母体保護法経済条項削除問題を問う

           −「経済的理由」こそ人間の生存権の基盤−

                         (産婦人科医師 尾澤彰宣)

  日本母性保護産婦人科医会は、常務理事会、理事会の議を経て第49回定例代議員会の了承のもと日母提言として、「日本母性保護産婦人科医会提言」をまとめた。

 ◇…「経済的理由」削除と審議の経緯

 現行母体保護法第三章母性保護(医師の認定による人工妊娠中絶)の『一、妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれがあるもの』を削除し、一、女性の権利に基づく人工妊娠中絶、1、妊娠12週までは女性の権利に基づく任意の人工妊娠中絶を認める。2、妊娠12週以上での人工妊娠中絶は適応条項による。とした。その解説で、(1)WHOは、一九九八年執行理事会において、健康の定義を「完全な肉体的、精神的、Spiritual及び社会的福祉のDynamicな状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」と改めることが議論された。(2)旧提言(第一次案)は、現行の「身体的又は経済的理由」を切り離し、「身体的(又は精神的)理由」と経済的理由を同義とする「社会的理由」により母体の健康を著しく害するおそれのあるものを適応条項とすることを提示した。しかし、「(精神的)理由」と「社会的理由」が胎児条項を包含するものではないかと論議された。(3)この提言は、母体の健康を擁護するとの趣旨を明確にするため、妊娠の継続又は分娩がWHOの憲章前文に定義される「健康」の概念を著しく侵すことが予見もしくは診断されるものについて、適応することとした。本提言は、「母体保護法改正に向けての要望案であり、法律改定に対しての考え方を示したものである」とした。

 なお、旧提言(第一次案)では、(1)精神的な原因で身体的に母体の健康を著しく害する程度に影響を及ぼす場合を明確にするために「精神的」の語句を付け加えたもので、精神的疾患を意味するのではない。(2)現在のわが国の経済状態からすれば「経済的」理由は必要ないとした。しかし、「経済的理由」が必要ないとすることには疑問であるとの意見があった。優生保護法制定当時の経済事情とは確かに異なるが、教育や住宅の問題など社会的因子が相対的経済事情に反映していく状況も配慮せねばならない。したがって、「身体的理由」以外の適応条項として「経済的」理由を「社会的」理由の語句に変えて残す必要があると提議された。適応条項としての「経済的理由」を削除した審議の経緯は重大ととらえるべきである。優生保護法制定にあたり、社会医学的適応を「経済的理由」として条文化したことは斬新的であった。

 この解釈は、現に生活保護をうけているものが妊娠した場合、または生活保護をうけていないが、妊娠または分娩によって生活が著しく困窮し生活保護の適用をうける場合、または生活の中心となっている本人が妊娠し、そのため母体の健康を著しく害するおそれがある場合である。これは人工妊娠中絶が防貧対策であったことを示していた。「経済的理由」こそ人間の生存の権利の基盤である。人工妊娠中絶は医療行為である。医療行為とは病気に直面して初めて発動されるものではなく、人間の健康を有機的関連性をもって総合的にとらえなければならない。これが日母の基本姿勢であった。今、この姿勢が、「経済的理由」の削除によって問われようとしている。

 ◇…戦時中の国民優生法の思想が…

 第百四十七国会二〇〇〇年二月一日、参議院本会議において、参議院自民党議員会長村上正邦議員は、「未来を託するのは子供たち。少なく産んでよい子に育てるという運動が行き過ぎた。出生率を上げる目的で子供三人財団を設立し、三人以上の子供を産み育てることが大事。母体保護法は、終戦後の苦しい生活、住むに家なし食糧不足という時代に、経済的理由から緊急避難的に限定して中絶を法律の傘の中に入れて黙認。生命の尊厳が失われた。生命軽視の諸悪はここにある。国際国家日本、人道国家日本にふさわしくない経済的理由を削除した母体保護法に改めるべき」と発言した。

 小渕恵三首相は、「胎児の生命尊重、女性の自己決定についての考え方をめぐり、国民各層に多様な意見が存在する。国際的にも対応が分かれている。国民個々人の倫理観、道徳観、宗教観とも深く関係し、国民各層の議論の深まりが重要」と答弁した。かつて、村上正邦議員は、一九八二年三月十六日、参議院予算委員会において、「経済的理由は現在すでにその意義を失っている。これを削除することによって、野放しとなっている優生保護法を改正し、日本民族を死滅から救済すべきである。日本民族を死滅から救うために優生保護法の改正を急がねばならない」と論じた。さらに、「中絶は殺人行為で、経済的理由の削除により十代の性の暴走を抑止できる」と主張した。村上正邦議員の信条は、「産めよ、育てよ、国の為」、戦時の健全人口増加を図り民族将来の発展を期した国民優生法の思想そのものである。

