。思い返すに、弟が帰還した今
だけじゃなくて、ずっと前からおれの人生には不しあわせな気分が漂っていた
なあ、と。
 兄は、弟と自分を比較しています。あっちは遊女と一緒だった、こっちは朋友
と一緒だった、と。同じ「一緒」でも質が違うよ、と。たしかに違っているね、
だからこそ、違っている者どうしが一緒に生きようということじゃないかい、と
お父さんは諭したに違いありません。比較する兄は決してしあわせではありま
せん、「違いがわかる」だけでは。
      *
 ところで、放蕩息子である弟のことですが、これまでの「弟」像とはかなり違う
受けとめ方になるのですが、わたしがいま感じていることを、ここで述べさせて
いただきます。
 弟は「本心に立ちかえって言った」とあります。「本心に立ちかえって」とあり
ますから、これは「改心した」「悔い改めた」のだと受けとめるのは自然なこと
です。ところが、「本心に立ちかえって言った」その発言内容を見るとどうで
しょう。「父のところには食物があり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたし
はここで飢えて死のうとしている」と言うのです。これはどこかで聞いた台詞
ですね。イソップ物語の、あのキリギリスの台詞です。「アリさんのところには
パンがあり余るほどあるのに、僕は飢えて死のうとしている」。はたして、こう
いうのを「改心した」「悔い改めた」と言うのでしょうか。食糧を求めている者の、
食糧の所在を確認する言葉でしかありません。
 さらに、弟はこう言います、「立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、
わたしは天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました。もう、あなたの
息子と呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」。
まず、このなかの「立って(アニステーミ)」という言葉ですが、これがイエスさま
の甦りを伝える言葉と同じだということから、ここで弟は「死から生命への人生
の甦りを決意したのだ」というふうにとらえる説も決して少数ではありません。
しかし、この「立って」というのは、新約聖書に110回も出てくる日常よく使わ
れる言葉なのです。ですから、これを特別に「甦り」の意味にとらえるのは、
読み込み過ぎではないでしょうか。
 なによりも、わたしが「弟の悔い改め」と言うのにはどうしても違和感を覚える
のは、「立って、父のところへ帰って、こう言おう」という言葉のところです。
これは「予行演習」ではないでしょうか。現代の会社の営業では、シミュレー
ションなどとも言います。食糧の所在を確認して、その場に入れていただく
ための予行演習。
 その演習をしながら、弟がお父さんのもとに帰還した際に、お父さんは感激
のあまり言葉も出なかったのですが、この息子は予行演習どおりの台詞を
正確に吐いたのでした(厳密に言うと、最後の台詞は父に遮られて言えません
でしたが)。思うに、この弟が体現している人間像は、この「放蕩息子の喩え」
の次の喩えに出てくる「不正な家令」の系譜に属するのではないでしょうか。
決して純朴な、山本周五郎の『さぶ』のような人間ではありません。ずるい
ところがある、ゆがんでいる、何とかして生き延びたい、その渇望は衰えて
いない、そういう人間です。
 このように読むならば、弟が「本心に立ちかえって言った」という表現と、
その「言った」言葉の内容との間には、あまりにも大きな落差が生じてしまい
ます。いったい、イエスさまはこの喩えをどんな口調で話されたのでしょうか。
みなさんはどう思われますか。ここに、イエスさまの「笑い」を感じませんか。
「笑いは緊張と緩和の落差にある」と、カントや桂枝雀が言っているそうです
が、まさに、その落差がここにあって、イエスさまの笑いや、聴いている者
たちの苦笑が誘い出されている・・・。人の悔い改めというものも、所詮(しょ
せん)・・・。イエスさまはそういうユーモアと憐れみをもちつつ、この喩えを
語られたのではないでしょうか。
 しかし、弟のことで、なによりも強くわたしたちに迫ってくる真実は、その
ような「ゆがんだ」息子の意志をはるかに凌駕(りょうが)する、子を迎え
抱かんとするお父さんの熱情です。地平線のかなたに子を見出したのです。
いつもずっと地平線のほうを見ていたのです。そして、豆粒ほどの遠くの我が
子の姿を見出したとき、お父さんは、断腸の思いに駆られて、走って行き
ました。ただただ走り寄って、その首を抱いて接吻しました。予行演習した
台詞なんか最後まで聞かなくていい、「さあ、宴会だ!」。
      *
 初夏のころからこの喩えを思い続け、こうして秋になっても気になっている
のは、お兄さんのことです。お父さんがもっとも心配しているのも、お兄さんの
ことではないでしょうか。おそらく、イエスさまも、このお兄さん的な人生を送って
いるわたしたちのことを一番心にとめながら、この喩えを語られたと思います。
お気づきでしょうか、弟が出奔する際、父の言葉はなにも残されていません。
父は沈黙しています。不思議ですが、出奔から帰還まで、父は弟に一言も
言葉を掛けていません。ところが、怒って家に入ろうとしなかった兄には、父は
出て来て「懇(ねんご)ろに語りかけた」(佐藤研訳)のです。この「懇ろに
語りかける(パラクレオー)」は、イエス様が約束された「慰め主」「助け手」
「弁護者」(パラクレートス)と親戚の言葉です。そういう親切な、暖かい心を
もって、お父さんは兄に語りかけています、「子よ、お前はいつもわたしと一緒に
いるじゃないか」と。
 この後、お兄さんはどうしたのでしょうか。この続きの人生を刻むのは、他なら
ぬわたしたちです。



                                                            渋谷日本基督会牧師
                                    福間眞樹



 

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