 ◇…生活・労働の悪化による中絶要望

 一九八三年二月十六日、新医協久保全雄会長、武村晴正担当は、林義郎厚相に対して、「優生保護法改訂不提案に関する要望書」を提出した。優生保護法第十四条第一項人工妊娠中絶適応の第四号中、「又は経済的」なる字句を削除して、経済的事項に基因して母体に著しき健康障害を起すおそれのある場合に従来認められていた合法的人工妊娠中絶可能の道を閉ざさんとする法改訂の要請に対し、厚生省はこの検討を進め、国民のコンセンサスを得て採否の決定を下す由、今次改訂の問題について特別慎重に且改訂不提案の方向で対処されることを要請した。

 その経済的問題について、GNP世界第三位の経済大国となったわが国で経済事情による中絶の必要は消滅したという理由について以下の点で同意しない。(イ)国民総生産は上昇したが、一般庶民にとっては、父母が力を併せても予定外の子女を楽に生み育てられる余裕はない。(ロ)第一線臨床の体験では現有疾患による中絶よりも生活・労働の悪化とその不安からくる心身の健康障害をおそれる中絶要望がはるかに多い。(ハ)国民経済向上を理由とする法改訂の要望案は十年以上前から数回提出されている。その当時より現在の方が経済状態は更に悪化している。生活水準の全般的変貌と実質増税、物価上昇とから生活困難度の進んでいることは世論調査が示している。と指摘した。その上で、理想的な避妊的受胎調節法は、わが国では外国ほど熱意が見られず、現在ピル、IUDの改良もおくれ、ピルは公認されていない。人工妊娠中絶を減らすために必要なことは望まない妊娠を防止するための避妊的受胎調節法の開発と普及である。と当時、極めて的確な現状分析を示した。

 日本では、その後避妊方法の国際化が進み、低用量経口避妊薬ピル、銅付加型子宮内避妊用具IUD・女性用コンドームを女性が自律的に選択できる時代を迎えた。望まない妊娠を避ける方法を手にすることができるようになったが、女性の健康と人権を守るための人工妊娠中絶は不可欠である。「経済的理由」は削除してはならない基本原則である。一九六五年、刑法学者から「経済的理由によるところの人工妊娠中絶は、刑法に定める正当な業務の理念からはみ出しているおそれがある。少なくとも経済的理由で人工妊娠中絶を認めることはその解釈が恣意的となり、堕胎罪の法意についてはもちろんほかの犯罪にみられる犯罪構成要件に照らしてその区別がつけにくい。いいかえれば同法の運用に行き過ぎがないようにするために、この優生保護法を改正し、経済的理由を削除すべきである」と意見が出された。

 ◇…望まない妊娠を避ける方策の確立

 政府の方針は、優生保護法制定時の「経済的理由」を削除し、人口増加策を国策とすることであった。現行母体保護法は刑法に対して特別法の関係にあり、人工妊娠中絶に限り、その規定する違法阻却事由以外の場合を母体保護法自体としては処罰していない。堕胎罪の胎児保護法益は、時代とともにその影響を失いつつある。この時にあたり、「経済的理由」を削除して堕胎罪適用の拡大を意図することは正に時代に逆行する反国民的発想にほかならない。

 厚生省母子保健統計によると、十九歳以下の中絶件数は、一九七五年から一九九六年までの二十一年間に実数で一万二千件から二万八千件で二〜三倍に、中絶件数に占める十九歳以下の割合は一・八%から八・三%に増加した。十代の出産は経済的に子育てに支障を招来し、子いじめ、子虐待、子殺しへ連動する。中学高校生の妊娠は具体的な避妊・ピル内服指導を欠くまま中絶を繰り返し、適切な保健指導のない状況で分娩に至り、退学して人生を崩壊させる。学業を継続し卒業して、将来の希望と進学を保障する手段として中絶が一つの防波堤となっているのが現実である。今日、国民等しく安全で経済的に避妊の手段を選択し望まない妊娠を避ける方策を確立させることが国の急務である。